【敦煌に思う】

甥っ子が結婚するとのこと。彼女は中国・敦煌の出身で、平成18年8月13日に敦煌で式を挙げることで、兄弟夫婦で参加することになった。
なんと「縁とは異なもの」とはこのことか。

莫高窟が発見されて未だ百年余り。そして仏教遺跡として世界遺産となったのは、まだ198
7年。漢の時代から約千年にわたり掘られたという。
今から三千年の仏教が西から東へ渡って来て、東の端の奈良から、全く新しく改定された「日蓮仏法」が、東から西の端の敦煌へ。
玄奘三蔵が印度から仏典を持ち帰り、羅什が漢訳したその場所である。行きたくても余程の機会がないと行けない所での結婚式。ホテルで会った日本人ツアー客も「なんと素晴らしい!」と驚くほどの奇遇である。保存に貢献されたパネルが約10人掲示され、日本人三人の内の中央に師のパネルがあり、本物を目にした感動は言葉で言い尽くせない。

遠来の「親戚」となる我々を、彼女のご姉妹ご夫婦が、真心を尽くして歓待して下さった。
勿論、同志ではないが、シルクロードの東の果ての奈良をよくご存知であった。そしてお兄さんは、以前に奈良を訪れ「友好都市」へのご尽力をされ、ご夫婦は日本語が話せて日本の訪問者
への通訳をなさっている。

今は、確かに法華経は廃れてはいるものの、「仏法の淵源地」には、世界各国から毎日四千〜五千人が訪れている。
その現状はさて置き、今の日本人の思考の薄っぺらさに唯々嘆きたくなる。もちろん中国の人々十六億人すべてが四千年の歴史を知悉しておられる訳ではないが、その血は受け継がれているはずである。とにかく思考形態というか、ものごとの捉え方が違う。

たかが千年の日本史。しかも開国して未だ二百年余り。しかも一億人足らずの人間が、食って行けないからと馬鹿な他国侵略を犯す一握りのエリートバカが!どれだけの民衆を途端の苦しみに導き、且つ全国民・総玉砕まで指導したか!
これを日本人が、ありのままの歴史教育も反省もせず、時として正当化するヤカラが居るのが情けなくて!
周総理が「賠償放棄」をされた意図も分からず当然の如く言い、ODA額がどうの、覇権主義がどうの。
中国は内戦はあったものの、他国侵略をしたか。香港だって平和裏に英国から返還され、今は一国二制度で発展している。台湾は? 米国がとやかくいうことではない。
経済・技術など薄っぺらなものだ。要は、民衆を幸せにできるのは「思想・信条」である。

更に言いたいのは、日本文化の恩人である中国を、また近代アジアの中の日本から、中国との国交を重視し、今のように、行き来できるようになった歴史を知らなさ過ぎる、ということである。まぁ、未だ大本営発表のような偏ったマスコミから考えれば止むを得ないが、しかし偏
頗なアンテナでは、正確な真実を知る由もない。
戦後、中国との国交を重視し、その復交に人知れず尽力されてきた松村謙三氏をはじめ多くの人々がおられるが、成し得なかったことを、どのように国交回復できたのか? 
1962年から、ビジネスを通じての、岡山県の岡崎嘉平太氏の努力に、当時の通産省、台湾承認などの苦労など、多分、72年9月29日の田中角栄総理と周恩来総理の共同声明で、中日の国交回復…程度の知識だろう。

一方で、当時、何故日本は「米国の頭越しの…」と騒いだのか、その背景を知る人は少ないだろう。
そこで、ひも解いてみるが、偏頗な色眼鏡でみれば「自画自賛であり、そんなことはない。」というだろう。何度も言うが、「そんなことはない。」というなら、明確な事実に基づいた「根拠」を示すべきである。そう言うと、大抵殆どが、全く支離滅裂なことを言うか、または先輩面しての逃げ口上である。あぁ情けない。恥ずかしっ!

当時、自民は反発、社会党は文化大革命に対し内紛状態、共産も毛沢東と大喧嘩で断絶状態の中で…。

・1968年9月8日、第11回学生部総会で、池田会長(当時)が、日中国交正常化提言を発
  表。(自分はこのスピーチの録音盤を持っている)
  この報告は国内はもとより、人民日報記者により即刻、周恩来総理に伝えられた。予てよ
  り大民衆団体である学会に注目していた周総理は、松村謙三氏を通じ会見を希望されるも
  第三代会長は、敢えて党を窓口として1971年訪中が始り、お膳立てが整って行った。
  この中には、日清戦争で敗戦国の中国が、日本に多額の賠償金を支払った苦しさを受けな
  がら、周総理は、民衆の苦しみの経験から「日本への賠償放棄」を打ち出した。
・1971年7月、キッシンジャー大統領補佐官も、周恩来総理と会見。
・1972年2月29日、中国と米国の国交樹立。(ニクソン大統領)
・ 同年   9月29日、中国と日本の国交回復。(田中角栄総理)…、会長提言より四年…
・1974年9月、第三代会長は、ソ連コスイギン首相と会見。同年12月、第三代会長、病
  床の周恩来総理との会見が実現。そして周総理は、米国のマンスフィールド元駐日大使と
  も会見され、約一年半後の1976年1月に逝去された。そして毎年春には大学の「周桜
  」が咲き誇り、毎年中国大使館はじめ著名人や、中国の留学生を招き、周桜と周夫婦桜の
  観賞の宴が催される。

今や中国の北京大学をはじめ、70の大学から名誉教授称号を二百以上も授与され、九大学に「IKEDA研究所」を開設している事実。こうした民間の指導者が日本に、世界に居るか!

ともかく莫高窟が発見され、命がけで保存した常 書鴻氏。それをバックアップした周 総理。
そして海外からの十人余の保存協力者が、入口の門の右手に、パネルとして掲示されている。
その中に日本人として、第三代会長、井上京大名誉教授を含め四人も居られた。
常 書鴻氏が保存に取り組む前には、フランス、ロシア、日本(龍谷大)などが、多くの品々を
持ち帰ったこと。そして東側には、日本政府の開発援助資金で建てられた大きな博物館があり
、ここも見学できた。ただ、ツアーには、見学コースとして入っていないのか、各国ツアー客
は殆んど目にしなかったのが残念。

暑い暑いと言いながら、木陰で五元のアイスキャンデーの美味しかったこと。

そして、王関門。敦煌の町より車で砂漠の中を二時間あまり、多くの車でデコボコになった道
を走って、やっとオアシスに着く。乾燥した強い風が吹いていて、数百メートルほど向こうに数十メートルの立方体の関所跡が見えた。
一元を払って用を足してから、ラクダの親子が客待ちしていたが歩いて向かった。ここで他国
からの侵略に備え、多くの兵士が駐屯したという。
小高い砂山に登ると、二百メートル先にオアシスが広がっていた。また車で少し走った所に、
漢の時代の長城跡が、かなりの風化で崩れているものの、数百メートルにわたって残っていて
近くには狼煙台も残っていた。
まわりには何もなく、地平線まで砂漠である。砂漠化したのだろうか、それとも元々砂漠だっ
たのか…。

翌々日には、町より二十分ほどの砂漠の中の、鳴砂山・月牙泉にも連れて行ってもらった。
門から数百メートルを、生まれて初めてラクダに乗せてもらい、砂山に囲まれた処に、寺院の
ような建物と三ケ月の泉と、少しばかりの花が植わったオアシス。
その他、絨毯、石器などの工場に案内してもらい、ご姉妹競って、自宅に招いて下さった。
市場でシシカバブーを食べさせてくれたり、強いお酒を頂いたり、それはそれは言うに尽くせ
ない歓待を受けた。
今後、いかにこの恩を報じるべきか…。

翌々年、中国の大恩人である彼女のお母さんが来日された。
この時ばかりと、弟一家宅や当麻寺、法隆寺や奈良公園などへ案内し、高田市駅前の中華料理
も、どうやらお口にあったようで食べていただけた。