【師匠と弟子】

私にとって、中学校には人生の原点がある。母校への誇りは自身の人生への誇りでもある。
本当の優等生とは、一生涯母校を愛し、同窓の友を大切にする人だ、と。
しかし最近は、母校を訪問したことがない。

人それぞれに、何かの師を持っている。お茶、お花の先生。また学問や芸術の師匠など。
何かを学び究めようとすれば、必ず師匠・指導者が必要で、まして人生の真実の価値や人間の
生き方を学ぼうとするなら師匠は不可欠である。師匠がいないということは、生き方の具体的な
「規範」がないということ。根無し草のような生き方である、と。

仏法の師弟関係というのは、弟子を教化しようとする仏陀の慈悲と、法を会得しようとする弟子
の求道心の心からはじまる。つまり弟子の自発的な意思があって成り立つ魂の結合といえる。
まぁ、自分の信念と努力は当然必要として、その信ずる「信念」が問題である。

人は、それぞれ尊敬する人をもっている。
それが父母であったり学校の先生であったり、習いものの師匠であったり…。
単に、仕事や趣味の先生であっても、その分野に限らず、また、厳しい先輩、先生、師匠であれ
ばあるほど、自分にとって一層向上し、成長できることがよくあること。
しかしそうした信頼する、尊敬する「師」を持つことは、なかなか難しい。また、師に出会うこ
とも難しいが、例え見つかったとしても、時として、厳しく叱責されたりすると、師の心が見
抜けず、つい反発し離れてしまう。

また、一生涯の師匠ともいえる「人生の師匠」にめぐり遇うことは更に難しい。
そうした師匠を持った人と、自分しか、即ち自分を師とするしかない人との差は、長い年月を重
ねると、その違いは歴然としてくる。勿論、その尊敬する「師・先生」の高低が大事であるし、
深く影響を受けるだけに、自分の人生も大きく変わっていくのも当然といえよう。
先生と生徒の関係から、師匠と弟子との関係に昇華するのは自分である。

ここで、今迄の人生で三人の師匠を持つことが出来た。別の項でも記したが、中学時代の恩師で
ある足立先生。そして会社生活時代の浅田先生。そして人生の先生である池田先生。これら先生
を宣揚しようとする時、勿論自分ではなく先生のことであるにも拘わらず、色んな人は色んな反
応を示す。特に池田先生を話すと、時として拒絶反応を示される時がある。

松下幸之助氏を尊敬する人は多い。その松下幸之助氏が、氏の人生で尊敬したのが池田先生であ
り、常々交友を重ねられ一般の新聞でも紹介された。氏尊敬する人が、氏尊敬する池田先生
は嫌らう矛盾。その矛盾を自ら省みようとしない人の多いこと。何度も経験したことである。

「そんな素晴らしい先生が居られるなんて、私にも教えて〜」という人に、いまだめぐり会った
ことがない。そういう人は、大抵「尊敬する師匠」を持たない人であり、持てないのであると思
う。日本人の特質である。

常に学ぼうとしている人は謙虚である。歴史上の偉人といわれる人には、必ずといっていいほど
「師匠」を持っておられる。そして師の恩に報いるため、師を越える人となろうと懸命に努力し
て、師を宣揚されている。
ならば自分はどうかと問われると、恥ずかしい限りであるが、少なくても幸せである。色んな局
面で「師匠ならどうされるだろう?」「先生ならどう言われるだろうか?」と、対話しながら生
きていけるだけでも失敗は少ないし、常に対話し、感動の人生を歩める私は幸せである。

ある時、女の子のリーダーが師匠に質問しました。「師弟不二」とは、どうあるべきでしょうか
?」師は即答された。「それは二十四時間、私と一緒ということだ。いつも私と心が一緒という
意味だ。朝起きた時、きょうも一日先生と一緒に頑張ろう!そう思う心だ。私が会見をしている。
その横にあなたも座って、私と一緒に外交戦をしているんだ。いつも一緒。その願い・希望・祈り
が、いつか必ず現実の上でも、そうなっていくんだよ。」と。
(2007.5.9)

多分に自分の周りの友人は、「師匠」といっても、まぁ「あの先生にはお世話になったから…」
といった程度であろう。だから、尊敬する先生(師匠)から、こんなふうに言われたりするこ
ともないだろうし、また、言われても心に刻むこともないだろう。

また師匠と井上靖氏との対談の中で、氏は「私の信ずるところでは、人間の触れ合いの究極の機軸
は、師弟という関係にも求められると思います。教え、教わる、という師弟の関係は、人生という
人間の営みのすべての場面にあり、友好も、この師弟関係を意識する時、最も理想的なものにな
り、つまり、お互いに師であると共に弟子であるといった、深い人間関係への洞察をもって人間
の触れ合いがなされる時、友好は最も実り豊かなものになるように思うのです。ものを教わる、
人への尊敬は増し、ものを教える時、人への愛着は増す。お互いに学びあい、友情を結び合って
いく中に、如何なる違いがあれ、人間関係の誠実と信頼関係が深められると思うのです。」と。
また氏は「そうなんだ!人生の師匠というのは、お稽古ごとの師匠とは違う。学校で習っている
から師匠ではない。そんな平板なものでもない。自分が『この人だ』と決めれば、その人が、自
分の人生の師匠なんだよ」と昭和の文豪が、その生涯と筆で確かめた信念である。
氏と師は、全く意見が一致し響きあう。

真の師弟関係も誠実なる友情も、お互いがお互いを信頼しあい、深め高め合える機軸は同じだと
いえるが、どちらかがこの機軸を見失い「教えられる」ことを嫌い、傲慢で且つ相手を見下す「
いのち」に至っては、師弟関係も真の友情も成立しないことは言うまでもない。