【政教一致】

最初に、わが国・日本の憲法第二十条について確認しておきたい。

1 信教の自由は、何人に対してもこれを保障する。いかなる宗教団体も、国から特権を受け、又
  は政治上の権力を行使してはならない。
  (注釈・要は国家神道のように、天照大神・天皇を神と統一したり、国教化・政治を禁じている)
2 何人も、宗教上の行為、祝典、儀式又は行事に参加することを強制されない。
3 国及びその機関は、宗教教育その他いかなる宗教的活動もしてはならない。

とある。
これは国がしてはならない、と言っている訳であり、国民に対しての制約ではない訳で、何等問題
はない筈である。
政教一致と騒ぐバカどもは、一体この意味を、どのように捻じ曲げて解釈しようとするのかと問い
たい。

そもそも政教一致とは、どういうことか。
今 東光のように、坊主が国会議員に立候補したらいけないのか? また信者や立正佼成会のように
、一信仰者として、また団体として支援活動をしてはいけないのか?
色んなところで話しに上るが、正しく認識しての評価に、殆んど出会ったことがない。その殆んど
が低俗な週刊誌や風聞に基づいて、それが正しいと思って、自分の「正しい判断」としているよう
である。
勿論、間違った解釈をした国会議員や週刊誌等に対しては刑事告訴して、全て有罪・損害賠償・謝罪
文の掲載の判決を得てきているが、一番残念なことは、信頼し尊敬する友人から、誤解による批判
を受ける時は、情けなくて夜も眠れない。
最近でも、政教一致を唱えて俵孝太郎を中心とした四月会や、元民社党委員長の塚本三郎や、新党
の白川勝彦らは不思議と
自滅していったが、一般には何故、自滅せざるを得なかったかは知る人も
ない。ただ騒ぎ立てた時の印象しか記憶になく、まんまと、売れればいい週刊誌の奴らの罠にはま
っている。テレビのキャスターも、面白がって我が意を得たりと報道している。

また宗教は「政治に口出しすべきでない」とか言われるが、何を言っているのか自分でも解ってい
るのか、口を出しているのは一信仰者である「人間」である。
更に、政治の役割(目的・手段)と、宗教の役割を考えれば、なんら矛盾することはない。根本的な
違いといえば、政治は、算数のように「色々な手段を模索・検討しながら、民衆の幸福社会を目指す
」のに対し、宗教は「達観的に最終目的・答えが説かれていて、その実現に向かって実践していく」と
いう、帰納法的なものと演繹的なものとの違いである。これは人々の「生き方」と全く同じことと
いえる。

いづれにしても、政教一致というからには、正しくしっかりと、認識してから評価すべきである。
間違った評価をしていては、結局その人間性と人格・見識を、自ら落とすだけである。
たいてい問い質すと「放っておいてくれ!」と言われる。放っておくけどね。ただ大事な友だと、
少々放っておけない。
今の世の中、特にご近所でも「おせっかい」が居なくなった。自分たちが子供のころ、近所のじぃ
ちゃん・ばぁちゃんによく叱られたもんだ。しかし、今の親たちは子供を教育出来ず、学校や周り
のせいにする。こんな親が素敵な子供を育てられる訳がない。またそんな子供が親となって、立派
に子供を育てられるだろうか。

高専の教師だった友が言っていた。「こんな親を育てたのは、結局、我々の世代の人間だ。」と。
しかし、多くは環境・社会のせいにして、責任を転嫁し、立派なことをのたもうて、殆どが「評論
家」である。私はおせっかいを止めない!

色んなことを考えると、政治に対しても、この「責任転嫁」「無関心」が、根本的な原因かも知れな
い。