【生き方】

我が師匠に求め学んだ「生き方」。人それぞれの生き方がある。ただ先述したように、自分の信念と
努力で、懸命に生きる生き方があり大事なことであるが、この「信念」とやらが、実は自分でも良く
判らないことが多い。何に基づいて生きるのか。「何々に徹して生きる」というものを説明しろと言
われると、曖昧なことが多いのではないか。

では、どのような生き方をすればいいのか?
一生を通じて
・悪いことばかりをして善いことを全くしない。
・悪いことはしないが善いこともしない。
・悪いことをせず、善いことをする。
・悪いことを憎み悪と闘って、善いことをする。

では「善いこと」とはどんなことなのか。悪いこととは?
一般に、最も善いこととは「他人が喜ぶこと」をすることであるし、自分のためにすることは、直接
的には余り云われないようだ。

フリーターや、ニート。
40年も国民年金を払い続けた人と、逆に生涯税金を払ったことがない人が、憲法で保障されている
からと、当然のように生活保護や介護を受けて、国民年金より多くの額をもらい、その上にまだ愚痴
を言っている人々。猫を6匹も飼い餌代が要るから少ない、とか、犬の病院代で、子供の給食代を払
わないとか、考えられない馬鹿さ加減に、どうすることも出来ない世の中。
正直いっぺん、この馬鹿な母親を育てた「親の顔」をみたいものだ。

強いて言えば、我々は常に「人を敬い、人に尽くす」生き方の「訓練」を受けている。
「仏法を学せん法は、まず臨終を習うて他事を学ぶべし」と。
この瞬間・瞬間を、いかに生きるか。我が師は、何年も経って出会っても、その人を覚えておられる
のが不思議でならない。「この方とは、もう二度と会えないかも知れない」と思って、真剣に一人ひ
とりと対話する」と。

殆んどの人は「自分」を師とし、あっちへ行っては失敗し、こっちで行き詰まりながら「経験」を重
ね、また「確たる指標」もない「己が信念」を基に生活していく。まさに数学的な、三段論法的な生
き方をしている。
つまり信じられるのは「過去の経験」だけの狭い狭い生き方である。
しかし日本人だけが「世の先哲」に学ぼうとしない。信じられるのは自分だけ、との思いが執拗に強
い。

また一日一日、自分の、家族の、また周りの幸せを願って仕事や介抱などに頑張っているが、ただ現
状に、したいことをし、のんべんだらりと送る生活に、なんの魅力もない。そういう人に限って、「
私は、もう歳をとって、日々幸せに暮らして行ければよい。」という。が、一歩踏み込んで話をする
と、愚痴ばかりが口から出てくる。
しかし、まだまだ将来がある人達にも、そんな生き方が出てくると残念で、つい意見を交わしたくな
る。

また、他の項でも記したが「演繹的な生き方」と「帰納的な生き方」がある。
「どう成りたいのか。どうしたいのか。」「目標は?」「そのために、今どうしているのか?」に加
え、殆んどが「なんのため」が曖昧であったり、利己的なことである。しかも、日々の努力や頑張り
に対して「塵も積もれば山となる」的で、確たる信念に裏打ちされたものではない。
現実に、塵が積もって山となった山はない。

「なんのため」が利己的なものではなく、「目標」が明確で、それがための今日一日を、精一杯頑張
っている人。その人には愚痴はない。障害も苦労も、自らを鍛えるものとして、むしろ楽しんでいる


また「人生勝利のためには、足元の生活の場、仕事の場、地域社会から、信頼され福徳あふれる強固
な「地盤」にしなければならない。」とは、平成9年5月22日の奈良国際会館でのスピーチである

これを聞くと、自分は間違っていなかった。師より「心が大事、日常の振る舞いにこそ信仰がある」
との指導のとおり、向こう三軒両隣を大切にと訴えてきた。足もとである。広布といってもどこか遠
くでするものでもない。先ず一丈の堀を越さなければ、十丈・百丈の堀を越せるわけがない。幹部の
中でも仲間の中では生き生きとしていても、隣とは挨拶もしない、交際もない者がいる。一体、広布
を何処でするつもりか?と問いたくなる。
諺にも「遠い親戚より、近くの他人」と言われる。いざという時、頼りになるのは近隣である。
日ごろの生き方として、人生を豊かにする大事な要件の一つではないだろうか。

言っている後から、平成21年8月31日、突然の心筋梗塞を患った。もしも自分で救急車を呼んで
いたら、多分助かっていなかっただろう。まして、遠い息子や親戚を頼っていては、時の間にあわな
かったことは自明である。幸いお向かいが、しかも近隣の医者に連れて行ってくれ、それがまた、幸
運にも循環器系の医師であった。救急車を手配し、医大へ連絡し付いていってくれて、トントン拍子
で助けてもらった。

昔、こんな話を聞いたことがある。生きるための栄養をとる方法に、三つあるようだ。
蟻は、手当たり次第に自分の餌にして生きる。蜘蛛は、網にかかって来る餌だけを手に入れる。
そして蜜蜂は、花の蜜は吸うが花を傷めることもなく、かえって花粉を蒔き、花の結実を助けるよう
な生き方をする、と。
過去の怨念や憎悪に身を焦がして生きるならば、どんなに富や栄誉を得ようが、その人生は惨めであ
り、不幸である。
例え本人が、そう思わないと云っても、世間の目はごまかせない。まさに精子そのものである。
しかも、本人のみにとどまらず、子や孫の代まで続くだろう。「過去現在の、末法の法華経の行者を軽
蔑する王臣・万民、始はことなきようにて終に滅びざるは候わず」と。生き方としての結果であろう。
必ず滅びる。

自分は、どのように生きてきたか。そして、定年後の現在と、これからの人生を、いかに生きるべき
か。自由だからといって、そう長くはない余生である。時には遊び友達も必要だが、なんか虚しく感
じるような「おつきあい的」な遊びには、もう終わりにしたい。 勿論、この歳になると、夫々考え方
も出来上がっている。しかし、自分の生き方に賛同し、認め、お互いが高めあえるものでなければ意
味がない。
単なる友達か、お互い大事にしたい友達か。そして生涯の親友か。

別の項でも記したが、生き方として一言でいえば、御書の一節の「汝須く一身の安堵を思わば先ず四
表の静謐を祈らんものか」が、人間としての最良の生き方であるとおもう。
アルゼンチンの人権の闘士、エスキベル博士の話として、「ある国にトウモロコシ作りの名人がいた
。どうして良い作物を作れるのか。秘密を探っていくと、彼が自分の農場でとれた良質の種を、惜し
みなく隣近所に与えていたことが分かった。何故? 彼は明快に語った。トウモロコシの花粉は風に
よって、あちこちの畑に飛ばされる。ゆえに近隣の人が品質の悪いものを作れば、受粉によって自分
のトウモロコシの品質も下がる。良いものを作るには、皆が良いものを作れるように手伝わなければ
ならない
。」と。

どこの世界にも、自ら労せず楽をして、利益や地位、立場、栄誉などを手に入れることが出来れば、
どんなにか幸せかと考える人は少なくない。そのために、富や権力をもつ人に媚びへつらって生きる
人もいる。要領主義で、うまく人生を泳ぎ渡ろうとする人もいる。また立身出世を遂げた人を羨み、
嫉妬したり、時には、謀略を駆使してまで他人を蹴落とそうとする人もいる。

そうした生き方の背景には、自分の外の世界に幸せがあるとの迷妄がある。他人の目を、ごまかせて
も欺くことができても、自分の心は知っている。それが積み重なった人生は、いったいどんな人生に
なるのか自明であろう。周りで多くの、そういう人たちを見てきただけに、その生き方の末路の浅ま
しさや寂しさに、本当に可哀想な人生であったことが悔やまれる。

つまり、幸せを思う自分の心の外(環境)に、幸せを求めている、まさに先述した、子供の頃に聞い
た「青い鳥」のチルチル・ミチルである。


幸せとは、色んな捉え方があろうが、根本的には自分の心を磨き、人生において、どんな困難にも負
けない、強く、堂々とした不動の自己を築き上げることだ。
人生における「色んな出来事」に、偶然
などありはしない。必ず「原因と結果」があり、解らないから、また知ろうとしないから、運が良か
ったとか、悪かったとかと思うだけである。悪い結果には、必ず先述した生き方の積み重ねが、自己
の生命に刻んだ「いのちの癖」「いのちの傾向性」がある。

なにはともあれ、我が人生に真剣であること、誠実であること、勤勉であることで、一瞬一瞬を真摯
に生きていくべきだと思う。我れ四十数年、色んな非難の中で勉強し実践してきて、馬鹿にした者た
ちに対し、決して卑下せずともよい人生、社会の一員としての恥かしくない家庭・家族を構築できた


ニーチェは、
「自分自身と友人に対しては、いつも誠実であれ。敵に対しては勇気を持て。敗者に対しては、寛容
さを持て。
その他あらゆる場合については、常に礼儀を保て。」と。

また、「過失には責任を取ろうとするのに、どうして夢に責任を取ろうとしないのか。それは、自分
だけの夢ではないのか。最初から、自分の夢に責任を取るつもりがないのなら、いつまでも夢が叶え
られないではないか。」と。

ゆえに、夢である限り、所詮「夢」であり、願望、希望でしかない。夢を「目標」として、達成するまで
諦めず、常に精一杯の努力をしてこそ、その夢は実現するのであると信じる。


師が言うところから、今現在「消えた高齢者」といわれるショッキングな事件が世の中を震撼させて
いるが、ここに言葉の退化、対話の失効がみられる。また師の提言でも、ジャカールの言を引いて情
報科学がもたらすのは、「急速冷凍したコミュニケーションでしかなく、創造的対話をもたらすこと
はない」と。ここにハーバード大学のマイケル・サンドル教授の、政治哲学の双方向の対話形式の授
業が、テレビでも紹介され人気を集めている。

自らの意思・意見に固執し、知らない違ったものに対する拒否反応には、まさに対話の否定であり、
そこに建設的・創造的対話は生まれない。誰かさんのように、間違っても「それみろっ!」とは言わ
ない。


師はいう。強る心・丈夫の心は、ファウストの言う「いわゆる欲望を肥大化させた近代人の傲慢」と
は似ても似つかぬ「宇宙根源の法に帰依しているという確信から生まれる自覚・自負・衿持であり、
弱い人間には決して生まれてこない心であります。

特に仏教においては、宗教が人間の精神的バックボーンを成すのは当然のこととして、なおかつ「精
神的活動が宗教を包含するのであって、その逆ではない」(ミシュレ)と「人間のための宗教」という
立場を厳しく自戒している。
これは、暗黒時代のキリスト教から来るものであるが、これをはき違えると宗教は人間の弱さや醜さ
、愚かさや怠け心を誘発し「おすがり信仰」へと堕落してしまう。


これまで、この「校舎なき総合学校」で、四十余年間学び実践してきたが、人間とは何か、生命とは
何か、自己自身とは如何なる存在なのか。なんのための人生なのか。幸福とは何か。生とは何か、死
とは何か。このすべての根源的な回答を示してくれた。
学ぶ上で、頭だけで、学問的に理解するだけではなく、その理法が正しいかを確かめるべき「実践」
が必要である。「行学の二道をはげみ候べし、行学たえなば仏法はあるべからす」とあり、戸田会長
も「信は理を求め、求めたる理は信を深からしむ」と。車の両輪のごとく補完しあうものである。
所詮、高低浅深があるものの、いかなる宗教も「人間としての生き方」を説いている。間違っても、

自分の人生において、自分を師とし、何の規範も持つことなく振る舞い生きるような、浅はかな人生
を送るべきではない。規範に対し「学」は、自分の生き方、振る舞いが、仏法者として正しいのかど
うかを、常に見極める尺度であり、自己を映し出す明鏡となる。人生における様々な困難に翻弄させ
ることなき「航路を照らす灯台」となる。

          (さらに思案中)