【煩悩即菩提】

煩悩とは、いわゆる人生・現実生活における悩み、苦しみ、不幸である。
菩提とは、逆の喜び、楽しみ、幸福である。

釈迦仏法での爾前経では、煩悩を断じ尽くして、初めて「菩提の境地」を得ることが出来ると説

く。そのために、釈迦自身も歴行修行、即ち苦しく辛い修行をし、煩悩(欲望)を断じようとし
た。そして何度も生まれかわって仏の悟りを得ようとしたと説く。
現代においても、禅などをしたり滝に打たれたりして、よく「無になって…」と聞くが、百歩
譲って無になれたとしても、そもそも現代のドロドロとした実生活の中で、欲望を断じ切れる
ものではないことは自明であり、現実にも戻れば、娑婆世界との大きなギャップと矛盾を抱え
たままとなる。

これに対して、釈迦の法華経、日蓮仏法は、実生活の中で煩悩(欲望)は、断じ切るものではな
く、欲望(希望)の実現に励む中に、既に菩提が含まれると説く。
ただ煩悩には、物・金・地位などの欲望から、あの人のためになどの高尚な煩悩も含まれる。
利己・自己本位の欲望もあれば、利他のための欲望・希望もある。
煩悩には、そうした利己的な欲望から、病気を治したい、家族の不幸をなくしたい等、色々な
悩みがあるだろう。また、そうした悩みを無くそうとしても、そんな悩みのない人生なんて、
一生かかっても来る訳がない。それはマヤカシである。
ただ、悩んでいるのと、迷っているのとは全く異なる。
(別項で思考する)

日蓮仏法は、より高い煩悩の火を燃やし、その実現に向かって祈り唱題し、実践することで、
より高い菩提を得ると説く。
つまり煩悩の中に、因果倶時(原因と結果が同時に具わる)の法理から、すでに菩提が含まれ
ているという訳である。自分として、煩悩に対して戦いを挑む時、その瞬間に結果が包含され
ている訳である。

欲望、煩悩を断じるのではなく、より高い煩悩(最善)へと昇華し、その実現に向かって、日々
努力して生きる(修行・菩薩道)べきだと説いている。どこまでも思い込ましや、道理に合わな
いような、且つ理論だけで実際に即さないようなことでは、この現実世界にマッチするもので
はなく、そもそも世界の民衆に受け入れられないであろう。

ある幹部が話してくれた。世界でガンとアルツハイマーの一番多い国は日本である。何故か。
100年前の平均寿命は45歳、50年前は62歳、現在の女性は86.4歳で男は79.94歳といわれる。
昔は病気になれば、不治の病といわれ、それが寿命となった。現在では病気とうまく付き合っ
ていく時代である。病気だから、もうダメだと思ってはダメで、治らないのが敗北ではない。
人間はいずれ何かの病気で死ぬ。交通事故に逢って一瞬にして死ぬにしても、内臓破裂などの
病である。
要は、命に及ぶような病気をした人は、人には言えない煩悩を経験した訳で、今日の「生」に対
しての深い感謝・菩提がある。健康な人は、日々の感謝があるか。まんねりで、病気をせずに
今日を生きることに感謝があるか。かと言って、何も大きな病気をしなければ、ということで
はない。ある日、車椅子で余命1カ月との方に会った。その方が「きっとこの病気に勝って見せ
ます!」と決意を。でも私は「それは違う。既にあなたは勝っているではありませんか。何処
の世界に、余命1カ月と宣告された人が、そんな決意をされている方が居ますか?!」と。

悩みがないと成仏(仏と開く)することは出来ない。悩みがないという人は、達観したようにも
みえるが、自分のことしか考えない利己主義である。悩みは、悩んでこそ価値があり、なくす
ものではなく、乗り越えるものである。