「春日若宮ご創建」(永島福太郎氏)


 去る四月二十八日(平成十三年)、春日大社摂社若宮神社から御祭神を假殿(本社若宮移殿)へお移しする下遷宮が執行された。往時は春日大社の式年造替のさい、本社(大宮)と同様に施工されたのだが、明治新政の官国幣社(官社)制度では各別となった。御子神(みこがみ)の若宮が摂末社に列せられたことによる。来年四月には、新装の若宮御本殿にご帰還なされる上遷宮が予定されている。

 更に、平成十五年(2003)春には、「若宮御出現一千年祭」の盛大な執行が予定されていると聞く。社伝によると祭神のご誕生は長保五年(1003)三月三日という。

 去る平成七年十一月には第五十九次の大宮四所大神の上遷宮が執行された。若宮の御造替の予定は未定であったが、その準備の儀式が行なわれる中で、若宮の古神宝が発見されたといわれる。平成十二年に至り、修理も考慮されたため、五月には太刀の出現を発表、十月には笙・和琴の出現が発表され春日大社宝物殿で公開された。太刀は太閤藤原忠実の寄進かと考証された(『春日」65号)。翌十三年四月、さきの若宮創建時代の摂関家の寄進と伝える「若宮御料古神宝類」の追加として国宝に指定された。若宮神主家に伝来する初代神主中臣祐房[注:「祐」の部首は「示」]の「春日御社縁起注進文写」は若宮神の出現、神殿の現社地創建、若宮院の構築や神宝類の進物(寄進)日記、若宮神主の補任などを説明するが、これの「進物日記」は摂関家から寄進の若宮御料神宝類を記したもの、忠実寄進の太刀や頼長の弓箭具類の記事が見出せるし、ほぼ該当するようである。保延元年(長承四年)十一月、大殿下忠実から宝刀を託された興福寺別当一乗院玄覚僧正は若宮神主祐房を御所に召して宝殿に納入を命じた。弟子の覚継(法印に新任、忠通の息、のち一乗院恵信僧正)に持参させ、祐房は先導、そして神殿に安置したという。神刀は神宝の随一、したがって嚴重に納入したといえる。新発見の宝刀にふさわしい。若宮の歴史ないし神威の赫々たるゆえんである。いま、若宮神の一千年の伝統を記念して若宮造替が進められる。

 右の太閤忠実の神宝太刀の寄進の記事は、昨年度の本誌(『おん祭』16号)において紹介したもの、ここに再掲載することを許されたい。記事の見える「中臣祐房注進文写」は『神道大系』神社編十三『春日』(昭60刊)に収録した。その「進物日記」に見える宝刀寄進者の「大殿下」にあえて忠通と私は傍注した。「進物日記」には忠実・頼長父子と若宮神主祐房の寄進を列挙するが、氏長者の忠通の寄進は見えない。宝刀は神宝の随一、したがった本願氏長者忠通の奉納と速断した勇み足である(『おん祭』昨年号に訂正の文を掲げた。なお「若宮御鎮座と神宝」と題して、とくに御鎮座一件を詳述した。ところで『春日』刊行後の春日大社発行書には忠通寄進としるされたものがある。お詫びを申上る)。

 太閤忠実の宝刀寄進は隠居はしたが、氏長者の実権はいぜん握るという権威を示そうとするものであり、氏長者忠通をさしおく。若宮神主のもとに遺(おく)るべきものだが、「興福寺の春日若宮祭」(見込み)なので別当玄覚を経由、忠通派の妨害などを防いだ感もある。このため、玄覚僧正は若宮神主を呼びつけたり、なお忠通息の覚継法印に奉持させ、神殿で神主に渡し奉献させるという玄覚の苦心苦労が記されたらしい。保元の乱に爆発する摂関家の内紛がこれに早くもからんでいるのか。ここで若宮創建論を掲ぐべきだが、これまた『おん祭』昨年号を参看されたい。

 飛躍的論述だが、興福寺大衆(三千衆徒)の若宮祭創始は、時運・人連に恵まれたものといえる。社会変革期に遭遇、精気あふれる若宮(今宮)の祭祀(御子神信仰)は荘園領主化の公家(院政)・摂関家・社寺などのすべて、なおそれらの被官の在地領主(さむらい)なども望んでいた。中世、宗教時代の、所産である。神仏習合が進んで人気のあがる八幡信仰に「若宮」がまず生ずる。

 南都春日山麓に鎮座する春日大社においては、「長保五年三月三日、巳時、四殿板敷より、心太(こころふと)様なる物、三升ばかり落つ、暫らく程あり、件(くだ)んの物の中に五寸ばかりなる蛇(くちなわ)出で、乾(いぬい)柱下より登り四殿内に入り畢(おわ)んぬ」という若宮御あれ神話の秘記が遺る。春日神宮預中臣是忠(これただ)が拝見し記録したという左記も見え、既掲の「中臣祐房注進文写」に断簡として挿入されている。長保五年は十一世紀の昔、四御殿(比売・ひめ・神が御座)の板敷にゼリー状の塊中から出現なさったらしい。蛇の姿に感得したという。「春日竜神」のいます春日御蓋山の所生たるにふさわしい。「祐房注進文写のほかに『皇年代記』(奈良年代記)などは同年に「若宮御鎮座」と記している。以後、長久二年(1042)に若宮神は六才の幼童に託宣され、五所王子として備進されるべきだが不遇、だから御供も食さないという。ご不満の居所(すまい)だが、四御殿の中央、二三御殿の御間・あい(獅子の間)にお移ししたと伝説される(若宮神の本地は文殊菩薩、そのため御間(あい)塀(障壁)に唐獅子と牡丹を描いたとも考えられるが前後関係が不詳)。やがて「若宮ムネ上」「若宮常燈料所伊賀国子野庄(「八重桜」料所の花垣庄付近)の文字が見えるが、これまたハッキリしない。ともかく、若宮神は「春日赤童子曼茶羅(まんだら)」(忿怒・ふんぬ・相の金剛童子に似る。太刀が杖に代わるなど温和化する)に拝され、精気溌剌(はつらつ)の感がある。いよいよ長承四年(保延元年と呼称すべきか)二月に現在地の若宮院に遷宮され、院内に小社も勧請された。これらのいきさつは「中臣祐房注進状写」が語る。神殿の鋪設や末社の配置等は春日社正預祐房が沙汰したという。ここで祐房が若宮神主を兼帯する。

 若宮創建や祝賀の若宮祭の開催は難航した。興福寺近くの春日野に御旅所を設け、神仏習合の祭礼(風流〈お渡り〉を加える)を晝間に演出すること、主催は興福寺大衆、しかも一国の大祭として執行することがまず決定したらしい。祭日の春秋いずれかの予定はつかなかったらしい。救いは摂関家が興福寺(僧家)の春日祭祀参与を容認したこと、上皇政治(院政)が社寺振興政策を掲げたことである。

 若宮神主祐房は「若宮祭礼記」を起筆するが、関白氏長者忠通の「若宮御物・御祭占形」の納入を九月十七日に勤仕せよとの長者宣の到来から始まり、八月三日付の九月十七日御祭御幣・御供役などの興福寺大衆の議定による別会五師(べちえごし:三千衆徒集会の奉行)の差足(配役)状を記している。次いで春日野の「若宮御旅所鋪設図」を図示し、「大衆沙汰として若宮御祭始め給うの事」と大書して記事をつつげた。発令後は急ぎ準備を進めて九月十七日の祭礼に至る。当日は伊勢神宮神嘗(かんなめ)祭日であり、若宮祭を豊稔感謝の意を表するものとなる。「祭礼記」は祭礼の盛況を伝える記録である。当日の所役・見聞のメモを編集したものだが、なかんずく所役メモは祭礼演出脚本の役割をはたす。祭礼は晝夜にわたり、僧俗・男女・老若、プロ・アマの参仕が許されるし、御子神信仰にちなんで児童・御子(巫女)の奉仕が多い。春日祭は旧制(神事)、若宮祭は祭場を広闊な広場に移した新制お祭り絵巻ともいえよう。ちなみに、春日若宮神の出現は秘伝とされた。長らく不遇をかこたれ、あるいは旱水害の天災をも発せられた感もある。春日祭に参与を許されない興福寺大衆らは若宮神を探して春日祭を模作(風流)祭の春日山生まれを強調した。春日大明神は長らく春日山に鎭座されるが、進駐の天ツ神であり、政治神の色彩は消えない。ようやく郷土生え抜きの若宮神を迎えて親しみも湧く。もとより春日竜神の一族、水の神である。春日山に五所明神が鎭座、とくに若宮が春日野の興福寺の鎭守として春日社興福寺の社寺一体化を促進する(未完稿を許されたい)。

(文学博士、関西学院大学名誉教授)

*出典:『春日若宮おん祭』(平成13年度版/春日若宮おん祭保存会 2001年11月11日発行)

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