【知識と智慧】

知っていること(知識)と、知っていることを応用する力(智慧)の関係と云えようか。
知らないことは、使うことは出来ないから、結局知っていることが多いほど応用範囲も広がる
ことになる。
実生活の中で、知っていることが多いほど損をしないし、楽をして目的を達することも事実で
ある。だから勉強が必要となる所以である。

そしてその知識を「何のため」に学ぶのか、使うのかが重要である。高度な知識になるほど、
問われる所以である。そして深められた智慧は、自らはもとより、多くの人々を幸せにするこ
とが出来る。そうでなければ、「才能のある畜生」となってしまう。
また知識人、エリートと言われる人々は、民衆に君臨するためにいるのではなく、民衆に仕え
守るためである筈である。
また、その智慧は、知っているから出てくるものではない。使って応用しての経験・体験を通
して、さらに知識を深め、また智慧を高める。

仏法は、法(知っていること)に基づき応用(実践)することから始まる。
だから「この方程式はスゴイ」と知っていても、その知識を信じて、使わなければ何の価値も
生まれない。聞いて知っているけれど、知らないことと同じである。

一方、智慧にも色々あるが、どこから生まれるのか、またその力は、どのようにして高めるこ
とが出来るのか。これと同じように「やる気」はどこから出てくるのか。
職場でよく「もっとやる気を出せよ」と言われているのを見聞きしたが、さて言っている本人
も、言うだけで「どうすれば出てくるのか」を知らないで言っている。

ここに「生命力」という命題が課題となる。
仏法では「善知識」が非常に大事であると説く。科学は善悪中立である。その知識を善知識にし
ていく「人間の智慧を深め、高めるべき」と説いている。
地獄・餓鬼・畜生・修羅界の四悪趣の生命から発する「悪智慧」と、大きくは核の知識を善知識
とし、平和利用へと応用する力すべてが、人間の善悪なる心・生命の問題である。
更に、悪知識をも善知識にしていけるのが、この仏の命から湧き出る智慧である。

そしてこの「仏の生命」はどのように顕現できるのか。それは、当然のこと「仏の生命に縁」
することであり、「訓練(修行)」することである。瞬間、瞬間に変化する生命(解り易く言
えば、気持ち)は、縁(環境)に依って顕現するし、逆に自分の命から、環境に影響を与える
関係でもある。
いずれにせよ「よき法(教科書)・よき師(先生)・よき檀那(友人)」に縁していくために、生涯
にわたる「よき学校」が必要となる訳である。
これをとり違えて、学校を卒業したから、もう学ばなくても大丈夫と思うのは自惚れであり、
錯覚であろう。別項でも記すが、演繹法的な生き方と、帰納法的な生き方の違いである。