【神と仏】

色んな宗教で、神に近づけても神にはなれない。また日本の殆どの人々は、死んだら仏に成っ
たと云う。
天地創造の神から、台所や神棚にベタベタ貼り付けた色んな御札など、厄よけやご利益を願っ
ての神々まで、まぁ様々な神や仏を祭ったり祈ったりしている。

日蓮仏法は、仏とは、全ての人々の我が胸中にあると説く。ただ、その仏の生命が冥伏してい
るだけである、と。即ち縁によって誰人も仏のいのちが顕現する。
即ち「自分自身が、仏に成り得る。」と説いている。

また神とは作用のこと。自分にとって悪い作用を引き出すのも、良い作用を引き出すのも、自
分の生き方・行動によって違ってくる。

例えば四天王、「持国天」は、家庭や地域を安穏に保とうとする働き。「増長天」は、喜びや
福徳の勢いを増し、成長の力で満たす慈悲の働き。「広目天」は、清らかで公正で、正義を護
り悪を許さない働き。「毘沙門天」は、知識・智慧の働きを活発にする働き、などである。


こうした神や仏に頼って自らを高めることもせず、棚からぼた餅的に、その働きに頼るなんて
料簡違いも甚だしい。また幾つの神や仏を祭り、祈ればこと足りると思っていのか?

よく云われるが、産まれたらお宮参りで神に詣で、お正月はキツネの稲荷に詣でて、結婚式は
キリスト教で、死んだら坊主を呼んで仏式で、と。目茶苦茶である。
で、問い質すと、「何も信じてはいない。ただ形式で…」と臆面もなく答えが返ってくる。
しかし「無信論者」を標榜する者が、寺院や神社に参詣した時、心から祈り、
念じているではな
いか。自己矛盾に平然としている多くの日本人! 一体その時の祈り、信仰心は何なのか!

しかし、自分の生命に「仏」の生命があると云っても、何故信じられないのだろうか? どこま
でひねくれているのだろうか。
「本当にあの人を助けたい」と行動した時の心のことを、全く経
験のない者はいないはず。わが身を省みず行動したのは「菩薩」の行動であり、瞬間的にも「仏
の生命」が湧現している。ただ、その生命状態が「長続き」しなかっただけ。そのための仏道修
行である。なにも山に篭ったり滝に打たれたりして、仏の心が常に出てくる訳ではない。
「煩悩即菩提」の項でも記したが、あまりにも間違った「仏」を教えるものが多いことを嘆くの
である。
(まぁ偉そうに言うが、最初に記した如く「今でこそ言える」ことでもある。)

他の項でも記したが、みんな死んだら仏なら、いっぱい人を殺した者も死んだら仏か! 多く
の人を殺めた者も同じなら、何故オギャーと産まれた時、すでに差別があるのか? 美人に生
まれたり、貧乏な家に生まれたり…。 何故なのか。
そこには原因があるはず。それを「わからないから」とか、「運命」だとか言って、自らただ
諦めて、放ったらかしているだけである。