【権利と義務と責任】

いつから、この世の人間達、ことに日本人に、権利ばかり主張し無責任なものばかりになってしまったの
だろうか。特に、母親の子供の学校への主張には目に余るものがある。

記念写真で、我が子が真ん中に写ってないとか、あの子とはクラスを一緒にしないでとか、果ては、あ
の先生を辞めさせろとか。一体これらの母親は、どんな育ち方をしたのだろう。まさに、この母親の「親
の顔をみたい」ものだ。【悪質者】の項でも記したが、これらの主張を、する権利があると思っての抗議
だと思うが、何処に、その線引きがあるのだろうか、想像もつかない。

よく言われているが、「権利」に対峙して「義務」が存在する。義務を果たすべき「責任」がある。義務を
果たさずして、権利だけを主張する馬鹿はいないはず。

英国では、小学校お授業で「権利と義務」を教えているという。子供のころから、しっかりと果たすべき
義務と責任を教え、そして一個の人間としての、基本的人権としての権利を教えている。

同じく同国で、「親学」なる、親への教育がなされていることを知った。どうも、こうした風潮は、日本だけ
ではないようだ。
ジェントルマンの国にして、個人主義を、子供の頃から尊重されて育った人達の国である。日本のよう
な、個人主義も利己主義の違いも教えられた国とは大違いである英国にしてこれである。

また新聞に、1980年半ばまでは、ゲームをしていて勝っている子が、負けている子にチップを分けて
あげる子が八割だったのが、後半になると二割になってしまったとあった。
偏差値ばかりを追い求め、勝ち組・負け組みを社会に創り出し、思いやりや痛みを感じられず、弱肉強
食だとばかりに、権利ばかりを主張する人間をつくりだしてしまった。その時代の子供たちが、今、現在
の親たちである。

税金を払っているからと、また憲法で保障されているからと云って、権利を主張するのはいいとしても、
何に基づいて権利を主張しているのかも分からず、他者に、「こうしてくれるべきだ!」と主張する。
しかし反面、他者のために、そして公共的なためには、何の関心も示さず、働きもせずにである。

さて、こうした世相、人間社会を変えるには、これからの未来、即ち子供達の人格形成・教育しかない。
現状を急激に変革するためにと、体制を変えようが、制度を変えようが変わるものではない。
遠回りに見えるかもしれないが、ひとり一人の「人間革命」しかないと思う。環境に責任を求めている限り
、なにも変わることはないだろう。
先ずは、自らが義務・責任を果たし、義務も「権利」へと、発想の転換も必要だろう。勉強も「義務」と捉
えるか、「勉強する権利」があると捉えるかで全く違う。
知識も大事だが、それを使う、善なる智慧が大事である。善なる行為には、善なる心が宿っている筈で
ある。この善なる心を育むしか道はない。

   蔵の財よりも健康が、それよりも、心の財が最も大切である。