【信仰】

自分の信念と努力を価値あるものにするため、依って立つ生き方の土台を築くために、信仰が
必要であると思う。
ある日、入社以来の同僚から「私は宗教に頼るような弱い人間ではない。」と言われた。
さて、宗教は頼るものか。おすがり信仰や棚からぼた餅のような信仰だけが宗教か。

若き頃より、「自分は、自分の信念と努力」でと、生きて来た。
しかし真面目に誠実に努力し生きて来たにも拘らず、多くの失敗や非難を経験して来た。一体
何が間違って来たのか?原因が判らず運命と諦めてきた。で、色んな信仰をしてきたが、全く
納得できるものはなかった。そして一番嫌っていた学会・日蓮仏法に巡り会った。

そして、自分の信念ほど移ろいやすく、また頼りないものであり、浅薄なものであったことを
知った。それだけではない、今迄の失敗や苦労の経験が、全て貴重なものとなって、それらが
一本の太い幹となって生き返った。それまでの、神棚や念仏を祭っている間など、信仰してい
る時は、世間や友人から、何の非難もなかったが、途端に村八分が始まった。
ある友は、あまり不幸がなかったので信仰は必要なかったが、私が苦労が多かったから信仰が
必要だったと分析していた。

だれ彼なしに言う訳もないのに、大切な友に悪いことをすすめる訳もないのに、友人とも仲良
く出来ていたのに、自分が学会に入った途端、奇異な目で見られ、「これはスゴイ!」と友人
に語り勧めたら、多くの友は離れていってしまった。
まして生涯の大事な親友が、不幸になるような信仰を勧める訳もないのに、友の家族からも付
き合うな、家の敷居をまたぐなとまで言われてしまった。本当に悲しく、いったい何故なのか
と思い悩んだことが忘れられない。そして、何年か経過するうちに、いい加減な友人は去り、
信頼してくれる友人は、何らかの機会を通じて再びお付き合いが始まった。

本当の親友とは?考えざるを得ない。そして海外の友人のように、「あなたと私は、意見が異
なるが、私はそれを尊重する。」といった姿勢は、何故日本人は、正しいと思うことを追求し
ようとしないのか。
よく人は「無神論者」を名乗り得意然としている。そして信仰を持つ者を「弱い人間」と軽蔑視
すらして見る。しかし、「そう云うあなたは、どれほど強い人間か?」と問いたい。
まして欧米で「無神論者」と名乗ってみるがいい。バカにされ、信用されず相手にもされない
だろう。
「あぁこの人は、生きる規範を持たない根無し草のような人だ。信用できない。」と。

信仰することが、また宗教を信じることが、それほど恥ずかしいことか?

別の項でも記したが、日本人は歴史的に宗教にコリゴリ感が、いのちにこびり付いているから
に他ならない。
先ずは、あの第二次戦争。神国日本と教え込まれ、他の信仰を一切禁止され、戦争に反対した
人達を治安維持法で獄死させてまで、天照大神を祭らせ天皇を神格化し、そして一国玉砕まで
導き、戦争に駆り立てて敗戦。裏切られた民衆。なんのための戦争だったのか。もう懲りごり
だと思うのも当然だ。そして今だに、多くの民衆に塗炭の苦しみに導いた責任を、誰も取ろう
としない。

次に考えられるのは、宗教の歴史であろう。末法に入り、武家社会は民衆に「諦めの宗教」を
喧伝し、反抗しない民衆へと仕立て上げた。これに加担したのは、こともあろうに、権力者出
身の極楽寺・良寛・法然・親鸞たちである。自分たちは、権力者や武士には律宗や禅宗を勧め
、取り入って多造塔寺を建立し、民衆からも尊敬を集めていった。
そして権力者も彼らを利用し、長い長い時間と時代をかけて、民衆には「諦めの宗教」を信じさ
せ、権力者に歯向かわないように、うまく仕立てあげたものである。

それに対抗したのは、決して諦めない法華経をひっさげた、漁民出身の日蓮であった。
当然の如く、大聖人は、生涯迫害され続けられ、二度の流罪、首の座まで受け、迫害された。
勿論、弟子たちも死罪、牢獄など、迫害を受けた。大聖人の時代ですら、大難があった。今も
迫害・中傷などが有って当然であろう。
いつの時代にも、国民は・民衆は馬鹿であってはならない。また何も考えず、親方日の丸に、
うまく仕立て上げられた人間も人間だ! 情けない!

はじめは「学会は貧乏人と病人の集まりだ」と馬鹿にされてきた。
しかし三十年、四十年と真面目に信仰に励んできた人達は、みな生命の変革を遂げて、絶対的
幸福境涯に至っている。非難され、馬鹿にされても、「鎌倉より京まで、歩み続けた」結果で
ある。正しい宗教を勧めてくれた先輩を信じて、本当によかった。自分も信頼する友に勧めて
きたが、多くの友に信用されず。

こう言うと、自分たちの身近に居る会員と比べ、自分の方が立派だという。
新池御書に、「悲しきかな、この度この経を信ぜざる人々」云々と。
「隊長ブーリバ」(ニコライ・ゴーゴリ著)の一節に、「信仰より強い力はないのである。
それは荒れ狂う変化きわまりない大海の巨岩のように、打ち勝ちがたく、すさまじいものであ
る。」と。

何ものも絶対に打ち壊すことができない、すさまじいもの…。これが信仰である。
信仰に頼るというような"おすがり信仰”ではない。そんな宗教観しか持ち合わせない者に、
信仰者を云々できるような資格も能もない。

一方で、信心は「疑ってはならない」というが、疑問を持つこととは、どう違うのか。

日蓮仏法も「無疑曰信」というが「疑わない」とは違う。それを否定しては、「探求心」が失われて
しまう。大事なのは、疑問の解決を通して、理解と確信を深めていくことであろう。
先師は、「信は理を求め、求めたる理は信を深からしいむ」と。
信心は「思いこまし」ではない。求めたる疑問に真っ向からの回答を得て、初めて納得の「確信」
へと深まっていく。