縄文時代 (石器と土器併用の時代)

15.000年前 〜 2,500年前(BC500年) 参考資料    

縄文時代(じょうもんじだい)です。旧石器時代とさほど変わりはありませんが、約1万5,000年前くらいに土器が使われるようになります。石器と土器の併用が始まった時代が縄文時代ということになります。

  使われていた土器に縄目の模様がついていたことから、縄文時代というようになりますが、最初の頃の土器にはそのような模様は無く、実用一辺倒のものだったようです。

 

 

 

 

 この時代の気候は、初め頃は日本列島が大陸から離れる直前で、晩氷期といわれる気候でした。短期間に寒・暖がおこり、厳しい環境変化であったと推測されています。

  環境の変化に伴い貝類や魚類が新しい食糧資源になります。狩猟の獲物も、ゾウや野牛の大型哺乳動物からシカやイノシシの中・小哺乳動物に変わっていきました。竪穴住居址からサケの顎骨が発見されたり、小型の骨製の釣針が発見されています。狩猟と採集の生活パターンに漁労が加わります。 

「縄文人」は独自進化したアジアの特異集団だった! 参考資料  参考資料 2 

日本人のルーツの一つ「縄文人」は、きわめて古い時代に他のアジア人集団から分かれ、独自に進化した特異な集団だったことが、国立遺伝学研究所(静岡県三島市)の斎藤 成也教授らのグループによる縄文人の核DNA解析の結果、わかったそうです。現代日本人(東京周辺)は、遺伝情報の約12%を縄文人から受け継いでいるんだそうです。

高瀬山遺跡 (茨城県ひたちなか市) 1万5千年前〜平安時代(1185年) 参考資料 

高瀬山古墳(復元) 高瀬山遺跡(たかせやまいせき)は、山形県寒河江市の高瀬山一帯に広がる旧石器時代から中世にかけての遺跡群である。遺跡内には高瀬山古墳(C遺跡)や4基の経塚が発見されたE遺跡などがある。

 遺跡の東側標高112m地点の段丘上位面から石刃石器群などが発掘され、旧石器時代の遺物と考えられている。縄文時代に入ると環状集落が営まれ、直径120mの範囲内に竪穴住居跡が37棟、大型住居跡が12棟検出されている。縄文晩期には水場遺構2基が検出されている。古墳時代終末期の高瀬山古墳が所在する段丘縁辺で古墳時代前期〜中期とみられる方形周溝墓11基、円墳5基が検出されている。 奈良時代〜平安時代の遺構が最も多くみられ竪穴住居跡(528棟)、井戸、掘立柱建物跡(245棟)群などが検出されている。落衣長者屋敷遺跡、三条遺跡の建物を加えると、2.3kmの調査範囲に途切れることなく続く大集落であった。中世に入ると高瀬山頂上付近から4基の経塚が発掘されている。

茨城県 後野遺跡 (茨城県ひたちなか市) 1万5千年前〜1万4千年前 参考資料 

後野遺跡は、茨城県ひたちなか市中根地内にあり、那珂川の支流が解析した丘稜上に位置する。

発掘調査では、石器が採取されていたA地区の他に、20mほど離れたB地区からも石器群が出土し、これらは層準が異なる2つの石器文化として報告された。

 A地区の87点の石器群には、彫器−掻器、削器、尖頭器、石斧を含む。剥片石器の石材は、ほとんどが東北地方産と推定される硬質頁岩であり、黒耀石についても後年、蛍光X線分析により青森県深浦産と判別されている。このA地区には、37点の土器片が伴う。

 B地区の184点の石器群は、細石刃と細石刃石核、彫器、削器、礫器などで構成される。これらも礫器を除き、石材は全て硬質頁岩である。後期旧石器時代の最終末期に位置付けられ、削片系細石刃石核、荒屋型彫器などに北方系の特徴が認められている。

 

新潟県 薬師堂遺跡出土石器 (新潟県五泉市) 14,000年前 参考資料

旧石器時代の槍の先端や加工具の刃となった石器です。一塊の岩石から規格性の高い剥片を大量に生み出す石器作りの手法を石刃技法といいます。石刃技法で得られた剥片(石刃)を素材に製作されたナイフ形石器や彫刻刀形石器を多数含む石器群です。

北海道 樽岸出土の石器(北海道寿都郡黒松内町) 14,000年前 参考資料

出土遺物は、すべて頁岩製の石器で、石刃技法による大形の石刃やエンド・スクレイパー、石核など、縄文時代の石器とは明らかに異なる石器類が出土し、土器は出土しませんでした。
・調査報告では後期旧石器時代の古い段階に編年されると考えられていましたが、その後の研究の進展により、現在では後期旧石器時代後半の細石刃文化に属する石器群として認識されています。

岩手県 小石川遺跡 尖頭器(岩手県旧玉山村) 13,000年前 参考資料

1980年に旧玉山村教育委員会が発掘調査して出土。盛岡市内で出土した最も古い石器のひとつです。

東京都 前田耕地遺跡出土品(東京都あきる野市) 13,000年前 参考資料

前田耕地遺跡は、多摩川支流の秋川と平井川に挟まれた段丘上に位置し、昭和51年から59年まで発掘調査が行なわれました。この調査で縄文時代草創期(約13000年前)から古代に至る集落跡が確認されました。とりわけ、草創期に属する2軒の住居跡は、この時期に属する住居跡としては我が国での最初の発見例として注目されました。そのうち1軒の住居跡からは、クマなどの動物骨とともに、サケ科魚類の顎歯が約8000点出土しました。これは、日本列島における最古の河川漁撈活動を示す考古資料となっています。また、河原に豊富にある良質のチャートを石材とし、石槍などを大量に製作した際に生じた石の破片のまとまりが6か所発見されました。
前田耕地遺跡は縄文時代草創期の食糧獲得活動や石器製作技法を具体的に知ることのできる貴重な遺跡であることから、一部が保存され、前田公園として開放されています。

埼玉県 砂川遺跡出土品(埼玉県所沢市) 13,000年前 参考資料

出土遺物は、すべて頁岩製の石器で、石刃技法による大形の石刃やエンド・スクレイパー、石核など、縄文時代の石器とは明らかに異なる石器類が出土し、土器は出土しませんでした。
・調査報告では後期旧石器時代の古い段階に編年されると考えられていましたが、その後の研究の進展により、現在では後期旧石器時代後半の細石刃文化に属する石器群として認識されています。

長崎県 泉福寺洞窟出土品(長崎県佐世保市) 13,000年前 参考資料

旧石器時代から縄文時代草創期の包含層から出土した、合計8箇分の土器と、1,793箇の石器類である。石器類の内訳は、細石刃1396箇、細石刃核357箇を主体とし、それに掻器・彫器・削器・尖頭器・石刃・礫器・敲石・有溝砥石で構成される。

泉福寺洞窟(せんぷくじどうくつ)もしくは泉福寺洞窟遺跡(せんぷくじどうくついせき)は、長崎県佐世保市瀬戸越(旧北松浦郡大野)にある旧石器時代から弥生時代の岩陰遺跡。

泉福寺洞窟では、昭和47年に当時世界最古といわれていた隆起線文土器が出土しました。翌年、その下層から表面に豆粒をモチーフにした土器片が出土しました。この土器は、「豆粒文土器」と命名されて、科学的分析の結果、約 1万3000年前にさかのぼることが判明しました。昭和54年の調査において、復元可能な豆粒文土器も出土しました。

高さ20センチメートル程度、口の広さは直径12センチメートルほどで、底は丸いものと平なものがあります。土器の表面には煮炊きに使った時のススや、煮こぼれが焦げついた炭が着いていました。

長崎県 牟田原遺跡 (長崎県佐世保市) 13,000年前 参考資料

旧石器時代(約13000年以前)の人々は石器を主な道具として、狩りをしながら移動するという生活を送っていました。気候は氷河期で落葉広葉樹が多く生え、大型動物が棲息していました。遺跡付近は動物が多い狩場で、狩りに訪れた人たちがキャンプした跡が遺跡として残っています。

 

鹿児島県 栫ノ原遺跡(鹿児島県南さつま市) 12,000年前 参考資料

栫ノ原(かこいのはら)遺跡は、薩摩半島の西側にあり、北西は東シナ海に面した加世田市の市街地東南部に位置する。独立丘陵上に立地し、縄文時代草創期から弥生・古墳時代を経て中世の尾守城に至る複合遺跡である。  この独立丘陵に市の区画整理事業が計画され、市教育委員会によって平成元年?5年に事前調査が実施された。最終段階の平成4・5年になって台地北西部の約4,000平方メートルの範囲から縄文時代草創期の集落跡が発見され、その重要性によって保存されることとなった。  本遺跡は、万之瀬川と加世田川の合流地点の西側に位置する標高約38・4メートルの小高い丘陵上に立地する。丘陵は、シラス台地の上に新期火山灰が堆積したもので、縄文時代草創期の集落が広がる台地北西部は南から緩く北に傾斜する地域である。約11,000年前に桜島から噴出したサツマ火山灰によって覆われ、遺跡の残された年代を確実に示すとともに遺跡を良好に保存していた。西側斜面に近い遺跡の西側には、溶結凝灰岩の板石を舟形に組んだ長軸約75センチメートルの舟形配石炉2基を含む配石炉4基、焼け礫が径1メートルから2メートルの円形の範囲に密集した集石遺構22基、土坑8基などが構築されていた。

沖縄県 上部港川人(沖縄県島尻郡具志頭村) 12,000年前 参考資料

1967年〜1969年に、沖縄県島尻郡具志頭村(現・八重瀬町)の港川採石場の石灰岩フィッシャー上部において、1.2万年前のものと考えられる人骨(上腕骨・尺骨・ェ骨・大腿骨2点・脛骨2点・距骨・第1中足骨)の断片が発見されている。こちらは日本本土で多く発見されている縄文人の骨格的特徴によく似ており、上部港川人と呼ばれている。

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青森県 表館遺跡(青森県六ケ所村) 12,000年前 参考資料

この遺跡は、昭和35年に発見されて以来、前期の土器型式の標式遺跡として、また約50万平方メートルの広大な面積をもつ遺跡として注目されてきました。 昭和62年の調査で検出された遺構は、竪穴式住居跡20軒、土壙88基、集石遺構6基で、他に貝塚が18小ブロック出土しました。 出土遺物で特に注目されているのが、縄文時代草創期の隆起線文土器がほ ぼ完全な状態で出土しています。

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福井県 西下向遺跡(福井県坂井市) 1万数千年前 参考資料

遺跡は越前加賀国定公園内に所在し、米ケ脇から東尋坊に向かう荒磯遊歩道の途中の地点にある。加越台地が日本海に面した海岸段丘上に位置している。基本的な層序は、報告書によれば、1a層(表土)、1b層、2層、3層、4層、5層、6層、7層(砂礫層)に分かれている。旧石器は1b〜6層に包含され、そのなかで最も集中するのは3層上部と報告されている。西下向遺跡は、地層の綿密な観察や火山灰層序の検討などから、その時期は旧石器時代後期(ナイフ形石器文化)、すなわち、今から約一万数千年前の遺跡と考えられ、いわば「はじめての福井人」の明確な足跡をわたしたちに示してくれた。

福井県 永平寺町鳴鹿山鹿出土品(福井県永平寺町) 12,000年前 参考資料

出土遺物は、すべて頁岩製の石器で、石刃技法による大形の石刃永平寺町に位置する鳴鹿山鹿遺跡で出土した、有舌尖頭器23点・尖頭状石器1点・局部磨製石斧1点が指定を受けている。鳴鹿山鹿遺跡は九頭竜川によって形成された低位段丘に立地し、河川中流右岸に位置する。遺物は、明治元年前後の用水工事の際に発見され、その詳しい状況については、大野延太郎氏が『東京人類学雑誌』第140号で報告している。報告による検出状況は、「石核2点の上に大なる石鋒(尖頭状石器)を横たえ、その下に30余点の精巧なる石鏃(有舌尖頭器)が納められていた」という。県内の遺跡での有舌尖頭器の出土例は極めて低く、また、本遺跡のごとくまとまって出土している例は全国的にみても貴重なものである。

鹿児島県 掃除山遺跡(鹿児島県鹿児島市) 11,000年前 参考資料

掃除山遺跡(そうじやまいせき)は、鹿児島県鹿児島市に所在する縄文時代草創期の遺跡である。
列島の温暖化がすすみ、針葉樹林を主体としていた森林は、落葉広葉樹と照葉樹の森林へと変化していき、西日本から太平洋沿岸地域を東へと拡がっていった。
このような気候・環境において、南九州の鹿児島県では、草創期の遺跡が多く発見されている。その中の一つに掃除山遺跡がある。 約1万1000年前に降下した薩摩火山灰の下から発見された掃除山遺跡では、 2棟の竪穴住居跡をはじめとして、煙道つき炉穴(ろけつ)、舟形や円形をした配石炉、つまり地面に穴を掘って火をたいた調理用の施設、土坑、植物食料の製粉具である磨石(すりいし)や石皿という、ドングリやクルミなどの木の実を割って砕いたり、製粉する道具類など各種の遺構・遺物が纏まって出土した。

1万年前、この頃、日本列島は完全に大陸から離れて島国となります。         参考資料

10,000年前(BC8,000年)の気候は、現在よりも気温が 2度ほど低く、海水面も30メートルほど低かったが、その後、海水面の高さが戻ります。従い、貝塚は、この時期の前半には、海が進入して出来た海岸地域に作られ、狩猟とともに漁労が活発化していきます。

 

一方で、7,300年前には、鬼界カルデラの噴火で西日本一帯に火山灰が積もります。西日本、特に九州の先史時代から縄文初期の文明も、この噴火で絶滅したと考えられています。 

     

以下、BC:紀元前XX年での表記に切り替えます

静岡県 東平遺跡出土槍先形石器(静岡県浜松市) 10,000年前 (BC8,000年) 参考資料

西区神ヶ谷町の東平遺跡で出土した槍先形の石器です。小さい方が黒曜石、大きい方はチャート、長さ65mmです。神ヶ谷町は三方原台地の南端に位置します。旧石器時代(約10000年前

山形県 日向洞窟(山形県東置賜郡高畠町) 10,000年前 (BC8,000年) 参考資料

本遺跡は、米沢盆地の東北縁、宮城県の白石市方面から奥羽山脈を米沢盆地に抜ける国道113号線の出口に当たる北側山地に所在する。付近には、本洞窟のほかに尼子洞窟群、観音岩洞窟群など14地点に洞窟遺跡群が存在している。洞窟遺跡がこれほど密集する地域は他に類を見ないものである。(参考資料2

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鹿児島県 上野原遺跡 (鹿児島県霧島市) BC7,500年 参考資料 

上野原遺跡(うえのはらいせき)は、鹿児島県霧島市国分上野原縄文の森にある縄文時代早期から近世にかけての複合遺跡。遺跡の周辺は鹿児島県上野原縄文の森と呼ばれる県営公園として整備されている。また、鹿児島県立埋蔵文化財センターが敷地内に併設されており、鹿児島県の考古学発掘調査研究の中心的な拠点となっている。
このうち特に桜島火山灰P14の上にあった最下層部の遺跡において、竪穴式住居46軒、石蒸調理のための集石遺構が39基、燻製製造のための連穴土抗15基、その他の土抗約125基、道の跡2条が確認された。竪穴式住居跡のうち10軒については桜島火山灰P13で埋まっていたことから、これらの住居はP14からP13の間、すなわち約9500年前の縄文時代早期前葉に存在していたことが確認された。集落跡の面積は15,000平方メートルに及ぶ。

北海道 垣ノ島A・B遺跡  (北海道函館市) BC7,000年 参考資料 

函館市(旧南茅部町) 垣ノ島A遺跡は、噴火湾に流れる垣ノ島川左岸にある縄文時代早期から晩期までの複合遺跡です。平成12年から始まった調査によって後期後半の集落と早期の土坑墓群が発掘されました。
垣ノ島B遺跡は垣ノ島川右岸にある早期の集落と土坑墓群が発掘されています。垣ノ島A遺跡では、立石炉や明瞭な出入り口構造をもった大型竪穴住居が発掘され、早期の土坑墓からは、子どもの足形を付けた土版が多数出土しました。
垣ノ島B遺跡では、縄文時代の早期の土坑墓から約9000年前の漆副葬品が出土しています。

子どもの足形土版

上川名貝塚  (宮城県柴田郡柴田町) BC7,000年 参考資料 

古代、上川名地方は、縄文時代早期より(9000年前)、 人間が居住し生活を営んでいた事は、上川名貝塚が何よりの証拠であり、 発掘により出土した品々が証明となる事と思われます(昭和21年坪井正五郎氏の発掘)。

現在、水田になっている場所は、縄文時代は深い沼地であったと想像されます。 海の時代説もありますが、それは何万年以前の事と思われます。 名取地方にも縄文時代の遺跡が数多く発見されております。 それ等から考えて見ますと槻木地方の縄文時代は、 海ではなく沼か又は入海の説が正しいと思われます。

BC5,500年、日本は既に朝鮮半島と人々と交流

韓国 東三洞貝塚(韓国 釜山市 BC5,500年 参考資料

韓国釜山市の東三洞貝塚というところから、日本の九州地域の縄文人との交流があったことを示す縄文土器と黒曜石石器が発見されています。

韓国釜山市の「東三洞貝塚展示館」には、それらの出土品が展示されています。7,500年前の日本と韓国の昔のかかわりをしる資料です。                                 日本原産の黒曜石石器 → 

東山遺跡(北海道松前市) BC5,000年〜BC300年 参考資料

北海道最大級の盛り土遺構 松前市街地から東へ1.2km、及部川と伝治沢川に挟まれた台地上に遺跡が広がっています。 東山遺跡で見つかった盛り土遺構は、縄文時代前期後半〜中期前半のもので、約1.8mの厚さがあり、約400uの調査で約36万点の土器片が出土しました。縄文時代早期〜晩期(約7,000〜2,300年前)

  

恵比須田遺跡(宮城県大崎市) BC5,000年〜BC500年 参考資料

恵比須田遺跡(えびすだいせき)は、宮城県大崎市田尻に所在する縄文時代の遺跡。縄文時代早期、前期、中期、後期、晩期の土器片が出土した。今から約7千年前より、この地域に人が住んでいたと考えられている。

  

中国 河姆渡遺跡 (中国 揚子江流域 BC5,000年〜BC4,500年 参考資料

世界で最古の稲栽培

河姆渡文化は中華人民共和国浙江省に紀元前5000年頃-紀元前4500年頃にかけて存在した新石器時代の文化。河姆渡遺跡は1973年に発見され、1973年から74年と1977年から78年の2回にわたり発掘作業が行われた。水稲のモミが大量に発見されたため、人工的かつ大規模に稲の栽培が行われていたことが明らかになった。これは世界でも最古の稲栽培の例である。稲のほかにも、ヒョウタン、ヒシ、ナツメ、ハス、ドングリ、豆などの植物が遺跡から発見されている。その他ヒツジ、シカ、トラ、クマ、サルなどの野生動物や魚などの水生生物、ブタ、イヌ、スイギュウなどの家畜も発見された。

里浜貝塚 (宮城県東松島市) BC4,800年〜西暦30年 参考資料 

里浜貝塚は、松島湾に浮かぶ最大の島「宮戸島」にあります。縄文時代前期(約6800年前)から弥生時代中期にかけての集落跡で、保存状態の良好な貝塚が広範囲に残存し、日本最大級の規模(東西約640m、南北約200m)を持ちます。その規模や質などから、松島湾沿岸地域の拠点的集落のひとつであったと推定されています。 古くから、多数の縄文人骨や、漁具・装身具などの多彩な骨角器が出土することでも知られており、大正時代にはすでに、考古学の基礎的な方法論に基づいた科学的な発掘調査が実施されました。その後も、多くの研究者や研究機関により調査・研究が進められ、平成7年に国史跡、平成12年には資料の一部が国の重要文化財に指定されました。(参考資料2

岩手県 手代森遺跡 (岩手県盛岡市) BC4,500年〜BC300年 参考資料 

大沢川の河川改修に伴い、昭和58年度に試掘調査、翌59年度に2,600m2の本調査が査が行われました。その結果、縄文時代前期(約6,500〜5,000年前)と晩期(約3,000〜2,300年前)の遺跡だということがわかりました。 見つかった遺構は竪穴住居跡8、住居状遺構1、長方形柱穴列1、土坑33、焼土遺構・石囲炉(いしがこいろ)5、埋設土器2です。

BC4,000年頃の世界の農耕分布

 

BC4,000年〜BC1,000年  世界文明の黎明期

気候が温暖になり海面上昇が起こり、海水面が4〜5メートル高くなります。魚や貝の収穫が増え、狩猟・漁労・採集の生活の中で一番豊かな時代になります。そして縄文文化という日本独自の文化も築かれていきます。同じころ世界の文明も黎明期を迎えます。

中沢浜貝塚(岩手県陸前高田市) BC4,000年〜平安時代(1,185年) 参考資料

中沢浜貝塚は、広田半島の先端部にある大森山(標高147.2m)の西側の丘陵上にあり、目の前には広田湾を臨みます。史跡として指定されている面積は約17,000uで、そのほとんどが長い年月をかけ、海からの風で運ばれ堆積した砂でおおわれています。  明治時代から発掘調査が行われ、多数の人骨が出土することでも有名であり、出土人骨は30数体を数えます。また人骨の他にも土器、石器、骨角器、動物の骨なども多量に出土しています。  貝塚の時代は、縄文時代から平安時代にまで及び、特に縄文時代前期から晩期にかけては貝塚が連続して営まれていました。これは中沢浜貝塚が、気候に恵まれ、また海や山の幸にも恵まれていたことの証といえます。

 

長根貝塚(宮城県遠田郡涌谷町) BC4,000年〜BC300年 参考資料

長根貝塚(ながねかいづか)は、宮城県遠田郡涌谷町にある縄文時代の代表的な貝塚。昭和43年に発掘調査された結果、東西300m、南北250mの範囲で「U」字の形に貝層が広がる、県内最大級の縄文時代の貝塚であることが判りました。貝層は縄文時代早期末から晩期(約6000〜2300年前)までの長期間にわたります。貝層の貝の種類を見てみると、早期末頃の貝層はカキやハマグリなどの塩分が濃い水(鹹水・海水)で育つ貝が主体となることから、現在の小丘陵周辺の低地部は、海であったと考えられます。

糠塚貝塚(北海道函館市) BC4,000年〜BC1,000年 参考資料

糠塚貝塚(ぬかづかかいづか)は、宮城県登米市に所在する縄文時代前期〜後期に属する貝塚である。

北海道 サイベ沢遺跡(北海道函館市) BC4,000年〜BC2,000年 参考資料

サイベ沢遺跡(サイベさわいせき)は、北海道函館市桔梗町に所在する縄文時代前期初頭から中期末葉にかけての大規模集落遺跡である。函館市の中心部から約6.5キロメートル、低平な段丘が西に開けた西桔梗町と呼ばれる場所に東西600メートル、南北400メートルにわたって位置する。遺跡の広さは約15ヘクタールと、北海道内でも最大級の大きさで、円筒下層式土器や上層式土器などの生活道具が大量に含まれた厚さ4メートルの文化層も発見されるなど、北海道・東北の中でも最大級であり、青森県青森市の三内丸山遺跡にも匹敵する大規模遺跡のひとつと考えられている。

大木囲貝塚(北海道函館市) BC4,000年〜BC2,000年 参考資料

大木囲貝塚(だいぎがこいかいづか)は、宮城県宮城郡七ヶ浜町東宮字大木・西大木・北大木・南大木に所在する縄文時代前期から中期にかけての大規模な環状貝塚遺跡である。東北地方南部の縄文時代の標式遺跡のひとつである。松島湾の南岸、塩釜湾に突出した標高35メートルほどの丘陵上に位置する。東西270メートル、南北280メートルの楕円状[2]に数十箇所の貝層が分布している環状あるいは馬蹄形の貝塚である。貝層に囲まれた空間からは、竪穴住居跡が確認されており、一時期に6〜8軒の住居があったと考えられている。

(参考資料2)  (参考資料3)

 

杉沢台遺跡 (岩手県遠野市) BC4,000年〜BC3,000年 参考資料

杉沢台遺跡(すぎさわだいいせき)は、秋田県能代市にある縄文時代前期の遺跡である。JR五能線北能代駅東方約1kmにある縄文前期を中心とする大規模な集落跡である。東雲台地北側とその斜面にかけて形成されており、範囲は35000m2に及ぶ。長経31〜16メートルの大型住居跡4棟をふくむ竪穴住居跡が44基、食料を保存するフラスコ状土坑(貯蔵穴)が109基検出されている。

上掵(うわはば)遺跡 (秋田県東成瀬村) BC4,000年〜BC3,000年 参考資料

秋田県東成瀬村の上掵(うわはば)遺跡から出土した世界最大級の巨大な石斧(せきふ)が北海道日高山脈中部の河川上流だけにある特別な石材で作られていることが分かり、波紋が広がっている。石斧は4本で縄文前期(6000年前〜5000年前)の遺跡でみつかった国の重要文化財。石材はアオトラ石と呼ばれる緑色岩で、青森県の三内丸山遺跡の磨製石斧約6割もアオトラ石製と判明。(参考資料2)

根羽子沢遺跡 (秋田県横手市) BC4,000年〜BC3,000年 参考資料

根羽子沢遺跡(ねばこざわいせき)は、秋田県横手市雄物川町大沢に所在する縄文時代前期の遺跡。3基の配石が見つかった。1号組石は全体で長径2m、短径1m前後の楕円形を呈し、その下に同じ大きさの土坑があり、床上30cmからケツ状耳飾りが出土したことから墓だと考えられる。組石中の長さ60cmの棒状の石は、大きさ・形状・出土状況から立石であった可能性が高い。2号組石も土坑をともない、なかに大量の木炭片と穴のあいた偏平な石が7個程度入っていた。遺跡からは、大木4式および大木5式土器が出土している。(参考資料2)

三神峯遺跡 (秋田県横手市) BC4,000年〜BC3,000年 参考資料

三神峯遺跡は,市の南部にあり,JR長町駅の西約2.5qの三神峯公園内に位置する。青葉山から東に張り出した標高約68mのなだらかな台地上に立地しており,面積は約102,400uである。これまで公園整備等に伴い6次の調査が実施され,縄文時代前期初頭に位置づけられる7軒の竪穴住居跡が検出されている。(参考資料2)

一ノ坂遺跡 (山形県米沢市) BC4,000年〜BC3,000年 参考資料

米沢市街の西部にあり、近くには館山城をはじめ、縄文時代の遺跡、中世の館・廃寺跡・塚等も分布している。御成山を中心とする丘陵北側の山麓台地に位置し、標高257〜260mである。。  遺跡の総面積は1万6000平方mであり、縄文前期初頭の遺跡である。  この遺跡で最も注目されるのは、長さ43.5m、幅3.85〜4.20mの長大な竪穴で、ロングハウスとも呼ばれている。この周囲にはほぼ1m間隔で柱穴が並び、内部から6ヵ所で地床炉(じしょうろ)が検出された。そして、床面やその下より200万点の石器や剥片が出土している。中でも両尖亡首(あいくち)・石銛(せきせん)石匙(いしさじ)・石鏃(せきぞく)が主体の、石器製作の工房跡である。(参考資料2)

綾織新田遺跡 (岩手県遠野市) BC4,000年〜BC3,500年 参考資料

綾織新田遺跡(あやおりしんでんいせき)は、岩手県北上高地のほぼ中央に位置する遠野盆地を流れる北上川 の支流、猿ケ石川左岸の標高約270mの河岸段丘上に立地する。発掘調査の結果、大型竪穴住居により構成される縄文時代前期前半の拠点的集落跡であることが判明し、遠野市は遺跡の重要性を考慮し、保存することを決定した。出土遺物では、これまで類例の少なかった大木2・3・4式土器がまとまって出土し、当該時期の変遷を知る上で良好な資料である。

岡山県 彦崎貝塚(岡山県岡山市) BC4,000年 参考資料    参考資料2

日本でもお米を栽培

2005/02/18 18:57 の四国新聞社の発表記事 「岡山県灘崎町にある彦崎貝塚の縄文時代前期(約6000年前)の地層から、イネのプラントオパール(イネ科植物の葉などの細胞成分)が大量に見つかり18日、灘崎町教育委員会が発表した。 この時期のプラントオパールが大量に見つかるのは全国初という。イネの栽培をうかがわせ、これまで栽培が始まったとされている縄文時代後期(約4000年前)をはるかにさかのぼる可能性がある。縄文時代の農耕開始をめぐる議論に一石を投じそうだ。」
2005.2.18 共同通信の記事では、「小林達雄国学院大教授(考古学)の話 縄文時代を考える上で重要な成果であり、努力に大いに敬意を表したい。縄文時代の中期や前期に、断続的にイネが入ってきたとしても不思議ではない。重要なことはイネがあったかなかったではなく、あったとしても縄文経済や食生活に影響を与えなかった点だ。農耕とは呼べず栽培という程度であり、イネは多種多様な食べ物の一つにすぎなかったのだろう。」とあります。イネのほかにキビ、ヒエ、小麦など雑穀類のプラントオパールも検出されているそうです。

青森県 三内丸山遺跡(青森県青森市) BC3,900年〜BC2,200年 参考資料

三内丸山遺跡(さんないまるやまいせき)は、青森県青森市大字三内字丸山にある、縄文時代前期中頃から中期末葉の大規模集落跡。沖館川右岸の河岸段丘上に立地する。2000年に国の特別史跡に指定。遺跡には住居群、倉庫群のほか、シンボル的な3層の掘立柱建物が再現されており、資料館もある。青森県教育庁文化財保護課三内丸山遺跡保存活用推進室が発掘調査を行っている。(参考資料2)

山形県 押出遺跡出土品(青森県青森市) BC3,800年 参考資料

押出遺跡は、東置賜郡高畠町に所在する。  前期後半・大木式の粘土紐貼付文が特徴的な深鉢形土器二八箇をはじめ、鉢形土器・台付鉢形土器・浅鉢形土器各一箇、多様な造形の小形土器二三箇や、基部につまみ状の突起がある「押出形ポイント」と呼ばれたもの一一六本を含む石槍一二三本、石鏃・掻器・石匙・石錐等の利器類合計七〇六箇、磨石・凹石・食物の焼け痕が残る石皿等加工具としての石器類五七箇、石製装飾品九箇、小形石棒二箇、さらに赤漆櫛・盤・杓子・石斧柄・手網・箆状木製品残欠等多彩な木製品類三三箇で構成される。(参考資料2)

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メソポタミア文明 BC3,500年 参考資料

古代メソポタミア文明は、メソポタミアに生まれた複数の文明を総称する呼び名で、世界最古の文明であるとされてきた。文明初期の中心となったのは民族系統が不明のシュメール人である。

古代メソポタミアは、多くの民族の興亡の歴史である。 例えば、シュメール、バビロニア(首都バビロン)、アッシリア、アッカド(ムロデ王国の四つの都市のひとつ)、ヒッタイト、ミタンニ、エラム、古代ペルシャ人の国々があった。古代メソポタミア文明は、紀元前4世紀、アレクサンドロス3世(大王)の遠征によってその終息をむかえヘレニズムの世界の一部となる。

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小梁川遺跡(宮城県刈田郡七ヶ宿町) BC3,500年〜BC2,500年 参考資料

小梁川遺跡(こやながわいせき)は、宮城県刈田郡七ヶ宿町に所在する縄文時代早期から中期および平安時代(9世紀後葉)に属する遺跡である。小梁川遺跡の集落としての最盛期は中期前葉の大木7b式である。この時期の集落は東と西のふたつの支群に分かれる居住域とその間には墓域が営まれている。17基の土器埋設遺構(埋甕)は横位埋設15基・正位埋設2基からなり、このうち4基には石器が副葬されている。墓域のさらに中心部分には、浅鉢・鉢を遺体に被せたと見られる墓壙が確認され、求心的な構造を持つ集落と考えられる[5]。集落の北側には害獣除けとみられる逆茂木を伴うTピット(落とし穴)列が新旧2群確認されている。中期後葉大木9式から後期初頭の集落が大梁川遺跡から発見されており、その後継集落と見られる。

笹山遺跡出土火焔型土器(新潟県十日町市) BC3,300年〜BC2,800年 参考資料

「新潟県笹山遺跡出土深鉢形土器」とは、有名な火焔型(かえんがた)土器を含む928点の出土品で構成されている国宝の正式名称です。火焔型土器は、立体的な装飾に富み、優れた原始造形美を有する土器です。その独特な形や文様は、近隣各地の土器様式の影響のもと、今から約5300年前に信濃川中流域で成立し、同地域において約500年間にわたり継続、発展したと推定されています。

北海道 大船遺跡(北海道函館市) BC3,200年〜BC2,000年 参考資料

大船遺跡(おおふねいせき)は、北海道函館市に所在する縄文時代の遺跡である。縄文時代前期後半(約5200年前)から中期後半(約4000年前)頃に至るまでの大規模な集落遺跡であり、盛土遺構や竪穴住居、フラスコ状土坑などが発見されている。

エジプト文明 BC3,000年 参考資料

古代エジプト文明は、紀元前3000年頃に始まった第1王朝から紀元前30年にプトレマイオス朝が共和制ローマによって滅ぼされるまでの時代

土偶 (縄文のビーナス)(山梨県茅野市) BC3,000年〜BC2,000年 参考資料

全体像は下方に重心がある安定した立像形で、全長は27センチ、重量は2.14キロあります。顔はハート形のお面を被ったような形をしています。切れ長のつり上がった目や、尖った鼻に針で刺したような小さな穴、小さなおちょぼ口などは、八ヶ岳山麓の縄文時代中期の土偶に特有の顔をもっています。腕は左右に広げられて手などは省略されています。また、胸は小さくつまみ出されたようにつけられているだけですが、その下に続くお腹とお尻は大きく張り出しており、妊娠した女性の様子をよく表しています。今から約4000年から5000年前

顔面把手付深鉢形土器 (長野県岡谷市) BC3,000年〜BC2,000年 参考資料

長野県岡谷市小尾口海戸遺跡出土。海戸遺跡は諏訪湖に向かって突出する岬状の台地先端部に立地している。縄文時代中期
 本遺品、強く内湾する口縁部と瓢単形に括れた屈折底をもつ胴部からなる。口縁部の一端を大きく占める顔面把手は外向きに作られ、丸くあけられた口、切れ長につり上がった目、やや上向きの小さな鼻、肉彫り風の眉などで顔面を造形している。顔面周辺には円形三孔を穿ち、沈線・V字形の切り込み等の装飾によって結髪状態を表現している。口縁の他の一端には蛇を抽象化したと考えられるような装飾がある。屈折底を除く胴部は縄文によって充填され、顔面把手および他の一端の抽象化した装飾から垂下する三条の隆帯が胴部中央まで認められる。

一丈木遺跡 (秋田県仙北郡美郷町) BC3,000年〜BC2,000年 参考資料
一丈木遺跡(イチジョウギイセキ)は、縄文時代中期の竪穴住居跡で、これまで7回の調査が行われました。  住居跡は、第1号〜3号までありますが、3ヶ所にあるのではなく、同じ場所に2回建て替えが行われたもの。炉が北側に、袋状土坑(貯蔵用の穴)が東側にあり、配石遺構(祭祀、埋葬に関するもの)も発見されています。これらの配置は、2回の建て替えでも変わらなかったようです。(参考資料2

天戸森遺跡(秋田県鹿角市) BC3,000年〜BC2,000年 参考資料
天戸森遺跡は北上する米代川の右岸段丘から北西方向に突き出した長さ760m、幅500m、そして標高170mほどの舌状台地の北端に位置している。 昭和56年の中学校建設に伴う範囲確認調査により大規模な縄文中期の集落跡であることが判明。 これまでの発掘調査により竪穴住居跡140軒・屋外炉7基・配石遺構21基・埋設土器遺構3基・土壙103基などが検出されたと云う。多量の土器復元により、土器の形・文様の移り変わりを伝える貴重な資料を提供していると云われる。(参考資料2

山形県水木田遺跡出土品(秋田県鹿角市) BC3,000年〜BC2,000年 参考資料
水木田遺跡は最上郡最上町大字月楯字水木田、字畑中、字清水下に所在する。地形的には、神室山系山麓の向町盆地を西流する小国川右岸の河岸段丘上に立地している。  指定品は、出土遺跡のうち縄文時代中期の資料である。残存状況の良好な土器88点と土製品48点、石器・石製品194点の330点で構成されている。  特徴は、縄文時代中期の東北地方南部、特に山形県を代表する大木7b式土器を中心とする型式的時間幅の短い一括土器である点である。  石器・石製品では、石鏃、石匙等の打製石器、磨石・凹石等の礫石器が出土し、当時の生業を知る資料として重要である。

貝鳥貝塚 (岩手県一関市) BC3,000年〜BC1,000年 参考資料

蝦島といわれる独立小丘陵上に立地する。 この遺跡は縄文時代中期から晩期、弥生時代までの遺物を出土し、貝層は中期の頃は薄いが、後期・晩期に形成された貝層は顕著に残っている。 貝塚を形成する主要な貝類は、淡水産のオオタニシ・イシガイ・マツカサガイ・カラスガイである。貝塚から出土した魚骨は、フナ・ウナギ・サケ科の一種・マグロ類・マダイ・スズキなど11種、獣骨はニホンシカ・イノシシ・カモシカ・テン・キツネ・ニホンオオカミなど23種である。 また、多数の埋葬人骨や人工遺物として土器・石器・骨角牙貝器が出土した。 縄文時代中期から晩期・弥生時代にいたるまでの各時期の遺物が残され、内陸の貝塚として学術上貴重な遺跡である。(参考資料2

赤漆塗木鉢 (青森県北郡野辺地町) BC3,000年 参考資料

木製赤漆塗り。上面観楕円形で、長軸方向の相対する位置に、台形の把手がつく、内外面全面に赤漆が塗られた大形の木鉢である。把手の上面、口縁部はいずれも平坦に作られ、胴部は緩やかな曲線を描いて下方に行くほどすぼまる。胴部の一部と底部を欠くが、器形の全形は窺える。外面はほぼ平坦で彫刻文様などはないが、口縁から約一センチメートルの位置に横方向に漆が剥落した部分が線状に周回している。内面には、把手の付け根部分にのみ、幅約〇・七センチメートルの低平な突帯が彫刻されている。 〈縄文時代前期末から中期初頭〉

大清水上遺跡 (岩手県奥州市) BC3,000年 参考資料

大清水上遺跡(おおすずかみいせき)、岩手県奥州市胆沢区若柳にある縄文時代前期後半の住居跡。胆沢(いさわ)扇状地の最奥頂部、標高280mの段丘上に立地する。2000年(平成12)から胆沢ダム建設事業にともなう発掘調査が行われ、中央広場をもつ環状集落の存在が確認され、ダム建設の計画変更によってほぼ全体が保存されることになった。2008年(平成20)に国指定史跡となる。直径約20mの広場を囲んで大型竪穴(たてあな)住居が62棟配置された環状集落で、外側に小型竪穴住居、貯蔵用と考えられる土坑も発見されている。(参考資料2

アンデス文明 BC2,500年 参考資料

アンデス文明とは、1532年のスペイン人(白人)によるインカ帝国征服以前に、現在の南米大陸、ペルーを中心とする太平洋沿岸地帯およびペルーからボリビアへつながるアンデス中央高地に存在した文明。

メソポタミア文明・エジプト文明・インダス文明・黄河文明といったいわゆる世界四大文明などと異なり文字は持たない。その担い手は、1万2千年前に、ベーリング海峡を渡ってアジアから移動してきたモンゴロイド(黄色人種)の中の古モンゴロイドとされる。

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インダス文明 BC2,300年 参考資料

インダス文明は、インド・パキスタン・アフガニスタンのインダス川および並行して流れていたとされるガッガル・ハークラー川周辺に栄えた文明である。これら各国の先史文明でもある。崩壊の原因となったという説のあった川の名前にちなんでインダス文明、最初に発見された遺跡にちなんでハラッパー文明とも呼ばれる。

中国 夏王朝 BC2,070年〜BC1,600年 参考資料

紀元前2070年頃 - 紀元前1600年頃、史記では伝説と目される三皇五帝の時代に続いて、最初の王朝国家としての夏王朝が始まった。また夏は有るか、無いか、という論戦もある。

メソアメリカ文明(マヤ、アステカなど) BC2,000年 参考資料

メソアメリカ(Mesoamerica)は、メキシコおよび中央アメリカ北西部とほぼ重複する地域において、共通的な特徴をもった農耕民文化ないし様々な高度文明(マヤ、テオティワカン、アステカなど)が繁栄した文化領域を指し、パウル・キルヒホフの文化要素の分布研究により定義された。地理的には、北はメキシコのパヌコ川からシナロア川あたりまで、南はホンジュラスのモタグァ河口あたりからコスタリカのニコヤ湾あたりまでであるが、この境界線は歴史的に一定していたわけではない。

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萪内遺跡 (岩手県盛岡市) BC2,000年〜BC300年 参考資料

萪内 ( しだない ) 遺跡は、御所ダムの建設によって湖底に水没することになり、これに先立って昭和51年と52〜55年にかけて2度の発掘調査がおこなわれました。その結果、縄文時代後期〜晩期( 4000年から2300年前頃)の遺跡であることがわかりました。 見つかった遺構は、竪穴住居跡52、配石墓壙・貯蔵穴1460、木を使用した遺構(木造遺構)、縄文人の足跡98個です。住居跡や墓壙・貯蔵穴は比較的標高の高いところから、一方、木造遺構と足跡は雫石川側の低い湿地部分(旧河道)から見つかりました。 木造遺構にはえりや階段状の杭列、水汲み場・洗い場と考えられる施設があります。えりとは、川などに設置される、漁のための「わな」で、魚の習性を利用したつくりになっています。これらの遺構から、萪内の縄文人は川をたくみに利用し、その恩恵を受けながら生活していたことが想像されます。

前浜貝塚 (宮城県多賀城市) BC2,000年〜BC500年 参考資料

前浜貝塚(まえはまかいづか)は、宮城県気仙沼市本吉町に所在する縄文時代後期 - 晩期に属する貝塚である。

 調査の結果、土壙墓から15 - 17歳の青年女性屈葬人骨1体、人骨頭蓋上位からオス成犬1体、土壙墓に近接した甕棺墓からは月齢10ヶ月半ばの胎児骨1体が検出された。土壙墓・甕棺墓内の埋土中と見られる土器片から、縄文時代晩期中葉とされた。 

 

中沢目貝塚 (宮城県大崎市) BC2,000年〜BC500年 参考資料

中沢目貝塚(なかざわめかいづか)は、宮城県大崎市田尻にある縄文時代の貝塚。1974年(昭和49年)以来、数回の発掘調査が行われた。蕪栗沼の南側の大貫丘陵から北に突き出た標高29mの丘陵上に立地する縄文時代後・晩期の内陸部の淡水産貝塚である。周囲の水田地帯より26m高い。長根貝塚と同様に北上川やその支流の迫川によって形成された遊水地帯に臨んでいる。規模は東西270m、南北220m。貝層は小規模で、オオタニシ・イシガイ・ヌマガイなどの淡水産の貝類である。 

御所野遺跡 (岩手県一戸町) BC2,000年〜BC1,000年 参考資料

御所野遺跡 [ごしょの いせき]、岩手県北部の馬淵(まべち)川東岸、標高190m〜200mの河岸段丘に立地する縄文時代中期後半(紀元前2,500年〜紀元前2,000年頃)の大規模集落遺跡です。中央の広場に配石遺構を伴う墓地が造られ、それを囲んで竪穴建物跡、掘立柱建物跡、祭祀に伴う盛土遺構などが分布し、さらにその外側の東、西にも竪穴建物跡が密集するという集落構造が明らかになっています。御所野遺跡は、当時の人々が長期間にわたって安定した定住生活を示す具体的な物証であり、周辺の自然環境と共存しながら一体となった計画的土地利用を段階的に跡付けることができる顕著な事例です。  (参考資料2

田柄貝塚出土品 (宮城県多賀城市) BC2,000年〜BC1,000年 参考資料

三陸沿岸の貝塚から出土した縄文時代後期の遺物である。昭和54年の発掘調査で出土した土器・石器・骨角貝製品類など、多量な遺物で構成される。特に骨角器類には製作工程を示す釣針、概要の大形魚類捕獲のための銛頭、髪飾・垂飾を含む装身具などがあり、質量ともに他を圧倒する。  (参考資料2

コタン温泉遺跡出土品 (北海道八雲町) BC2,000年〜BC1,000年 参考資料

コタン温泉遺跡第3貝塚出土の縄文時代後期初頭の土器、石器、骨角牙製品、貝製品など346点で、特に骨角牙製品で作られた釣り針や銛先など漁具、針や刺突具等の生活用具、櫛、髪飾り、垂飾等の装身具などは、縄文時代後期の生活を知るうえで貴重な物です。  (参考資料2

鷲ノ木遺跡 (北海道茅部郡森町鷲ノ木町) BC2,000年〜BC1,000年 参考資料

鷲ノ木遺跡(わしのきいせき)は、北海道茅部郡森町鷲ノ木町に所在する縄文時代の遺跡。

縄文時代後期前半(約4,000年前)の環状列石と竪穴墓域、配石遺構や竪穴住居が発見されており、北日本における縄文時代の墓制や祭祀、東北地方との交流を考えるうえで貴重な遺跡である。環状列石と竪穴墓域は、桂川支流の上毛無沢川と下毛無沢川に挟まれた標高68mの舌状台地の南西部に位置し、環状列石構築期に前後する遺構が南方の標高約20m低い台地から発見されている。

小牧野遺跡 (青森県青森市) BC2,000年〜BC1,000年 参考資料

小牧野遺跡(こまきのいせき)は、青森県青森市にある縄文時代後期前半の遺跡。所在地は青森市野沢字小牧野。三内丸山遺跡の南に位置する。環状列石 直径2.5mの中央帯、直径29mの内帯、直径35.5mの外帯の三重の輪のほか、さらに外側に、一部四重となる弧状列石や、直線状列石、直径4mの環状列石などがあり、直径は55mにもおよぶ。

沖縄県 荻堂貝塚 (沖縄県北中城村) BC2,000年〜BC1,000年 参考資料

荻堂貝塚(おぎどう)は、沖縄県北中城村にある先史時代の貝塚遺跡。1972年(昭和47年)5月15日に国の史跡に指定された。沖縄本島東海岸の中城湾にのぞむ標高約140メートルの丘陵上に立地し、中城城近くの荻堂集落にある貝塚で、沖縄県では最古級の(2008年8月時点で更新されている可能性有り)琉球縄文土器時代前期の貝塚として有名である。沖縄における貝塚として最も著名なものの一つであり、本土の繩文時代後期に並行するもので、その出土品は南島先史時代研究の標準資料であった。

群馬県郷原出土土偶(ハート形土偶)

(群馬県東吾妻町)

BC2,000年〜BC1,000年 参考資料

縄文時代後期の作と思われる土偶。高さは約30.5cm。第二次世界大戦中の1941年、群馬県吾妻郡岩島村(現在の東吾妻町)大字郷原で行われた国鉄長野原線郷原駅(現在のJR吾妻線郷原駅)建設工事に際し、調査を行ったところ発見された(郷原古墳)。戦後の1951年に公式発表され、一大センセーションを巻き起こした。
女性像であるといわれ、妊娠線・産道が表現されている。ハート形の顔は考古学界のみならず美術界でも評価が高い。1965年に重要文化財に指定れている。個人蔵で、東京国立博物館に寄託されている。1981年に発行された90円普通切手のデザインにもなった。

新潟県馬高遺跡出土品 (火焔土器)

(新潟県長岡市)

BC2,000年〜BC1,000年 参考資料

馬高遺跡は信濃川中流域の左岸になだらかに張り出す関原丘陵上の北部緩斜面に位置する。
本件は、昭和十一年、馬高遺跡七号地点の住居跡内より押しつぶされた状態で発見されたものである。鶏冠状の把手、および平縁部に付された隆帯鋸歯文の存在から、早くより「火焔土器」と呼称されてきたものである。

 

巻貝形土製品 (新潟県村上市) BC2,000年〜BC1,000年 参考資料

大型巻貝をまねた特異な土器。器全体に配された瘤状の小突起を刻目のある隆帯で結び,その間にミミズばれ状の隆起線文を巧みに配している点に文様の特徴がみられる。全体に赤色顔料が塗布されて,その形の特異性が強調されており,祭器等特殊な用途が考えられる。このような貝をまねた土器は他に二,三例発見されている程度である。

大湯環状列石 (秋田県鹿角市) BC2,000年〜BC1,500年 参考資料

大湯環状列石 [おおゆ かんじょうれっせき]、秋田県北東部、鹿角市の米代川上流に位置し、その支流である大湯川左岸、標高180m程の台地上に構築された、縄文時代後期前葉から中葉(紀元前2,000年〜紀元前1,500年頃)の環状列石を中心とした遺跡です。環状列石の形態は、定住とともに発達した集落形態である環状集落を背景としたものと考えられます。遺跡の中心として万座(まんざ)と野中堂(のなかどう)の二つの環状列石があり、それぞれの環状列石を取り囲むように、掘立柱建物跡、土坑・貯蔵穴、遺物廃棄域が同心円状に配置されています。これらの遺構とともに、日常使用する土器や石器、土偶や土版、鐸形土製品、石棒、石刀等といった土製品や石製品が出土しています。 (参考資料2

伊勢堂岱遺跡 (秋田県鹿角市) BC2,000年〜BC1,700年 参考資料

伊勢堂岱遺跡 [いせどうたいいせき]、北秋田市の北部、米代川西岸の河岸段丘で標高42〜45m舌状台地上に立地する、縄文時代後期前葉(紀元前2,000年〜紀元前1,700年頃)に形成された環状列石を中心とした遺跡です。4つの環状列石を主体として、配石遺構・掘立柱建物跡・土坑墓・貯蔵穴・溝状遺構などが見つかっており、石鏃(せきぞく)などの狩猟具、石錘などの漁労具、石皿・磨石などの研磨器類などの生活用具や、土偶・動物形土製品・鐸形土製品・岩版類・三脚石器・石剣類など祭祀の道具も多量に出土しています。 (参考資料2

猪形土製品 (青森県弘前市) BC2,000年 参考資料

十腰内2遺跡(弘前市大字十腰内字猿沢)出土の縄文時代後期の猪形土製品。縄文時代後期から晩期にかけて、猪形土製品は北海道から関東まで散見されるものだが、本品は、それらの中にあって、群を抜く大きさで写実性に富み、美術性にも優れている。

西ノ前遺跡出土 土偶(縄文の女神)(山形県船形町) BC2,000年 参考資料

本件は、山形県西ノ前遺跡から出土した土偶である。本土偶は、縄文時代の土偶としては北海道著保内野遺跡出土の中空土偶(国宝)とならぶ現存最大高を誇るものである。その造形は女性の姿を究極までデフォルメ表現していることに最大の特色があり、現代の美的感覚にも通じる完成された美しさをもっている。長野県棚畑遺跡出土の土偶(国宝)とならび、縄文時代における土偶造形の到達点を示す優品として名高く、国宝にふさわしい。(参考資料2

土偶(仮面の女神)(山梨県茅野市) BC2,000年 参考資料

「仮面の女神」の愛称をもつこの土偶は、茅野市湖東の中ッ原遺跡から出土した、全身がほぼ完存する大形土偶です。全長は34センチ、重量は2.7キロあります。顔に仮面をつけた姿を思わせる形であることから、一般に仮面土偶と呼ばれるタイプの土偶です。今から約4000年前の縄文時代後期前半に作られました。

繋遺跡出土深鉢形土器 (岩手県盛岡市)

BC2,000年 参考資料

1951年に小学校校庭の整地工事の際に発見された縄文土器です。大胆で整然とした構図のもと,全面に隆沈線による唐草状の大渦巻文を中心として,小渦巻文や懸垂文が描かれており,北上川流域における代表的な縄文中期の土器といえます。

北海道 戸井貝塚 (北海道函館市)

BC2,000年 参考資料

函館市(旧戸井町)戸井貝塚は津軽海峡に面した標高4〜7mの緩やかな段丘の端にあります。海岸から200m程しか離れていないため、晴れた日には青森県の下北半島が見えます。遺跡の中心は縄文時代後期初頭の貝塚で、多くの 骨角器 こっかくき や貝製装飾品のほか、丸木舟を思わせる舟形土製品が出土しました。

中国 殷王朝 BC1,600年〜BC1,100年 参考資料

紀元前1600年頃 - 紀元前12世紀・紀元前11世紀ごろ。代表的な遺跡殷墟が有名であるため日本では一般に殷と呼ばれるが、商の地が殷王朝の故郷とされており、商が自称であるという説もあるため、中国では商と呼ぶほうが一般的である。殷商とも呼ぶ。実在の確認されている最古の王朝である。殷では、王が占いによって政治を行っていた(神権政治)。殷は以前は山東で興ったとされたが、近年は河北付近に興ったとする見方が有力で、黄河文明で生まれた村のうち強大になり発展した都市国家の盟主であったと考えられる。

北海道著保内野遺跡出土 土偶(中空土偶) 

 (北海道函館市)

BC1,500年〜BC1,200年 参考資料

北海道著保内野遺跡出土、縄文時代後期後半(約3,200〜3,500年前)の墳墓で,国宝「土偶」が出土した遺跡です。 土偶は,1975(昭和50)年に地元の主婦により農作業中に偶然発見され,その後の発掘調査において,小型のストーンサークルの周囲につくられた集団墓のひとつから出土したことが確認されました。 特徴としては,国内最大級の大きさであること,薄く精巧なつくりで写実的であること,文様構成に優れていることなどが挙げられます。 この土偶は,縄文時代後期の土偶造形の到達点を示すものとして極めて貴重であることから,2007(平成19)年に国宝に指定されています。 参考資料2

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土偶(合掌土偶) (青森県八戸市) BC1,500年 参考資料

青森県風張1遺跡出土、風張1遺跡からは約70点の土偶が出土しているが、完全な形をしているものはこの土偶だけである。座った状態で両腕を膝の上に置き、正面で手を合わせ、指を組んだポーズを取っていることから合掌土偶と称されている。
また、両腿の付け根及び膝と腕が割れており、割れた部分をアスファルトを使って修復し、長く大事に使用していたものと考えられる。土偶の顔面・体の一部などに赤色顔料が認められ、使用された当時は全体が赤く塗られていたと思われる。縄文時代後期後半(約3,500年前頃)のものである。

沖縄県 仲泊遺跡 (沖縄県国頭郡恩納村) BC1,500年 参考資料

仲泊遺跡(なかどまりいせき)は、沖縄県国頭郡恩納村にある沖縄先史時代の遺跡である。岩陰を利用した住居跡と貝塚が残り、沖縄先史時代前期(紀元前約1500年前)頃利用されていたものとされる。沖縄県に残る同様の遺跡としては、最大級の規模で保存されている。 同じ場所に、近世に利用されていた「比屋根坂石畳道」も残っている。

北海道 船泊遺跡 (北海道礼文町) BC1,500年 参考資料

礼文町船泊遺跡は、島北部の船泊湾に面した船泊砂丘の西側にあり、久種湖と海岸の間に出来た高さ10m前後の砂丘上に立地し、縄文時代中期から後期にかけての土器や人骨が発見される遺跡として知られていました。  1998年に行われた町教育委員会の発掘では、貼床などを伴う生活面24基、墓壙24基、土壙19基、屋外地床炉29基、集石炉58基などが検出されました。遺物は後期中葉の船泊上層式が中心です。この時期は、南は九州から北は北海道北部まで、統一化された土器文様が見られます。

北海道 忍路環状列石 (北海道小樽市) BC1,500年 参考資料

忍路環状列石(おしょろかんじょうれっせき)は、北海道小樽市忍路にあるストーンサークルの遺跡である。日本の考古学史上初めて学会に報告されたストーンサークルでもある。北海道小樽市から余市町にかけては80基以上のストーンサークルが確認されているが、その中でも忍路環状列石は最大のものである。遺跡は三笠山という小高い山の山麓の、標高20メートルの河岸段丘上に位置する。遺跡の広さは南北約33メートル、東西約22メートルで、楕円形をしている。外側に2メートルから3メートルの幅で大きさ10センチから20センチの石が環状に置かれ、その内側に高さ1メートルから2メートルの大石が配置されている。約3,500年前の縄文時代後期のものと推定されている。

田柄貝塚出土 縄文土器 (宮城県気仙沼市) BC1,300年〜BC800年 参考資料

気仙沼市田柄貝塚出土 縄文土器。縄文時代後期後半〜晩期前半。重要文化財

虫内T遺跡出土土偶  (秋田県秋田市) BC1,300年〜BC800年 参考資料

虫内T遺跡出土土偶、縄文時代晩期  

秋田県 有形文化財(美術工芸品) 

指定年月日:20110322 

虫内T遺跡(秋田市金足鳰崎字後山52)は縄文時代後期後葉から晩期前葉にかけての墓域跡を中l心とする遺跡である。(参考資料2

 

中国 周王朝 BC1,100年〜BC770年 参考資料

紀元前12世紀・紀元前11世紀ごろ - 紀元前256年、殷を滅ぼし、周(西周)建国。紀元前11世紀頃に殷を滅ぼした周は、各地の有力者や王族を諸侯として封建制をおこなった。しかし、周王朝は徐々に弱体化し、異民族に攻められ、紀元前770年には成周へ遷都した。その後、史記周本紀によれば犬戎の侵入により西周が滅び、洛陽に東周が再興されるが、平勢隆郎の検討によれば幽王が殺害されたあと短期間携王が西、平王が東に並立し、紀元前759年平王が携王を滅ぼしたと考えられる。平王のもとで周は洛陽にあり、西周の故地には秦が入る。これ以降を春秋時代と呼ぶ。春秋時代には、周王朝の権威はまだ残っていたが、紀元前403年から始まるとされる戦国時代には、周王朝の権威は無視されるようになる。

成王の時、越裳は雉を献じ、倭人は暢草を貢ず

BC1,043年〜BC1,020年 参考資料

「論衡」という中国の歴史書(編者:王充)に

「成王時 越裳獻雉 倭人貢鬯」(恢国篇第五八) 成王の時、越裳は雉を献じ、倭人は暢草を貢ず、とあります。 周の成王: 在位期間 前1043年 - 前1020年? 

越裳は揚子江流域の呉越地方の民族。その越裳と並べて倭人が書かれていることからみて、編者の王充は、倭人を呉越地方と関係あると認識していたと思われます。
既にこの当時、日本は中国へ朝貢していたことがわかりますし、日本と中国の呉越地方とのつながりもうかがい知れます。

山王囲遺跡 (宮城県栗原市)

BC1,000年〜西暦30年 参考資料

山王囲遺跡(さんのうがこいいせき)は、宮城県栗原市(旧栗原郡一迫町真坂字山王・道満)で発見された縄文時代晩期から弥生時代中期の集落跡。

発掘調査により上部から弥生時代中期、下部から縄文時代晩期の遺物が多数出土した。弥生時代の磨消縄文を持つ土器、石器・合口甕棺(あわせぐちかめかん)などが、縄文時代晩期後半の土器、大洞C2式・大洞A式・大洞A'式の層が検出された。中でも大洞C2式と大洞A式の層からはクルミ・トチ・クリなどの果皮からなる泥炭層で、漆器や獣骨などが多量に包含されていた。その他、土器が4000点、石鏃や石斧などの石器が1000点以上、土製耳飾りやペンダントなどが1000点以上、多数の土偶・土板・籃胎漆器・骨角器・編布、木製品などが出土している。

本遺跡は、縄文時代晩期から弥生時代中期にかけて地層からの多種多様な遺物が出土し、当時の生活を知る手がかりとして貴重である。

亀ヶ岡遺跡出土土偶(遮光器土偶)

(青森県つがる市)

BC1,000年〜BC300年 参考資料

亀ヶ岡石器時代遺跡(かめがおかせっきじだいいせき)は、青森県つがる市にある縄文時代晩期の集落遺跡である。遮光器土偶が出土した遺跡として知られ、1944年(昭和19年)6月26日に国の史跡に指定されている。単に亀ヶ岡遺跡とも称される。

遮光器土偶 (しゃこうきどぐう)は、縄文時代につくられた土偶の一タイプ。一般に「土偶」といえばこの型のものが連想されるほど有名な型である。目にあたる部分がイヌイットやエスキモーが雪中行動する際に着用する遮光器(スノーゴーグル)のような形をしていることからこの名称がつけられた(遮光器を付けた姿の表現ではなく、目の誇大表現と考えられている)。

蒔前遺跡出土品 (岩手県二戸郡一戸町)

BC1,000年〜BC300年 参考資料

篦岳丘陵の西北端から東に延びる低丘陵斜面にあり、1943年(昭和18年)に、桑の木の根を掘ったときに、縄文時代、前1000〜前400年頃のものと推定される高さ36.1cm、肩幅21.0cmの遮光器土偶(東京国立博物館蔵:)が出土し、1981年(昭和56年)6月に国の重要文化財に指定された。当遺跡からは他に、縄文時代早期、前期、中期、後期、晩期の土器片が出土した。今から約7千年前より、この地域に人が住んでいたと考えられている

恵比須田遺跡出土土偶(遮光器土偶)

(宮城県田尻市)

BC1,000年〜BC400年 参考資料

篦岳丘陵の西北端から東に延びる低丘陵斜面にあり、1943年(昭和18年)に、桑の木の根を掘ったときに、縄文時代、前1000〜前400年頃のものと推定される高さ36.1cm、肩幅21.0cmの遮光器土偶(東京国立博物館蔵:)が出土し、1981年(昭和56年)6月に国の重要文化財に指定された。当遺跡からは他に、縄文時代早期、前期、中期、後期、晩期の土器片が出土した。今から約7千年前より、この地域に人が住んでいたと考えられている

亀ヶ岡遺跡出土 土面 (青森県つがる市)

BC1,000年〜BC400年 参考資料

青森県つがる市木造亀ヶ岡出土。縄文時代の仮面は現在までに140点ほど発見され、土製が約120点、貝製が約10点、石製が数点見つかっているものの、土偶と比べて圧倒的に数は少ない。土面は後晩期の北・東日本に数多く出土し、晩期の土面のうち遮光器土偶と目の表現がよく似た一群が東北地方でみられる。
 本例はその一つで、大きくデフォルメされた目は遮光器土偶とよく似るものの、口の表現は異なっている。また額や頬は磨消縄文手法(すりけしじょうもんしゅほう)を用いた入組文に三叉文(さんさもん)が加えられて飾られる。この一群の土面は10cm程度と小型で顔を覆うには小さく、そのため額にあてたり、または手に持ったり、胸に下げたりして儀礼に使われたと考えられている。土面は縄文時代の儀礼の豊かさと、精神文化の広がりを知るための好材料である。

泉沢貝塚出土土偶 (宮城県石巻市) BC1,000年〜BC500年 参考資料

泉沢貝塚(いずみさわかいづか)は、宮城県石巻市北上町にある縄文時代の貝塚。1948年(昭和23年)にアイオン台風が石巻地方を襲った際に、縄文時代晩期の高さ26.2cmの遮光器土偶が偶然発見された。同土偶は、県指定有形文化財として多賀城市の東北歴史博物館に所蔵されている。

縄文時代晩期の大型の精巧な作りの土偶であり、体内が空洞になっている。左脚部がわずかに壊れているが、ほぼ完形である。頭部には王冠状の装飾があり、目は誇張されて遮光器をかけたように大きく表現されている。肩は横に大きく張り出し、腕は短めである。腰は末広がりで、太い脚は大きく開いて踏ん張った形をとるが、立てることができない。胴部には磨消縄文による雲形の文様が施されている。

奈良県 橿原遺跡 (奈良県橿原市) BC1,000年〜BC500年 参考資料

畝傍山の東南麓に広がる遺跡で、南東から延びる丈六台地の北端部、桜川の右岸に立地します。当遺跡は、古くから西日本を代表する縄文時代晩期の遺跡として知られています。

出土した主な土器は、縄文時代晩期前葉〜末にかけてのものです。なかでも「橿原式文様」と呼ばれる土器は、晩期の基準資料にもなっています。在地の土器以外に、東北地方中心に分布する大洞式系土器が出土しており、当時の交流の広さを窺うことができます。また、土偶は200点近く出土しており、西日本で突出した出土量を誇ります。この他、土製品・石器・骨格牙製品など出土遺物も豊富で、縄文時代晩期の文化を考える上で非常に価値が高いことから、出土遺物のうち1,225点が国の重要文化財に指定されています。

大洞貝塚 (岩手県大船渡市) BC1,000年〜BC500年 参考資料

大洞貝塚(おおほらかいづか)、史跡は大船渡湾岸から東に入った谷にはさまれたなだらかな丘陵地にある。遺物は、縄文時代後期から晩期にかけての土器、石製品をはじめ、骨角牙貝製品では釣針・鈷頭・骨匕・垂飾具・貝輪などが出土している。 また、貝類はアサリを主体とし、魚類はサメ類・サバ・マグロ・ブリ・マダイなど、哺乳類はイノシシ・シカ・イヌ・キツネなど、人骨も多数出土している。

佐賀県 中妻貝塚 (佐賀県唐津市) BC1,000年 参考資料

昭和47年に取手市で発掘調査をおこない、その後も継続して、貝塚の範囲や貝層の堆積などを確認する調査を実施して、住居跡や貝玉製作跡、

101体人骨埋葬土壙(どこう)など、貴重な資料が多数出土しました。さらに、製塩土器が出土して中妻貝塚の人びとは、海水から塩を生産していたこともわかったそうです。この地域の縄文時代社会を理解するための代表的な遺跡であることから、今も貝層が残る福永寺の一画ならびに集団埋葬墓が検出された地区を取手市文化財として指定しています。