【老後】

今、世界的に医学が発達してか(?)長寿社会になり、とりわけ日本は、少子化と併せて、国と
しても個人的にも、生きていく上で大変難しい情況になっている。
日常のテレビニュースをみていると、独居老人が亡くなっても発見されず白骨化していたり、
また、老夫婦が生活費に困窮し、看病疲れで相手を殺したり、目を覆いたくなるような悲惨な
事件を報じている。身の回りでも、亡くなっても引き取る親戚縁者もなく、ひっそりと葬儀を
済まさざるを得ないことが度々起こっている。仲間の場合は、地域の会員さんにより友人葬が
執り行われるが、大抵の場合、役所で密葬されるしか無いようである。

このような現実が進むに当って、わが身をふり返ると、息子は遠方で所帯をもち、娘は更に遠
い国で暮らしていることを考えると、いざという時や、日常、突発的な事態には「時の間に合
わない」ことになる。昔から、「遠い親戚より、近くの他人」と言われているが、さて現実を
想像するとぬべなるかなと思う。

ではどのように日常生活しておくべきか。
例え仲間あっても、亡くなった時に、「あ〜ぁ大変だなぁ」と思われるか、「えっ、亡くなっ
た?! 私はあの人に一杯お世話になったんだ。」と多くの人から惜しまれて葬儀に駆けつけ
てこられる人もいる。まして日常「隣は何する人ぞ」と、またプライバシーがどうのとかで、
人の世話をしたくないし受けたくもないと生活してれば、一体「いざという時」に、どのよう
に対処するつもりなのかと思う。
それを考えると仲間であるないに関わらず、近隣との係わり合いが大切になってくる。
お世話になってもお礼の挨拶もしない、顔を見合わせても会釈もしない、ましてお世話をしよ
うともしないのでは、信用、信頼される道理もない。

「向こう三軒両隣りを大切に。」と言われているように、益々重要な時代になって来ている。
自画自賛になるが、家人は未だ知らずながら、旧習残る村の中で隣り近所から信頼を受け、「
…治世産業は皆仏法に相違背せず」を体現している。
その日常を視ていると、まぁよく近所の人を気にかけ、せっせと世話をするものだ。あれだけ
ズケズケと言うのに、そう憎まれることもなくである。
ともかく「釈迦の八万法蔵の経々も、すべて人の振る舞いにて候いけるぞ」と。これがすべて
の出発点であると思う。

年老いて、男は「故郷へ帰りたい」と。女は「実家へ帰りたい」と言うらしい。理由は夫々あ
ろうが、豊な老後を過ごそうと望むなら、先ず周りの人々に尽くすことである。
よく言うではないか。情けは人のためならず、と。