日本の古代史 「旧石器時代:11万年前から始まる人類の文化」

旧石器時代(土器の無い時代)

330万年前 〜 1万5千年前 参考資料    参考資料2 

旧石器時代は、330万年前から1万5千年前の間とされています。地質学的にいうと、人類が絶滅した動物と共存していた更新世に属するそうです。考古学的にいうと、打ち欠かれた石の道具である打製石器という単純な石器を使用して狩猟・採集生活を営んでいた時代になります。北ケニアで出土した世界最古の石器が330万年前のものとされており、この時代には土器の使用がなかったので無土器文化”ともいわれていますが、日本では旧石器時代の終わり、16,500年前には土器の使用が確認されており、最初の土器といわれています。

最初の石器:330年前

ネアンデルタール人 (旧人) 80万4千年前 〜 4万年前 参考資料    参考資料2   

ネアンデルタール人は、約40万年前に出現し、2万数千年前に絶滅したとみられるヒト属の一種。ただし、新しい学説では、以前の学説よりも約1万年早く4万年前に絶滅していたと、新しい化石年代は示されています。

 

Homo sapiens neanderthalensis.jpg

デニソワ人 (旧人) 64万年前〜 3万年前 参考資料 

2008年、ロシア 西シベリア アルタイ山脈のデニソワ洞窟で子どもの骨の断片が発見され、放射性炭素年代測定により約41,000年前のものと推定されました。また、同じ場所で、大人の巨大な臼歯も発見されています。

2010年12月23日、マックス・プランク進化人類学研究所などの国際研究チームにより『ネイチャー』に論文が掲載された。見つかった骨の一部は、5 - 7歳の少女の小指の骨であり、細胞核DNAの解析の結果、デニソワ人はネアンデルタール人と近縁なグループで、80万4千年前に現生人類であるホモ・サピエンスとの共通祖先からネアンデルタール人・デニソワ人の祖先が分岐し、64万年前にネアンデルタール人から分岐した人類であることが推定された。 

2018年8月22日に科学誌「ネイチャー」に発表されたアルタイ地方デニソワ洞窟で見つかった9万年前の少女の骨のDNA分析結果は、この少女の母はネアンデルタール人で父はデニソワ人であるとしている


ホモサピエンス (現生人類)アフリカで出現 30万年前 参考資料

現生人類の最も古い化石は、エチオピアのオモ遺跡から発見されたおよそ19万5,000年前のものとされて来たが、2004年にモロッコのJebel Irhoudの地層で発見された、頭蓋骨及びその同年代のもの思われる複数の石器がおよそ30万年前のものであると結論づけられ、2017年6月のNatureに発表された。分子生物学の研究結果からすべての現生人類がおよそ20万年前のアフリカ人祖先集団に由来するとした証拠が示されているが、それより10万年ほども古い化石が発見されたことで、今後のさらなる研究が待たれる。

 

ホモサピエンス (現生人類)、アフリカを出てユーラシア大陸に進出 10万年前 参考資料
スペイン 最古6万年前の壁画 ネアンデルタール人作か 6万4千年前 参考資料

これまで現生人類のホモ・サピエンス(新人)が描いたと考えられてきたスペインの洞窟内にある壁画が、実は旧人のネアンデルタール人の手による世界最古のものだったとの調査結果を、ドイツの研究チームが22日付の米科学誌サイエンス電子版に発表した。研究チームは三つの洞窟の壁に赤や黒の顔料で描かれた動物や直線、手形などを分析。顔料に含まれる放射性物質などから年代を6万4000年以上前と推定した。

インドネシアに4万年前壁画 野生牛「最古の具象画」 4万年前 参考資料

インドネシアのカリマンタン島東部の洞窟に残る野生の牛とみられる動物などを描いた壁画は4万年以上前のものとする調査結果を、同国やオーストラリア・グリフィス大の研究チームが7日付英科学誌ネイチャー電子版で発表した。チームは「動物などを描いた具象画としては世界最古」としている。

インドネシア・スラウェシ島の壁画、世界最古級か 4万年前 参考資料

オーストラリアやインドネシアの研究者らは9日、インドネシア・スラウェシ島南部の洞窟の壁画が推定で約4万年前に描かれたことが分かったとの調査結果を発表した。「世界最古級の壁画の一つ」で、洞窟壁画は欧州で発達したとの通説の再考につながりそうだ。手の輪郭やイノシシ科の動物が描かれたスラウェシ島の壁画は1950年代に発見されたが、描かれたのは古くても1万年前と推定されていた。研究チームは今回、絵の表面を覆う炭酸カルシウムをウラン年代測定法で調査。一部の壁画は、遅くとも3万9900年前に描かれたと確認した。

北レヴァント内陸部(ワディ・ハラール16R遺跡)において発見された石器資料(中近東) 3万8千年前〜3万7千年前 参考資料

北レヴァント内陸部(ワディ・ハラール16R遺跡)において発見された石器資料。
一番右が、投射狩猟具の先端部と考えられている石器(エル・ワド型尖頭器)。この石器資料が約3万8〜7千年前のものであるという放射性炭素年代を得ることに成功しました。

ショーヴェ洞窟の壁画(フランス) 3万2千年前 参考資料

現在、知られるものでは最古級と思われる約3万2000年前の洞窟壁画で、1994年12月18日に3人の洞穴学者ジャン=マリー・ショーヴェ、クリスチャン・イレール、エリエット・ブリュネル=デシャンによって発見され、洞窟壁画の開始時期を大幅に遡らせた。ショーヴェ洞窟は発見者の Chauvet にちなんで名づけられた。

ラスコー洞窟(フランス) 2万年前 参考資料

ラスコー洞窟は、フランスの西南部ドルドーニュ県、ヴェゼール渓谷のモンティニャック村の南東の丘の上に位置する洞窟である。先史時代(オーリニャック文化)の洞窟壁画で有名である。洞窟の側面と天井面(つまり洞窟の上半部一帯)には、数百の馬・山羊・羊・野牛・鹿・かもしか・人間・幾何学模様の彩画、刻線画、顔料を吹き付けて刻印した人間の手形が500点もあった。これらは20,000年前の後期旧石器時代のクロマニョン人によって描かれていた。

  現生人類とネアンデルタール人は交わっていた!?

参考資料
  

ネアンデルタール人のゲノムが解読された2010年に、あらゆる地域の染色体6万個とネアンデルタール人のハプロタイプを比較したところ、 サハラ以南アフリカの地域以外の世界中の人々の遺伝子にネアンデルタール人のDNA配列が存在することが分かった。

アフリカ人を除く全ての現生人類は、ネアンデルタール人の遺伝子を平均で”2%”持っていた。とのことです。   人類進化史の最新研究  (2018年05月04日) より


15万年前〜1万年前の日本列島

参考資料

およそ15万年前〜1万年前(洪積世後期)では、日本列島は九州側で現在の朝鮮半島付近でつながり、北海道側でシベリア付近とつながっていました。従い、この時期に大陸からナウマンゾウとかニホンムカシジカをはじめとして、オオツノジカ、トラなど多くの動物、そして、それを追って多くの旧石器人が渡ってきたと考えられ、遺跡も多く発見されています。

ホモサピエンス (現生人類)の日本列島到達よりも前の時代です

 

日本列島のマンモス

150万年前 〜 2万年前 参考資料    

約300万 - 250万年前、アフリカからヨーロッパに北上して移住する過程で、マンモスは新しい種 Mammuthus meridionalis を誕生させた。さらに、アジア、シベリアを経て、約150万年前には北米大陸まで広がった。当時シベリアとアラスカの間にベーリング海峡は存在せず陸続き(ベーリング地峡)だったため、自由に往来ができた。

日本では12点の化石が北海道で発見されている。加速器分析計による放射性炭素年代測定が行われ、8点が測定可能で、得られた結果は約4万8000年前 - 2万年前までであった。

日本列島のナウマン象

65万年前 〜 1万5千年前 参考資料    

ナウマンゾウは、日本に生息していたゾウの1種である。様々な説があり、はっきりとした年代は不明だが遅くとも 65万年 - 42万年前頃にはすでに出現していたのではないかと言われる。約2万年前頃から衰退し約1万5000年前の新生代更新世後期まで生息していた。

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島根県 砂原遺跡(島根県出雲市) 12万年前 参考資料

”日本最古の石器”

砂原遺跡(すなばらいせき)は、出雲市多伎町砂原に立地する中期旧石器時代の遺跡である。遺跡や遺物の年代を決定するには、旧石器の形態や石器組成などによる考古学的検討と地形・地質学的な検討によることが多い。日本列島は火山が多く、噴出時期が判明する広域火山灰が豊富で、それを利用した火山灰層序編年(テフロクロノロジー)が確立している。 砂原遺跡の年代決定については、段丘地形の研究から段丘形成年代を究明すること、遺跡周辺に堆積している地層中に噴出年代が分かる既知の火山灰を見つけること、さらに遺跡の層中の2枚の分厚い火山灰を試料にフィッション・トラック法(FT法/放射年代測定法の一種)を用いて年代を直接測定することである。 第U文化層中に包含される火山灰層(三瓶木次火山灰)の年代を11万年前と特定した。

人類学的見地から 現生人類(ホモ・サピエンス)は7〜6万年前に出アフリカを果たし、それ以前にはアフリカ外には分布していなかった。従って、日本列島最古の石器(砂原遺跡の12万年前)を遺したのはデニソワ人などの旧人である。日本列島に現生人類が現れるのは4〜3.5万年前と考えられており、これは日本固有のハプログループD1b (Y染色体)の起源年代とおおむね一致する。(参考資料

長崎県 入口遺跡(長崎県平戸市) 10万3千年前〜9万年前 参考資料

入口遺跡(いりぐちいせき)は、長崎県平戸市に属する平戸島北部中野地区に所在し、河岸段丘上に立地する。遺跡地の標高は40メートル余りである。日本最古級の旧石器遺跡である

第2層上位から姶良Tn火山灰(約2万9千年前〜2万6千年前)のガラスが検出されている。土壌中に含まれる鉱物をIRSL(赤外光ルミネッセンス法)年代は第3層下部が9万年前第4層が10.3万年前と測定された。瑪瑙製の石器は第3層下部と第4層最上部から出土した。第4層最上位から瑪瑙礫3点が出土している。 2003年にも遺跡C地点が発掘調査された。第3層下部からは、台形状剥片4点、嘴状石器1点、スクレイパー4点、ハンマー・ストーン2点、礫器1点、石核1点、剥片4点、砕片7点が出土している。

 

 

岩手県 金取遺跡(岩手県遠野市) 9万年前〜8万年前 参考資料

金取遺跡(かなどりいせき)は、岩手県遠野市宮守町に所在し、中期旧石器時代に属する日本列島の遺跡である。 なお2003年7月に報じられたところとして、8-9万年前と見られる土層から石器が出土し、日本国内最古との見方も出たが、2009年9月に出雲市の砂原遺跡で12万年前のものと見られる石器が出土、こちらが日本最古ではないかと報じられている。

 

大分県 早水台遺跡(大分県速見郡日出町) 5万年前 参考資料

早水台遺跡(そうずだいいせき)は、大分県速見郡日出町川崎にある旧石器時代から縄文時代早期にかけての遺跡である。別府湾を眼下に望む河岸段丘上に立地する。 第5次(1964年)調査で芹沢長介が検出した「石英製石器」の出土層を確認している。この一連の調査で2〜4センチ大のスクレイパー類が多く出土し、この遺跡の下層の石器群は、チョッパー、チョッピング・トゥール、プロト・ハンドアックスの大型石器とともに、小型の石器が主体を占めている事が分かった。また、安山岩角礫層(5層)のすぐ上から九重第一軽石(Kj-P1、約5万年前)に由来する火山ガラスが検出され、地質学上の年代下限が把握された。

長野県 竹佐中原遺跡(長野県飯田市) 5万年前〜3万年前 参考資料

【竹佐中原遺跡A地点の石器】

2001~2002年の発掘調査で56点の石器群が出土し、後期旧石器時代をさかのぼる石器の可能性があると報告されました。

2004~2005年にはA地点と類似するC地点の石器群が発掘され、これらの石器は3〜5万年前のものと想定されています。

【竹佐中原遺跡C地点の石器】

C地点では769点の石器群が出土しました。A地点と同じホルンフェルスという石材を主に使っていますが、石英岩、珪質凝灰岩などが使われており、A地点の石器群との違いも見られます。

長野県 野尻湖遺跡(長野県上水内郡信濃町) 4万8千年前〜3万3千年前 参考資料

野尻湖は、約5万年前に湖西岸の仲町付近がしだいに隆起をはじめ、現在の湖の形に近づいてきました。約4万年前には、ナウマンゾウをもとめて、旧石器人が狩り場として利用するようになりました。ナウマンゾウの化石が含まれる地層から、旧石器人類のつくった道具がいっしょに見つかりました。ナイフ形石器、スクレイパー(皮 はぎ)などの石器、骨製ナイフ、骨製クリーヴァー( ナタ )などの骨器が発見されています。これらは野尻湖にいた旧石器人類(野尻湖人)たちが野尻湖に残したものです。骨器を特徴とする文化を野尻湖文化とよんでいます。今からおよそ4.8万年前から3.3万年前の文化です。

北海道でマンモスとナウマン象が同居

4万6千年前 〜 4万5千年前 参考資料    

北海道開拓記念館は8月1日、滋賀県立琵琶湖博物館、名古屋大学年代測定総合研究センターとの共同研究により、同館が所蔵する化石がナウマンゾウとマンモスゾウであることを確認し、約4万5000年前の北海道にその2種類のゾウが共存していた可能性があることを発表した。

画像1が、野幌丘陵で発見された5つのゾウ類の臼歯化石だ。1〜3がナウマンゾウのもので、4が古型マンモスゾウ、5がマンモスゾウ(aとbは同じ臼歯を別角度で撮影したもの)。

 

  参考資料

ホモサピエンス (現生人類)が日本列島へ到達

4万〜3万年前   
岩手県 花泉遺跡(岩手県一関市) 3万5千年前〜1万年前 参考資料

花泉遺跡(はないずみいせき)は、岩手県一関市花泉町金森に所在する後期旧石器時代の遺跡で、金森遺跡ともいう。

花泉遺跡は金流川南岸の段丘上に位置し、厚さ2.5メートルほどの粘土・泥炭・砂層からなる化石床からヤギュウ、オーロックス(原牛)、野牛の一種ハナイズミモリウシ、ヘラジカ、オオツノジカ、ナツメジカ、ナウマンゾウなどの化石骨が多量に出土している。 これらの動物群は、マンモス動物群が一時的な氷の橋を渡って北海道に入り、本州へ南下してきたものと考えられている。 この遺跡からは、ほかにニホンジカ、イノシシ、アナグマ、ノウサギなどの中・小型の哺乳動物も発見されている。 これらの獣骨に混じって少量ながら野牛の肋骨の先端部に研磨をほどこした骨製尖頭器が発見されている。また、植物化石(イラモミ・トウヒ・エゾマツ・アカエゾマツ・グイマツ・チョウセンゴヨウ)も多量に出土している。

放射性炭素年代測定法により3.5〜1.6万年前と測定されている。 約2万年前の自然環境(寒冷な植物の森林が広がっており、亜寒帯の針葉樹林気候であった。当時の気温は現在より摂氏6、7度ほど低かったと推定される。)を具体的に復元できる遺跡として有名である。 

秋田県 米ヶ森遺跡(秋田県大仙市) 3万5千年前〜1万5千年前 参考資料

米ヶ森遺跡は、秋田県大仙市(旧協和町)荒川字新田表に所在する。

台形様石器・ナイフ形石器・彫器・掻器・細石刃・石核・細石刃核・剥片等が1,000点ほど出土した。

石器ブロックはA・Bの2か所が確認されている。規格的な小形の台形様石器が特徴的にまとまって出土し「米ヶ森型台形石器」と命名、それらを生産する「米ヶ森技法」が提唱された。また、ナイフ形石器には、東山型・杉久保型のほかに、両者の特徴をあわせもつ形態のものが見いだされ、「米ヶ森型ナイフ形石器」と名付けられた。以上の石器群の諸特徴とその平面分布の検討から、調査者の一人である冨樫泰時は当該石器群を3時期に区分している。つまり、米ヶ森型台形石器を主体とする時期、ナイフ形石器を主体とする時期、そして、細石刃を主体とする時期である。

石材は、眼下の荒川で採取されたと考えられる珪質頁岩を主体とし、ほかに黒曜石・玉髄により構成される。

東京都 鈴木遺跡(東京都小平市) 3万5千年前〜1万5千年前 参考資料

武蔵野台地のほぼ中央、東京都小平市の東部、石神井川源流谷頭部を馬蹄形に囲んで形成された後期旧石器時代の遺跡。

各調査地点では立川ロームV〜]層の間に都合12枚の文化層が確認され、多数の礫群や配石、石器集中部のほか、炉穴等の遺構も検出されている。石器、剥片類はナイフ形石器を中心に多量かつ多種で、その数約3万7000点に上る。とくに\〜X層を中心に検出された局部磨製を含む20点以上の打製石器は特徴的である。中には刃部再生剥片と本体とが接合し、最終的に刃部が約一センチ後退したことを示す資料や、局部磨製石斧1点と打製石斧3点とが埋納遺構のようにまとまって検出された例もある。また石材として黒曜石の比率が高いことも特徴で、武蔵野台地における石材獲得の拠点的な位置を占めていたとする見方もある。

広島県 冠遺跡群(広島県廿日市市) 3万5千年前〜1万5千年前 参考資料

冠遺跡群は、西中国山地中央部に位置する2km四方に満たない広さの小盆地、通称「冠高原」に位置する。主要部分は広島県廿日市市吉和に属し、一部が同市飯山・山口県岩国市錦町に及ぶ。

冠遺跡群は1959年、地元研究者によって石器の分布が確認され、同じころ広島市内の縄文時代遺跡から出土した石器の石材産出地推定結果との関連から原産地遺跡として意識されることとなり、1970年代に広島県教育委員会や広島大学考古学研究室が行った分布調査によって、その利用開始が旧石器時代に遡ることが判明した。

島根県 原田遺跡(群馬県みどり市) 3万5千年前〜2万年前 参考資料

原田遺跡は、島根県奥出雲町、出雲地方一の大河である斐伊川中流、標高約200mの河岸段丘上に立地する。

原田遺跡では、AT火山灰の下の7層、AT火山灰と三瓶浮布火山灰に挟まれた5層、三瓶浮布火山灰の上の2〜3層より、旧石器時代の遺物や遺構が見つかった。さらに7層は上下2層に分かれる。

 7層の下層からは、台形様石器や局部磨製石斧、石斧製作用の砥石などが出土している。隠岐産黒曜石多用しているのも特徴である。また、石器の集中部が(ブロック)が環状にめぐる部分もある。後期旧石器時代でも、古い時期の石器群と考えられる。

 5層は角錐状石器を中心とした石器群で、礫群や炭が集中した部分が多く見られるのも特徴である。2〜3層は、安山岩製の多くのスクレイパーに少量の小型ナイフ形石器が伴うのが特徴である。

 火山灰に挟まれて、新古のはっきりわかる石器群が4群に分かれて出てきており、中国地方の後期旧石器時代の石器の移り変わりを知るために重要な資料である。また、土抗、礫群、炭集中部など、人間の行動の痕跡が調査されており、当時の人間活動を知る重要な遺跡でもある。

 

埼玉県 清河寺前原遺跡(埼玉県さいたま市) 3万5千年前〜2万年前 参考資料

清河寺前原遺跡は、埼玉県南部のさいたま市に所在する。遺跡は大宮台地西縁に位置し、荒川に注ぐ滝沼川によって樹枝状に開析された台地上に立地する。標高は約16mである。

本遺跡で注目されるのは、第2地点の環状ブロック群で、大宮台地で初めての検出例である。環状ブロックの規模は、径約15mで石器の密集部は11箇所検出された。石器総数は1,474点を数え、石器石材は良質の黒耀石が全体の88%、ガラス質黒色安山岩が9%を占めていた。石器はナイフ形石器・台形様石器が45点出土している。

東京都 武蔵台遺跡(東京都府中市) 3万5千年前〜2万年前 参考資料

武蔵台遺跡は、東京都府中市武蔵台二丁目に所在し、現在の都立多摩総合医療センターの敷地に相当する。武蔵野台地上に位置し平坦であるが、すぐ南に高低差約12mの国分寺崖線がある。

石器群の特徴の第一は、その圧倒的な出土量である。旧石器人が約35,000年前から20,000年前まで断続的に石器を遺した累積的な行為の結果と言えよう。その中で最も多いのが、「X層・W層下部段階」と言われる石器群である。合計で約23,000点の石器が出土した。近くの多摩川で採取したチャートやホルンフェルスと、伊豆・箱根で採取した黒曜石を使用しており、南関東地方を東西に行き来して生活していたことがわかる。

群馬県 岩宿遺跡(群馬県みどり市) 3万5千年前〜2万5千年前 参考資料

岩宿遺跡(いわじゅくいせき)は、群馬県みどり市にある旧石器時代の遺跡である。1946年(昭和21年)頃、当時在野の考古学者であった相沢忠洋によって発見された。この発見によって、それまで土器時代以前の日本列島に人類は居住していなかったとされた定説を覆し、日本にも旧石器時代が存在したことが証明された。これ以降、日本全国において旧石器時代の遺跡の発見が相次ぐことになる。1979年(昭和54年)8月17日、国の史跡に指定された。

打製石器は、1949(昭和24)年、岩宿遺跡で、更新世後期の地層である関東ローム層(赤土層)から発見され、これをきっかけに全国各地の更新世の地層から各種の石器が出土するようになった。相沢忠洋は土器を探したが、旧石器時代にはまだ土器は製作されていなかった。つまり旧石器文化は、先土器文化・無土器文化で、土器が発見されないのは当然のことだった。この旧石器文化=無土器文化はその後世界的に認めらることになった。

栃木県 高原山黒曜石原産地遺跡群(栃木県矢板市) 3万5千年前 参考資料

矢板市北部にある活火山・高原山を構成する一峰である剣ヶ峰が原産の黒曜石を使用した石器が矢板市より200km以上離れた静岡県三島市や長野県信濃町の遺跡で発見され研究が進められている。産出時期は古いものでは石器の特長より今から約3万5千年前の後期旧石器時代と考えられており、その採掘坑遺跡(高原山黒曜石原産地遺跡群)は日本最古のものと推定されている。

大阪府 長原遺跡出土旧石器資料 (大阪市平野区)

3万数千年前 参考資料

後期旧石器時代初期に属す約3万数千年前の石器群が平野区長原遺跡から出土している。この時期の遺跡は西日本では少なく、大阪平野では長原遺跡に限られている。この21点の旧石器資料は、約2万8千年前に降灰した姶良Tn火山灰層準よりもさらに下位の地層に属すことの確実なものである。また、近畿地方中央部においてナイフ形石器が成立する以前の石器群であり、かつ瀬戸内技法の確立に先立つものといえる。こうした良好な出土状況と石器群の示す特徴から、本資料は大阪で最も古い人工物(遺物)といえ、近畿地方におけるその後の旧石器文化の変遷を知るうえでも貴重な資料といえる。

岡山県 恩原1・2遺跡 (岡山県苫田郡鏡野町)

3万3千年前〜1万6千年前 参考資料

恩原1・2遺跡は岡山県苫田郡鏡野町の恩原高原にある。中国山地尾根筋付近の標高約730mの高地で、鳥取県境に近い。恩原1遺跡と恩原2遺跡の文化層の変遷はおおむね類似している。AT火山灰層より下位のR文化層(33,000〜28,000年前)は、より古い台形石器の時期と、より新しい石刃素材ナイフ形石器の時期とに細分される。後者には石囲い炉(写真1)や、 やはり炉跡らしい炭化物集中が多く伴う。AT火山灰層より上位のO文化層(約27,000年前)では、基部を細長く作り出したナイフ形石器が特徴。S文化層(25,000〜20,000年前)は横長剥片素材のナイフ形石器が主体で瀬戸内地方との交流を濃厚に示し、また、山陰地方と関係の深い石刃素材のナイフ形石器も含む。M文化層(18,000〜16,000年前)では、北方系の湧別技法による細石刃製作が行われた(写真2)。

山梨県 一杯窪(いっぱいくぼ)遺跡(山梨県都留市) 3万2千年前 参考資料

昭和53年発掘調査が実施され、2,600点におよぶ、石核(せっかく)、剥片(はくへん)を主体に、斧形石器(おのがたせっき)、削器(そうき)類が出土した。石器は、一部のチャートを除くと、細粒凝灰岩(さいりゅうぎょうかいがん)に限定され、この岩体が遺跡背後に露出し、前面の河原に転石として豊富に存在する。これらから、本遺跡が豊富な石材を得て、石器制作を目的としたキャンプサイトであったことを物語っている。石器が出土した土層から取り出した炭化物の放射性炭素(14C)による年代測定をしたところ約32,000年前のものであると報告されている。

 

沖縄県 山下洞人(沖縄県那覇市) 3万2千年前 参考資料

国内最古級の人骨”

沖縄県那覇市山下町第一洞穴遺跡で、1968年に発見された。約3万2000年前とされる6〜7歳の子供の大腿骨と脛骨で、国内では最古級の人骨である。最近の検討によると、初期現代型新人の特徴に一致するという。

 

長崎県 福井洞窟(長崎県佐世保市) 31.900年前〜12,000年前 参考資料

福井洞窟(ふくいどうくつ)は、長崎県佐世保市吉井町(旧北松浦郡吉井町)にある旧石器時代終末期から縄文時代草創期の遺跡である。

  7層の遺物包含層が確認されており、

  第3層:船底形の細石核と細石刃、隆起線文土器 

   (1960年代に炭素14年代測定法で12000〜13000年前と測定)

   第15層(最下層):サヌカイトの大型石器 

    (槍先形両面調整石器、削器)と刃型剥片、

      C14年代測定法では、31,900年以上前と推定

山田上ノ台遺跡 (宮城県仙台市)

3万年前〜江戸時代 参考資料   

山田上ノ台遺跡(太白区山田上ノ台)は、旧石器時代から江戸時代に至る複合遺跡。さまざまな遺構や土器、石器などが発掘されている。旧石器時代には1〜3万年前の後期旧石器時代の石器や炭化物の集中部分が見つかった。縄文時代には大規模な集落が営まれていた。発掘調査では38軒の竪穴住居跡や約300基の土坑が見つかった。 竪穴住居の中央には土器を埋めて石で囲み、さらに石組みが付属する「複式炉」が作られている。竪穴住居は台地の南から東にかけての縁辺に分布している。

大阪府 はさみ山遺跡

(大阪府藤井寺市)

3万年前〜室町時代(1573年) 参考資料   参考資料2

はさみ山遺跡(はさみやまいせき)は、大阪府藤井寺市に所在する旧石器時代から近世までの各時代の遺構や遺物が見つかった複合遺跡。全国的には、現在わかっている日本最古の住居跡が見つかったことで知られ、そこでは後期旧石器時代の住居の構造が明らかになったことが特筆される。

1986年(昭和61年)のはさみ山遺跡の発掘調査により、後期旧石器時代(3万年 - 1万3000年前)の住居の構造が明らかになった。住居跡は、深さ約30cmの半地下式(竪穴住居)で、そのくぼ地の周囲には1.0 - 1.7mの間隔をおいて直径14 - 22cmの柱穴が7個あり、その外側には浅い溝がめぐらされていた。

はさみ山遺跡の地区から見つかる集落跡は鎌倉時代・室町時代のものまで続き、発掘調査では、掘立柱建物や倉庫、井戸、土地の区画や排水のための溝、水を溜めたりゴミを捨てるための穴などが見つかっている。

山梨県 立石遺跡(山梨県甲府市) 3万年前〜古墳時代(700年) 参考資料

立石遺跡(たていしいせき)は、山梨県甲府市上向山にある遺跡。後期旧石器時代初頭から弥生時代、古墳時代にかけての複合遺跡。

甲府盆地の南縁にあたる曽根丘陵の中央部に位置する。南北280メートル、東西180メートルにかけての範囲に分布し、標高は325メートル付近。立石遺跡が立地する曽根丘陵地域は旧石器時代の遺物が出土する地域で、立石遺跡からは関東地方から九州地方に広く分布する姶良Tn火山灰(AT)の降灰面より下位から石器類が出土しており、同時期にあたるAT下位の生活遺跡には富士北麓の一杯窪遺跡(山梨県都留市)や八ヶ岳南麓の横針前久保遺跡(山梨県北杜市)がある。一方、曽根丘陵中央部には弥生後期から古墳時代初頭にかけての方形周溝墓群のある上の平遺跡や宮ノ上遺跡など立石遺跡の弥生時代遺構と同時期の集落遺跡が分布しており、古墳時代には大型古墳が出現するなど甲府盆地の中核地域であった。

宮崎県 山田遺跡(宮崎県延岡市) 3万年前〜12千年前 参考資料

0山田遺跡は宮崎県北部の延岡市に所在する。日向灘へ向かって東流する五ヶ瀬川の支流、細見川に面した標高約50mの台地上に立地する。

山田遺跡の旧石器時代は4つの時期に大別され、特にAT下位黒色帯最下部前後のT期とAT上位のV期が注目される。 

T期は20点以上の礫器と2点の局部磨製石斧を含む石器組成で、ナイフ形石器や台形様石器などを伴わない。礫器類の一部は石核との峻別が難しいが、砂岩や質の粗いホルンフェルスを用いるなど、剥片石器とは明らかに石材選択が異なるものが多い。炭化物から約30,000年前(未較正)のC14年代が得られており、全国的にも重量石器heavy-duty toolがこれほど集中して発見された事例は数少ない。

V期では剥片尖頭器そのものを含む石刃技法の接合資料が確認された。これまで剥片尖頭器の使用を示す遺跡は多かったが、製作の場を如実に物語る貴重な事例といえよう。

富山県 直坂遺跡(富山富山市 3万年前〜2万5千年前 参考資料

直坂すぐさか遺跡は富山市直坂地内の神通川右岸の舟倉段丘上の南端、現在の猿倉山スキー場内に営まれた旧石器時代から縄文時代の集落跡です。周辺には野沢遺跡、八木山大野遺跡、直坂U遺跡、直坂V遺跡、直坂W遺跡など同様の旧石器時代から縄文時代にかけて営まれた集落跡が多く存在します。発掘調査では旧石器時代、縄文時代各時期の遺構や遺物が出土しました。旧石器時代の遺構には、こぶし大の石を焼いて調理した跡と考えられる礫群があり、周囲から約1,200点にのぼる石器群が検出されました。この石器群は、素材の原石から細長い石片を連続して一方向から剥離する石刃技法で作られ、剥ぎ取った石片を加工してナイフ形石器や彫刻刀形石器が作られました。この石器群は北陸でも最古級の約2万5千から3万年程前のものと考えられます。ほかにもこれに引き続く年代の局部磨製石斧や尖頭器などが出土しています。

山梨県 横針前久保遺跡(山梨県北杜市) 3万年前 参考資料

3 万年前(旧石器時 代)の石器を発見。この遺跡があったのは、中央道上り線の旧八ヶ岳パーキングエ リアの東側、八ヶ岳の裾野の西向きの斜面です。遺跡の北西には 豊富な湧き水からなる「弁天池」があり、昭和の初め頃までこの 付近は沼地でした。弁天池の前の窪地、それが「前久保」の地名 の由来です。八ヶ岳パーキングエリアの改築工事に先立って発掘 調査が行われ、旧石器時代の地層から201点の石器や、大きな石、炭(炭化物) のかけらなど数多くの遺物が発見されました。

長野県 日向林B遺跡出土品(長野県千曲市) 3万年前 参考資料

信濃町の野尻湖遺跡群の一つである日向林B遺跡は、平成5・7年に上信越自動車道建設に伴う発掘調査が行われ、旧石器時代の生活の場とみられる環状ブロック群が見つかった。この調査で出土した後期旧石器時代前半期(約3万年前)の斧形石器60点、台形石器59点を含む多数の石器、石器製作の過程を示す接合資料や斧形石器を磨いた砥石などの石器製作用具の一括資料である。約3万年前の斧形石器が1遺跡から60点も出土した例は国内になく、後期旧石器時代の出土遺物として貴重な一括資料であるとともに、当時の集団構成やその形態、また狩猟活動と生業の実態を復元する上できわめて重要な内容を持つ。

長野県 日向林B遺跡出土品(長野県千曲市) 3万年前 参考資料

豊成叶林遺跡は、鳥取県西伯郡大山町の大山北麓の丘陵上に所在。AT火山灰層直下の通称白色ローム層から、直径約1mのブロックが2つ、2.5m離れて出土した。非常に小規模ながら活動内容をシンプルに理解できる点では重要な遺跡である。

ブロック1は144点の剥片と砕片で構成される。すべて花仙山の玉髄を材とし、ほぼ1母岩からなる。剥片剥離技術は拙く、完成した石器がない一方で31点の二次加工片を含むことから、学習者が日常的な石器製作を行った痕跡と考えられる。

ブロック2は炉跡の可能性がある変色した粘土塊と炭化物集中を伴い、較正年代で約30,000年前の値が測定された。石器と剥離物は計110点あり、ブロック1とは異なる1母岩の玉髄を主体とする。8点あるナイフ形石器のうち6点はこの母岩で作られ、石核も遺されていた。接合資料の分析と合わせると、熟練者が旅装の準備を行った跡と推定される。

長野県 矢出川遺跡(長野県南佐久郡南牧村) 2万9千年前〜1万7千年前 参考資料

矢出川遺跡では、ナイフ形石器群と細石刃石器群という2つの時期の石器群が確認されている。ナイフ形石器には横長剥片を素材としたものがみられ、AT火山灰降灰直後の後期旧石器時代後半期初頭の石器群であることがわかる。細石刃石器群は矢出川技法等と呼ばれる半円錐形の細石刃石核を含むもので、後期旧石器時代の最終末期に位置づけられる。

大阪府 翠鳥園遺跡(大阪府羽曳野市) 2万8千年前 参考資料

翠鳥園遺跡は、大阪府羽曳野市の中心部にあたる住宅地にあり、近鉄南大阪線古市駅で下車、徒歩15分ほどの場所で、遺跡公園として見学できる。

出土した石器は、遺跡から5kmほどの距離にある二上山のサヌカイトを用いて製作されたものである。石器類は高い割合で接合し、原石の状態に戻るものも含め多数の接合資料が復元された。石器の製作には、瀬戸内技法と呼ばれる近畿圏で発達した技術を用い国府型ナイフ形石器などを生産しており、そのテクニックの詳細を知ることができる画期的な発見となった。国府型ナイフ形石器を含む石器群は、後期旧石器時代後半期の初めに位置付けることができ、2万8000年ほど前の石器群と考えることができる。

北海道 白滝遺跡群出土品(北海道遠軽町) 2万7千年前〜1万年前 参考資料  参考資料2

遠軽町埋蔵文化財センター所蔵資料の一部が『白滝遺跡群出土品』として国の重要文化財に指定。対象となったのは、服部台2・奥白滝1・上白滝2・上白滝5・上白滝7・上白滝8の6つの遺跡から出土した、今から30,000〜10,000年前の後期旧石器時代の石器1,858点です。
 白滝遺跡群とは、町内白滝地域に所在する遺跡の総称で、90ヶ所以上の遺跡が分布しています。上記の6遺跡は黒曜石産地「赤石山」の麓を流れる八号沢と湧別川の合流部付近、標高450mの河岸段丘上に立地しています。 出土品には、後期旧石器時代を代表する石器である「細石刃」や、「尖頭器」と呼ばれる槍の先の形をした石器をはじめ、切る・削るなどさまざまな用途に使われた「18種類の石器」、さらには石器を作る際に生じた石の破片を1つ1つつなぎ合わせて、元の形に可能な限り復元した「接合資料」があります。
 これらの出土品からは当時の高度な石器製作技術を読み取ることができ日本だけでなく、世界的にも貴重な旧石器時代遺跡資料として学術的評価をいただいています。

沖縄県 白保竿根田原洞穴遺跡(沖縄県石垣市) 2万7千年前 参考資料

2010年(平成22年)2月4日、沖縄県教育委員会は、沖縄県石垣市白保(石垣島)の新石垣空港建設敷地内にある白保竿根田原洞穴(しらほさおねたばるどうけつ)から発見された人骨について、琉球大学や東京大学などと研究を進めた結果、そのうち1点(約8cm×約11cmの20代から30代前半の男性の頭頂骨)が放射性炭素年代測定で約2万年前のものと分かったと発表した。
発見された人骨は少なくとも19体分以上であり、旧石器時代の人骨発掘としては世界的にも最大級である。
人骨のうちの一体(4号人骨)は約2万7千年前(較正年代)のもので、全身骨格がほぼ残った人骨としては国内最古である。4号人骨は、30代から40歳前後の男性のもので、身長は165.2cmと港川人(153cm)より高い。下顎と比較して上顎の歯の摩耗が顕著であり、特殊な歯の使い方をしていた可能性が指摘されている。
4号人骨は、仰向けの姿勢で、膝を胸の前に折るとともに、両手が顔の近くになるように肘を曲げられ、地上の岩の間にあった。このため人為的に安置されたと考えられ、風葬の可能性がある。この人骨が発見された場所は、遺跡は日本国内で初めて確認された旧石器時代の墓域である。

奈良県 二上山北麓遺跡群(奈良県香芝市) 2万5千年前〜2万年前 参考資料

二上山北麓遺跡群は大阪との府県境に沿って連なる、二上山から寺山にかけての北東側と南西側山麓に分布する、旧石器時代から弥生時代にかけての遺跡を総称している。この地域には二上山の火山活動で生成された火山岩が分布し、その中に石器時代に利器の材料として用いられたサヌカイトというガラス質の石材が産出する。そのため周辺には石材を掘出した跡である掘削坑や、石器をその場で製作した跡などの遺跡(石器製造遺跡)を数多く確認することができる。なお、本遺跡群の存在が知られるようになったきっかけは、戦前樋口清之氏が香芝市田尻において発見した田尻(たじり)第2号遺跡(現在の名称はサカイ・平地山遺跡)を、昭和6年に「大和二上石器製造遺跡研究」と題した報告をされたことによる。

北海道 帯広空港南A遺跡(北海道帯広市) 2万3千年前〜1万2千年前 参考資料

帯広市泉町西7線中10-11この遺跡は、帯広空港整備事業中の昭和56年に、地元の考古学愛好家によって発見されました。昭和57年には遺跡の範囲を明らかにするための試掘調査と、農道整備のための発掘調査が行われ、旧石器時代の大規模な遺跡であることがわかりました。調査では、石刃石器群(2万年以上前)、細石刃石器群(2万〜1万5千年前)、有茎尖頭器石器群(1万5千〜1万2千年前)が層位的に見つかり、複数の文化層が良好な状態で残っている貴重な遺跡であることが明らかになりました。遺跡は、「周知の埋蔵文化財包蔵地」として保存・保護の対象となっています。出土した遺物は帯広百年記念館に収蔵・展示されています。

黒曜石はこの地方では十勝石といわれ、 石刃、尖頭器、石錐、細石刃などの打製石器が発見されている。地層から約2万3千年前と考えられている。

岩手県 早坂平遺跡(岩手県山形村) 2万3千年前〜2万2千年前 参考資料

岩手県早坂平(はやさかたい)遺跡 後期旧石器時代中葉 約22,000〜23,000年前 早坂平遺跡は、石刃が大量生産された石器製作工房跡です。ナイフ形石器・掻器(そうき)・彫掻器(ちょうそうき)・石核など多数が出土しました。(写真:(財)岩手県文化振興事業団埋蔵文化財センター提供)。

山梨県 天神堂遺跡(山梨県南部町) 2万2千年前 参考資料

天神堂遺跡(てんじんどういせき)は、山梨県南部町万沢にある遺跡。町域を南流する富士川左岸の河岸段丘上に立地する。標高は130m付近。AT(姶良丹沢火山灰)よりは上位に位置づけられている。富士川流域は丘の公園内遺跡群のある県北西部の八ヶ岳山麓や県東部の桂川流域と並び旧石器時代の遺跡が存在する地域で、町域には9箇所(旧富沢町域に8箇所)の遺跡が分布している。

。表土層やハードローム層、淡炭砂層、砂層にかけて40 - 60の礫で構成される10基の礫群や蒸し焼き調理に使用されたと考えられている焼礫集合遺構、900点以上の石器や剥片が発見されている。

北海道 湯の里4遺跡土壙出土品(北海道上磯郡知内町) 2万年前 参考資料

湯の里4遺跡は北海道上磯郡知内町にあり、知内川の支流である出石川の右岸の段丘上に立地する。
 昭和五十八年、津軽海峡線建設に先立つ発掘調査が行われ、その結果、本遺跡は旧石器時代から続縄文時代(弥生時代)にまでおよぶ遺跡であることが判明した。
 本遺品はこのうち旧石器時代に所属する土壙から出土した一括遺物で、玉類五箇、石刃一箇、細石刃二箇、石刃核四箇、剥片二箇がその内容である。
 本遺品を出土した土壙から採取した土壌の分析の結果、高等動物に特徴的な脂肪酸とコレステロールが認められ、本土壙は旧石器時代に所属する墓と考えられている。墓と考えられる遺構としては現在までのところ日本最古のものである。土壙内より出土した石製・琥珀製の装飾品は日本で最も古い装飾品であり、墓への副葬品であるとすることができる。これらの石製品は国内では美利河1遺跡で類例が認められている。また、大陸側では石製・琥珀のビーズを副葬品として墓に入れる例がカムチャツカ半島でみられる。
 湯の里4遺跡土壙出土品は、日本列島における墓制の起源を旧石器時代にまでさかのぼらせた点で重要である。しかし、それのみでなく北海道と大陸側の旧石器時代石器群の具体的な比較の手がかり、人や物資の交流・交易(玉類の原材であるダナイトはバイカル湖周辺の蛇紋岩【じやもんがん】地帯の原産と考えられている)、副葬品からうかがうことのできる習俗の実態を考えるうえでも貴重な学術資料といえよう。

北海道 美利河1遺跡出土品(北海道瀬棚郡今金町) 2万年前 参考資料

美利河1遺跡(ピリカ遺跡)は今から1〜2万年前の旧石器時代の遺跡です。発掘調査により出土した大量の石器のうち、163点の石器が平成3(1991)年に重要文化財に指定されました。この中には、日本最古とされる装身用の玉製品や日本最大級を誇るヤリ先形の尖頭器のほか、美利河技法と呼ばれる独特の石器製作工程を示す接合資料があります。これらは、旧石器時代人の高度な技術を示しているだけでなく、不明な部分の多い当時の精神文化を理解するヒントを秘めているものです。

北海道 函館市桔梗2遺跡(北海道上士幌町) 2万年前 参考資料

約2万年前(洪積世)ウルム氷期に、アイヌの祖先は、今の北シベリアから来たと考えられる。もっとも古い遺跡(函館市桔梗2遺跡他)は、約2万数千年前のものである。

長野県 茶臼山遺跡(長野県諏訪市) 2万年前 参考資料

諏訪市街の東北背後に、手長丘・茶臼山・踊場・立石と丘陵が続き、旧石器時代の遺跡がある。茶臼山は約2万年前の遺跡である。旧石器時代遺跡として群馬県岩宿遺跡につぐ発見。

和田峠産の黒曜石による多数の石刃・ナイフ形石器・掻器・石錐、蛇紋岩製の局部磨製石斧・打製石斧などが出土

宮城県 富沢遺跡宮城県仙台市 2万年前 参考資料

富沢遺跡は、宮城県仙台市太白区富沢、泉崎、長町南他に所在する。旧石器時代の一般的な遺跡立地とは異なる湿地林跡における野営跡の調査成果をもとに、復元画の製作・公表とともに、地底の森ミュージアムにおける遺跡の保存・公開、復元林の野外展示などの活動によって、人類と環境を考える視点を現代社会に伝えている。

大阪府 国府遺跡(大阪府藤井寺市 2万年前〜古墳時代(700年) 参考資料

今から約2万年前の旧石器時代から現代にいたる人々の生活の跡を残す国府遺跡(こういせき)。岩宿遺跡の発見以降、旧石器の存在が徐々に明らかになっていく中で、国府遺跡も、昭和32年・33年(1957年・1958年)に旧石器時代の確認を目的とした発掘調査が再度実施されました。この調査は、近畿地方で行われた旧石器時代の草分け的な調査でした。 発掘調査の結果、砂礫層上部に堆積する黄色粘土層より特徴的な旧石器が確認されました。これらの石器の製作方法は、二上山に産出するサヌカイト(讃岐石)を使って、横に長い石片(翼状剥片)を連続的に剥ぎ取っていくもので、「瀬戸内技法」と呼ばれています。この翼状剥片を利用して作られた石器は国府遺跡の名をとって「国府型ナイフ形石器」と呼ばれています。

静岡県 浜北人(静岡県浜北市) 1万8千年前〜1万4千年前 参考資料

浜北人(はまきたじん)は1962年に静岡県浜北市(当時、現在の浜松市浜北区)の岩水寺採石場・根堅洞窟で発見された旧石器時代の化石人骨。骨の形態から新人に属するという。縄文人と類似した形質から、その祖形と推測される。このほかにもトラなどの動物が発見され発掘された。現在は東京大学の総合資料館に保管されている。

年代の特定は化石人骨では全国初となる炭素14法によって実施され、約1万4000年〜1万8000年前のものであるとの測定結果が出されており、旧石器時代の化石人骨である事が確認された。

沖縄県 港川人(沖縄県島尻郡具志頭村) 1万8千年前 参考資料

1970年に沖縄県島尻郡具志頭村(現・八重瀬町)の港川採石場で、個人研究家の大山盛保によって約1.8万年前の更新世のものとされる数体の人骨化石が発見された(港川フィッシャー遺跡)。これは縄文時代よりおよそ5000年古く、旧石器時代後期に相当する。 男性の推定身長は153cmから155cm、女性は145cmと小柄で、下半身に比べ上半身は華奢である。 顔は四角く、目は窪み、鼻はやや広く、立体的で頑丈であるなど原始的な骨格で、前頭骨が小さく後頭骨の上半分が突出する点や四肢骨の筋肉付着部が発達していない点で縄文人とも異なる独自の特徴を持っている。

新潟県 荒屋遺跡 (新潟県長岡市) 17,250年前 参考資料

荒屋遺跡は、新潟県長岡市(旧川口町)の上越線・越後川口駅から南へ約1キロに位置する。荒屋遺跡では、竪穴住居状遺構1基と土坑23基が検出された。遺構は重複し、多量の焼土や炭化物を含む堆積土であった。炭化物には、キハダなどの木片やオニグルミなどの種子であり、14C年代で約14000BP(17250年前)の測定結果であった。出土石器は、細石刃が6000点、彫刻刀形石器が1000点、彫刻刀スポールが9000点を 超え、総数10万点にのぼる。細石刃は湧別技法とホロカ技法で製作される。使用石材は東北地方日本海側産の珪質頁岩(硬質頁岩)である。

愛媛県 上黒岩岩陰遺跡(愛媛県久万高原町) 1万7千年前 参考資料

上黒岩岩陰遺跡(かみくろいわいわかげいせき)は、愛媛県久万高原町(発見当時は美川村)で1961年に発見された縄文時代早期を中心とする岩陰遺跡である。国の史跡に指定されている。

  注目される遺物としては、(1) 投槍の刺さった腰骨や、(2) 女神像線刻礫がある。

(1) は、1969年に発見され、当時は縄文時代早期の男性の骨とされていたが、のちの報告書によれば、経産婦の腰骨で、生前かまたは死後まもなく刺突されたものであろうという。同様の傷が他にもあり、死後儀礼の可能性もあるという。

(2) の「ヴィーナス像」とも称される女神像線刻礫は、鋭利な剥片石器を用いて女性像を礫に描いたもので、信仰の対象だった可能性が指摘されている。

この種の像が出土したのは日本では上黒岩岩陰遺跡が初めてであった。同じ土層からはおよそ1万4千5百年前の、発見当時としては世界最古級の土器も出土した。

(1) 投槍の刺さった腰骨

(2) 女神像線刻礫

福島県 塩坪遺跡出土石器(福島県高郷村) 1万7千年前 参考資料

塩坪遺跡(しおつぼいせき)は高郷村に所在する後期旧石器時代の福島県を代表する遺跡です。1971年、1982年の発掘調査でナイフ形石器、エンド・スクレーパー、彫刻刀形石器などとともに、当時の調理施設と考えられる「礫群(れきぐん)」が検出されています。

”最初の土器

   
青森県 大平山元I遺跡 (青森県外ヶ浜町) 16,500年前 参考資料 

大平山元I遺跡(おおだいやまもといちいせき)は、青森県外ヶ浜町にある縄文時代草創期の遺跡である。2013年に国の史跡に指定された。指定名称は「大平山元遺跡」。 1975年とその翌年には青森県郷土館が、1998年に旧蟹田町教

育委員会により発掘されている。1998年の民家の建て替え工事に伴い、旧蟹田町教育委員会が行った発掘調査によって発掘された土器には、世界で最も古い土器であるとされるものがある。 縄文土器に付着した炭化物のAMS法による放射性炭素年代測定法の算定で16,500年前(暦年較正年代法による)とされる。

北海道 幌加川遺跡出土の石器群 (北海道遠軽町) 1万5千年前〜 1万2千年前 参考資料 

この石器群は、遠軽町に在住していた郷土史家遠間栄治氏が湧別川支流の幌加川流域(旧白滝村)で採集したもので
石器は黒曜石から作られており、大型のものが多く、最大のものは40センチメートル近くあります。
今から15,000〜12,000年前の旧石器時代のものと考えられます。

長野県 神子柴遺跡出土品 (長野県伊那市) 1万5千年前 参考資料

神子柴遺跡は、天竜川右岸、大清水川によって開析
出土品の内容は、局部磨製石斧(最大のもの長さ22.0cm)9箇、打製石斧(最大のもの長さ23.0cm)4箇、尖頭器(最大のもの長さ25.2cm)18箇、掻器11個、削器8箇、敲石2箇および 砥石2箇からなる。

石川県 灯台笹遺跡 (石川県能美市 1万5千年前 参考資料

灯台笹遺跡は、約15000年前の遺跡で、県下で初めて発見された旧石器時代の遺跡です。黒曜石製の石刃や、頁岩製のナイフ形石器など数点が発見されており、地理的にもよい場所を選んで、古くから人が住んでいました。