【功徳と罰】

悪を滅するを「功」と云い、善を生ずる「徳」という、と。

罰とは、善を憎み悪を行う結果をいうように、いずれも自らが行動し、生きた原因によっての
結果である。
それをあたかも、他者・環境から受けるかの如く捉えるから、罰が当たると言って神頼みをした
りする。また、罰とは「損」の現象であり、功徳は「得・利益」と言えると思う。

また、本当の功徳とは、どんな悪い環境や状態であっても、その困難に立ち向かい乗り越える
力を持つ自分に成ることであり、生命力を、強め高めることにある。
どんな困難にも動じることがなく、ひたすら人々の幸せまでをも願って生きる行動こそ「菩薩」
であり、その「いのち」こそ「仏」という。
死んで仏というのは、全くの大間違いである。別項でも書いたが、ほんとにそうなら、何人も
人を殺したした者でも、死んだら仏か!地獄へ行くなら、仏と言えないではないか。

罰は、当たるものではなく、自分にあるものが出てくるものである。

だから、他力本願で何に祈っても無駄というもの。それが判らないし、諦めの命の執着にも気
づかず、言っても聞かない。それが証拠に、とことん努力もせず、すぐに仕方ないと諦めるで
はないか、本当に「もう仕方ないのか。まだ仕方があるのではないか。