北一輝
きた いっき
2002.10.25
「支那革命外史 抄」中公文庫 BIBLIO 20世紀
北一輝とは何者か。処女出版本にして発禁となった『国体論及び純正社会主義』では、神話的天皇制に立脚する明治政府の国家論を批判し、「唯物」的な近代国民国家論を展開した。その後、近代国民国家の産褥に苦しむ中国民族の革命運動を支援する。その関わりの中で書かれたのが『支那革命外史』だ(本書はその抄本)。後述のように挫折した後、北は東アジア情勢に危機感を持ちつつ、再び日本に目を向ける。天皇を戴く国家社会主義革命の構想は『日本改造法案大綱』としてまとめられ、これが昭和維新運動の教典となる。その最期は、二・二六事件に連座しての銃殺刑であった。(1883〜1937)
北は、孫文らによって東京で結成された中国革命団体の大連合・中国革命同盟会に参画していた。そこで親交を深めた宋教仁に請われ、辛亥革命が勃発した中国に渡る。宋教仁は民族主義者にして議院内閣制(英・日モデル)を主張する革命家であった。清朝が倒れ中華民国は成ったものの、革命(国家建設)の進展は難渋を極めた。北は同志・宋教仁と起居を共にし、奮闘する。が、旧王朝の将軍から革命の北軍「皇帝」に豹変した袁世凱と、初の総選挙に大勝した国民党との確執は、ついに宋教仁の暗殺と孫文の再亡命に至る。北も中国を追われ、帰国する。
本書は、西欧諸国におもねる袁世凱の帝制(開始半年後の死去にて終焉)前後に、その「敗北」の原因を革命の経緯の中で明らかにし、列強に対抗する「日中合作」を説くべく執筆された。
北が第一に強調するのは、革命における孫文の役割の軽薄さであり、その思想の思弁性である。革命勃発を米大陸で知る悠長さ、帰国後自ら指導した革命はどれも失敗、民主主義の経験のない中国に、独裁を招きやすい米大統領制に範を取る大総統制の導入など、孫文のミス・リードを指弾する(孫文への批判は、革命方針をめぐり孫文といつも葛藤した、現実家であった友・宋教仁の存在証明でもある)。
もう一つ重要なことは、日本人と日本政府の愚劣ぶりである。そんな孫文を革命の神様と後生大事にし大局を見失っていたのは、犬養毅らの政治家、また玄洋社の頭山満ら大陸浪人と呼ばれた日本人たちであった。日本政府の方はと言えば、西欧諸国が第一次大戦で東方が手薄になったなか、中国を支援するどころか、今だとばかりに襲いかかった。即ち、ドイツ祖借地であった青島を占領し、二十一ヶ条の侵略要求を突きつけた。これを受け入れたのも袁世凱だった。
北が提唱する日中同盟による西欧勢力の駆逐は、もし実現すれば、西欧人が最も恐れていた「黄禍論」の構図そのものだった。
北の考えを分かりやすく言えばこうだ。東アジアを西欧の侵略から守らなければならない。日本が近代国家に変身できたのは、その間、中国が西欧の「噛ませ犬」となってくれていたからだ。今度は、中国の近代国家造りを日本が助ける番だ。そして日中両国で西欧諸国(特に英国)を東アジアから追い出さねばならない。
興味深いことに、奇しくも北と同じく法華経を信奉していた石原莞爾は、東アジアの危機打開を、満州を踏み台にした米国との最終戦争に見出そうとしていた。それに対し、北は米国との戦争は回避すべきだと考えていた。
本書の中で一つ気になるのは、中国革命の「ナポレオン」たる者が「オゴタイ汗」とあだ名されていることである。オゴタイとは、ジンギス汗の子でモンゴル帝国第二代皇帝であり、甥バトゥを総司令官として西征軍を派遣し、ロシアやハンガリーまでを経略させた。西欧人にとり、黄禍(黄色人種による侵略や支配)とはこのことである。しかしながら、オゴタイはモンゴル人であって決して中国人ではない。これは西欧人ならよく起こす間違いである。しかしなぜ北がこの間違い(?)をおかしたのか。不可思議である。
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