【手段と目的】

過去の哲学者、宗教の指導者、主義・主張を掲げた政治家、そして文豪など多くの偉人が、人々
の幸福のために命を懸けて、悪意や非難や嫉妬と闘ってきた。それ故、現代に於いてもその光
彩を放っている。
アレクサンダー大王などの為政者、マルクス、ルソーなどの哲学者、ダビンチ、ユゴー、トルス
トイ、ピカソ、シェークスピアなどの文豪、等々。

しかし現代社会では、資本主義は「自由」はあるものの貧富の差に行き詰まり、平等を無視し不
平等を是としてきた。また共産・社会主義も「平等」を標榜するが、自由を抹殺してきた。
しかも世界三大宗教のキリスト・ユダヤ・イスラム教は未だ殺し合いを演じている。そして過去
の思想・哲学・宗教は、いずれも偏頗なものとなり、矛盾を露呈し人々を幸せにする力を失って
いる。何故か?

それは手段が間違っていたからに他ならない。目的は同じでも、幸せにしようとする「人間」に
視点を置かず、特に権力者は「体制」や「環境」を変えることで「人間を手段化」して、駒として、
金銭のように使いこなす。 
ここに人間の本能的な「欲望・業」を見逃していることに偏頗さがある。
もって、幸せになるべき「人間の本質」を完全に体系化し、普遍妥当性のある哲学・宗教が求めら
れる所以がある。

日本では聖徳太子、宮沢賢治などは仏教、なかんずく法華経を本とした。平安時代の伝教大師
(767-822)も法華経を広め、貴族文化ながら栄えた。
そして今、我等が仏法が世界に広まり、時間をかけながら、漸進的にではあるが、確実に人々
に浸透し、絶望・苦難の淵から蘇生している。体制や環境の違いはあっても、その国・その文化
に融合しながら、世界の友は自らの使命に燃え、自らの花を最高に輝かせていっている。
ただ多くの人々が知らないだけ。(北朝鮮みたい)

また、別の「学会員としての生き方」としての諸活動で、本来の目的と、その達成のための手段についても記し
たいと思います。