【幸せとは】

多くは「自分が幸せと思えたら、それが幸せ」と。

人は皆、不幸になるために生きてはいない。また一瞬の幸せを感じても、生涯に亘って続く保証がない「幸
せ」なんてあるのか。モノや金・地位や名誉のように、他と比べての相対的な幸せか、それとも絶対に崩れる
ことのない幸せとは? そういう幸せとは?

逆に、不幸を感じるのはどういう時か。病気になったり、仕事が行き詰ったり、大切な人を亡くしたり、失恋し
たり…。色んなことが起こったとき、この世も終わりのように、また、生きていくことすら辛く、苦しい。人によっ
ては自ら、いのちを絶つこともある。
しかし、時が経って思い返すと、何故あんなことで悩んだのだろうか、と不思議に思うことも経験していること
があるだろう。

要は、嫌なことや不幸なことが現実になった時でも、悩みにさいなまされず立ち向かっていく
強いいのちを、
自分自身でつくるしかないのではないか。

要は、色んな出来事に「幸せ」の発祥があると捉えるのではなく、あらゆる現象に対する自分の「いのちの強
さ」で、幸不幸が決まってしまうのではないか。

よく言われるが、戦争がないのが平和ではなく、嫌な事がないことが幸せではなく、また、失敗したり負ける
ことが不幸ではなく、何が起ころうが、嫌なことに負けない自分、動じない自分、決して諦めない自分になる
ことである。
これは人と比べての生き方ではなく、原因・結果を他者に求めない、また影響を受けることもない、「絶対的
な幸せ」ではないだろうか。
失敗しても、勝てなくても、負けない自分、強い自分を鍛え上げることである。
身体が不自由な人でも、金持ちでなくても、幸せな人が沢山居る。他人と比べてどうのこうのではない。
また、法華経を信じていた宮沢賢治の「雨にも負けず…」のように、要は自分である。「どうなるのか…」と思
っての人生には、所詮どうにもならない。
自分の人生は「自分が創り、変えることが出来るのだ」と、叫びたい。

師は「絶対的幸福境涯というのは、決して、何の悩みも苦難もないということではない。
そんな人生はありえない。何もかも順調というのは、それ自体、幻であり、嘘です。悩みがあるのが実像です。
仏法では『煩悩即菩提』とあり、悩みがあるから幸福が味わえるのです。
苦難があるから仏と開くことができるのです。悩みがない人生というのは、本当は少しも幸福ではない。それ
が仏法の見方です。」と。
あらゆる自分の煩悩(欲・希望)に対して、乗り越えよう実現しようと取り組む中に、既に菩提が具わっている。
あの家庭はどうだとか、この人はどうだとか、他と比らべて幸・不幸を思っていても、所詮はむなしいだけで
ある。相対的な幸福を感じ、追い求めてもはかないだけである。

但し、このように「自分を変える」「自分を変革する」のには、独学・独力では余程でなければ出来ることでは
ない。故に「学校」が必要なのであり、そこでの勉強、励ましあいがあって、はじめて自らの生命を鍛え、変革
していけるわけである。これは弱い人間、弱い意志で出来ることではない。

さて、そう云うと、なにか自分の個性・人間性を束縛されたり、埋没されてしまうように思うだろうが、決してそ
うではなく、最高に個性を生かし輝かせる「生命の変革」である。何処の誰かも知らない人からではなく、親
しい友人から「このリンゴは美味しいよ」とすすめられても、かじりもせず、ああやない、こうやないと理屈をこ
ねている。お互いの幸せを願って云ってくれる親友を信用も出来ず、その「生命」を先ず変革すべきである。
しかもその上「私はそんなものに頼るような弱い人間ではない!」と。呆れてものも言えない。そういう人に限
って、初詣で「心から、神や仏に祈っている」。 要は、信念もなく哲学もない証拠で、行き当たりばったりの
人生である。
ちなみに、これらを良く理解し、何者にもとらわれず、嬉々として活躍するテレビで活躍する多くの人々を知
っているのか知らん。いま一度、眼を大きく見開いて、世間を知ることだ。

【追記】
新聞の箴言に、「人生のオリンピックで敗者はない。あるとすれば「人生に挑戦しなかった人だ。」と。
どの項で記したか、大きな困難が起こってきたのは、自分がそれだけ大きくなった証拠。
それに挑戦し続けた人が、人生の勝利者といえる。
ある友が云っていた。「人に嫌なことをして、自分の主張を押しつけたりしてきた人は、時が経つと、必ず違
った人から同じ目にあっている。」と。 人生って、生命って本当に不思議。