【常識と逆説思考】

色んな知識や経験から、我々は「常識」という感性を持っているが、ここで新聞に掲載された
、森下伸也・長崎大助教授の記事を書き留めたい。
何故この記事に興味を持ったかというと、現在のいじめの問題の解決に、ヒントがあるように思えるからである。以下、その記事の抜粋である。

通常、頭の中に常識というクモの巣がはり、まぶたの上を常識という鱗が覆っているために、
真理が見え難くなっている。その常識の逆をつくことで、真理をえぐり出し、目にみえるようにしようとする脱常識、逆説思考。
「科学者は、頭が悪くなくてはならない」とは、地球物理学者の寺田寅彦先生の説である。

科学者は、仮説と実験の、いつ果てるとも知れない積み重ねの繰り返しである。ひょっとすると一生涯、さしたる成果も発見もなく終わる場合も少なくない。
頭のいい人は、目先がよく効くから、前途の多難さを察知して、さっさと撤退してしまう。

しかし頭の悪い科学者は、うんうん唸ることになるが、「何かしらダメでない他のものの糸口を取り上げている」らしい。つまりそれが新発見や新理論の始まりである。
画期的な発見や発明のかなり多くは、実際、とんでもない失敗や勘違いや脱線が発端になっている。
フレミングのペニシリン、レントゲンのX線、ノーベルのダイナマイト、最近では、ノーベル賞の田中耕一氏が配合物質を取り違えて脱離イオン化法を考案等々。
一方、天才的な人のよく聞く話しとして、科学者のレオナルド・ダ・ヴィンチ、エジソン、アインシュタインや、他分野では、アンデルセン、ウォルト・ディズニーなど、も類似の事実を指摘できるという。ちなみに、車椅子の宇宙の天才ホーキング博士も含め、幼い頃は劣等生であったり、何らかの障害を持つ人達であったという。
まことに魅力的な「逆説理論」である。

かのアインシュタインの脳みそは、死後も研究用に保存されているが、調べてみると頭頂葉という部位にかなりの障害が見られ、京都大・正高信男教授によると、これは言語活動に重要な役割をはたす部位で、彼が学校の成績がさっぱり振るわなかったのは、この損傷のせいらしい。

人間には、そうした障害があると、それを補償するように視覚イメージの操作能力が著しく発達するそうで、その結果として、誰にも想像だにもしなかった独創的な宇宙イメージを獲得し、相対性理論を創造したしたのだという。障害にも拘わらず天才になったというのではなく、障害があったからこそ天才になったという。

先日テレビで「サヴァン症候群」とよばれる人々を特集したドイツの番組を見た。
サヴァンとは仏語で「賢人」意味は「知的障害を伴なう自閉症で、ごく特殊な分野できわめて天才的な能力を発揮する人々」のことである。
映画「レイン・マン」のモデルとなった何千冊もの本を完全に暗記している男性、何百桁もの計算が瞬時にできる男性、ある日いきなりジャズ・ピアノをプロ・レベルで弾き始めた少年、数十分ローマの上空をヘリコプターで飛んだだけで、寸分たがわず街の全景を観を描くことができる少年……。聞けば、みんな左脳と右脳をつなぐ脳梁という部位に重大な障害があるというから驚きである。脳科学が描き出す世界は、創造を絶する「逆説的事実」に満ちている。(以下略)

考えてみると、現在色んな知的障害を持つ児童が、自殺したりいじめに遭ったりしている。児童はもとより親も嘆いていたりしているが、この記事を見ると、その子達の可能性に希望を持たざるをえない。
しかし親は唯々恥ずかしいとしか思えず、その上、教師も世間もその可能性を見出し慈しみ育てる素養もなく、いじめに加担すらしている。親も教師も、今までこうした可能性を学ぶ機会もなく、周りに教えてくれる師もいない。ただ学校で学んだ(役に立たない)知識と、たかが知れた一般常識で我れ賢しと思い上がり、しかも常に見聞を深め広めようともず、世間の出来事に無関心を装い、浅薄な常識で、愚痴のような評論家の如何に多いことか。

学校時代は勿論のこと、社会に出ても沢山の先生・師匠が居られる。知識・常識・見識だけでなく、人格を深め磨いていける。しかし天狗となり、傲慢な人間にはそれが見えないし、必要とも思わず、求めようともしない。それが自分にとって恥ずかしいことだとは更々思っていない。

翻って自分は、若くして先生・師匠を持ち、日常の活動の中で学び、また少年少女も含め、老若男女と語り合う機会を持てることは、我が人生にとって、なんと幸せなことかと、改めて感慨深い思いをしている。
もうすぐ「未来部員会」の予定がある。是非この「逆説的事実」を話して伝えよう。決して「何々の成績が悪い」からといって恥ずかしいことでもないし、悲観することもない。

誰人も長所もあれば短所もある。社会に出ると、今、優等生といわれる友達がみんな成功するとは限らないし、また劣等性といわれる友達も、みんな不幸になるとは限らない。かえって逆の例のほうが多い。
勿論、学校で学ぶ基礎知識は、多く知っておくことに越したことはない。多く知っていれば応用範囲も広がる。
かといって、その知識が理解できなかったからといって、将来も理解できないとは限らないし、また必ずといって、直接的に不幸につながるとも限らない。

我が師匠は、「君には、君でなければならない使命がある。」と。
「自分にとって好きなこと、興味あることを大事にして、生涯にわたって深めて行こう!」と。