【医学と信仰】

弟や友人の病気を思い、すごい医学の発達ぶりを感じる。
若い頃には、ペニシリンが特効薬で随分助けられたが、今は早期発見によってはガンも不治の
病ではなくなったようだ。
しかし、一方では新しいウィルス性の病気が次々と現れて、あたかも医学の進歩に挑戦してい
るかの様相である。

ところで、人は何故「病む」のか。また、肉体的な病気、精神的な病気と際限がない。勿論、
信仰していれば病気にらないか、と言えばそんなことはない。暴飲暴食や、生活習慣の乱れか
ら、また業病と言われるような病気をすることがある。まぁ、どんな病にせよ、医者にかかっ
て治るような病気なら、手を尽くして、薬をもらい安静にしたりしての治療を受ければ、先ず
大丈夫であろう。

一方で、「人間には元より自然治癒力がある。薬はその治癒力を助け、高めるためである。」
と、どんな医学者も異口同音に言う。ただ、現代医学をもってしても、医者から、さじを投げ
られた時にどうするかである。もう駄目だと諦めるのか。または、余命を楽しく生きようと考
えるのか。それとも、絶対に治してみせると生き抜こうとするのか。
ここに自ずと、「自分自身の治癒力」が高められるか、減退するかの分岐点がある。毎日ひき
も切らず、新聞には経験談・体験談が掲載されている。勿論、治った記事もあるが、寿命をは
るかに延ばし安生として逝かれたケースもある。しかし、どれも医者の予想をはるかに覆した
ものばかりである。
信仰しているから、病気にならないといえばオカルトである。信仰していればこそ、日頃の振
る舞いも変わって当然である。自らの「治癒力」を強めることこそ、病いに打ち勝つ根源であ
り、また信仰の実行力である。つまり「生命力」を強めることである。

精神力や体力と言えども、何もせずに強く出来るわけではない。ただ漫然として、また心がけ
程度の努力ではなく、血のにじむような繰り返しの努力があってこそ、その道の達人といえる
人物になれると思う。つまり、その道の道場なりジムなり、学校にあって鍛えられる訳であり
、なかなか独学で為しうるものではない。
それと同じように、ことは「生命力」である。日頃、生命力を昴め強める訓練・鍛錬を、どの
ようにしているのか自らに問うてみる。

ならば、その生命力をどのようにして強めるべきか? 
座禅のような観念観法や写経で「やる気」が出て来るか。まして「生命力」が湧くか。ここに
力ある宗教、実際に証拠として現れる宗教と、祈っても何の実証もない宗教との違いがある。
信仰とは、ある意味で、悩みとの戦いである。実践である。
日頃、なんの「生命力」なるものを強めることには気にも留めず、ましてなんの努力もせず、
「医者からサジを投げられて」から、おいそれと出るものではない。そして常々「何かにすが
って」とか言って「弱い人間」と侮辱している者こそ、あわてふためいて死の恐怖にさいなま
れ、哀れな醜態をさらす。
勿論、医者を信じることはもとより、「何故、私はこんな病気にならないといけないのか」と
思う前に、自らの「生命力」を強くするための努力をしていくべきである。ゆめゆめ、何かに
すがったり、「棚からボタ餅」を願って、自らの治癒力を放棄すべきでない。

先述したように、傲慢な医者、生命の何たるかも知らない医者は論外として、いのちのスゴサ
を知る医者は謙虚である。「薬は補助的なもので、その効果を高めるのは、あくまで患者自身
の生命力である。」と言っているではないか。

「自分は、まだまだ死ぬわけにはいかない。まだまだ、することが残っている。その使命を果
たすため、いつまでに、この病気を絶対治してみせる!」と、先ず決意することである。
かつての親友に心から訴えたが、一人は「今更、何を信じろと言うのか、ワシは、医者を全面
的に信じ任せている。」と。もう一人は「なぜ医者が早期発見出来なかったのか!」と悔しが
って、二人とも定年を前にして逝ってしまった。いまだに残念でならず、解ってもらえなかっ
た自らの非力を思う。

これからも医学・医術は、際限なく進歩するだろう。そして病気にならない、また病気になって
も回復して、益々長寿になるだろう。しかし長生きできることが、即幸せかというと、そうで
ない場合が多い。まず健康であると共に、「自らの使命に生きることが出来る」ことが最も大切ではないだろうか。
「百歳まで生きて名を下すより、生きて名をあげることこそ大切なれ。」である。なにも有名
になることではなく、「あの人は、世のため、人のために生き切った!」と言われる生き方を
すべきであろう。