【政治と宗教】

自らの利益のみを求めての為政者は、またヒトラーや、ルーマニアのチャウシェスク、現在の
北朝鮮のような独裁者は論外として、政治家は政治をもって人々の幸福を実現しようとする。

自民党は「資本主義」、社会党は「社会主義」、共産党は「共産主義」、民主党は哲学的なものがみえないが、いずれも「主義」を掲げて、みんなの幸せな社会の実現にと頑張っている筈である。
しかし他の項で述べたように、すでに時代遅れの主義・主張である。

別項でも述べたが、自由主義は「自由」を標榜するが、「差別」を克服できず、益々貧富の差
を如何ともし難くなっている。基本的に「弱肉強食」である。
一方で共産・社会主義国は、「平等」を実現しようとして来たが、自ら階級的差別を生み、貧富
の差をも乗り越えることが出来ず、「自由」を抹殺する社会を生み出した。
所詮「体制」を変えることで、人々の幸福社会を築こうとしているに過ぎない。

そうした現代社会の中にあって、欧米では「キリスト教民主党」などがあるが、我等が党はとい
うと「人間主義」と言えよう。
どのような方法・手段で人々の幸福生活を実現しようとするのか、夫々をよく掘り下げ考えもせ
ず、愚劣な評価をする者ばかり。まして政教一致などと言うバカ政治屋も未だに存在し、それ
また本当に信じている馬鹿もいる。
何度も国会に持ち出し、その度に憲法に照らして答弁され、いかに愚劣な認識・評価かが明かさ
れている。俵孝太郎などの四月会などいつの間に消えたのか、既に彼奴等は自ら墓穴を掘って
、惨めに没落していったが。

一方で、宗教の目的とする、教えを土台として個々人の幸福の実現を目指すのと、政治の目的
たる「民衆の幸福社会」を実現するに、何の不合理があるのか。何の矛盾があるのか?
ただ現在の宗教は、「葬式仏教・観光伽藍」となり、海外では、宗教対立で殺しあっているのは、
一部政治家に扇動・利用された、全く宗教本来の目的を愚弄するものである。
また政治は「妥協の産物」といわれるように、日本では多数決が基本である。故にまだまだ少数
党である我等が党は、公約した政策を実現するためには、残念ながら多数党に頼るしかない。
それを表層的にしか見ず、やれ「金魚の糞」だの「パッチの尻くそ」だのとののしっている。
投票する時は政策・公約を視て投票したのに、その実現には他の各党も伏せて、民衆も視よう
と、また確認しようともしない。よく考えもせず、やればどうなるかも分からず、耳ざわりの
いいマニフェストを信じて投票した人たち。。。

「より多くの人々の幸せ」のためにと、「中庸」の道を「公僕」として具現化していく上で、例え
絶対与党となっても、国家神道のような国教化を目指すことはない。何故なら我が党は平和憲
法を死守するし、それを支持する我々は、教義に反することはしないし、する訳もない。
要は、国家教を生んではならない。しかしして反国家のようなことではない。
つまり、国家主義というのは一種の宗教といえ、誤れる宗教である。国のために人間がいるの
ではない。人間のために、人間が国をつくるのである。これを逆さまにした「転倒の宗教」が、
国家信仰である。例の外交官であり作家である佐藤 優氏は、これを正確にとらえられている。

次々と間違った記事を載せ、ひっきりなしに裁判で賠償金を命じられる週間新潮や週間現代等
のガセネタに翻弄されて認識・評価していては、まさに扇動されている姿そのものである。
ものごとを正視眼で視よと言いたい。正しく認識せずして評価することなかれ、とは、信仰の
自由を奪い、国家神道に統一して日本民衆を地獄に導いた「国家・軍部権力」に反対し、治安維
持法で逮捕され、終戦を待たず初代会長を殉教させた国家権力に対する思いは、骨の髄まで染
み付いている。いかに「信教の自由」が大切か。そして平和憲法が大切か!

世界各国から宣揚されながら、未だ日本では邪まな眼でしかみられない。まして各国の国家勲
章を受け、各国の大学から次々と名誉博士・教授称号を受け、各国の名誉市民称号も六百を超え
ても、日本のマスコミは、ただの一行も報道しない。それどころか週刊誌は「金で買った」など
と言って、授賞した国・大学を冒とくし、侮辱している有り様である。
しかし「そうだったのか」と判る日も近い。そうなった時「私も初めからそう思ってたんだ」と
云って来る人間が、大勢現れるとは、すでに750年前の御書にある。

一方、大局的に云えば、どんな宗教であれ、宗教の名のもとに、テロや戦争を正当化するなら
ば、それは宗教の自殺行為と云わざるをえない、と。
また生命というものは、一切の宝の中で第一の宝である。宇宙を満たした宝であっても、自ら
の生命には代えられない、と。
それは相手にも同じことである。だから、金儲け第一主義社会や、体制第一主義として、人間
を、またその営みを手段とする社会ではなくて、人間・生命第一主義を基本理念としての社会を
築くべく、支援してくれる人も反対・拒絶する人も含めた「公僕」に徹して働く議員を支援する
所以がある。

「王仏冥合」…王法(政治)と仏法との冥合とは、政治と仏法が一体化することではない。個人
の幸福と、社会の繁栄の一致を実現することである。故に、民衆の生活に直接影響をもたらす
政治を、黙って見過ごすわけにはいかない。

体制・制度という手段で実現しようとする「政治」でも、所詮目的とする「民衆の幸福生活の
実現」であり「人間」である。
物欲だけでは、また精神面だけでは普遍的に人々は幸福とはいえない。つまり「資本主義」で
あれ「社会主義」であれ、既に現代・未来にはダメであることは、すでに世界の民衆は気付き
はじめている。
まして、民衆の幸福を「目的」とせず、自己権力のために、民衆を「手段」とするような独裁
政治には、アウン・サン・スーチーさんのように絶対戦うべきである。

また、「いやしくも公約を裏切った政党や、議員に対しては、次の選挙の時に絶対に投票して
はならないと覚悟すれば、政党も議員も、完全に有権者によってリードせられるようになる」
とは、尾崎咢童の言葉である。

お世話になったことはない、そして今だ神国日本を唱え、総玉砕に導いた一人である者を、絶
対許すことは出来ない。
「私たちの運命を決めるのは、権力を持った指導者ではなく、むしろ民衆自身の結合した声に
よる強い影響力である」とは、エレノア・ルーズベルト大統領夫人の叫びであった。けなげな
母たちの声、誠実な父たちの声、真剣な青年の声が、最大に尊重される社会を築くために、我
らは戦い続ける。

政治をつかさどるのは、まぎれもなく人である。政治に無関心な宗教は、死せる宗教である。
その人間をリードするのは宗教の役割である。そこらの宗教は、所詮、現代の老若男女を、ま
して現在の諸々の問題を、指導する力もなければ哲学もない。ただただ、厭世的に現状を受け
入れてとか、観光伽藍の価値でしかない。
宗教はだまって瞑想して、政治に口を出すべきではない等と友人からも言われるが、本当の宗
教のあり方や役割も、その上今まで考えられない宗教の存在をご存知ないからに他ならない。

また、インドのマハトマ・ガンジーは、「政治は宗教の説く真理の道に従って進むべきであり、
一方、政治を忌み嫌う宗教は、宗教の名にさえ値しないものです。」と叫んでいる。

ともかくも、悪政も、善政も行うのは人間である。現今の政治家をみると、全くお粗末と言わ
ざるをえない。なんとも情けない。私利私欲、党利党略ばかりで、本当に気骨のある政治家が
見えてこない。
先生・先生と呼ばれて、あたかも偉くなったように錯覚し、ふんぞり返って居やがる。何処に
も公僕に徹する議員が見えてこない。我々は「先生」なんて呼んだことはない。あくまで「さ
ん」付けである。悪いことをしたり考えで居ると、なりたくて議員になった訳ではないが、「
只のおっさん」にしてしまうぞ〜と…。思えば可哀想なものである。
他の議員は選挙の時だけ頭を下げ、普段は、なにか施策を頼むと偉そうに!!

これらを思うに、結局は「その議員個人の資質」である。この人格というか育ちというかを視
る時、やはり、どのような思想を・信念・哲学を持っているかで、その人間の土台が見えてく
る。そこに、より高い・深い哲学・宗教が求められる所以がある。
政治家一個人として、政治と宗教は、切っても切り離せるものではない。それを政教一致と騒
ぐ者に付和雷同するのは、あまりに浅はかと言わざるをえない。こういう議員も議員なら、は
びこらす民衆も馬鹿と言わざるをえない。