【祈り】

世間で云う、神や仏への祈りは、何の価値もない単なるマスターベーションであると思う。
何故なら、勿論何に祈るかも大事であるが、その祈りには他力本願的な「祈り」が殆んどではな
いだろうか。
祈り願い、希望を叶えようと頑張るのは大切だと思う。世の人々は、毎年の新年に初詣をする
が、その心から真剣に祈る姿には微笑ましくもある。しかし一方で、何かに頼る心がないだろ
うか。その証左に、祈ったことすら忘れ去り、また覚えていても、実現しないことに執念もな
く、果ては自分の外周りに責任転嫁している。そして運が悪かったとか言って諦めている。
我々の「祈り」は、あくまで自力本願であり、棚からボタ餅的なものではない。自らの一念との
戦いである。

われ等の師は言う。
「祈り。それは諦めない勇気である。自分には無理だと思う弱さを叩き出す戦いである。現状
は必ず変えられる。変えて見せる、との確信を、命の底に刻み込む作業が祈りである。また祈
りは、自分の弱いいのちから、恐怖を破壊し、悲哀を追放する命の革命である。希望への点火
・運命のシナリオを書き換える革命なのだ。
自らを卑下するな。卑下し諦めることは信仰への違背であり、自身の胸中の仏の生命への冒涜
である! 悩みに勝つか負けるかの戦いである。」と。

信仰している、いないに関わらず、誰しも「こうしたい」と心から念じて努力し、その思いが
実現した経験を持っているだろう。人間の心は宇宙大である。自らの生命の偉大さを信じるべ
きである。そして、「祈り」そのものを昇華せよと言いたい。
「ああして下さい、こうして下さい」との他の力に頼る祈りは、所詮、祈ったことすら忘れる
程度で叶うわけもなく、まして自らの生命の力を放棄した姿である。

祈りは、自らの「努力への誓い」である。馬鹿な蛇や狐や、訳のわからん神や仏像に祈るより
誰れ人にも備わる自らの内在する「仏の生命」に祈り誓え! 自分の人生は「自分が創り、運
命・宿命をも変えることが出来るのだ」と信じて祈る祈りが、不可能を可能にする。(と言え
るようになれた)

ある日友だった一人が病気になり意識がない状態が続いた。自分も毎日懸命に回復を祈り、奥
さんも信じて(?)日々祈り奇跡的に回復したことを知ってか知らずか、知っていても「そんな
訳ないやろぅ」と信じないでいる。そんな人格を信頼できる訳がない。信じる対象も信仰もな
く、無神論でいることを偉そうに。傍からみてると、その馬鹿さ加減に辟易する。
「与同罪恐るべし」である。仏力法力を見守りたい。