【音楽と宗教】

初めて音楽に興味を持ったのは、中学校の入学式に、先輩達が器楽演奏で迎えてくれた時に、
なんとも言えない感動を受けたのを覚えている。確か、曲は、オリエンタルマーチと集会の歌
だったように思う。楽器といっても、昭和三十年のことだから、ハーモニカが全てだった。
でも初めて聞く「生演奏」の素晴らしさに心から嬉しく楽しかった。

入学式は講堂というものはなく、当時の集会場は、ほったて小屋と呼ばれ、屋根はあるが雨漏
りし、床は地面そのもので、各自教室から椅子を持って行き整列して座ったものであったが、
現在のような贅沢な環境ではなかったものの、みんな笑顔で充足した思いであった。
勿論、すぐ先輩からのクラブへの勧誘で入部した。そして、音楽の授業も変わっていて、生徒
自ら授業のカリキュラムを計画し、それに基づいてアダチ先生から授業を受ける訳であった。
当然、先生から課題は提示されたと記憶するが、多いに自主性が育まれたと思う。そしてこの
三年間のクラブ活動の中で、また音楽との係わりの中で、今から考えると、大きな「生き方」
の土台が築かれたと思う。そして、それは卒業後も続き、先輩たちとの年一回の「白鳳音楽愛
好会」へ続き、そして昭和41年の「当麻混声合唱団」へと受け継がれていった。

話しは変わるが、アダチ先生から教わったことに「音楽は社会性を持つ」と。音や声を発する上で否応なしに周りに影響する。つまり音を発する以上、周りへの責任が生じることを忘れてはならない、と。端的に言えば、下手な音楽は迷惑だということ。
そしてまた、社会的に何かを始めようとする時には、必ず「収め方」つまり終わり方を決めて始めねばならない、と。

ある時、「音楽は宗教から発生した。」と言ったとき、先輩から「そんなこ
とはない」と一蹴された。今もって考えても、否定された理由がわからない。まさに反対の
ための反対であろう。今まで見聞きしてきたが、古代宗教から、敬虔な祈りの中で、必ずと言
っても過言ではない「音楽的なもの」、つまり、リズムをもった原始的な楽器や歌う声が存在
したとある。

これは我見であるが、色んな宗教で題目を唱えるが、リズムのあるもの、ないものがある。
われらの唱える題目は三拍子。三拍子はワルツのリズムであり、自ずと蘇生のリズムを持っている。それよりもっと感動したのは、何十人、何百人の会合の中で、誰の指揮者もメトロノームもなく、みんな思い思いの音程で唱えているにも拘わらず、次々とドミソや、ドファラやシレソの和音にと変化し、時として濁和音になっても、また誰が音程を変えるのか、自然と美しい和音へと続いていく。その中に身を置いていると、なんとも唱題そのものに感動し元気になる。他の題目を唱えてみても解るように、なんか奈落の底に落ちていくような気分になる題目もある。

一方、音楽は世界の人々に共通して感動を、そして生きる力を与えてくれる。夫々のジャンル
こそ違っても、心の琴線に共鳴して鳥肌が立つように感動する。まして、自分自身が感動せず
して、どうして他人を感動させることが出来るか!
幼い頃から、母が歌って聞かせてくれた子守唄から、成長するにつれ触れてきた音楽との係わ
りは、どの世代にとっても大事な人生へのかけがいのないものとなっている。

楽譜のない口伝承されてきたメロディから、西洋の楽譜で、今尚演奏される音楽。そしてその
音楽は、言葉の垣根を越えて、世界の人々を感動させる。
ここで、楽典から論じる教養もないが、音楽と宗教は目的とするところは同じように思う。
宗祖の思いも、作曲家の思いも同じではないだろうか。