【自然と人間】

文化は、暮らしの習慣でそこに住む人、そこにある自然と不可分に形成された成果のことであ
り、文明はそれを取り巻く技術や環境を云うらしい。

「北の国から」の作家、倉本 聰氏は富良野に移住され、自然との共生で「富良野自然塾」を開
設されている。
そして、地球温暖化は間違いで、地球が高温化し、人間は自分のエネルギー消費を抑えるため
に、代替エネルギーを使い、それを“便利”といい“文明”と言っている、と主張される。
また、自分が楽をするためにエネルギーを使いながら、スポーツジムに通っては目的地に着か
ない自転車のペダルを踏み続けたり、重い鉄のかたまりを持ち上げ、生産性のないエネルギー
の消費に躍起になっている、と。

昔「電卓」の開発に、薄型・省電力のためにガラス板に回路を蒸着するため、多量の電力を必要
としたことによく似ている。
またブラジルでは今、現地の人々が生活の改善のために、世界の大豆市場の過当競争で、ほぼ
半分の熱帯雨林が切り崩されている状況を、テレビでレポートしていた。石油資源を食い尽く
し“便利さ”を追い求め、豊かになった現代文明。
この人間の傲慢は、もう昔の“不便”な生活「文化」には戻れないだろう。

人間は、間違いなく環境・自然に生かされている。人間はそれを認識せず、その傲慢は、自然
を食いつぶしている。そして未来の子供たち・人間は、SF小説がごとく地球を食い尽くし、
そして宇宙服を着て街を歩き、地球上を、そして遠く宇宙をさまようのだろうか。

仏法は「依正不二」を説く。「依法」とは周りの環境、「正法」とは本体。つまり自分と環境
とは一体である。そしてお互いが作用して、お互いをつくると説いている。
身と陰のごとく、身が曲がれば陰も曲がる。即ち、人間の生命が曲がれば、環境も歪められて
いく。
また、これを宗教から視ると、正法を対峙する環境とすると、自分は依法となって環境に感化
していく。また自分自身である人間は、環境をつくる訳でもある。
だから、間違った環境への解釈は、人間にとって取り返しのつかない方向へと突き進む、大変
恐ろしい考え方・思想という訳である

今、各国を代表する環境のスペシャリストが集まって、地球温暖化防止の協議を行っている。
そして自らの国への規制に対して、各国への義務や権利や責任を主張し、まとまりがつかない
状態を繰り返している。
この各国代表の人達の胸に渦巻くものは一体なんだろう? オーストラリアの「グリーンピース
」の活動に賛同するのか非難するのか? そして心ある先哲は、この状況をなんと視るのだろ
うか。依って立つ「主義・思想」の低く浅い違いが、この混乱を深めている。これを治めリード
するためには、まだまだ我等が道は遠い。