【成住壊空】

仏法の「永遠の生命観」。
成とは縁によって生じた状態。住とは誕生し成長過程で青年期とでも言えようか。壊とは壮年
期・老年期とでも云えよう。空とは「存在」しない、有るでもなく無でもない状態。
宇宙の星々も道端の草木も、有情非情を問わず全てを生命と捉えこれを繰り返す。諸行無常で

ある。生きとし生けるもの全て、一瞬として留まらず変化する。
この「諸行無常」とて間違った解釈をしている者が居るが…。

我々の認識で、一番解り難いのが「空」の捉えかたである。
形あるもの、物質面としての「空」の状態で、人間を例にとると、死後の肉体は火葬され、煙
となり空へと消えて行き、灰となって地中に埋められ溶け込んでしまう。「成・住・壊」まで
は人間は視認できる。しかし「空」の理論は、形而上学的にしか捉えられない。究極的に突き
詰めて言っても「我れ思う、ゆえに我あり」としか言えないことになる。

一方、精神面・心も死後、この宇宙に溶け込んで行く。では次の「成」に形あるものとして、
どのように生じてくるのか。
それは、ある「縁」、即ち、ある条件が整った時に誕生する。あたかも、宇宙に散らばる塵・
ガスが、ある条件・縁によって集まり、固まり、光り出し、星々が誕生するかのようである。
しかも、ある生命(星なども含め)は、既に「ある方向性」を持っている。

では、空の状態から、誕生するまでの間、どのような状態と捉えるのか。
まさに「有るといえば無く、無いかといえば有る」筈である。あたかも精神面で言えば、泣い
ている時に、笑う命が無いかといえば、縁によって出てくるようなものである。ただ、冥伏し
ているだけである。全く無いのではない。
また、では、その「縁」は、どんな場合に起こるのか。
宇宙そのものが生命体であることは別項でも記したが、この縁起の原因もある筈である。自分
の今の智慧では説明できないが、「生命の働き」である以上、常に「空」から「成」への志向
性の意思をもっていると考える。
即ち、「空」は何もないのではない。アインシュタインの場の理論からしても、真空の中での
光波の伝達も、引力も、宇宙の真空の中を通じて伝わっている。真空は何もないのではなく、
98%もの質量とエネルギーに満ちていることは、科学者には常識である。
まさに「有るといえば無く、無いかといえば、あるはず」なのである。将来、科学は我々凡夫
にも理解できるようにしてくれる時が、必ず来ると確信していいる。

このような捉え方、哲学・宗教の中では、ただ仏法のみが生命の連続性・永遠性を説いている
のである。その時間軸の長遠さ、そしてその広大さを、現代の科学がまだ僅かながらではある
が、証明をして行っている訳である。

なお、例えば死後、西方十万億土に行くと説くが、その後「どのような結果として生まれて来
るのか」は、今の仏教の各宗派でも、正確に説明できるとことろは殆ど居ない。
行った切りか? それでは仏教の「生命の連続性」とは矛盾する。釈迦の説いた教経とは矛盾
するではないか。もし来世があるとすれば、それはどんな姿として現れるのか。
それも当然で、仮の教え「権教」を採用しているからに他ならない。だから同じ仏法でも「高
低浅深」があるという所以である。これが凡人には解らない。みな同じだと云う。
まして、仏法以外の宗教では生命の永遠性を説いていない。キリスト教では「死ぬと天国へ召
される」と。で、その後は? だから自爆テロに対して、この命の尊厳を説いて納得させるこ
とも出来ないでいる。

生命の永遠性からしか、生命の尊厳は生まれないし、殺しあう青年へ、母のメッセージは届か
ない。