天神祭史 年表


*本年表は、大阪天満宮史料室が作成されたものです。(出典:米山俊直・河内厚郎 編著『天神祭 水の都・千年の祭』東方出版 1994年7月25日発行)
(江戸末期以前は天神祭の文献を中心に、以降は大阪天満宮の日誌類や新聞記事などによって天神祭における「船渡御」の中止と復活を中心に作成)

天暦3年949大阪天満宮鎮座。
天暦5年951「鉾流神事」(天神祭)始まる。
天永頃1100頃藤原敦基・敦光、天満天神祠の清景を詠む(「本朝無題詩」巻10)。
宝徳1年14997月7日、公家中原康富、天神祭礼見物(「康富記」)。
天正15年15876月25日、公家山科言経、祭礼見物(「言経卿記」)。
天正18年15906月25日、同上。
慶長20(元和1)年1615大坂夏の陣で大阪天満宮被災。御神霊を奉じ「社中家内老若男女共」吹田へ避難。
寛永21年1644大阪天満宮、天満へ還座。
寛永末期〜慶安はじめ1640年代後半京町堀川流末の地(後に雑喉場・ざこばとして発展する)に行宮(御旅所)を設定。天神祭の船渡御は毎年同行宮に向かうことになり、社頭の浜(川岸)から神鉾を流し、流れ着いた所をその年の行宮の地と定める「鉾流神事」の意味がうすれたため、以後「鉾流神事」は中断した。その復活は昭和5年のことである。
慶安2年16496月17日、「6月天神祭礼之義氏地へ御触」(「摂陽奇観」)で天神祭に惣町中より出るねり物(地車)が順番を争うので、一番地下町・二番宮之前町・三番御旅所之町と定め、他は6月21日に代表者が集まり順番をきめることとなる。後に三番以降はくじ引きで決められた。
寛文末〜延宝3年以前1671頃-75以前御旅所は雑喉場から戎島(西区本田)に移転、この後明治初年までその場所は変わらなかった。
延宝3年1675一無軒道治、大阪天満宮の由緒と御旅所への船渡御について記述(「芦分船」)。
延宝8年1680一無軒道治、神輿二社難波橋より乗船し、戎島の御旅所へ遷幸するさまを描写(「難波鑑」)。
貞享3年1686僧侶独庵玄光、天神祭に漢詩を詠じる(「独庵藁」)。
元禄2年16896月23日、丸亀藩の女流歌人井上通女、天神祭宵宮前日の御試楽を見物(「帰家日記」)。
元禄14年1701岡田渓志、船渡御の様子を記述(「摂陽群談」)。
享保9年17243月21日、妙知焼で大阪天満宮被災。天神講創立。
享保15年1730御錦蓋講の前身・米屋講創立。御文庫講創立。
享保20年1736今年より太鼓は剣先船仲間が勤める。
元文4年1739剣先伸間が太鼓打辞退、天満手伝仲間が勤める。
延享3年1746西川祐信、船渡御の挿画を描く(「本朝歳時故実」)。
寛延2年1749太鼓、再び剣先仲間が勤める。
安永9年1780この年の天神祭に本番地車71台・追附地車13台が宮入した(地車・宮入台数については享保9年以降記録が残っているが、そのうちの最多記録である)。
寛政8年1796丹羽桃渓、船渡御の風景を4枚の画に描き、秋里籬嶋が解説(「摂津名所図会」)。
享和1年1801大田南畝、天神祭見物記(「芦の若葉」)。
文化3年1806速水恒章、船渡御のさま・御迎え人形を飾りつけた御迎え船などを記述(「諸国図会 年中行事大成」)。
文化5年1808浜松歌国、天神祭今昔についてのべる(「摂陽落穂集」)。
文化7年1810浜松歌国、御迎え船・御迎え人形についてのべる(「筆拍子」)。
文政頃1820頃意雅栗三、時を追って天神祭の様子を詳しく紹介。暁鐘成の挿画1枚あり(「天神祭十二時」)。
天保8年1837大塩焼で大阪天満宮被災。
天保11年1840現存の鳳神輿・玉神輿できる(江之子島東之町の町人中が難波島の舟大工に造らせた)。
弘化2年1845正遷宮、現在の社殿が再建された。
弘化3年1846松川半山が御迎え人形を描き、暁鐘成が解説を加えて「天満宮御神事御迎船人形図会」が出版される。
嘉永5年1852現存「三ツ屋根地車」(天満青物市場所有)が製作される。
嘉永7(安政1)年18546月14日夜より地震頻発、地車宮入台数少ない。9月、天保山沖にロシア船ディアナ号停泊。11月4日、大地震・大津波。
安政2年以後1855以後暁鐘成、天神祭の賑わいぶりを描写(「摂津名所図会大成」)。
慶応1年18656月、大坂諸社神事御遠慮。天神祭渡御は中止。このとき将軍家茂が長州再征軍督励のため来坂中であり、新選組より「警固を引き受けるから神輿渡御を執行してはどうか」との意見があったが、結局中止した。以後明治3年まで渡御は中絶。
明治4年1871天神祭陸渡御・船渡御復活。9月、御旅所移転の砂持。御旅所は戎島から松島(西区千代崎町)へ移転。
明治6年18737月19日(旧暦6月25日)、船渡御中止。陸渡御で松島御旅所へ(川筋土砂さらえ難行のため)。
明治7年18748月7日、船渡御中止。陸渡御で松島御旅所へ。
明治8年18757月25日、同上。10月18日、松島御旅所遷宮(社殿は久留米藩邸の水天宮の社殿を譲り受けた)。
明治9年18761月、御鳳輦できる(市之側)費用1,500円。8月14日、船渡御中止。陸渡御で松島御旅所へ。
明治10年18778月4日、船渡御中止。陸渡御で御旅所へ。
明治11年1878本社営繕中につき渡御なし。本年より天神祭は7月24日・25日に定まる。
明治12年1879祭礼中止(コレラ流行のため)。
明治13年1880陸渡御で御旅所へ。
明治14年1881船渡御復活。
明治18年18858月24日・25日、天神祭。渡御なし。夏祭礼は淀川洪水のため1ケ月延期。
明治19年1886夏祭礼延期奏上(コレラ流行のためか)。
明治22年1889連日雨降り河川増水し、船渡御中止。陸渡御で御旅所へ。
明治25年18927月23日、御錦蓋新調(米穀商)。渡御川路出水のため船渡御中止。陸渡御で御旅所へ。
明治28年18957月24日、暴風雨。25日、渡御中止か。
明治29年1896諸川増水のため船渡御中止。陸渡御で御旅所へ。市場三ツ屋根地車、大阪天満宮へ奉納。以後天神祭には境内に飾られ地車購子を奉納。
明治34年1901渡御なし。「御家根替総営繕中」のため。
明治35年19023月25日〜4月8日、御神退一千年祭。
明治45(大正1)年19127月24日・25日、夏大祭。「聖上陛下御平癒祈祷祭」。渡御なし。地車囃子等は見合す。
大正2年1913天神祭1ケ月延期。
大正3年19145月昭憲皇大后大喪儀。7月25日渡御なし。
大正9年19207月22日御鳳輦新調(御鳳輦講)。
昭和2年1927諒闇につき渡御なし。社司以下17台の自動車で御旅所へ行き祭典。
昭和4年19297月25日、JOBKが天神祭船渡御を全国ラジオ中継放送。
昭和5年1930食満南北の提唱により「鉾流神事」復活。7月24日朝、神事斎行。
昭和8年19337月24日、関西相撲協会天龍関以下30名の土俵入式を執行。25日、渡御列に加わる。
昭和12年19377月7日盧溝橋事件。日中戦争はじまる。同25日陸渡御・船渡御は平年通り斎行。
昭和13年1938本年から23年まで船渡御中止。太鼓も神輿もない淋しい陸渡御(午前中発輦して御旅所へ向かい、夕刻還御)。
昭和16年1941御旅所へ陸路遷幸したが、渡御列の記録なし。
昭和20年1945渡御なし。「7月25日敵機終日頻襲の為、社頭閑散隔世の感無量なり」(社務日誌)。
昭和21年1946渡御中止であったが、境内は参拝者で雑踏した。
昭和24年1949船渡御復活。中央市場内(元新堀天神跡)を御旅所とした。長年の空白による奉仕者の不慣れ・資材不足・地盤沈下などのため支障が続発。
昭和25年1950本年から27年まで船渡御中止。
昭和28年1953船渡御復活。地盤沈下がはげしくて渡御船が下流の橋々の下をくぐれなくなり、松島御旅所への遷幸を取りやめ、大川上流・桜宮水上舞殿へ神幸。
昭和36年1961不況により船渡御中止。
昭和40年1965不況天神。船渡御コース延長、都島大橋下折り返し。
昭和48年19733月30日「御迎人形14体」「御迎人形図絵1冊」「御迎人形木版刷1枚」が「大阪府指定民俗資料」に指定(現在は「有形民俗文化財」)。
昭和49年1974船渡御中止。前年のオイルショックとそれに続く不況のため。
平成1年19897月24日、地車曳行・宮入。ほぽ100年ぶりに復活。
平成3年19913月、催太鼓の演奏法全般に対して大阪府の「無形文化財民俗資料」に指定(現在は「無形民俗文化財」に選択されている)。7月25日、地車が陸渡御にはじめて参加。
平成6年19945月6日・7日、オーストラリアのブリスベン市で天神祭斎行。
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