【仏法は勝負】

世法は評判。 国法は正邪・賞罰。 ルールや法にも高低・深浅がある。
隣組の申し合わせから、交通ルール。色んな国の法律や、国際的なルールまで。
当然、宗教にも高低・深浅がある。 
仏法は勝負である。思い込ましではなく、現実に得(ご利益)か、損(罰)かである。

また、仏法で説く「慈悲」には、
「無始の仏界に具わる九界の生命としての苦悩や悲しみは、衆生を救うための同苦であり大慈
悲です。それは、仏界の活力が、たゆみなく働き、生命が広々と開かれているゆえに起こる積
極的な感情です。」(開目抄、仏界即九界、十界論。後述)とある。
即ち、あの人を助けたい、あの友の苦しみを何とかしてあげたい等の思いに宿る、苦悩や悲し
みは、元々具わる「仏の生命」である。と。 だから万人に、仏の生命が存在すると説く。
そんじゃそこいらの仏教大学の教授も知らないことを、学会員の普通のおばちゃんが、こんな
ことを知っているというのが、またスゴイ!

実は同じ町内で、大学卒の高慢チキな先輩がいる。勿論、自分より長く人生経験もあるからだ
ろうが、年下の者には、明らかに学ぼうとしない。しかも知ったかぶりをして、浅薄な持論を
言って、相手のことを間違いと決めつける。
自分からみれば、こういう性格の人間は、むしろ可哀想である。若くても自分より多くの学ぶ
べきことを知っている人がいる。年下でも、自分より多くの苦労を重ねた、人生経験豊かで、
思考も深く広い人もいる。

所詮、人間、この世に生まれて来たからには、実生活の上で、人生の上で、幸せを享受してこ
そ価値があるというもの。人生は勝負である。
宗教は勝つためにある。我らには、人生に勝利するという信念と行動がある。御書にも「仏法
と申すは勝負をさきとし」云々。また「強敵を伏して始めて力士をしる」云々とも。
この「勝つ」とは、宿命にひるむ自分の殻を破り、強い自分、負けない自分築きゆく挑戦の異
名である。宇宙も地球も、我らが人生も「無常」であり、絶えず変化している。それに応戦す
るのをやめることは、人生への衰退である。
法華経に「現世安穏」を説く。我が師は「何があろうが堂々と、常に継続して人生に勝利していく戦いの中の姿」だと。決して棚からぼた餅的な、何もなく平穏無事な様子を言っているのではない。

人生、いろんな事に勝てないことがある。負けることもある。負け続けることもある。しかし
諦めないことだ。負けても諦めず、また立ち上がる、強い自分をつくり上げることが大事であり、プロセスが大事であろう。最後に勝つことが重要だ。
そして、自分の一生は「幸せであった」と、誇れるものであるべきである。ある箴言に「建設は死闘。破壊は一瞬。」である、と。
また事の真疑は横に置くとしても「過去・現在の末法の法華経の行者を軽賤する王臣万民・はじめはことなきようにて遂に滅びざるは候らわず」とある。仏法は勝負である。