【宗教の意義】

元共産主義国のソ連大統領だったゴルバチョフ氏の故ライサ夫人が、「人は信仰がなければ生き
られないし、それが人間性を作る」と言われた。宗教はアヘンという国の人の言葉である。
また「宗教的な深みのない生活は、薄っぺらなものです」とは、ナイチンゲールの言葉である。
信仰を持つというのは、生きる規範を持つことである。

一方で、近年イスラム教で「アラーの他に神なし」とかで、信仰しない他宗教の信仰者を殺害
するような無残な事件が相次いで起こっている。「あれは過激派のすることだ」とイスラム教
の信仰者は云うが、彼らは「原理主義者」だという。では「教え」自体に矛盾するではないか。

なにを規範にして生きているのか? 行き当たりバッタリの根無し草のような判断で? 
粋がってんじゃないよ!と思う。電車を乗るにしても「無事故」を信じ、お金を使うにしても
その価値を信じ、日常あらゆることに信じないで生きていけるのか。

日本人ほど無知というか、宗教に無関心なものはいない。
今迄、多くの友人や知人に学んだことを話しても、殆んど我れ関せずの反応である。
自分にとって良いモノは取り入れようと、深く追求してくる人はいなかった。それどころか、
「そんなことはない!」と反対しておきながら、その論拠を云わず、単なる反対のための反対
しかしない。ことなかれ主義にはホトホト呆れる。
其の点、ドイツ人の娘婿は、言葉が通じないまでも「何故」と聞き返してくる。

これも日本人は大乗仏教が流布し、ましてや戦後に国家神道に裏切られて無理からぬこと。
しかも、世界の主義・主張である資本主義も、社会主義も共産主義も、今や色んな矛盾を抱えて
いる。ましてや、「幸せのための宗教」同士で殺し合い憎み合う宗教とは、一体なんのための宗
教か! 人の生命を「聖戦」だといって、人をして宗教に隷属するためか!

しかも各国殆どの仏教は、爾前・権教を依教としている無知悪国であり、また邪知謗法の国と化
しているのが日本である。
今や、世界のあらゆる宗教・哲学も、現在と未来の指標を示し、万人を幸せな方向へ導く力を持
っているものがない。これも「生命の永遠性」「生命の原因・結果」を、普遍妥当性をもって正しく
化導できる宗教がない処に不幸の原因がある。

この前、グラビアアイドルの熊田曜子さんと禅宗の八十四歳の坊主の対談をテレビで視た。
真摯な熊田さんの問い掛けに、なんとも情けない受け答え。
まして、極意に「両忘」というのがあって、「喜怒哀楽の夫々の反語から、一方だけ忘れようとし
てはいけない。いっそうのこと両方忘れよ」という。
現実生活の中で、喜怒哀楽から離れて生きることが出来るのか? 痴呆症にでもなれと言うの
か! バカタレが!程度の低さに呆れるばかりである。
挙句の果てに「現在の大人は、もっとしっかりしないといけない」とは?! 先ずお前がしっ
かりせぇ!とTVに向かって云っていた。腹がたって眠れず、NHKの「ご意見・ご感想」欄
に投稿した。(どうもこの企画、次回からボツになった…。)

所詮、現実生活から遊離した処に住し、現実と闘うことのない世界で空理空論を持てあそび、
まして若者を指導・教化する力など全く持ち合わせていないことが良く判った。
「私は強いから、信仰は必要ない」と言ってる人も、所詮「根無し草の人生」。それを、あた
かも自慢するように言う友を前にして、呆れて言葉が出ない。無信論者と言ってはばからない
輩も同様である。
それで何が「信念」か! 馬鹿さの加減もいい加減にせよと云いたい。
時間がかかるが、漸進的に一人また一人と対話によって、世界の著名な方々が期待する「生命
の世紀」へと進めるしかない。

いずれの宗教にしても、まして仏教は「証拠主義」である。別項でも記したが、文証、理証、
そして最も重要な「現実の証拠」である。証拠がなければ観念でしかない。それでは、なんの
役にもたたない。明快なる証拠があるのか、ないのか。厳然たる結果が現れるのか、現れない
のか。一生懸命に信心しても、なんの現実生活にも証拠が現れないのでは、その宗教自体、な
んの力もない証拠である。
そんな宗教ばかりしか見えず、また見てこなかったこと自体、不幸というしかない。不幸を不
幸とも思わず、知ろうともせず、漫然として生きている人々。まさに、釈迦が喩えた「一眼の
亀と浮木」とは、よく言ったものだ。線香くさい旧来の仏教しか想像できない、狭い・浅い知
識を恥じるべきで、少しでも現実の証拠を示す者に対して、真摯に知ろうとも思わず、返って
馬鹿にする根性は、いったい何なのか。
動物としての、人間と畜生との違いの一つに、信仰を持つことにある。先述した無心論者や、
信仰を持つものは弱い人間とする輩は、これに照らすと畜生と同じではないか。

いずれにしても、宗教・哲学は、政治や経済と違って、「生き方」を示す根本的なものであり
、その高低浅深によって、その人の現実の生活のうえに、幸・不幸を決定して行くものである
ことに間違いはない。ロクに勉強もしたこともなく、浅はかな見聞きしてきたことだけで宗教
に対して云々するような人間は、所詮、万般にわたって同じである。
「認識でずして評価するな。」とは、先達の言である。よく知りもせず、評論するものは、認
識する者からすれば、「私は馬鹿です。」と、自ら証明していることになっている。そういう
者は、えてして傲慢で、そう評価されているとすら認識していない。

また「生き方」の項でも記したが、所詮どのような宗教にしても「人としての生き方・振る舞
い」を教えている。そして我が信奉する宗教には、「茂木健一郎氏との対談」でも述べたように
、信仰活動と現実生活への反映について、二処三会の例で理解し実践している。
また、師匠の指導に、釈迦の経文である法華経神力品に「日月の光明の態(よ)く諸々の幽冥を
除くが如く、斯の人は世間に行じて、態く衆生の闇を滅し」とあるが、法を学び、信仰を深め
るのは何のためか。
この「世間」とは社会でり、社会の泥沼の中である。もって社会を離れて仏法はない。
荒れ狂う現実社会の中で、非難、中傷の嵐にさらされ、もがき、格闘しながら、粘り強く対話
を重ね、実証を示して世に問うていく。
原点を見失い、草々の心と実践を忘れた宗教は、形式化・形骸化し、儀式主義に陥り、官僚化
し権威化する。そして、民衆を睥睨し、宗教のための宗教となる。それは、宗教の堕落であり
、精神の死である。

我が信仰を軽蔑する彼奴らに、このような宗教観をもって批判しているのか、と言いたい。