☆★珍祭「へとまと」考★☆
99.03.13
長崎県に属する五島列島は、いまでは片田舎にすぎない。しかしそこは南方からの暖流・対馬海流を、その名を負う対馬より一早く受け取る南海への玄関口である。韓国最南の済州島にも、日本から最短の位置にある。平安時代に入ってからの遣唐使(最澄や空海らが参加)はこの五島列島付近を通って、江南をめざしたのだ(南路)。
五島列島はかつて、朝鮮半島、中国・江南、そして南海の文化を受けるに最先端の地であったと言える。その一番南端に位置するのが福江島であるが、そこの福江市下崎山町に伝わる祭りが「へとまと」である。珍祭とか奇祭とか言われるが、要はその全体をうまく説明できないのだ。
その「へとまと」祭りについて書いていこうと思う。もちろん言うまでもないだろうが、これはあくまで筆者の勝手な解釈であることをあらかじめお断りしておく。
まず「へとまと」という名、これはどういう意味なのか。かく言う筆者もこの名の由来はわからない。しかしこれが「正月」祭りであることは間違いない。「正月」とは何なのか、それがわからないから、「へとまと」が「正月」祭りであることがわからないのだ。では「正月」とは何なのか。しかしその前に、この祭りのあらましについて紹介しておこう。
小正月の一月十六日に行われる(「小正月」は一月十五日、もしくは十四〜十六日を指して言われる)。
- 白浜神社で奉納相撲。
- 着飾った新婚の女性一組が酒樽に乗って羽根つき。
- フンドシ姿の若者がススを塗りつけあう。
- ワラで編んだ玉を奪い合う「玉けり」、この時見物人にもススが塗りつけられる。
- 綱引き。(以上、浜辺で)
- 長さ3メートル、重さ300〜400キログラムもある大草履(ぞうり)を若者たちが担ぎ、山城神社へ奉納。
- その道中、若い女性をつかまえては大草履の上に乗せ何度も胴上げする。
ざっと、こんな具合だ。確かに、何だか意味がわからない行事が続く。
さて、謎解きに移っていくのであるが、「前提」を少し述べておかなければならない。その前提とは「正月」の意味に他ならない。
正月とは、言うまでもなく一月、つまり一年の最初の月のことだ。これは単なる暦の始まりではなく、新年とは世界の始まりを意味する。冬に一度死んだ世界が、春に再生するのである(ちなみに、冬は「増ゆ」で、春の要素がしだいに増えてゆくことで、「春」はそれが「張る」つまり、みなぎることである。「晴れ=ハレ」もこれである)。正月とは、そういう再生の祭りなのである。
まず太陽、日の力が復活する。そして魂も復活する。年末までの「ケ涸(が)れ」た魂のために、新たな魂、生気(ケ)を運んでくるのは神である。正月=春は神の到来でもある。なお、小正月とは「旧正月」のことではなく、旧暦の一月の満月の日に行なう正月祭りのことだ。
(「旧正月」では、旧暦での元旦を、つまり月遅れの正月を意味するにすぎない。こちらは「大正月」と称される。「小正月」は旧暦の一月十五日に当たる。旧暦では毎月、一日は月立ち=朔=新月、十五日は望=満月となる。古来、満月の夜こそ、祭りの日であり時間であった。神や精霊も満ちるときであったのだ。)
ここでやや、ややこしい問題がある。日本の正月と中国の春である。日本と中国の文化は同じようであって、違うところがある。中国には道教の陰陽五行の考え方があって、これが日本の文化に色濃く入っているのだ。この「へとまと」でも、日本の正月に陰陽五行の春が折り重なっている。これが「へとまと」を謎にしている大きな要因だ。
それでは、先ほど番号をつけた順に謎解きをしていこう。
1.白浜神社で奉納相撲。
祭りはまず海岸から始まる。これは海の彼方、常世から来る神を迎えるためである。
ここで、いまは「奉納相撲」が行われるが、神に見せる、つまりは人々に見せる形(芸能)はのちのものである。相撲はもともと、その年の豊不作や吉凶を占う「年占」(としうら)として行われていたものだ。
それならば、5の「綱引き」の前後がプログラムの位置として正しいということになる。祭りは中世以降、どこでも見世物になったが、その際に芸能(見世物)プログラムとして最初にもってこられたのかも知れない。
あるいは別の考え方としては、相撲というより、土地鎮め、結界作りとしてあったのかも知れない。こちらの方が最初のプログラムとしてはよりふさわしい。
2.着飾った新婚の女性一組が酒樽に乗って羽根つき。
このプログラムは明らかに陰陽五行に基づくものである。原初の正月祭りからのものではない。海からやって来た神とも無関係な、中国産の迎春呪術である。羽根突きは、陰陽五行の「金剋木」(「金」気は「木」気を殺す)という思想に基づくものである。
正月は「木」気というものに当たる(これが春の気である)のだが、「木」気は「金」気に弱いのである。この「金」気の象徴が、干支(えと)の「酉」である。「酉」は鳥で、羽根をもつものはすなわち「酉」である。これを叩き打ちのめし(「金気撃攘」きんきげきじょう、と言う)、春の気を守るのが、「羽根」突きの極意である。
「着飾った新婚の女性一組が」ということだが、そうなったのはのちの修飾で、原形は「少女が」である。「少女」とは易の八卦(はっけ)の「兌」(だ)という形象で、これまた「金」気なのである(ちなみに、オカメも「兌」である)。
それから「酒樽」だが、これには必ずや陰陽五行上の意味がある。しかし、いまの筆者には、これについてはっきりしたことが言えるだけの知識はない。
3.フンドシ姿の若者がススを塗りつけあう。
先ほど、陰陽五行の「金剋木」を挙げたが、これとセットにして大事なものがある。「火剋金」(「火」気は「金」気を殺す)である。どういうことかと言うと、「木」気を殺す「金」気を「火」気で殺せば、「木」気=春を助けることができる、という三段論法だ。
いまの日本では、「小正月(春)の火祭り」が結構さかんだ。「お水取り」で知られる東大寺二月堂の修二会も、春の火祭りの一つだ。門松や注連(しめ)飾りや書き初めを焼く、どんど焼きや左義長(さぎちょう)などもこれである。
これらは「火剋金」なのである。「火」で「金」気を撃攘し、「木」気=春を増進しているのである。こうして、「春の火」が「めでたい」ものとなり、その燃えかすであるススまでが、吉を呼ぶものとされるに至ったのである。
しかし、日本の正月ではそうではなかった。火は、正月すなわち、神と新たな魂を迎えるお祭りの前に、ケガレを「祓い」心身を清らかにするために焚かれたものだ。つまり、厄祓いの火だったのだ。
ススとは、祓い流すべき厄そのものだった。年末の大掃除(寺社も含めて)で祓われるのは、ただの「スス」ではない。厄=ケガレである。「へとまと」からは消えているが、当初には祭りの事前プログラムとして、厄祓いのための火の行事があったはずである。(なお、どんど焼きなどは本来、大晦日=節分に行なわれていたものだ。正月前の厄祓いであったのだ。)
しかし、この厄祓いののち、祭り本番で迎えるものは何だったのか。一つには再生・復活した太陽であった(ちなみに「太陽」とは「太陰=月」に対する陰陽五行の言葉だ)。太陽はもちろん日であり「火」である。つまり、正月は新たな「火」の復活でもあった。これが正月前の厄祓い「火」が、正月後の「火」祭りに混同・転化され易かった背景であろう(「火」は「水」とともに、古来両洋で、清めや再生など聖俗界を聖別・越境する媒介としてあった)。
こうして、厄そのものであったススは吉をもたらすものに変わり、それがあたかも日本の正月で得られる「生気=ケ」そのものに化したのである。すなわち、ススをなすり付け合う所作は、神がもってきた新たな「生気」を塗り込め合うことを意味するものとなる。
以上のように、このスス塗りも陰陽五行の春によって変型をこうむったものである。
なお、「フンドシ姿」は相撲のまわし姿と同じく、神に近づく一つの潔斎体である。
4.ワラで編んだ玉を奪い合う「玉けり」、この時見物人にもススが塗りつけられる。
この「玉けり」こそが、本来は1の「神迎え」に続く、祭りの中心プログラムである。玉は魂である。ワラ玉は依り代であり、それは神自身であり、また常世からもたらされた「生気」そのものである。
この「玉けり」とは、神や生気(ケ)を奪い合うことであり、同時に神を荒々しくもてなす「神遊び」である。「年占」であり、同時に「魂振り」でもある。この「玉けり」の中で、神から新たな魂が人々に賦与されるのである(いまでは前述のように、ススにこの役回りが移っているが)。
5.綱引き。
新年の「年占」である。「玉けり」同様に、大事なプログラムであったと想像できる。これによって、かつてはその年の農耕諸事(作物、耕地、時期など)が決められたと思われる。
6.長さ3メートル、重さ300〜400キログラムもある大草履(ぞうり)を若者たちが担ぎ、山城神社へ奉納。
「大草履」は、浜で「神遊び」したあと、神を山の社(やしろ)にお運びする一種の神輿(みこし)である。この神は「ダイダラボッチ」(いろんな呼び名があるが)のような巨人の神だということだ。
大草履は神への贈り物であろう。しかしこれを山の社に運び上げること自体が祭りのプログラムなのであるから、大神が草履をはいて歩いている、と考えてもよい。これが氏地内を引き回す意味だ。大神をお運びする考えると、神輿である。要するに、神の宮入りなのである。
7.その道中、若い女性をつかまえては大草履の上に乗せ何度も胴上げする。
これは、羽根突きや、ススの吉凶反転(火祭りの転化)などと同時に、混入した陰陽五行の要素だろう。「少女」は「金」気だ。「胴上げ」ではなく、羽根「突き」同様に、「少女=金気」を痛めつけるのが本義であろう。
全体を整理すると、厄祓い[0]ののち、正月に神が常世から生気をもってやって来る[1]。これを浜で迎え、神遊び(同時に魂振り)[4]と年占[5]を行なう。そのあと、神を神輿に乗せて、山の社にお運びする(あるいは神が自分で登って行く)[6]。これが原形のアウトラインだ。プログラムの最後には「神送り」があるべきであるが[8]。
(正月系)([0]厄祓い→)[1]神迎え→[4]玉けり→[5]綱引き→[6]草履神輿(→[8]神送り)
これに中国の春、すなわち陰陽五行思想が入り、「金気撃攘」による羽根突き[2]や、「少女」(女性)の役割[7]が導入される。また、「火剋金」の三段論法によって、「厄祓い火」の「春の火祭り」への転化、ススの吉化、魂振りプログラムの「玉けり」から「スス塗り」への換骨奪胎[3]、となったと思われる。
(中国の春系)[2]羽根突き→[3]スス塗り→[7]胴上げ(?)
さらに遅れて、祭りの見世物化にともない、「相撲」の前出しあるいは「神迎え」プログラムからの変更があった[1]。その他のプログラムでの装飾も行われる。「少女」が「着飾った新婚の女性」に[2]、「打ち倒すこと」が「胴上げ」に[7]仕立て上げられた。
以上、「へとまと」祭りの意味と変遷を考察してみたのだが、最後にこの「南海の神」の容貌について述べて終わろう。
この神は、明らかに南方の神である。北方の、天や父のイメージはない、少なくとも薄い。威厳を振り回すことのない、おおらかな巨人の神である。果たしてこの神は、豊穣と生気を五島の人々に、南海のどこからもって来たのであろうか。わが民族の来歴にもつながる謎である。
(参考)「凧上げと羽根突き---陰陽五行説による正月」
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