カーター フォレスト
カーター フォレスト
2000.09.09
「リトル・トリー」(和田穹男訳)めるくまーる
私たちのこの生活とは、実は壮大な虚構だったのではないか。騙され続けてきたのではないか。そして、いまもその術中にあるのではないか…。次々にそんな疑念が湧いてくる。
「ひとたびこの本を読んでしまうと、もはやもとの自分に引きかえすことはむずかしく、世界を今までと同じ目で見ることはできなくなってしまう」(『リトル・トリー』を分かち合う喜び)。
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この本を知ったきっかけから書きたい。映画にもなった『はてしない物語』(ネバー・エンディング・ストーリー)や児童書のベストセラー『モモ』で有名なドイツの作家、ミヒャエル・エンデがいる。
この人は、宮沢賢治と同様の意味において「童話作家」ではない。書きたいことを表現すると、どうしても「現実」を離れ、小説とは呼べないものとならざるを得ないのだ。子ども向けの空想物語を書いているつもりなぞはこれっぽっちもないのだが。
賢治もエンデも、それぞれある世界に「行って来たかのように」描写する。彼らの世界の中で起こった、数々の不思議な出来事を物語る。そこでは、鳥も亀も石も、確かに口をきき、心をもっている。それは、ずっと昔にあった、そしていまも繰り返されている物語、つまり神話なのである。
賢治の世界観が、法華経的、縄文的、アニミズム的なものを背景にしていることは知られている。賢治が紡ぎ出すのは、そんな神話宇宙に棲む無機物や有機物(生き物)たちの物語である。霊(カミ)的な物語だとも言える。
では、エンデの世界観とはどんなものなのであろうか。それは「人智学」と呼ばれるルドルフ・シュタイナーによる思想だったのである(そう、彼こそがシュタイナー教育とその学校の生みの親である)。エンデの物語の背後には、シュタイナーの神秘主義思想があることを教えてくれたのは、子安美知子氏の『「モモ」を読む--シュタイナーの世界観を地下水として』(朝日文庫)であった。
シュタイナーの思想そのものはさて置き、エンデが結局のところ、その神話的物語で強く主張していることは唯一つ、「文明」批判である。特に「アメリカニズム」的な文明への批判であり、現代人のそこからの超克を訴えている。彼の物語には、現代における画一的な価値への収斂、その中で変質してしまい今や人間を襲い奪う「時間」や「経済」などへの批判が込められている。
そういう「文明」批判者としてのエンデを見つけたとき、ある一文が目に留まった。エンデの「文明」批判を紹介している文章(注)なのだが、エンデの著作に添えて、この『リトル・トリー』を強く推すとあったのだ。
(注)『萬晩報』所収 園田義明氏 「ミヒャエル・エンデが日本に問いかけるもの」
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「経済」とは何か、とは私の永年の問いの一つだ。経済と言えば私たちは、とかく景気だとか貨幣だとかを思い浮かべがちである。しかし本当にそういうものなのか。経済とは元来、生活物資の調達のための仕組みのことにすぎない。決して、株式市場や銀行や国家を、そして「文明」を必須とするものではない。ましてや、生活のすべてではない。
ここにテネシー州はアパラチア山系に寄り住む、チェロキー・インディアンの一家族がいる。「リトル・トリー」と呼ばれる孫とその祖父母の三人である。1930年代を生きた彼らの「感じた」世界は、私たちの「現実」とはたいへん異質なものであった。
五感と第六感の働かせ方次第では、実は私たちはもう一つ別次元の世界にいることを知る。「現実」や「文明」では視覚がほとんどすべてだ。私たちは真偽や意味を目で見ようとする(しかもテレビや新聞を介してだ)。また、私たちの耳は言語的意味や音楽以外は、ほとんど聞こえていない。触覚に至っては、ほとんど拒否されている。第六感は、あらぬ幽霊やUFOとの遭遇、星占いやくじ運のために行使されている。
山中や田舎に行けば分かる、というものでもない。自分を「現実」や「文明」から解き放つことが必要だ。すると、何が見えてくるか。いや、それはまず聞こえてくる。そして次に、肌に触れてくる。「現実」や「文明」の音が沈黙するとき、世界が少しだけ開かれる。実に、世界は音から出来ていた。様々な鳥のさえずり、虫の鳴き声、川のせせらぎ、木々のそよぎ、風や雨の音、動物の遠吠え…。そして、世界には様々な風が吹いている。木々の枝葉や草花の葉は、それに音と動きをもって応えている。それは本当は「音」ではなく、世界そのものなのだが。
風や土、草花の匂いをしっかりと嗅いでから、静かに目を開こう。世界はどんなに優れた映像や絵画より、多様に鮮やかに生き生きと彩られていることを改めて知らされるだろう。食べることができる草木の実も多い。それを口に入れ、世界の豊かさを味わおう。世界がモノではないことに気がつけば、第六感はもう世界と話し始めている。
そこは「時計」のない世界だ。もちろん、時間はある。時計がない時間がある。時間とは、実は自然の様相のことである。たとえば朝は、暗闇だった空が雲を少しずつピンクに染め上げ、鳥がそれを告げ知らせるように鳴き、先程までとは違う風がそよぐ時間である。耳・肌・鼻・目・舌が、朝の音・空気・匂い・色・味を感じるときが、朝という時間である。一日とはそのようにして体験するものなのである。同様に、季節というものもカレンダーによってではなく、五感によって体験されるものだ。こうして一年という時間が、ようやく私たちの身体の中を行き過ぎることができるのだ。
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○自然のおきて
「チェロキーのおきて」とも。生きる者の「エゴ」を認め、それを受け容れること。エゴとは自分が生きるために、たとえば他の生き物を殺して食べたりすることだ。ただし、それを濫用してはいけない。また、人間以外の生き物がそうすることも許さなければならない。自然は善悪を超えた摂理をもっており、喜びばかりではなく苦しみや悲しみも生き物に与えることを甘受しなければならない。
○祖母が言うには、人は理解できないものを愛することはできないし、ましてや理解できない人や神に愛をいだくことはできない。
「一般」の拒否、具体的な「個」の要請。「知」だけの拒否、共感の必要性。心身合一としての人間。知行合一。かくして、「ロゴス」たるキリスト教の神の拒否。
○からだの心(body mind)と霊の心(spirit mind)
「からだの心」は肉体とともに死ぬが、「霊の心」死なずに別の肉体に生まれ変わる。ニッポン人も共有する、もう一つの普遍思想だ。「生きてるくせに死んでる人」とは、「からだの心」が大きく「霊の心」が小さい人のこと。
○母なる大地の産みの苦しみ
ここでも自然とは「父」ではなく「母」であった。「母」は慈しむだけではなく、時に苦しみ猛威をふるう。春の嵐は、「母」が一年を産み出すときに苦しみのあまり産褥に立てる爪跡なのである。
○祖母はだぶだぶのスカートを脱ぎ捨てた。
ガラガラ蛇に咬まれた祖父を救うべく、祖母はためらいもなく、なすべきことをした。
○だれのせいでもない。ガラガラ蛇のせいでもない。
起こったことの責任を追及しても仕方がない。ニッポン人の「なる論理」(これと対になるのが「する論理」)である。
○一日は生まれ死ぬ
これも、ニッポン人も共有する「死と再生」の思想である。アメリカのネイティヴ・インディアンは、はっきりとニッポン人の縁戚である。
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(目次)
『リトル・トリー』を分かち合う喜び L・ストリックランド
1 ぼくの名はリトル・トリー
2 母なる大地とチェロキーのおきて
3 壁に揺れる影
4 赤狐スリック
5 理解と愛
6 祖父母の昔話
7 サツマイモ・パイ
8 ぼくの秘密の場所
9 危険な商売
10 クリスチャンにだまされる
11 はだしの女の子
12 ガラガラ蛇
13 夢を土くれ
14 山頂の一夜
15 ウィロー・ジョーン
16 教会の人々
17 黄色いコート
18 山を降りる
19 天狼星
20 家へ帰る
21 遠い旅路の歌
訳者あとがき
リトル・トリー讃歌 宮内勝典
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