【宇宙と人間】

人間は、太陽系の中の地球に生きる、生物のひとつである。人間の祖先として、ダーウィンの
進化論は別に置くとしても、未だに、宗教的に「万物の創世」論や、伊邪那岐神(いざなぎの
かみ。日本の祖父神)と伊邪那美神(いざなみのかみ。日本の祖母神)など、また低級な「祖
先は土壌」だと平気で説くものもある。まぁ科学がこれだけ発展した現代においても、宗教と
して信じる者は勝手ではあるが…。

しかし、学生でないにしても、道理的に納得できるものではない。そして考えるに、法華経は
、人間も草木も、あらゆるものは「縁に因って起こる」と説く。別項で述べたように、有情・
非情を問わず、すべて「縁」により生成し成住壊空を繰り返す。ちなみに、地球はどうして生
まれたのか。そして人間は、どうして生まれたのか。はたまた、なめくじは、どうして生まれ
たのか。どこからか神秘な(例えば)神が創ったのか? ニューロンのように、宇宙のどこから
か、細胞が飛んできたのか? それもあるかも知れないが、要は、生成する条件が整えば形と
して生まれると考えるのが自然ではないか。

つまり、宇宙そのものが生命体である。太陽も地球も、宇宙が生み出したものであり、またそ
の地球も、人間を生み出した生命体である。人間ひとり一人は、地球の細胞かもしれない。
勿論、地球にとって、悪い細胞かも知れないし、いい細胞も居るだろう。

一方、その人間も、ひとつの宇宙をかもし出している。つまり、人間生命として、何兆もの細
胞は、あたかも宇宙の星々に見立てることが出来るのではないだろうか。そして、その細胞は
(周期は忘れたが)、絶えず体内で生まれては死に、新陳代謝して、成住壊空を繰り返してい
る。
ある科学者によると、細胞と細胞の間には広い空間があって、一個の細胞の大きさを地球とし
て対比すると、地球と月や、他の惑星とぐらいあって、一種の宇宙を形成している、と。
逆に人間を、細胞間の空間をなくし圧縮すると、ケシ粒ぐらいになるらしい。本当に不可思議
(妙)としか言いようがない。

また、これは我見であり、何処にも書かれていないが、地球に住む、万物の霊長である人間の
生命は、不思議と地球の公転の一年と期を同じくしているように思える。仏法では、亡くなっ
て後、四・七日(四十九日)の法要をし、此岸から彼岸へと送る。一方で、妊娠し赤ちゃんが
誕生するまで、十月十日かかる。これを日数で数えると、三百六十五日となり、ほぼ地球の公
転と一致する。勿論二月をまたぎ、起算月によって三百六十二日にもなるが、ほぼ合致する。
別に天文学的に、四・七日を当てはめた訳ではないだろうし、また十月十日も誰が決めた訳で
もないだろうが…。
まぁ、私自身は、仏法の「達観」には驚かされるところである。

現代科学は、まだまだ頭髪一本生むことも出来ないし、細胞学が発達し、臓器を造ったと言っ
ても、所詮まだ細胞を生み出した訳ではなく、環境を見出し、整え育成したにすぎない。
世の微生物学者は、また元素物理学者は、より「素」の成り立ちから「生命」を見つめていくだろ
う。そしていずれ、なめくじの誕生のメカニズムを見出し、無から有を生みだすかも?。
そして仏法の達観で説く「三千大千世界」での「宇宙の広大さ」や、「那由佗・阿僧祇」での
「時間の長大さ」も、益々科学の発展によって発見し証明されて行くだろう。
そして、天文学が益々新発見がなされ、発展して、「宇宙の始まり」が解き明かされていくだ
ろう。そして天文学者は、また次の「何故、その始まりが為されたのか」と、新たな疑問に思
いをいたすだろう。科学者は謙虚である。アポロ十一号で月面着陸の中心者、ジャストロゥ博
士は、仏法の達観に、真摯に学ぼうとしている。

そんじゃそこらの仏教や、宗派を見たり聞いて、「仏法とは、こんなもの」と、知ったかぶり
をしていては、その時には、子孫末代の恥である。
(しかし日本人は、何故いいものはいい、と受け入れられないのだろう…。これも五綱に照ら
せば、そのとうりではあるけれど…。)