【科学と宗教】

先のテーマで記したが、一見「科学と宗教」は相入れないものと思っていた。
また周りの友人・知人の殆んども、そのように思われている。

ただ、これも今でこそ言えることであるけれど、科学は帰納法的なもので、ひとつ一つ、真実を積み重ね
て究極の法則・真理を求めていく、普遍妥当性のあるもので、同じ条件で実行する(原因)限り、誰が行っ
ても同じ結果をもたらすものである。平たく言えば、数学で問題を説き明かすようなものである。

そして科学の持つ本来の目的は、人にとって便利や楽を伴い、幸せをもたらすものである。しかし一面、
科学は中立なものであり「両刃の剣」でもある。使う・使い方によっては善にも悪にもなる性格を持ってい
る。例を挙げれば切りがないが、原爆もそうだし、テレビも情報の洪水で、ある三バカのキャラは、日本
の若者を阿呆にしてしまった悪の元凶である。ともかくも使い方次第である。

一方、宗教は、どんな宗教でも教え(教典)があり、対象(本尊)があって、究極の信仰する対象・対境があ
る。つまり、人間が人間として生きるべき規範、答えが示されている演繹的なものである。

勿論、いづれもその教えは教祖・宗祖の達観(悟り)によるものであるから、いかにも非科学的なものと考
えてしまう。しかも殆んどの宗教は、少し検証するだけで非科学的なもので、多くが矛盾し神がかり的で
盲信させるようなものばかりである。また棚からボタ餅的な、またはオカルト的なものまでが満ち溢れてい
る。
そんな中で、「宗教も科学的」と言いたいのは、端的に言えば科学と同様に、誰人もが同じように実行す
れば、同じ結果を得られるような普遍妥当性があれば、科学的な宗教と言うことが出来よう。
もっと言えば、現代科学は、一方で宗教の達観を証明しているようにさえ見える。そんな阿呆な〜と言わ
れるかも知れないが、自分も仏法を学ぶ中で、色んな事象や事実を体験し確信するに至った。

仏教は釈迦を起源とするが、その経々の数ある中で、法華経はすごい!
科学は自然現象を対象とした学問であり、仏法は生命対象とする哲学である。そして、どちらも原因・結
果を旨とする。その方法論として、科学は分析的で帰納法であり、仏法は総合的で演繹的である。

かのアインシュタインは「宗教なき科学は不具であり、科学なき宗教は盲目である。」と述べている。
そして彼は、1905年「相対性理論」や「量子力学」によって、それまでのニュートンやファラデーの「場
の理論」を覆し、空間は「何もない絶対真空でもなく、またエーテルのようなもので満たされている訳でも
ない。その空間は、あらゆる物体を生み出し、それに変化を与えていく“力の場”である。」と。
光を伝えたり磁力を伝え、時には新しい物質を生み出す空間を、物体、エネルギー、場の関係で明確
に説いた。
どの項で記したか、宇宙の空間は何もない真空だと云うが、実に96%ものエネルギーと質量で、満ち満
ちているという。

つまり、空間は「無でもなく、有でもない」という訳で、三千年前に釈迦が説いた「空」を証明したことにな
る。そして三諦・三身をもって説き明かしているし、また「依法・正法不二」でも説いている。また、科学者
の時間と距離についても、哲学者カントの捉え方と一致するが、これも釈迦は「色法・心法の不二」として
説いている。

一方で科学者は、新発見をすればするほど、謎にぶち当たるという。例えば素粒子の数に、古代の地
水火風の四元素から出発し、未だ三百以上も増え続け、確定すら出来ないでいるが、すごい科学者は
常に謙虚である。
生命を説く仏法は、宇宙大の物質と心、距離と時間をも包含した「生命」を完璧に説き明かしている。
科学の目は事象・現象をもって、これを証明して来たが、まだまだ深遠な仏法の達観を、否定も肯定も
出来ないでいるのが現状である。
そして法華経・特に如来寿量品第十六は、生命のドラマである。
その展開をして、過去・現在・未来に亘り、中立なる科学を善なる方向へとリード出来得るのが、日蓮仏
法であると断言する。
 (こう断言すると、何の論拠も持ち合わさないクセに、反発するあの高慢チキな顔が浮かぶ)