先日テレビで「立花 隆」氏の生涯にいついての放送を観た。

その概要は、・とにかく勉強が好き。多岐にわたっての、疑問に対して徹底的に掘り下げて知ろうとした。
・そのための蔵書が山のごとく書架に蓄えられていたが、死後、一切処分せよと遺言。
・「政治と金」で、田中角栄を退陣に追い込んだジャーナリスト。
・「死」について深く考えた哲学者。「見当識」、「境界」などから、死は「生をささえるもの」として考える。
・死後は「無」であり、自らを何も残してはならないと遺言。 等々。
とにかく膨大な知識欲からの勉強家で、哲学者らしく多岐な分野からの関連付けての思考には驚きである。
しかし、世にある文献から得られる知識には限界を感じざるを得ない。五木寛之に至っては浅はかとさえ思う。
今までに聞いたことから考えると、なぜもっと広い視野から勉強しなかったのかと思わざるをえない。 

ここで、改めて「いのちの法則」のひとつである「死」について考えたい。
誰もが知っているように、死後から帰って来たものはいない。だから、丹波哲郎のような「得意然とした証言」などは
茶番でしかないが、どんな生命も「死」からは逃れることはできない。改めて今まで勉強してきたところから整理して
みたい。

@あらゆる「いのち」には、生まれ、成長し、老いて、死んでゆく。 「成住壊空」を辿る。
Aこれは、時間的なスパンは異なると云えど、有情・無常に関係なく辿る流れである。路傍の石、草木、そして宇宙の
 星も、また全ての動物も人も、はては「細胞」にいたるまで、これら「いのち」が辿る法則である。
Bこれら「いのち」は、「環境」によって造られる。 決して「なにもない」ところから生まれる訳では無い。宇宙の
 「真空」という環境にでも何もないことはなく、既に科学は、98%もののエネルギーと質量を備えていると証明さ
 れている。
C例えば、「磁場」は、真空であっても磁力線を描く。 「光」は「熱」の波は、真空である宇宙の空間から伝わって
 くる。 
 アインシュタインは、相対性理論から、質量があるから場をゆがめると予言し証明された。要は「何もないところ」
 なんてない訳である。 我々が考える「元素がないだけで真空」とは云えない。
Dここで、「空」について考えたい。仏教で明かされた考え方である。 科学的にいう「無」ではない。人が死んで後、
 肉体は火葬されて灰と煙となってしまう。
 で「いのち」はどうなってしまったのか。「無」になるのか、それとも何処かに行くのか?
 キリスト教は天国へ、ある仏教は極楽浄土へ、その他の宗教・哲学は「いのち」について何も説いていない。
 というか「無」としている。
E例えば、人で例えると、笑っている時に怒る気持ちはどこへ行ってしまったのか。泣いている時に笑う気持ちは何処に
 あるのか。 あるはずだが無い。しかし無いかと云えば「縁」に触れて厳然と五体に現れる。
F「いのち」というものは、環境の中で「縁(原因)」によって生じるものといえる。精神的な「いのち」も、物質的な
 「いのち」も、「ある縁」を原因として生じるものだと言える。「依」としての「環境」。「正」としての「本体」
 とはこうした精神的な「いのち」は「一体不二」(依正不二)で切り離しては説明できない。 
Gでは、物質的な「いのち」は、「ある環境」から、「ある縁」を原因として、自らある方向性をもって生じるもの。
 細胞やバクテリアも、動物も人も「いのち」の長さのスパンは違えども、@に則っている。例えば、人は子宮の中
(環境)で、精子と卵子が結合(ある縁)して、胎児が生まれる(結果)。そしてその「いのち」は、成長し、青年期
 を、そして老いて行き、死んでいく。
H考えると、物質的な「いのち」も、「縁(原因)」をキッカケとして生じ現れる。では、「結果」は? 死後は?
 きた「いのち」には、必ず隠しようもなく原因・結果が記録されていく。そして「ある癖」となり、傾向性となって
 「いのち」に刻まれる。 それが「原因」となって、さて「結果」はいずこへ?
I歎異抄では、どんな悪人であろうと「成仏」できると。門徒衆は、亡くなった方に「仏さんになられて」という。
 では、生きてきた「原因」は全てチャラになるのか。いっぱい悪事をし一杯人を殺しても、逆に精一杯、多くの人に
 尽くして来た人も死んだら同じか? キリストも、懺悔しただけで許されるのか?結果が同じなら辻つまが合わない
 ではないか。原因結果が一致せず、普遍妥当性がなく非科学的で、思い込ましと云うしかない。宗教だから「盲目的」
 に洗脳されていて良いのか。
J要は、生きてきた「原因」は、生まれ出ずる時に「結果」として現れる。考えてもみたらいい。生まれてすぐの赤ん
 坊は、いまだ何も悪いことも善いこともしていないのに、何故にこうも差があるのか。裕福な家に生まれたり、美人
 に生まれてきたり、貧乏な家庭に生まれたり、全く同じでなく千差万別であろう。これが「同じ」なら逆に前項は矛
 盾することになる。生理学的に、精子と卵子の結合にあるが、赤ん坊からしたら、何故にその精子でなければいけな
 かったのか。 悲しきかな、子は親を選べない。これ「いのちの法則」。
Kつまり、どのように生きたかの原因によって、千差万別の結果として、赤ん坊が生まれているのである。多くの人を
 殺めた生命は、結果としてハエや蚊として生まれ、人に瞬間にして叩き殺されるだろう。間違っても「仏」に成れる
 はずがないし、それで極楽浄土へ行けるなら、苦労して正しく生きようとはしない。死は、肉体的には、古びた身体
 を新品にするには、一旦死ぬしかないのかも?と思える。
L宇宙の星の生命も、人も、そのまた人間の中の細胞も、草木も、ありとあらゆる生命は成住壊空を繰り返す。そして
 その生命の連続した「原因」は、掛け値なく「いのち」に刻まれ、結果として現れる。
M結論として、「いのち」として現れる「怒る気持ちも笑う気持ちも」、誰人にも内在しているものであり、その瞬間
 の「縁(きっかけ/原因)」と一体になって、それ相応の「いのち」が顕現する。だから、誰人にも内在する「仏」の
 生命も、人のために縁し行動(菩薩行)した時、瞬間的にでも「仏」のいのちをひらいた(成)わけである。人は、
 その瞬間・瞬間に、成仏した訳である。何も死んで成仏する訳ではない。餓鬼・畜生の「いのち」も、人として平穏な
 「いのち」も、仏の「いのち」も、みんなの生命に例外なく内在しているのである。

・いのちの傾向性は、「宿業」として蓄積する。善業、悪業として夫々蓄積される。
・「汝 欄室の友に交わりて 麻畝の性となる」 (麻の間に生える「よもぎ」は、真上に伸びる)
・いかなる「運命」も、必ず変えることが出来る。「運が悪かった」は「悪業の結果」であり、自らの悪業の結果で
 あるにすぎない。外から誰かから罰として与えられたものではない。ひたすら「善業」を積むしかない。
 が、その方法は?手段は?
・当然学ぶ学校が、先生が、友が必要だ。独学でテストもなく、自習でできるような生易しくはない。
 お茶やお花でもお師匠さんに学ぶ。まして「生き方」は? 好き嫌いを言っている場合か!
 すごい立花さんも、もう少し広く知識を求めれば、またもう少し広い視野で物事を觀れば良かったのに。
 未だ法華経を知らず求めず、創価を遠ざけ忌み嫌う「いのち」には、可哀想としかいえない。

【死についての考察】