2007年初頭から約3年8ヶ月、大字(区)の役員(書記)を仰せつかって活動した。
が、幸か不幸か、その8月の末に突然に心筋梗塞を患い、お役御免となった。

選出当初のもらった資料で、心構えとして「ボランティアに徹すること」とあった。
それ故、今まで四十余年の間で活動し訓練を受けてきたので、何等違和感がなく、そのつもり
で活動していたが、初年度の後半に「報酬」があった。

学会活動では全てがボランティアであり、また自らのための活動である。もう何年も前から葬
儀の導師を受け持っているが、車のガソリン代も自己負担であり、まして知人が亡くなった場
合などには香典を持参するのは当然である。
しかし、この協議委員の場合は、各住民から集めた「大字費(区費)」から支給される訳であ
る。

実際、これではボランティアとは云えないし、純粋な奉仕とは云えない。
そしてまた報酬が支払われることから、当然活動する義務が生じることになりかねないし、ま
た支給する側からは「活動(奉仕)してもわないと困る」と言った暗黙の要求が伺える。
もっとも、これは代々の先輩方が額の程度の差こそあれ、行われて来たことは承知しているが
、冒頭に記したような「ボランティアに徹すること」とは矛盾する。

世間は色んな捉え方がある。
実際、協議委員各位にすれば、いくら報酬をもらっても、お断りしたい活動が多いにも拘わら
ず、「好きだからやっている」「額はともかく、村のお金から支給している上では、やっても
らわないと…」と云った声が聞こえてくる。
最近、寿幸会の会計の明細で異議があったという。大字から支給された額が記載されておらな
かったことで、帳尻は合っていたらしいが、大字の会計から異議がでたらしい。その上、会長
に「寿幸会は、大字に全面的に協力してもらわないと困る」と云われたとのこと。
全く案じていることそのものではないか! お金を渡している以上、そう要求するだろう。
しかしボランティアであるはずである。「お金は要らないから、もう活動はしない」となった
場合、区長はじめ役員はどう捉えるのだろうか。
だから、大字として現在の寿幸会の各活動が必要なら、お礼をさせてもらうので墓掃除や大字
内清掃、ふれあい公園の清掃などを担当してもらえないか、が出発点でなければならない。
そうでないなら、寿幸会もお金を受けるべきでないし、徹してボランティアで奉仕活動を行う
ことが大事であろう。

ここで忘れられていることは、報酬を出すのも、住民のお金を預かって、その一部を渡す訳で
あり、ボランティアに対する「感謝・お礼」の意義を徹底して心がけるべきである。
間違っても、傲慢に「支払っている」などと考えるべきでない。最近ますます同様な声が聞こ
えてきて、心配するところである。

イエスマンを集め、たしかにやり易いだろうが、反面一部の者に負担が多くなるだろう。
しかも個性ある人材を避けていては、今の役員がいつまでも勤められるわけではない。
今回の「防災訓練」でも、個性あふれるものの、次代を担ってくれる後輩が沢山居ることが分
かった筈である。正直、自分は嬉しく拝見した。
しかも学会の中で、知らずしらずのうちに受けた訓練は、慈悲を根本に、こうした「ものの見
方」や「こころ構え」が出来ており、間違った「傲慢さ」や「してやっている」ような、ここ
ろ根が見えるようになった。
有り難いことであり、更にこころを磨き、美しい振る舞いができるように自らを鍛えて行きた
いと思う。

                     

ボランティア