【結婚について】

まぁ、結婚ほど運命的なものを感じるものはない。人それぞれに、色んな「縁」によって出会い、恋をし、
結ばれていく。しかも一生の上で、結構長い間の人生である。

欧米では、見聞きするところ、大変動物的に見える。と言うのも、勿論愛し合っての結婚であるが、毎日
愛を確かめ合い、愛を育み、歳をとっても夫婦の愛し合う姿は変わることがない。
しかし、なにか「合わない」理由がみえてくると、我々日本人のように辛抱はしないで、さっさと離婚して
しまう。現代の日本の若者も、こうした風潮が当たり前となっている。しかし、この善し悪しはさておくとし
て、ここで思うに、

@、結婚は、幸せな人生か。逆に、結婚しないで一生を終わるのは幸せか。勿論、どちらが幸せと断定
 するつもりはないが、戦時中・戦後生まれの、特に長男と結婚すれば、想像もしなかった様な、間断
 なき三度三度の食事の支度、毎朝の洗濯に掃除。息つく暇もない毎日の子育てや、嫁・姑の問題。
 そして気に入らない近所とのお付き合い等々。いつしか、燃えるが如き愛のささやきも消えて、苦労ば
 かりの繰り返しの日々となる。
 そして、小姑の世話や、舅・姑の世話をして送り出し、子供たちも結婚し、遠く独立して世帯を持ち、
 やっと二人だけになったと思えば、もう足腰が弱って何処にも行けず、ただ介護施設へ入る話題にな
 って…棺おけ行きとなる。もう少し良くても、まぁ葬式ぐらいは子供達がしてくれるだろうと、葬式代ぐら
 いを残し、六十代に行ける所へ行ければと思って旅を楽しんだり、趣味に興じたり。

さて、これが結婚しての人生と考えれば、何が幸せかと思うだろうが、そこはそれ、苦労しただけあって
、不思議と楽しく嬉しい出来事で報われる。たまに帰省して、可愛い嫁や、じぃ・ばぁと、なつく孫達に
囲まれての人生は、なんとも楽しいものである。
誰しも不幸を想定して結婚するものはない。信じあい、愛し合って結婚する。でも、生まれも育ちも違う、
所詮他人同士が、共に生活し始める訳であり、当然、細かい部分で習慣も考え方も異なる。やはり、
恋愛結婚にしても、お見合い結婚にしても、いづれ乗り越えねばならない時・事態が来る。その時に、
どう向かい合うか。

一方、どういう理由かにせよ、結婚しない人達は、色んな苦労を想像してか、また結婚したくても、縁が
なかったことがあるにせよ、私は「逃げ」であると思う。
確かに、先述したような色んな苦労があると思うし、今の仕事ややり甲斐のあることに、生涯打ち込むの
も良いかも知れない。また現在、将来に亘っての、社会的不安がそうさせているのかも知れない。
しかし、親も兄弟も、親戚も亡くなり、いずれ一人になる時が、また動けなくなって、病床に臥す生活が
必ず来る。
仏法は、「先ず臨終の時を習うて他事を学ぶべし」と。だから帰納的にしか生きられない者には、選択
できない、どうしようもない時点になってから後悔する。

A、より幸せな結婚をするには、お互いの目標や人格を、高め合える「仲間」でありたいと思う。なんの
 ための夫婦なのか。この「何のためか」によって、おおいに一生が違ってくると思う。
 (私は冒頭で述べたように、偉そうなことはいえないが…)

しかし、このような相手が見つかり、結婚できることは、余ほどしっかりした目標を持っていなければなら
ないので、大抵は「好きでたまらない」からとか、しかたなしにとかで結婚する。でも、決して悲観するこ
とも、まして落胆する必要もない。 要は、結婚してからが大事であって、日々の生活の中で見出せれ
ば幸いだと思う。
「なんのため」の目標や目的かが、こじんまりしたものであっても、その実現に、夫婦で力を合わせて頑
張っていけることは、幸せなことだと思う。まして崇高な目標であれば、その人生は最高に輝かしいもの
になるに違いない。
不平不満ばかり言って過ごすのも一生。環境が悪い、社会が悪いと愚痴ばかり言って暮らすのも一生。
随分昔、大先輩の、故・白木さんから指導を受けた。「自分は正しくて、悪いのはすべて相手」であると
言っている間は、何も変わらない。

*自分が変わらない限り、相手は変わらない。自分が変われば、周りの総てが変わる、との法則を体験
するまで、言われてから自分は七年もかかった。まぁ、いっぺん、やってみては? 
実践し、現実の証拠を体得してはどうかと、強く訴えたい。

B、運命的なもの。 なんともはや、好きな人と、どんなに努力しても結婚できずに終わった自分にとっ
 て、宿命・運命を呪わすにはいられなかった。ここで、仏法を学び、今でこそ言えることではあるけれ
 ど、生命の不可思議、生命に宿る「業」を認識せざるを得ない。
 「業」とは、過去・現在に至るまでの生きてきた、生命に刻まれた宿業である。善業もあれば、悪業も
 ある。経典にも「三千羅列厳しきなり」とあるように、厳しく差別がある。

蠅は蠅の住む世界・環境があり、蠅同士“結婚”する。人間も、夫々差別として持つ生命が、住み集ま
る環境があり、同じ生命同士が結婚し、一つの集合体を形造る。仏法で説く「三妙合論」である。夫々
が持つ生命の本因妙・本果妙・本国土妙である。

考えてみれば、高望みした相手に対して、自分に福運がなかった訳である。しかし、結婚してから善業
を積み、福運を重ねればいいことで、決して諦めたり嘆く必要もないと思う。
(私は、こう思えるまで逃げることばかり考えていたが…)
現に、この学校の活動の中で、宿命転換に励んだ結果として、どこまでも現実から逃避しないで、お見
合いで結婚した現在の妻と結婚して、本当に良かったと心底思える今日の人生である。
とはいえ、この歳になって「性格を変えろ」と云ってもはじまらぬ。まだまだ変えられない苦悩がある。
生涯、挑戦していくしかない。因と縁。見えないだけに始末が悪い。したい相手と成らず、思いもしない
人と話が進む。いったい世の中、どうなってるんだ、と思って生きて来た。

  人生は「感動」である。感動の人生を歩みたい。人の拡がりの中で、多くの感動の涙していきたい。