【演繹法と帰納法】

世の中には数えきれない「宗教・教え」があって、いずれも人々を幸せになるための手段・方法を説いている。
中には、お金を貢げば幸せになるとか、罪を働いても懺悔すれば許されるとか、訳の解らない陳腐な教えなど、ピンからきり
まで多種多様の宗教や哲学がある。

そしてまた、生き方の項でも記したが、宗教に基づいて生きていく生き方と、無宗教・無神論者の生き方とは違いがある。

特に日本人は無神論者が多いのは、第二次大戦で、敗戦後の生き方に由来するのがその理由と思う。
何故なら、時の馬鹿権力者は「天皇陛下・万歳」を元に、国民に「国家神道」を強要し、治安維持法のもとに宗教統制を行い
信仰の自由を強奪した。そして神道以外の宗教を迫害し、迎合する者以外の者を牢獄に閉じ込めたので、みな神札を貼り、
神社参り一本化させられ、否応なしに信仰した。
神の国の日本国民は、戦争に負けることはなく、神風特攻隊のように生命を天皇に捧げ、国のために生きることを教育され
て生きてきた。

そして終戦。
明くる日からGHQにより「自由」があてがわれたが、洗脳され騙されていた国民は「もう何も信じられない」と気がつき
一切信仰なんてこり懲りだと考えたに違いない。
そして、御かみに裏切られ、肉親を失くして信じていた権力者に裏切られた思いとその宗教観は、当時の国民だけでなく、
半世紀経過しても殆どの国民の底流に「無神論」が住みついている。

一方で、欧米の国民は、同じ戦争を体験して来ても信教の自由は保たれ、独裁の共産主義国家でさえも「無神論者」を出さ
ず、さらに何等かの信仰を持ち続け、信仰を持たぬ者を軽蔑してきた。

こうした歴史を辿った国民性には、当然生き方も違ってくる。
無神論者は冒頭に記したように、「帰納法的生き方」なので、経験に依る結果の積み重ねを基に、その次の
生き方の判断(信念と努力)をして行く生き方であり、常に過去の経験を踏まえての次への生き方である。
それ故、根無し草的な生き方にならざるをえないので、終着駅が「確たる幸福境涯」となるかは保証もなく、
不安でしかない。
つまり、算数の答えを順に解いていく(経験していく)のと同じで、最後まで答えが見えてこない。

演繹法とは、帰納法とは、「科学と宗教」の項でも記したが、ものごとの進め方、探求の仕方は全く異なる。
しかし、演繹的な生き方は、単的にいうと「答えがあって、そのために何をしなければならないのか」とい
う「逆説的な生き方である。つまり、何等かの信仰を持つものは、その宗教の「達観」を基に目標(幸福境涯)
を持ち、その為にいま何をすべきかを明確にして、信念と努力を重ねていく生き方である。
即ち法則(教義)に基づいて行動・実践していく生き方なので途上の不安はなく、寧ろ確信を持って生きて
行くので当然失敗もない。またこれは宗教に頼る生き方とは全く違う。
もちろん「無神論者」でも、例えば日常において「医者になろう」との目標に向かって、時間的逆算し「だから
今から、この勉強して行かなければならい」という生き方をしていることが多々ある。
しかし、何が違うのか。

そう、「生き方」である以上、生きている間には色んな出来事がある。
仕事がしたければハローワークに行けばいい。病気になれば医者に掛かればいい。これらは「死ぬこと以外
はかすり傷」であって、頼りない自身の信念と努力でも乗り越えられる。しかし「自分の運命・宿命・宿業」
など今迄習ったこともないテーマが、立ちふさがる場合が時として起きてくる。さて、「無神論者」はなん
とする。

別に冒頭で記したような馬鹿げた宗教・哲学を云々する訳はなく、生命哲学と言うべき高等宗教には「演繹
的生き方」が、明確に且つもれなく教示されている。生きること、老いること、病むこと、死なねばならない
ことに対する達観。
娑婆での因と縁、主体と環境、物体と精神。生命の性分・変化する体・その瞬間と連続する智慧。また相・性・
体と報・法・応の見地から生命の法則を体系的に説く。例外なく「こうすれば、こうなる」との法則。割り増
しも割引もない原因と結果の法則。物理的科学は、誰がH元素を2個とO元素1個を合わせても「水」を得
るが如く、また赤ん坊は、精子と卵子の結合で発生するが、ただ親を選べないという法則・生命の科学と
いう所以が厳然として存在する。
この「生命」は、有情無情に関わらず、微生物から宇宙までをも包含し、今も現代科学・化学」が、この「達観」
を証明し続けている。