【宗教の浅深】

本来宗教は、一人でも多く幸せにしようと、命を懸けて布教するものだと思っている。
キリスト教の宣教師も、仏教の三蔵法師も命をかけて法を求め、広めようとしてきた。

そこに、宗教の高低・浅深・正邪を論じるのは、また人々を幸せを願うなら、必死で法論をする
のは至極当然であろう。それを独善的だとか、唯我独尊だとか云うのは、まさに逃げ口上であ
り、更に「人に強要すべきでない」と言うのも、利己主義・モンロー主義で、いずれも宗教の本来
の目的を放棄した姿である。内外相対、五綱などの宗教批判の原理に照らし、はっきりさせよ
うではないか。

そして今迄、色んなサイトの意見をみると、単に感情論的なものが殆どで、しっかりした検証
をしてのものには未だお目にかかったことがない。
まして念仏宗の現実生活を諦めて、死後の極楽を願う厭世思想など、全く諦めの教えあり、し
かも女人不成仏を隠し、はたまた学会は「香典を持って帰る」とかの讒言すら流し、これが宗教
か!情けない…。それをまた、まことしやかに確かめもせず、本当に事実のこととして信じて
いる。そんなことを平気で信じ、そんなことを言うのが、あんたの信念か?と問いたい。

ここに「宗教の批判の原理」というものがある。簡単に著してみたい。

一、三証 @ 文証:聖書、経文、教典など、依って立つ原典なるものが有るか。
             A 理証:理論的に、普遍妥当性があるか。道理にかなっているか。
             B 現証:現実的な証明。現実生活の中に、実証として現れるか。
       もって、道理・証文よりも、現証が最も重要である。「神のおぼし召し」なんて、
      おかしいではないか! 信じるものは救われる、なんて思い込ましも甚だしい。

二、五重の相対:これは、宗教というからには、生命全体にについて、どのように説いている
        かを批判している。)
         @ 内外相対:内道とは、生命について原因・結果を説いている。仏教がそれに当た
      る。外道とは、キリスト教など仏教以外の宗教は、生命に対して非科学的で、普遍
      妥当性がなく「思い込まし」が常であり、殆んどの宗教は、生命の原因・結果を説
      いておらず、ここで振るい落とされる。
         A 大小相対:ここから、釈迦が説いた八万宝蔵とも云われる、数々の仏教について
      分析していくことになるが、大乗教か小乗教かの比較である。
      多くの民衆を救うことが出来るか否かの判定になるが、この辺から少々説明が難し
      くなんるので、別項【仏教の流れ】を参照願いたい。
    
 B 権実相対:権とは仮の教え、例えの教えであるが、釈迦が無量義経で説いている
      ように、法華経以前の経は全て権経であり、「正直に方便を捨てて…」と説いて、
      法華経が実経である、と説いている。
    
 C 本迹相対:法華経に至って、二十八品(章)の内、前半の序品第一から、安楽行品
      第十四までの十四品を迹門とし、後半の、従地湧出品第十五から普賢菩薩勧発品第
      二十八までを本門とする。迹門では、爾前経では否定された「生命の悪人・女人成仏
      の方途を説き、生命の平等を説いた。
      本門に至って、生命の永遠性を説き、すべての生命に「仏」の生命が存在する事を
      説いている。勉強すればするほどに、深く遠大な生命のドラマが書かれている。
    
 D 種脱相対:前項までで、釈迦の出世の本懐たる法華経の本門が最高峰であるが、
      現在では、あくまで観念観法・理論である。
      つまり、釈迦が説いているように、釈迦滅後二千年後(五の五百歳)の末法では、
      教・行・証の、この「教」のみ残っているが、民衆を救う「行」も「証」もなくなっ
      てしまっているので、脱益仏法という。

そして、釈迦が説いて予言した末法に、地湧の菩薩の棟梁として上行菩薩が出現し、法華経本
門の経の文底に秘された「妙法」を説き、万年に亘って衆生を導く久遠元初・自受用身の本仏
が現れ、下種仏法が広められると説いている。
しかも重要なことは、万人に内在する仏の生命を、現実的に、誰人も顕現する方法・手段を明
確にされたことである。つまり、理論の段階から、現実の実践の方途を示されたわけである。

この他に、宗教の五綱(教・機・時・国・教法流布の前後)(別項)など、宗教批判の原理が
あるが、いずれにしても、常に、生命に視点を置き、どこまでも深く科学的に、原因と結果を
明確に説き、且つ、夫々の時代によって、民衆を教化し、幸せにしようとする仏が出現してき
た。釈迦が死んでより、天台・妙楽・伝教など、釈迦の出世の本懐である法華経を広め、民衆を
導いてきたように、その時代・時代の民衆の機根に合った教、そしてその時代までの流布した
教に合致した宗教であるかどうかも、判断の重要な要素である。これらを、よく認識した上で
「いわしの頭も信心から」と言ってみるがいい。

別項でも記したが、知ると知らずに関わらず、人間は、人間である限り血というもの、遺伝子
には、原始時代からの要素が含まれている筈である。
宗教的要素も、生まれてからでも先祖から家族から、否応なしに沁みこんでいる筈である。
例えば、人はよく「しかたない…」というが、よく考えもせず使う場合が多い。
しかし何処まで頑張って「しかたない」と諦めるのか。まだ「しかたがある」のではないか。
「人間、あきらめが肝心」だと、悟ったようにいう人がいる。
エジソンや松下幸之助など、それほど偉くはなれないにしても、彼らは「しかたない」と諦め
たか。改めて宗教は、遺伝子は恐ろしいものなのである。

最近やっと判ったことがある。 
それは、学会は香典を持ち帰る、との噂を流したのは、なんと、あの大作家・大宅壮一であった
という。彼が亡くなる前に、以前から親交のあった潮出版社の人が、病床を見舞った時に、彼が「実は学会に大変申し訳ないことをした。それは学会が草創期にあった時、全宗連の人達が来て『このままでは信者を、みんな取られてしまう。なんとかならないか』という。そこで、私の周りの者に、なにか良い方法はないかと、なって『学会は、暴力宗教である。そして香典を持ち帰る』ということはどうか、となった。そこで確認もせず、そういうことになって、全国に流れることになった。」というのである。
確か四国の坊主が言っていて、内の人がどなりつけたという話しは聞いたことがあるが、まさ
か大宅壮一たるものが発信人であったとは!

しかし、いつの時代にも起こることで、その実例には枚挙に暇がないくらいで、噂というもの
は恐ろしいものだ。
全く罪もない人を犯罪人にしてしまう。