☆★天満宮の成立★☆ 御霊・崇り神から天神様へ
99.03.07

★通りゃんせ★
  通りゃんせ 通りゃんせ
  此処は何処の細道じゃ
  天神様の細道じゃ
  ちいっと通して下しゃんせ
  御用のない者通しゃせぬ
  この子の七つのお祝いに
  お札を納めに参ります
  行きはよいよい 帰りは恐い
  恐いながらも 通りゃんせ 通りゃんせ

 このわらべうたは、江戸時代、川越城内にあった三芳野天神でうたわれ始めたものである。「帰りは恐い」とは、実はお参りにかこつけて城内から手紙(情報)などが持ち出されぬよう、門番が厳重に取り調べたことをうたったものであるらしい。たね明かしをすればそんなものだが、「帰りは恐い」とは何やらそれ以上にそら恐ろしげなのは、なぜだろう。

 確かに舞台装置はそろっている。母が闇におびえるおさな子の手を引き、暗がりに続く細い参道を行く。何やら出て来そうな雰囲気である。それも「行きはよいよい 帰りは恐い」とくるのだから、ますます恐ろしげである。歌のメロディも最後の「恐いながらも」で一気に緩急のテンポをつけ、まるで魔が招くように「通りゃんせ 通りゃんせ」とリフレインする。

 さて、「天神様」である。天神様はもと崇り神である。まさか天神様が帰りに出てくるわけではないだろう。しかし、なぜ天神様に「この子の七つのお祝いにお札を納めに」行くのだろうか。

 いくつかのわけがある。まず、天神様が日本全国に、そして江戸周辺の町々にもいて、人々が願い事をするに身近な神であること。京都・北野に発祥する天神社は全国に一万二千余社を数える。これらは勧請した分霊であるが、単に霊威の強い神だから招いただけではないように思う。(しかし中には「菅原道真公」を祭神としない社もある。後述。)

 日本の神々は社会の変化とともに、その有り様も変えてきた。特に旧い共同体が壊れ、新たな社会関係が築かれるたびに、人々に「個人」の顔が見えてきたことが大きい。共同体の祭りではない「個人ごとの祭り」、つまり「お参り」が始まる。

 お参りは夜陰の「抜け駆け」として始まった。私祭は共同体の禁止事項だった。それに本来、祭りのときしか神はいないはずだった。しかし「個人」の欲求はそれらの制止を振り切る。また、旅の経験、人や物の行き来は、氏神や産土(うぶすな)神ではない霊験あらたかで「個人」の願い事を聞いてくれそうな神の存在を知らしめることとなったはずだ。

 これらももう古い話である。江戸時代には、神は社に常在されるものになっていたし、氏神や産土神ではない全国級の有名神もいらっしゃった。そのお一人が天神様である。個人が願い事や頼み事をしやすい神であった。それでも夜に人知れず参るのは、初めの「抜け駆け」の後ろめたさが残っているのであろうか。この頃には、お百度参りという神にとってはむごい「強迫」方法まで生まれていた。

 天神様にお参りに行くいま一つの理由は、菅原道真公その人に由来する。神のパワーは絶対値で表され、マイナスに出れば祟り神となるが、それがプラスに転じれば福神となる。崇りが強大であればあるほど、和魂になったときの神威もまた絶大なのである。かつて祟り神として猛威をふるった天神様こそ、神のなかのスーパースターなのである。

 文章博士(もんじょうはかせ)という儒学者としての最高位に立ち、さらに藤原氏出身ではなくして、従二位右大臣にまで上りつめた菅原道真公。大宰府への左遷、そこでの客死、京での崇りの後ちの、正一位太政大臣の贈位。最後は天満大自在天神(天神様)と崇められ親しまれる神…。

 お参りする人々はここに「立身出世」、その前提としての「成長」を読んだのだ。いまではすっかり学業や合格祈願の神ということでおなじみだが、それは子ども(人)の「成長」を、「教育」や「勉強」でしか捉えられない現代人の矮小化である。

 「七つのお祝い」とはいまの七五三である。いまでは死は老人の問題だが、むかしは死はむしろ子どもに近いものであった。幼児こそがよく死んだのだ(稚児の神性もここに由来する)。七つまで生き延びられたお祝いであり、神への感謝と一層の加護(そのメンバー登録が「お札納め」である)を求めてのお参りが「通りゃんせ」なのである。

★天神★
 どうやら筆者も「天神様の細道」に迷い込んだようである。「通りゃんせ」は最後の話であった。再び、最初からやり直したい。

 「天神」とは、菅原道真公の神霊ではなく、文字通り「天の神」のことである。これはその淵源を遠くアニミズムに根ざすカミである。具体的には、雷(カミナリ)である。晴雨を差配する神であり、時には蛇身でもって現われる神である。

 農耕に雨は欠かせない。日照りの際には雨乞いを行なうが、この天神に祈るのだ。なぜ雷を求めるのか。雷にともなう雨を乞うことはもちろんだが、古代とはそういう近代合理的な考えだけでは出来ていない。稲妻を求めているのだ。稲光り、稲魂(いなたま)、稲交尾(いなつるび)、これらは稲妻の異名である。雷は稲作に必須の霊力なのである。雷によって、稲は始めて実を結ぶのである。

 これが古代都市ではどうなるか。その話の前に、もう一つの天神についても述べておきたい。記紀の「天つ神」である。これが何なのかについては、それだけで別稿をものさねばならないが、ここでは結論だけを記したい。「天つ神」や「国つ神」は、日本独自の創造である。しかも記紀による創造である。「天つ神」は天神ではないし、系譜的にもつながらない。

 念のために、中国の天神についても少しだけ触れておこう。天の思想は周王朝のものであり、天帝の意に従い、地上を治めるのが天子たる中国皇帝である。後ちに「道教」となる中国の宇宙観では、天とは星辰である。特に北極星は北斗と呼ばれ、重視された。中国の天神思想はわが国にも移入されたが、主として政治哲学的なものとして取り入れられた。「天皇」の称号はもちろんこれである。それから、「お天道様」の思想は「天神」に近い日本古来からのものであろうが、天神思想がこれを補強したことは間違いない。

 さて、日本の天神に戻るが、古代都市生活において天神とはいかなる神であったのであろうか。ここでは破壊する神となる。人を稲妻で射殺し、家々を焼き尽くす憤怒の神となる。それだけではない。長雨は不気味である。それは何かを運んでくるからだ。それは疫病であった。こうして都市での天神は、恐るべき凶暴な荒魂の相貌で立ち現われる(これを「立たり=祟り」と言う)。

★御霊、祇園社★
 祟る神を「御霊」(ごりょう)と言う。生前に怨みを残した貴人が御霊と化した。御霊会はその祭りだ。御霊会と言えば「祇園御霊会」(祇園祭)であるが、これを含めて「御霊」をもう少し探ろう。

 時代は崇りを求めていたのだ。人々は、為政者への天罰、怨霊の復讐を待ち望んでいた。一方の為政者も、密かにさもありなんと心のどこかでは「待ち望んでいた」のだ(だからこそ「崇り」が成立するのである)。最初は、桓武天皇の廃太子、早良親王(崇道天皇)であった。御霊会が始まる。

 だが、御霊たちの怒りは収まらない。各地方には争乱が勃発し、また見物のお前たちも同罪だとばかり、民衆にまで疫病をまき散らし始めた。ここでようやく官民ともに気づくのである。御霊をもっと本気で祭ること、すなわち官民挙げての御霊会の必要をである。そうして京では祇園御霊会が成立する。

 天満宮へはまだ遠い。天神様の細道が続く。祇園御霊会(すなわち祇園祭)の本社である八坂神社に、立ち寄って行きたい。八坂神社にはいくつもの秘密がある。まず、名称だ。「八坂神社」とは明治の神仏分離での改名である。もとは「祇園社」である。そこには仏教と道教が色濃く立ちこめていた。(注)

 祭神は「牛頭天王」(ごずてんのう)と言うが、これも明治後「スサノヲ」に改められた。スサノヲと牛頭天王は同体だということからだ。その家族までが巻き添えを食っている。合祀の女神・頗梨采女(はりさいにょ)と八王子たちも、クシナダ姫と八柱の御子神とに変わった。

 暦書があれば見て頂きたいが、たいていこの冒頭には聞き慣れぬ神々が並んでいる。これらは道教の神々なのだが(暦とは道教なのだ)、「歳徳神」を真ん中にして「大将軍」などの八方位神が並んでいるはずだ。この歳徳神こそが頗梨采女であり、八方位神が八王子である。

 さて、牛頭天王である。その前に「祇園社」であるが、お察しの通り、これはインドの祇園精舎から採られたものだ。そこの守護神が牛頭天王と言われる。それはそれでもよい。しかし日本の祇園社の祭神はそうではないと思われる。

 日本仏教とは、良きにつけ悪しきにつけ、インド仏教ではない。必ず「中国」経由のものだ。場合によっては、中国産の道教まじりの仏教でさえある。さらに、それも日本に来たとたんに、また別物にすり替わっている。実に不思議なことだ。

 牛頭天王は、中国に来て、道教の冥界の獄卒となった(もともとは「地獄」の獄卒)。その同僚が馬頭羅刹(めずらせつ)だ。冥界の首領(ドン)は、言わずと知れた閻羅王(閻魔)である。

 その牛頭・馬頭は日本に来て、それぞれ牛頭天王・馬頭観音(ばとうかんのん)に出世するのである。実は日本では牛と馬が問題なのである(日本だけではないが)。

 ここで話は「天神」に戻る。前述の通り、農耕の際、雨乞いの祭りをするのだが、そのときに犠牲を捧げるのだ。それが牛や馬だ。牛馬はもと、犠牲の動物だったのだ。だからこそ、これらは神社に因縁が深いわけだ。(ちなみに馬の犠牲も「絵馬」となって、いまも生き続けている。)つまり祇園社は、牛を祭って天神の怒りを鎮め、疫病を防止しようとしたのだ。もう一言だけ、推断すれば、怨霊と化した御霊たちを冥界にて監視しつつ慰撫するにふさわしい獄卒として、牛頭天王が選ばれたのかも知れない。

 長々と祇園社について書いて来たが、実はこの「牛」を引き出すためだ。道真公は丑年生まれと伝えられ、また牛との数々の因縁がある。それらは付会(こじつけ)である。天神様もまた、牛を欲する「御霊」であった。

★怨霊★
 右大臣道真公を太宰府へ追いやったのは、時の左大臣であり摂関家当主の藤原時平だった。道真公が死して後ち、時平の周辺と京に異変が起こり始める。

 まず、時平自身が39歳の若さで早世する。次いで、甥の皇太子が21歳での早世、これに代わって立太子した孫もわずか5歳で夭折する。また、京に住む民衆には、日照り、疫病、冷夏、洪水、大風などが次々に襲いかかった。

 道真公を史上初の「人神」たらしめることを決定づけたのは、没後27年目の清涼殿への落雷だった。時の大納言らは雷を受けて死亡、清涼殿は炎上した。そのショックで醍醐天皇も寝込み、まもなく崩御する。この前代未聞の出来事は、道真公を最強の「天神」と認めさせるに十分だった。

 すでに右大臣への復位、正二位への贈位がなされていたが、この有り様だった。そればかりではなく、世はすでに争乱の兆しさえ見せ始めていた。落雷から8年後、関東に「平将門の乱」、西海に「藤原純友の乱」が勃発する。

 ご存知の通り、将門は「新皇」と名のる。古来、天皇の位はその地位にあった者もしくはこれに準ずる者から指名されるものであった。では、だれが将門を「新皇」に指名したのか。これが八幡大菩薩(応神霊)であり、その辞令を書いたのが菅原道真公の神霊だったのである。

 道真公はなんと国家への謀反人を支持したのである。朝廷と摂関家にとっては幸いなことに、二つの乱は翌年に平定される。京では、道真公の由緒探し(いかなる神なのか)が始まっていた。

 かつて道真公のライバルであった文章博士三善清行の子に、日蔵道賢(にちぞうどうけん)という真言密教僧がいた。清行は道真公による異変が始まるとすぐに、道賢を吉野金峯山に送り込んだ。道賢は26年の猛修行の後ち、冥界を経巡る。

 蔵王菩薩の導きで、天上では「太政威徳天」となった道真公に会い、「慇懃に祀るなら、怒りを鎮めよう」との言葉を聞く(このとき、道真公から授けられた名が「日蔵」である)。また地獄では、急死した醍醐天皇と会う。この前帝からは自らの罪を認め、深く悔いる言葉を聞く。

 さらに醍醐の父であり今や満徳法主天となった宇多法皇とも会い、清涼殿に落雷させたのは「太政威徳天」の第三使者・火雷火気毒王のしわざであり、醍醐天皇を死に至らしめたのも「太政威徳天」の意志だと聞かされる。

(これは、かの「笙(しょう)の岩屋」にこもり頓死して得られた旅であった。洞穴で死んで冥界を経巡り、蘇生したというのである。これは霊夢に他ならない。)

 そしてこの道賢の冥界行の翌年、神憑かりしたある一介の京女が始めたのが北野御霊会である。この北野の地にはすでに例の雷神としての「天神」が祀られていた。古来からの「天神」の上に、菅原道真公の神霊が乗っかったのである。これが北野天満宮として発展していく。

★神号★
 ここで神号などを整理しておきたい。実はこれを支えるのが密教である。御霊慰撫は、密教による加持祈祷と神道による祭祀の二重で行なわれてきた。いやすでに習合的に行なわれてきた。

 道真公の神霊は、当初「観自在天」と言われた。この「天」という言い方は仏教、特に密教系のものだ。その「観自在天」とは、大日如来(密教の究極仏)の化身である帝釈天の弟子であると解釈された。(中世には「十一面観音」の垂迹とも言われた。)

 しかし今見てきたように、道賢は道真公の神霊は「太政威徳天」だと証言している。これは五大明王の一人「大威徳明王」に類する名だ。この「大威徳明王」は聖牛に乗る姿で描かれる。

 そして最終的に決定した号が「天満大自在天」であるが、これは「大自在天」によるものだ。それは何とヒンドゥー教の破壊と創造の神、シヴァの異名である。「大自在天」は白牛にまたがり、登場する。

(なお「大威徳明王」は真言密教系の名で、北野天満宮の創建に東寺が関わったことを示しており、また「天満大自在天」は天台密教系の名で、その後の天満宮がこれの支配下に入ったことを示している。)

 ここでも「牛」なのである。なお「天満」とは「天に満つ」という意味で、託宣によるものである。再び「天神」とは何か。単なる雷神ではない。道賢が冥界で宇多法皇から聞いた「落雷そのものは道真公の手下がしたことである」という言葉もそれを示している。

 天神は雷神を超える神格をもった神なのだ。しかも、初めて「人が神になった」神である(ただ、そう単純ではない)。そして「天満大自在天」という名の通り、密教色の濃い習合神である。

★天満宮★
 平安中期、故道真公についに最高位の正一位太政大臣が追贈される。道真公の怒りは完全に鎮静化し、以後むしろ王権の守護神とされていく。天満宮を積極的に支援したのは摂関家であった。

 それからは、絶大な和魂としての天満宮が始まる。平安後期から鎌倉時代にかけて全国に天満宮が勧請されていく。従来の「天神」が「天満天神」に代わればよいのであるから、話は早い。

 農耕の神としての「天神」は都市とは違い、従来から「恵みの神」であった。そこにはいつも共通の象徴である牛がいる。「布教」の手段が「縁起絵巻」であった。道真公の生涯をわかりやすく話し聞かせることが「布教」なのである。

 一方では、先述したように、道真公を祭神としない「天神」社もあった。道真公の霊威を借りずに、古来からの雷神だけを祀っているのである。

 天満宮は、儒学(学問)、そして詩文の神として拡がる。これが「天神講」である。そこでは管弦、歌舞、詩歌の楽しみがなされた。室町時代には連歌会が盛んに行なわれるようになる。

 前に若干だけ触れたが、中世における神仏習合では、天神様は「十一面観音」の垂迹(すいじゃく。化身)とされた。これは実は「人である道真公がなぜ神になれたか」の説明でもある。

 道真公はもともと神(観音)であったと言うのである。「絵巻」での道真公の生涯は、そういう観点で作られている。左遷や怨霊化まで、予定事項として書き込まれてさえいる。なかなか、ただの人が神にはなれないのである。

 また、鎌倉後期には、禅宗が天神様を取り込む。「渡唐天神」と言うのだが、天神様が禅を志され、唐に渡られたという話だ。こういう神仏(密教・禅宗)儒の習合神として、いまの天満宮に続いている。

 最後に大阪天満宮について一言しておこう。この宮の前身は、大化改新後の孝徳天皇が都した難波・長柄豊崎宮の西北に置かれた守護神大将軍社だと言う。実際、いまも地主神として天満宮の一角におられる。この「大将軍」で何か思い出されないだろうか。そう、祇園社の牛頭天皇の一子が道教の大将軍であった。ここにも道教がある。

 京都の御霊会でも「疫神」を祓い流すことが行なわれていたのだが、それが流されたのがここ大阪湾であった。天満の地は、道真公に縁のある地なのであるが、それ以上にかつそれ以前からこの「祓い流し」の適地として、大阪天満宮があったように思う。それが「天神祭」の船行事にもつながっているように思うのだ。


(注)八坂神社の祭神についての記述は、本社宮司の真弓常忠氏自身のお話を踏まえている。(三宅善信氏のご提供による。記して謝す。)

[主な典拠文献]
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