【いのち】

あらゆる生命の進化の解明が進んで来たが、また、肉体的なものは医学の発達により、かなり説明出来ても、「精神的な
もの」は、全く科学的に明らかにされていない。

過去・現在に至るまで、唯物論・唯心論などの哲学と、あらゆる宗教や道徳論はあるけれど、生命を科学的に、また普遍妥
当なものとして体系的に説かれ、且つ、現実的にマッチしたものがあるのだろうか。

自分にとって、何より大事な「いのち」。これを真摯に捉えることが出来ない限り、「生き方」から、また「病気などの死に
ついての恐怖」から逃れることは出来ない。
もっとも唯物論のように、肉体も、単なる物体としか捉えないでいたり、唯心論やキリスト教のような、精神面ばかりで
説明しようとしても、し尽くせるものではないことは、かなり一般的な衆知の事実と言っても過言ではない。

釈迦は生老病死の四苦から出発した。そして様々な教導をしてきたが、所詮説き切るには至っていない。そして法華経の
開教である「観無量義経」で、「非ず非ず」を三十四も示して「なにか」を説明しようとした。が抽象論でしかなく、一般の人
々には、理解など出来ないものであった。
これを、何百年・何千年経過した昭和の20年になって、「生命」のことだと悟達されたのが、我等が先師である。
天台大師も日本の伝教大師(最澄)も、このような解釈・表現はしていない。
ここに、初めて人々に具体的に解る表現として蘇った訳で、これによって法華経の経文の一文一句すべてが「生命のドラマ
」を説いている事として、人々に理解できるようになった。

そしてこの「いのち」を友人から、解るように説明しろと言われたことがあるが、心とからだの全体像や、相関関係など
、別項でしっかりと記述したい。
「いのち」ほど大切なものはない。その「いのち」を、現実生活の上で、又、人生の上で、如何に輝かせて行けるかは、その
「生き方」によるだけに、本当に真摯に知ろうとしないのは、自身の「生き方に由来している」ことであり、自らの「いの
ち」への冒涜である。

人間、生きたようにしか死ねないものである。多くの臨終の姿を拝見してきて、深く思いを致すところである。
人みな「いのち」ほど大事なものはない。
しかし、かの産業革命より、物質の豊かさばかりを追い求め、今、いのちの大切さ、心豊かな精神面の向上が置いてけぼ
りになったと指摘する学者も多い。が、現状、評論家は多いが、若者をリードし、育む実践者は殆んどいない。
みんな学校教育で知識のみを詰め込まれ、卒業して一人前の大人と錯覚して世の中へ出て行くが、その学んだ知識を、自
他共の幸福に繋ぐ心豊かな「智慧」まで教えるところはない。

先日も、別の仲間と「生命とは」の話しになったとき、私の説明が至らないのか、「三分で説明してみろ」と。
「一言では説明が難しいけど」と言うと、「そう言って、すぐ逃げる」と返ってきた。そして、なんと、吐き捨てるようにたたみ掛け、「それみろ、出
来ないだろう!」と勝ち誇ったように非難する。 これはどういうこと??

ただ、
一言では表現できないまでも、なんとか簡潔に説明できないものか。少し考えてみよう。


・生命は、自らが、ある方向へ、自ら成長しようとするもの。(ある意思をもって進化するもの。)
・生命とは、色心不二であるもの。(肉体と精神的なものと一体であり、且つ夫々が夫々に作用するものである。)
・アミーバーから、宇宙も含めてが生命体であり、すべて生まれ、成長し、老化し、壊れて、空の状態を繰り返すもの。
 人間も、宇宙の生命からみれば一つの細胞といえる。その人間も七十兆とも言われる細胞を持つ小宇宙といえるし、その細胞も
 成・住・壊・空を繰り返していくもの。
・生命(いのち)は、依正不二である。(環境と一体である。環境が生命をつくり、また環境をつくるもの。)
まだまだ表現するには言葉足らずである。


ただこの内一つでも、それは違うと言うなら、それこそ一言で根拠を示してみろ! 浅はかな知識で非難し、知ったかぶりをする
、その自分の命を、謙虚に一度見つめてみろと言いたい!

世の偉人と云われる方の伝記を読むと、老いて尚、自らを高めようと謙虚に求めようとされる。が、周りの大抵の人は、もう人生を悟ったように泰
然として、深く考え、正邪を確かめようともしないし、耳を塞ぎ聞こうともしない。そして、こうした人々の殆どは、「ワシはお前より偉いんだ」という
思いで、凝り固まっている。
まぁ、こういう人々に、そうではないと訴えても聞く耳すら持とうとしない。これは色んな理由・背景を説明しても、結局、先祖代々、長い期間に染
み付いた「いのちの癖」であり、そう簡単に変わらない。

でも、最近の若い人々、青年には、徐々にではあるが、欧米の人々のように、少し話せば「いいものはいい」として受け入れ、一年で十万人単
位で入会して来ている。
道理に合わないものには見向きもしないし、理屈に合わなければ、さっさと辞めていくのに、この拡がりには、正直感嘆する。

いずれ、「あきらめの生命の癖」に翻弄された老人は、変えようとしても、時すでに遅しであるし、そこそこ現実に不幸でなければ、「仕方ない」と
言いながら、理屈も道理もない「極楽浄土」を目指し、死んでいく。
こんな人達の、次の「生への荘厳・厳粛な出発」である臨終の相は、何度見ても見たくない相である。


いずれにしても、自分は別項でも記したが、この大事なところを生涯に亘って学べるところで、即ち校舎なき総合大学で
多くの日本の識者、海外の著名人からも学び続けたい。

【追記】
いつも、坊主をはじめ、周りの友は、「人間死ぬと、みな仏」という。
へ~、一杯人を殺めて死んだ者も、懸命に人に尽くして亡くなった人も、みな死んだら同じ「仏」か!?
昔、祖母から「悪いことをしたら、閻魔さんに舌をぬかれるぞ」と教えられた。でも死んだら、同じように「仏」になる
のか?
一方で、子は親を選べない中で、生まれでたばかりなのに、何故にこうまで「不平等」なのか。一体その原因がどこにあるのか答えてほしい。この差は、先に生きて来た「原因」の結果ではないのか?!
おかしいではないか。矛盾するではないか!相手に、何度も言って確かめても「おかしいなぁ」と思わない不思議…。
違うと言うなら、ちゃんと説明してみろ。
納得のいく説明も出来ないくせに、分かったようなフリだけしている愚かさ。