【愛と慈悲】

キリスト教は、愛を説き、しょく罪の自己反省に依って罪が許されるが、生まれながらにして性
善説と性悪説を説くように別れ、神に依存する「他力本願」である。

ユダヤ教は、キリスト教の前身、イスラエル民族から発生し、モーゼの十戒を重んじ、旧約聖書
を経とする徹底的な「自力本願」の宗教。

イスラム教は、七世紀前半にメッカ出身のマホメットが、アラーの啓示を受け唯一全能の神とし
、コーランを経としている。

いずれにせよ、如何に信仰深くても自らが神にはなれないし、生命の永遠性は説いていない。
現在も戦争をしている国々をみると、未だ憎悪に暮れ、愛を説きながら互いに報復の殺し合いを
する、これらの信仰者が居る。
これらをよく視ると、一部の為政者が、宗教を利用し人々をあおり、殺し合いをさせているよう
にみえる。為政者による、宗教の政治的利用である。
本来、宗教は、民衆をして幸せへと導くものではないのか。人々は、自らの信じる宗教に対して
疑問を持ち、確認し、判断をしようともしないのか。宗教に隷属するほどの不幸はない。

仏教は慈悲を説く。単純に考えると、愛には反語として「憎」があるように、絶対的な生命感で
はない。しかし慈悲には反語がないように、絶対的な生命であり、一方的な生命である。
ただ、釈迦が、八万宝蔵といわれるように、無数の経を説いたが、その後世に至って、釈迦の生
まれ出た本懐たる「法華経」を依経とせず、また仏教に師である釈迦を立てずに、大日如来を立てたりして種々の宗教に分派した。
本来、歴行修行も含め、過去・現在・未来世と、生命の永遠を説いている。また、自力本願を基
としていているが、安易な法を勝手に立て、貴族出身の空海・親鸞などが、政治的に権力と結託
し、一般民衆には、厭世的な他力本願の「あきらめ」の宗教を広めるようになった。権力者にと
って、民衆をひれ伏させるには好都合の宗教である。
まさに、これも為政者による政治的利用である。

ともかく、慈悲は、母が我が身を省みず、ひたすら子供を慈しみ育てるように、見返りを求めな
い一方的な「いのち」である。にも拘わらず、最近の「母が子供を殺す」のは、一体どうしたこ
とか。この母親は、どのように、親から育てられたのか。
因果応報を、また他の命に尽くすことも教えられず、間違った利己主義的な育ち方しか、して来
なかったからではないか。社会が、制度が、学校がと、他に責任転嫁をしても解決することでは
ない。

話しは少し変わるが、新聞に通信販売会社「アマゾン」を創設したジェフ・ベゾス氏が10歳のこ
ろ、大好きだった祖父母と旅をしていた。暇を持て余すベゾス少年は、当時よく耳にした広告で
たばこを一服吸うごとに、何分寿命が縮まるかという内容だった。
祖母はたばこを吸う人だった。少年は計算して得意げに、祖母の寿命が9年短くなるはずだと告
げた。祖母は泣き出した。がんと闘い、余命が長くなかったのだ。祖父は車を止め、少年を外へ
誘った。少年は叱られると思いきや、祖父は優しく語りかけた。「ジェフ、賢くあるより優しく
あるほうが難しいと、いつかわかる日がくるよ」と。
人を悲しませるには、何の配慮もなく思いつきや感情を、そのまま語っていればいい。
しかし、人を安心させ、幸せにするには「心の労作業」がいる。それが本当の「賢さ」であり、
慈悲であろう。賢者とは、知識が多い人ではなく、智慧と慈悲をもって、喜びを分かち合ってい
く人をいう。心を砕き、人を励ましていく生きかたのなかに価値創造がある。

宇宙そのものが「慈悲」の生命の当体である。我が生命の境涯をたかめ、その境涯が未来世にも
続くと信じるなら、今からでも「慈悲の生命」へと昴め行く、鍛錬を始めるべきである。