【いのち(生命)について考察】 「編集中」
自分にとって最も大切な「生命」について、他の誰よりも何よりも創価学会から
日蓮仏法を教わって来た。そして今迄、色んな機会に思考を重ねて、書いて思いを
纏めようとして来たものの余りの深さゆえ、何を書いても一面しか記述できない
ように思えて始められなかった。
しかし、少しずつ書き記すなかで整理し纏めて行ければと始めて行こうと。
経、即ち法華経に曰く。常在霊鷲山、方便現涅槃、常在此不滅、現有滅不滅、等々。
あらゆる生命、有情・無情に関わらず生命の永遠性、常在性を説いている。
一念三千から記していかねば説明を尽くすことにならないが、別項に移すとにして
冗談じゃないが、人はこれを信じるか信じないかはあなた次第である。
1.分析と統合
例えば、一枚の紙片が高さ1mから地に着くまで何秒掛かるか、解くとすれば、
質量、風圧、温度、湿度、地磁気などを解明しながら、統合しより正確な答えを導き
出そうと出来る。しかし「生命」についての統合と分析は、そうはいかない。
心臓は解かった、肝臓も解かった、胃は、脳はと解明されたとしても、統合された
「生命」を解明出来たことにはならない。
時計は、個々の部分品を組み立てれば、その機能を発揮する。しかし「生命」は、
個々の部分品それ自体が作者であり、自ら機能し、更に全体をつかさどる。
2.色心不二
我らが「生命」を、唯物論や唯心論的哲学や宗教など、また色んな生命に関する
科学・化学によって論じられ明かされてきたが、これらは過去数千年前に、既に
仏法によって、矛盾なく普遍妥当性をもって、総合的に説かれた大生命哲学が、
この「法」である。あらゆる科学は、この仏法を証明することとなっている。
色:本体、物体、肉体である。ものとものでないもの。
心:精神、こころである。 要は、夫々が二にして一体であり、これを生命という。
「顔で笑って心で泣いて」という話しがあるが、泣いている気持ちで笑えと言われ
ても、なんとも無理な笑い顔にならざるを得ない。その瞬間・瞬間の心・精神状
態と身体の様相とは一様である。
3.三如是・三身・三諦から書き始めよう。
-1.法華経 方便品第二:十如是のうちの 相、性、体の三如是である。
如是相:いのちの姿・形・その時々の「いのち」の状態を表わす「相」である。
時々刻々と変化する。ある瞬間に現れる顔かたちや姿。
如是性:いのちの性分をいう。瞬間瞬間の生命状態から、いのちの傾向性も含
めた、いのち・心の動き・性格。
如是体:1歳の自分も84歳になった自分も、その本質は変わらない。人間に
限らず、道端に咲くコスモスは、しぼんでもコスモスである。
およそ我々の精神も肉体も、宇宙の森羅万象は、悉く外に現れる姿があり、その
性質性分があり、そのものの実体がある。この実体が、瞬間・瞬間に作用しての
力、作用、原因、縁、結果は、総合的に一致していて矛盾せず等しい。
例えば、喜んでいる時と怒っている時は、いのちの現れ方は違って等しい。
-2.これらの生命の捉え方について、「三身:法・報・応」の観方を考えてると、
宇宙のすべての生命、また我々の生命にも、三身を具している。
法身:生命体そのものであり、例えば月や花の「本体」。
応身:瞬間・継続的に変化してゆく我々の姿や星々の「姿」。
報身:内在する力とも言えようか。月の光、智慧である。
この三身は、三身即一身となって、統合した生命の実相を説いている。
-3.三諦について、「仮諦、中諦、空諦」として捉えることができる。
この「諦」とは、つまびらか、あきらかということで、しっかりと実体・実像を観る
ことである。
仮諦:おのおのが、原因や縁によって和合する相の面をいう。花は刻々と咲いて
は散りゆく変化相、その瞬間・瞬間は仮の姿である。
中諦:花の生涯を観れば、どの時点を捉えても、その花の本質は変わらない。
芽生えた時の菊も、開花したときの菊も、散りゆく菊も菊に変わりはない。
空諦:生命一切の性分。有とも無いとも固定できない実相。色とりどりの花を咲
かせるその性分、性質。
相=応身如来=仮諦=如是相:わが身の姿・形。
性=報身如来=空諦=是相如:わが身の性分。
体=法身如来=中諦=相如是:変わらぬ本体。 これら一身一体の分別なきなり。
特に「空諦」について考えてみたい。科学的な有無、西洋的な考えかたのような有無
ではなく、有るといえば厳然と現れ、無いといえば何処にも見当たらない存在・・・。
例えば、「縁」に触れて現れる喜怒哀楽の我々のいのち・生命。
ファラデーやアインシュタインが言う、磁石や電流という「縁」により起こる電磁場。
太陽の熱と光を伝え地球まで届く、「真空」という「場」には、何も無いのか。
科学者は言う。この空間には「質量とエネルギー」で満ち満ちていると。かと言って
エーテルやダークマターといったものは、有るはずだが無いと言えばない。
この宇宙生命と我が生命との有無との一致。「縁」に触れ現れる実体。「空」。
仏法は数千年の昔に、この科学の一端を、達観し説いている。
4・成住壊空 (別項にも記述)
仏法は、およそ宇宙の星々や、なめくじや苔や路傍の石に至るまで、その生命・寿命
のスパンこそ違っても、成住壊空を繰り返えさないものはない。
一方で、天に登るとか西方に往くとかの思想があるが、行ったきりである。
我ら人間にとって、生きて帰って来た人は居ないので、証明できないものの、形而上
学的に考えることは出来よう。
高度な仏法である法華経は、有情非情を問わず、このサイクルを繰り返すと説く。
「成」は、縁により生まれ成長する。そして生命体が大きくなり成熟していく「住」。
そして、古び老齢化して「壊」れ、この宇宙に「空」と溶け込んでいく。
人間の7兆とも言われる細胞も、新陳代謝・成住壊空を繰返してながら、また全体を、
かたち作りながら成住壊空を繰返していく。それゆえ、死は次の生への出発である。
この「繰り返す」思想。永続性の「法」。原因と結果が厳然と存在すると説く。
即ち、善根を尽くして一生を終えた生命と、殺戮を繰返して生きた生命の「結果」は、
いかに現れるのか。これ、死んだら帳消しか? 死んだらみな仏か? 贖罪したら許され
るのか? その生命の結果は? 続いているなら次の縁により生まれて来た結果は?
生まれた途端にパチンと叩かれて殺される「蚊」とか、ええしの家や美人に生まれて来
るのは何故か?この因縁はどう説明できるのか。この差別は?科学的に説明できるのか。
これ生命の「法則」であり「哲学」である。世の知ったかぶりするご人に聞きたい。
「違う」と言うならその証拠を示せ。私には「証拠」を言うなら貴方も示せ!と言いたい。
5.依正不二
「依」とは、環境・外界で、「正」は本体・主体である。この二つは、明確に二つの存在で
あり、また切り分けることが出来ない一体不二のものである、と説く。
仏法は、なにものであっても、単独での存在はあり得ないと説く。何ものかの主体は、
必ず環境とともに依存し成り立っている。即ち、あらゆる生命は環境に依存し、また
環境をつくる。環境に依存しない生命はない。また環境・宇宙それ自体が生命である。
瑞相御書(P1140)には、「夫れ十方は依法なり・衆生は正法なり譬へば依法は影のごとし、
正法は体のごとし・身なくば影なし正法なくば依法なし・又正法をば依法をもって此れを
つくる」と。「縁起」という、互いに関係し依存しあいながら成り立っている。
あらゆる科学は、環境・対境を科学し、多くの人間社会を発展させ便利にして来た。
そしてまた、主体たる人間を、科学万能社会との錯覚に至らしめている。
傲慢にも人間は、環境を支配出来ると思い込み、環境に「生かされている」ことを忘れて
しまっている。環境と云う生命も、主たる人間生命も一体であり不二である。それを忘
れてしまえば、必ず自然環境から、しっぺ返しを食うことになる。想定外とか、異常だ
とか言えている間はまだ良いとしても、良識ある科学者は、もう取り返しのつかない処
に来ていると訴えている。創価学会には、昭和5年にして初代会長の牧口常三郎先生の
「人生地理学」から出発されている。如何に先見の明があると言えようか!
