【宗教批判の原理】

創価学会に入って、日蓮仏法を学んで最初に学んだのがこれである。それまでは宗教に浅いとか
深いとか、高い低いなんて考えたこともなく、ただ何となく「この教えは、おかしいなぁ」「道
理にあわないなぁ」とか思っていたぐらいであった。

勿論、別項で記述したが、生命の因果律を説かないものは外道であり、論外である。それ故、仏
法においての高低浅深の判定である。ここには、「三証」「五重の相対」の二つは「宗教の浅深」
の項で記述したが、「宗教の五綱」というものもあって、これらを「宗教批判の原理」と呼んで
いる。

ここでは、「宗教の五綱」について記述しておきたい。教・機・時・国・教法流布の先後 で、その宗
教の正邪を判定する。

・「教」…教えそのものが、普遍妥当性があるか、道理に合致しているか。
  敢えていうなら、合理的で科学的を判定する。
・「機」…民衆の機根をいう。過去からの経緯から、現在の民衆が持つ、宗教・思想・哲学など
  で形成されている思い(例:六根など)である。
・「時」…今、いかなる時か、時代かである。時を間違っては、修行も何の役にも立たない。
・「国」…世界の国々には歴史がある。文化がある。そこに暮らす人々に根ざした宗教がある。
  キリスト教国もあればイスラム教国などの外道の国である無知悪国の民衆が殆んどの国がある。
  また仏教徒が多い、邪知悪国の国もある。
・「教法流布の先後」…この判断が最も大事となるが、その国の民衆に、既に流布した宗教を知ら
  ねばならない。
  当然、既に流布した宗教より高く深くなくてはならない。何故なら、人間というもの一度、便
  利で近代的な生活を経験すると、もとに戻れないのと同じである。既に流布した宗教より低い
  ものでは、民衆を幸せにすることも、リードすることも出来ず、孤立し衰退するしかない。

問題は、「にもかかわらず」である。

ともかく仏法に限って考えるなら、そしてこの「五綱」に照らして、各宗派の教経を判断するなら、
その正邪が明確になってくる。
そして、仏教が伝来してきたインド、中国、韓国、そして日本。その他、タイ王国やアジア周辺国
であるが、一概に仏教といっても、その「教え」はまちまちである。しかも、一様に「法華経」が
廃れて小乗教が殆んどで、日本でも大乗教であっても法華経ではなく、法華経であっても、この原
理に照らすと、各宗派の正邪がはっきりしてくる。

即ち、日本を当てはめて考察すると、聖徳太子が法華経を流布し、平安時代には、貴族文化ながら
おおいに栄えた歴史がある。その後、鎌倉時代から戦国時代に移っていく。

で、改めてこれを考えると、大乗教、しかも法華経が流布したあとである。
民衆の機根は、伝教大師が法華経を広め、平安時代を享受した衆生である。
時は、別項の「仏教の流れ」でも記述したが釈迦は、「私の教えは、二千年間は衆生をして利益を
もたらすが、その後は白法隠滅し、争いが絶えないだろう。そして新たな仏が出現し、末法の教え
を、一閻浮提(全世界)に広め、全民衆を利益するだろう。」とある。

仏記をみると、まさに北条氏の時代である。ちなみに日蓮大聖人は、仏記2171年(西暦1222年)
に生誕されている。
そして、日本国は仏教国である。教法流布の先後も、釈迦が死んで二千年以上経過し、すでに釈迦
の最高の経典である
法華経が流布したあとであり、民衆を利益するには、結局それ以上の教えであるべきであり、必要
とする所以である。

であるにも拘わらず、いまだ釈迦の予言を無視し、仏法の正師である釈尊をないがしろにし、法然、
親鸞などが手前勝手な教えを打ち出し、各宗派を立てて民衆を諦めへと導き、権力と結託して不幸
へとおとしめて来た許されざる仏法者である。

日本人は、おしなべて「無信論者」を標榜する。生きる哲学を持たず、行き当たりばったりの生き
方を、恥ずかしげもなく胸を張る。信仰を持つ人も、もっと勉強をするべきである。「如何に生き
るべきか!」と。