【学校】  (思いつくままに)

子供の頃から義務教育として先生、教科書が与えられ、友人も極く自然に持つことが出来て、その中から
色々なことを学ぶことが出来た。

そして多くの知識を得て成長し、二十歳にして成人となり一人前として扱われることになって、当然社会人
として、義務と責任を果たさねばならなくなった。特に、成人式で緒先輩から「もう立派な社会人となられ
」と、おだてられて、さも、もう「学校」が要らなくなって、自分の信念と努力で、夢と希望に燃えて、不幸な
出来事など頭の片隅にもなく出発したものだ。

でも、例え知識としても人生に付きまとう「運命」や「宿命」などは教えてもらったことはない。
いつ幾つになっても、よき教師、よき教科書、よき友を持てる「人生の大学校」が必要な所以である。

一方、「学校で学んだことは、社会で役に立たない。」と言う若者が多い。
しかし、それは早計である。学校での基礎知識も持てぬバカ者は、所詮、社会に出ても学ぶことも出来な
い役立たずである。

故・松下幸之助氏のように、学校もロクに行けずチャンピオンになった人と、何が違うか考えれば判る。
まず学ぶ意欲が違う。また、学んだ知識の応用力が違う。また智慧は、苦労せずして働くものではない。
ロクに勉強もせず知識が乏しい人間は、応用力が幾ら凄くても良い智慧が出てくる筈もない。
だから、知識が豊富なほど智慧も働くのだから勉強が必要となる。バカはこれがわからない。
で、教師が悪い、上司が悪いと周りの所為にして、自らの努力不足に思いを致すことがない。

例えば、0.5mm厚の新聞紙も、何回も半分毎に折り続けると、どれ位の高さになるか。
二十六回目で富士山の高さを超え、四十二回目には地球と月の距離を超えてしまうという。
あなたは知っていたか? 例え少しずつでも勉強を重ねれば、凄く高く深い人格を形成し人生を飾ること
になる。

これだけ世の中不況でも、「人材」は引く手あまたである。ともかくも、ちっぽけな自分を見つめなおし、一
生涯、学べる環境を持つべきである。それも、善き教科書と、善き師と友を求め、善き知識と智慧を育め
る学校に、生涯身を置くことである


今日は「父の日」。女房も子供達も、何も云っては来ないが、「学」の字には、子供が含まれ、「校」の字に
は、父の字が含まれている。父として、子供達に対しても「学校」の存在であるべきろうし、また「学校」も、
生涯、学びあえるところでなければならない。