【一念三千】

法華経に至って説かれた生命論。そして天台大師が、「摩可止観」によって体系化された。
一瞬一瞬の生命に顕れる生命の分析。十界の夫々に十界が具わり、その夫々に十如是として顕
れ、その生命が住するところの三世間(差別)のこと。 即ち、十界x十界x十如是x三世間。

十界とは、地獄・餓鬼・畜生・修羅・人・天・声門・縁覚・菩薩・仏の十界である。
通常、人は六道(地獄界〜人界)を繰り返し、六根清浄というが、所詮この六根を清浄にした
からといって、仏の生命は顕現できない。
地獄の生命は、間断なき苦悩である。餓鬼界はむさぼりの生命状態。畜生界は、おろか。理性
・道徳をわきまえず本能的に動かされる生命。この三つを三悪道という。修羅界は、へつらい
曲がった精神で、勝他の念に執着し、他より劣ることに耐えらず他を軽んじる生命。古代イン
ドでは、常に戦闘を好み、帝釈と争う鬼神である。人界は、たいらかな生命状態。天界は喜び
の生命状態である。この六つを六道(六根)という。
日常繰り返す人間の生命状態である。声聞は学識者、縁覚は芸術家と言えよう。これを二乗と
いい、爾前経では不作仏と説く。勿論その爾前経では、女性や悪人の成仏も説かれていない。
で、この十界にまた十界が具わる。因って人界にも仏界が備わる訳である。

十如是とは、その百界の生命に備わる相、性、体、力、作、因、縁、果、報、本末究竟等である。
読んで字の如くで、夫々の生命の顕われかたである。例えば、ある人(人界)が、喜びの生命状
態(天界)の一瞬には、それ相応の相をしており、性分も総体も力用も作用も、そしてそこには
原因・結果があり、それが周りへの縁として、果も報も、すべて究竟して統一して等しい。
決して笑っている生命に、泣いている十如是とは顕われない。

三世間とは、夫々の生命の住するところ。
五陰(色・受・想・行・識)世間、衆生世間、国土世間を云うが、詳しくはまた別に記したい。

要は、一瞬一瞬の生命の現れかた・一念に、三千の羅列(区別)があると説く。
しかも、この理論・哲学は宇宙生命にも当てはまり、人間生命だけのものではない。

但し、これには「理と事」をわきまえて考えねばいけない。空理空論をもて遊ぶのではなく、事
実の上で、生命の浄化・向上をして、仏の生命を開かねば、また仏の境涯に成らなければ何の価値もない。そう、成仏とは、自らが仏に成る、仏とひらくことである。

意識層の奥に無意識層があり、その奥の奥底に「九識心王真如の都」と名づける仏界があるとさ
れる。この仏の生命を開発するために、仏の生命に「縁」しつつ、この現実世界で、菩薩の実践
(行為・生き方)をしていく訳である。その中に、仏の生命が湧現するのである。

まぁ「仏」いついては別の項で記したいが、この一念三千の理屈から単的に言うと、普通日常的
に六道の範疇で生きている中で、宮澤賢治のいう「道で倒れている人あれば、飛んで行って助
けようと」した時、その生命は瞬間にしろ「明確に菩薩の行動による仏の生命を湧現」している
ことに他ならない。この瞬時の生命状態を、少しでも永らえるようにすることが仏道修行とい
うことである。