【使命と責任】

学会に入って、一番最初に学んだことに、「人は誰しも、その人でなければならない使命があ
る。」ということであった。信仰する、していないに関わらず、また石ころのように、有情・非情に
関係なく使命があるもので、何ひとつ使命がないものはない、と。それだけに、何モノにも価値
があり尊貴なものであると教えられた。

最初の“教学試験”の折り、幼馴染みの女の子に教えてもらうことになった。その子は、小学校
の時から常にビリで、自分は(自画自賛になるが)何度も5評価を一列に並べていた状態であっ
たのに、先に入会していた彼女に教わることになって、全く予想もしない情景である。それがま
た嬉しくて、懸命に勉強し、結果「合格」することができた。

人には、誰しも長所・短所があるように、得手・不得手があるものだ。夫々が持つ「長所」を、い
かに見い出し伸ばすかに懸かっている。更に「短所」をも長所に生かしていくことである。
しかし、これは自分だけではなかなか出来るものではない。我々の「校舎なき大学校」では、常
に先輩が「自分以上の人材に」と、見守り励ましてくれる。短気を起こして失敗した時も、「決断
が早いほうに生かせれば」と、温かく励ましてくれた。そして同じように、他のメンバーのために
「同苦」し、毎日の如く一緒になって、激励の活動につれて行ってくれた。
そうこうするうちに、いつしかリーダーとして「責任役職」を受けることになり、一層温かくも厳し
い訓練を受けるようになった。なんの利害関係もない、ただひたすら友のために、である。
この「役職」には、一銭の見返りもない「責任職」である。その責任を敢えて受け、果たそうとす
るなかで、祈り、勇気を出して、弱い自分、嫌なことには逃げてきた無責任な自分と闘い、成長
し、ひいては宿業をも乗り越えることができた。これは学会活動の中だけではなく、職場でも同
じように考え、行動する自分になっていた。

ただ、利害関係で成り立つ「役職」のなかでは、「上司は、部下を自分以上の人材にするため
に居る。」とは、残念ながら理解されることなく終わってしまった。武田信玄のように、「人は石垣
、人は城」と、人材を大切にする企業風土は、今の会社にはない。初代社長に仕えた時のよう
な、「社会に奉仕する」社是も、今は絵空事になり、唯一利益を生む者が、幹部としての責任職
・役職である。こうした考え方は、必ず「製品」に、「品質」に、にじみ出てくるものである。
しかし一方で、「人材こそ」とする企業が存在し、成長しているのも事実であり、他人ごとではあ
るけれど、嬉しい限りである。

ただ師が常に戒めておられるように、この清浄な会の中でも勘違いし、傲慢になる者がいる。
これは、先生が最も大切にされている方に多いように思う。誤解し早合点して、何度も怒鳴り込
まれた経験がある。そして誤解と分かっても、未だ一度も詫びてもらえたことはない。
かと言って怨んでは、自分の命を汚すだけである。
一つだけ、例を記録しておこう。ある方が、部員さんに激励の思いで語ったはずの言葉が、ひ
どくその人の心に突き刺さった。そしてその地域の責任者が誤解を解こうとするが、気持ちが
直らない。そして、私にも声がかかり一緒に聞くことになった。しかしその方は、「私が何を言っ
た?」と自らを正当化するだけで、聞いていても「私は間違ったことをいう筈がない!」と言わん
ばかりである。そして挙句は、その方は私に「私は色々忙しいから、そんなことに構っておられ
ない。あとで始末をしておいてくれ」と。なんという傲慢。師のお心を全く踏みにじるものである。

私は、「指導といっても激励のつもりでも、相手の心に届かないことがあると思う。そこにはお互
いに信頼しあう中でこそ通じるものだ」といって一旦引き受け、後日部員さんに会い、本来の気
持ちを伝え、気を取り直して頂いた。この他にも、師の指導を咀嚼できず誤解し、そのまま間違
って「こうすべきだ」と下に流す方が居た。師は、深く訓練を受けた方々に指導されたものであ
って、一般の部員さんへの指導ではない。なのに可哀想なのは一般の部員さんである。
まぁほんの昔の一例であるが、私は自らへの戒めとして、決して忘れない。

しかし、常にどこまでも相手の気持ちを慮り、悩める友を奮い立たすにおくものかと指導、激励
される、謙虚で誠実な幹部が沢山おられることも事実である。私はこういう人を尊敬し、ついて
行きたいと思う。