弥生時代 

BC1,000年 〜 西暦250年  

日本での水稲耕作の始まり                                               参考資料

縄文の終わりごろ(BC1,000年〜BC300年ころ)、日本列島の気温は 2度前後低下し海面も低下します。狩猟・漁労・採集が主体の生活環境に限界が見えてきます。

その頃、中国では、晋王朝が弱体化し、春秋戦国時代になろうかという時代です。

今も昔も変わらないと思いますが、国が荒れるとその情勢不安が周辺の地域にも及んで、そこから避難しようという人たちが現れたと考えられます。いわゆる難民です。その頃の日本は その難民を受け入れたのでしょう。

九州北部に、大勢の見知らぬ人達が現れ、稲作を始めた。

縄文人たちも稲という植物を知らなかったわけではなく、大陸の農耕の情報もおそらく得ていたでしょう。(右図は稲作の栽培地とその伝播ルート)

日々悪化する生活環境を克服するため、実際、水田を目の当たりにしてからの縄文人の反応は機敏でした。

稲作は九州から中国、近畿地方、さらに東日本へと急速に広まりました。

農耕を基盤とする新たな文化、時代への転換が始まりました。

佐賀県 菜畑遺跡 (佐賀県唐津市) BC930年 参考資料

菜畑遺跡(なばたけいせき)は、現在日本最古の水稲耕作遺跡である。佐賀県唐津市の西南部、JR唐津駅から西に2キロメートルほどのところにあり、国の史跡に指定されている。
本遺跡は1979年(昭和54年)に発見され、1980年12月から1981年(昭和56年)8月にかけて発掘調査が実施された。1983年(昭和58年)に史跡に指定された。
魏志倭人伝に出てくる末盧国に因んだ末盧館という資料館が建てられ、この遺跡から出土した炭化米や石包丁、鍬、鎌などの農業用具ほか発掘に関連した資料が展示され、竪穴式住居や水田跡も復元されている。

奈良県 曲川遺跡 (奈良県橿原市) BC800年〜BC500年 参考資料

畝傍山の北西約3km、本市西部を北流する葛城川と曽我川に挟まれた沖積低地に位置する縄文時代から中世にかけての複合遺跡です。これまでの調査で、縄文時代晩期中葉〜末頃(今から2,800〜2,500年前)の竪穴住居、土壙墓(どこうぼ)、土器棺墓(どきかんぼ)、貯蔵穴、炉、河川が見つかりました。出土遺物は、多量の土器の他、石器、土製品(土偶・半輪状土製品など)、木製品(漆塗腕輪)などがあります。出土した土器には、東北・北陸地方中心に分布するものもあり、当時の交流の広さを窺い知る事ができます。

福岡県 板付遺跡 (福岡県福岡市) BC600年〜西暦100年 参考資料

板付遺跡(いたづけいせき)は、福岡市博多区板付にある縄文時代晩期から弥生時代後期の遺跡である。国の史跡。遺跡は竪穴式住居や水田が復元された公園になっており、展示施設(板付遺跡弥生館)もある。佐賀県唐津市にある菜畑遺跡に次ぐ水稲耕作跡であり、福岡県粕屋町の江辻遺跡に次ぐ、日本でも最初期の環濠集落でもある。

沖縄県 仲原遺跡 (沖縄県伊計島) BC500年〜BC100年 参考資料

仲原遺跡(なかばるいせき)は、沖縄県の伊計島にある縄文時代晩期〜弥生時代前期(沖縄貝塚時代中期)にかけての村落跡である。所在地は、沖縄県うるま市与那城伊計。縄文時代後期(約2500年前-2100年前:沖縄貝塚時代中期)の沖縄県の代表的な村落跡である。沖縄県内で、最大の竪穴式住居跡であり、そのいくつかが復元整備されて、現在は「イチの里 仲原遺跡」として観光地となっている。

沖縄県 宇佐浜遺跡 (沖縄県国頭郡国頭村) BC500年 参考資料

宇佐浜遺跡(うざはまいせき)は、沖縄県国頭郡国頭村、沖縄本島最北端の辺戸岬近辺にある縄文遺跡。1972年(昭和47年)5月15日に国の史跡に指定された。
国頭半島先端部は高さ20メートル以上の断崖となって海にのぞむが、遺跡はこの断崖直上のゆるやかな傾斜地に立地する。遺跡は1970年に琉球政府によって発掘調査がおこなわれており、貝塚をともない、住居跡らしき遺構を検出し、また、土器、石器が出土した。琉球縄文土器時代後期に属する壺形尖底土器も出土している。

大分県 大石遺跡 (大分県豊後大野市) BC500年 参考資料

大石遺跡(おおいしいせき)は、大分県豊後大野市緒方町大石にある縄文時代晩期の遺跡。
大野川支流の十角川沿いの台地上に位置する縄文時代晩期前半の集落の遺跡である。1962年 - 1966年(昭和37年 - 41年)に、別府大学などにより4次にわたる発掘調査が行われた。1962年の第3次調査には石田英一郎が、1966年の4次調査には泉靖一がそれぞれ参加している。集会などに使用されたと推測される大規模な建物址や複数の住居址が検出されるとともに、多数の石器、黒色磨研土器が出土した。

佐賀県 吉野ケ里遺跡 (佐賀県神埼郡吉野ヶ里町) BC400年〜BC300年 参考資料 
吉野ヶ里遺跡(よしのがりいせき)は、佐賀県神埼郡吉野ヶ里町と神埼市にまたがる吉野ヶ里丘陵にある遺跡。国の特別史跡に指定されている。紀元前4世紀頃には、吉野ヶ里丘陵の中に集落が形成され始め、これが大規模な集落へと発展することになる。前期には、吉野ヶ里丘陵のところどころに分散して「ムラ」ができ始める。また、南のほうの集落に環濠が出現する。中期には、吉野ヶ里の丘陵地帯を一周する環濠が出現する。集落が発展していくとともに、防御が厳重になっている。また、墳丘墓や甕棺が多く見られるようになる。

新潟県 村尻遺跡出土品(新潟県新発田市) BC320年〜BC210年 参考資料

村尻遺跡は新潟県新発田市下寺内(しばたししもじない)に所在した、弥生時代前期〜中期の集団墓地と、縄文時代中期末葉・後期中葉〜晩期末葉の居住域および墓域からなる遺跡である。村尻遺跡は新潟県新発田市下寺内(しばたししもじない)に所在した、弥生時代前期〜中期の集団墓地と、縄文時代中期末葉・後期中葉〜晩期末葉の居住域および墓域からなる遺跡である。

大阪府 山賀遺跡出土 「垂飾」形木製品

(大阪府八尾市)

BC320年〜BC210年 参考資料

カスタネットのような珍しい形をした木製品「垂飾」形木製品(弥生時代前期)が 2005年12月に見つかった大阪府八尾市の遺跡。直径約5cmで両面に流水文などを彫り、漆仕上げ。上端につるすための穴、下部の切り込みの内側に複数の穴があり、羽根飾りなどを取り付けたらしい。装飾品とみられる。大阪府東大阪市から八尾市にかけてひろがる大規模な遺跡で、1971年の発見以来、数多くの調査がおこなわれ、縄文時代後期から中世・近世までの、各時代の遺構や遺物が多くみつかっています。

奈良県 唐古・鍵遺跡(奈良県田原本町) BC300年〜西暦500年 参考資料

唐古・鍵遺跡(からこ・かぎいせき)は、奈良盆地中央部、標高約48メートル前後の沖積地、奈良県磯城郡田原本町大字唐古及び大字鍵に立地する弥生時代の環濠集落遺跡
現段階の調査で認知されている遺跡面積は約30万平方メートル。規模の大きさのみならず、大型建物の跡地や青銅器鋳造炉など工房の跡地が発見され、話題となった。明治34年、高橋健自が『大和考古雑録』の中で「磯城郡川東村大字鍵の遺跡」として紹介した事を始め、全国からヒスイや土器などが集まる一方、銅鐸の主要な製造地でもあったと見られ、弥生時代の日本列島内でも重要な勢力の拠点があった集落ではないかと見られている。平成11年(1999年)に国の史跡に指定され、ここから出土した土器に描かれていた多層式の楼閣が遺跡内に復元されている。 

山口県 土井ヶ浜遺跡 (山口県下関市) BC300年 参考資料

土井ヶ浜遺跡(どいがはまいせき)は、山口県下関市豊北町土井ヶ浜にある弥生時代前期から中期の墓地遺跡である。「戦士の墓」あるいは「英雄の墓」などと呼ばれる。
土井ヶ浜遺跡の発見は、1930年まで遡る。1930年晩秋夕刻、神玉小学校教諭河野英男により、砂丘中に6体の人骨が入った石棺が露出しているのが確認された。翌1931年3月旧山口高等学校(山口大学文理学部)小川五郎・旧京都帝国大学(京都大学)三宅宗悦らにより人骨収集と学会報告が行われ、「土井ヶ浜遺跡」と命名された。

出土した人骨の形質が縄文人のそれと異なることから、土井ヶ浜遺跡は稲作文化とともに中国大陸側から渡来した弥生人の墓地として注目されてきた。「英雄」は78人以上の人々と共に海岸の墓地に眠っていた弥生前期の人で、1954年の第2次調査で出土した第124号人骨のことである。この人骨の胸から腰にかけて15本の石鏃が打ち込まれていた。至近距離から打ち込まれたものとされ、土井ヶ浜のムラを守るために戦った戦士であったとも考えられている。

兵庫県 口酒井遺跡(兵庫県伊丹市) BC300年 参考資料

稲作の伝搬を通じての縄文系と弥生系の人々の交流

弥生草創期の集落 口酒井遺跡でみつかった東日本の縄文土器の特徴を示す土器片で、この地の土で作られて いた。 弥生系の人達にはこのような縄文文様を作る技術はなく、東日本の縄文人たちがこの口酒井遺跡に居住していたと考 えるべきだという。 そして、このことを手がかりに西日本の各地に同じような東日本の縄文土器が見つかり、この稲作が伝 播してゆくこの頃に、東日本から数多くの縄文系の人達が来ていた証拠だという。 また、一方 反対に 東日本では、突然の稲作集落の出現と共に多数の縄文系土器に混じって、弥生系の土器が出土する。 縄文系の村に弥生系の人が入り込んで、稲作文化が伝播していったという。

兵庫県 新方遺跡第13号人骨(兵庫県神戸市) BC300年 参考資料

新方遺跡は、明石川と伊川の合流点に所在する弥生時代の集落跡です。この遺跡から発見された弥生時代初め頃の人骨は、顎が頑丈でがっしりした体格の縄文人的な骨格の特徴を持っており、抜歯などの縄文時代の風習も残されています。また、骨に突き刺さった石鏃が見られることから、弥生時代に始まった集落間での争い(戦争)による犠牲者とも考えられます。このことは、縄文時代から弥生時代に移行する上での歴史学的な価値と共に、人類学的な史料価値があります。

福岡県 諸岡遺跡(福岡県福岡市) BC250年〜BC210年 参考資料

福岡市博多区諸岡、筑紫通りに面した標高23mの丘陵とその周辺に営まれた先土器時代、縄文時代晩期、弥生時代前期末〜中期、中世後半の複合遺跡。  昭和47年からの発掘調査で、朝鮮系無文土器が出土する小竪穴や、貝輪や細形銅剣を副葬する甕棺墓など弥生時代の遺構・遺物が検出された。丘陵上には5基の円墳があり、八幡宮裏にその1基が現在も残る。また中世には地下式横穴墓が営まれていた。  朝鮮半島との具体的な交流を示す朝鮮系無文土器は、この遺跡の発見を嚆矢として研究が進み、西日本各地にその出土例を見るようになった。

中国 秦王朝 BC221年前〜BC207年 参考資料 

秦(紀元前221年 - 紀元前207年)…秦王・政(始皇帝)が6国を滅ぼし中華統一

銅鐸・銅戈・銅鐸文化の終焉

兵庫県 松帆銅鐸 (兵庫県南あわじ市) BC210年前〜西暦 30年 参考資料 

兵庫県南あわじ市で2015年にみつかった弥生時代の青銅器「松帆銅鐸(まつほどうたく)」の科学分析を実施した結果、朝鮮半島産の鉛を含むなど弥生時代中期前半(紀元前4〜前3世紀)の最古級の銅鐸と同じ特徴を持つことが分かった。市教委が27日発表した。多数の銅鐸が土中に埋められたのが、紀元前にさかのぼって最古の事例となる可能性が強まった。

兵庫県 桜ヶ丘町出土銅鐸・銅戈(兵庫県神戸市) BC210年〜西暦 30年 参考資料

昭和39年(1964)12月10日、六甲山南斜面の標高約240m付近の、尾根の東斜面で発見された。 14個の銅鐸のうち1〜3号銅鐸は流水文(りゅうすいもん)銅鐸で、1号銅鐸は身の中央よりやや上に影絵風の絵画文で飾った横帯があり、2号銅鐸は身の中央にシカの列を線描で鋳出している。4〜14号銅鐸は袈裟襷文(けさだすきもん)銅鐸で、4〜5号銅鐸は身の両面の4区内にいずれも線描の絵が鋳出されている。6号銅鐸が最も大きく、高さ64.2cm、最小は14号銅鐸で21.4cm。銅戈7本は長さ27.2〜29.0cmでほぼ大きさがそろっており、樋(ひ)を複合鋸歯(きょし)文で飾った大阪湾型銅戈である。製作時期の違う銅鐸が多量に土中に埋納されることは最大の謎

島根県 荒神谷遺跡出土品(島根県出雲市) BC210年〜西暦30年 参考資料

本件は、島根県簸川郡斐川町神庭に所在する荒神谷遺跡から出土した青銅器の一括である。銅剣は358口を西側から34口、111口、120口、93口の四列に分け、整然と刃を立てた状態で並べられていた。銅矛16口は斜面に平行方向に刃を立てた状態で、かつそれぞれの切先と基部を交互にして埋置されていた。銅鐸は銅矛の西側に接し、3口ずつが鈕を向かい合わせるように二列にして、かつ鰭を立てた状態で埋置されていた。

佐賀県 肥前唐津宇木出土品(銅剣・銅鉾)

(佐賀県唐津市)

BC210年〜BC100年 参考資料

指定されている銅剣・銅矛は弥生前期に比定されるもので、唐津平野が大陸文化流入の門戸として日本における初期青銅器文化の成立に重要な位置を占めたことを示す遺物と言えます。ともに精巧な寿造技術、鋭い研ぎによる仕上げは初期の形態の特徴をもつもので、朝鮮半島からの舶載品(はくさいひん)である可能性が強いものです。

この遺跡では、同県・銅矛にあわせ銅鏡も出土しています。

多鈕細文鏡(たちゅうさいもんきょう)といい、鏡の裏面に紐を通す鈕(ちゅう)が2、3個付いており、細線の幾何学紋様を施した朝鮮半島系の銅鏡です。(参考資料

日本列島で、弥生時代に入って最初に出現したのがこの鏡でした。この鏡は、朝鮮半島を中心に一部は遼寧省や沿海州など東北アジアの一角に拡がったもので、日本では弥生時代中期前半に日本古来の勾玉(まがたま)などと一緒に副葬品に加わります。近畿地方へは、弥生時代中期頃に銅鏡伝播の第一波として、この多鈕細文鏡がもたらされました。流行は短期間でしたが、九州から近畿、さらに中部地方(長野県)までの大変広い範囲まで流布しています。 

奈良県 御所市名柄出土品(流水文横帯文銅鐸、双鈕細線鋸歯文鏡) (奈良県御所市)

BC200年〜西暦 0年 参考資料

大正7年(1918)、溜池工事の際、偶然に発見されたものである。発見者からの聞書きによれば、両者は地下60cm程度のところから出土したという。
銅鐸は、小型で、身の主文様がA面は流水文、B面は袈裟襷文というきわめて稀な文様構成をもつものである。銅鏡は、中国系の漢式鏡とは異なり、片寄った位置に二個の鼓形の鈕が並ぶ。鏡背には鏡縁・外区・内圏帯・内区から構成され、縁は断面蒲鉾形を呈し、全体は凹面を成している。鏡面が凹面を成すのは、この種の鏡の大きな特徴である。そして鏡背にはきわめて緻密な幾何学文が鋳出されている。繊細かつ幾何学美にあふれた鏡である。この種の鏡は、朝鮮半島から蒙古・中国東北地方を中心に数多く発見されているが、日本では、これまでに福岡・佐賀・長崎・山口・大阪・奈良・長野の10遺跡11面の出土例しかない。
発見当時、韓国入室里遺跡や山口県梶栗浜遺跡で多鈕細文鏡が銅剣や銅矛と共伴することから、これらの年代観については概ね了解されていたが、銅鐸の年代観についてはまだ定まっていなかった。本例は、銅鐸と多鈕細文鏡がはじめて共伴した例としてきわめて重要であり、銅鐸の年代観を確立する基礎資料、そして銅鐸のみならず銅鏡の埋納の問題を考える重要資料として扱われてきているものである。

島根県 加茂岩倉遺跡出土銅鐸(島根県出雲市) BC200年〜西暦210年 参考資料

本件は、島根県加茂岩倉遺跡から一括出土した銅鐸39口である。銅鐸の型式は外縁付鈕1式が19口、外縁付鈕2式が9口、外縁付鈕2式〜扁平鈕1式が2口、扁平鈕2式が6口、扁平鈕2式〜突線鈕1式が3口である。

前漢が中国を統一 BC206年〜西暦 8年 参考資料

前漢(ぜんかん、紀元前206年 - 8年)は、中国の王朝である。秦滅亡後の楚漢戦争(項羽との争い)に勝利した劉邦によって建てられ、長安を都とした。

7代武帝の時に全盛を迎え、その勢力は北は外蒙古・南はベトナム・東は朝鮮・西は敦煌まで及んだが、14代孺子嬰の時に重臣の王莽により簒奪され一旦は滅亡。その後、漢朝の傍系皇族であった劉秀(光武帝)により再興される。前漢に対しこちらを後漢と呼ぶ。

衛氏朝鮮 BC195年〜BC108年 参考資料

衛氏朝鮮(えいしちょうせん 紀元前195年? - 紀元前108年)は、その実在について論争のない朝鮮半島の最初の国家である。中国の燕に出自を持つ中国人亡命者である衛満が今の朝鮮半島北部に建国した。

 

福岡県 立岩遺跡堀田甕棺群出土品 (福岡県飯塚市) BC150年〜西暦30年 参考資料

立岩遺跡は、遠賀川の上流、嘉穂盆地に位置した著名な遺跡である。昭和三十八年の第一次調査より三次調査で発見された弥生時代の甕棺関係の一括遺物である。甕棺内からは、計十面の前漢時代の鏡をはじめ、剣、戈、鏃、釶など豊富な鉄製品、銅矛が出土している。更に大量のガラス製や南海産のゴホウラ貝の装身具類などの発見もある。

漢の衛氏朝鮮遠征 BC109年〜BC108年 参考資料

漢の衛氏朝鮮遠征(かんのえいしちょうせんえんせい)は、紀元前109年から紀元前108年まで、漢と衛氏朝鮮が戦った戦争。戦争は漢が勝利して、古朝鮮は終わりを告げる。戦争の起因は、衛氏朝鮮王の衛右渠が、朝鮮半島南部にある辰国が漢への往来や朝貢をすることを妨害したことである。漢の武帝が紀元前109年に軍隊を派遣して、最終的に古朝鮮を破壊する。古朝鮮は滅ぼされて、漢は遼東半島と朝鮮半島に漢四郡(楽浪郡・真番郡・臨屯郡・玄菟郡)を設置した。

楽浪郡(らくろうぐん)は、紀元前108年から西暦313年まで存在

楽浪海中倭人有り、分れて百余国 (漢書地理誌)

BC100年〜西暦 0年 参考資料

『漢書』(前漢書ともいう)の地理志に、「然東夷天性柔順、異於三方之外、故孔子悼道不行、設浮於海、欲居九夷、有以也夫。樂浪海中有倭人 分爲百餘國 以歳時來獻見云」 然して東夷の天性柔順、三方の外に異なる。故に孔子、道の行われざるを悼み、設(も)し海に浮かばば、九夷に居らんと欲す。以(ゆゑ)有るかな。との記載。

中国の史書で倭人の国のことをはじめて書いたのがこの『漢書』地理志である。楽浪の海を越えた所に百余国に分かれた倭人の国があった。中国人の目には、「国」として映っていた。弥生中期の後半(紀元前1世紀頃)に当たっている。 撰者について 班固が後漢の初め頃に編纂した。

埼玉県 中里遺跡(埼玉県所沢市) BC100年 参考資料

関東で初めて水田を作った村。関東地方で須和田式土器を作る時期には,すでに瀬戸内地方では稲作が行われていました.少なくとも中里遺跡に住んでいた人と瀬戸内の人々との交流が証明されたわけですから,当然彼等によって「水田」を作る技術も伝えらえたと考えるの最も自然です.
水稲耕作はそれまでの焼き畑より多くの収穫をもたらします.これによって人々の生活は大きく変わり,やがて小国家の出現に結びつきます.中里は関東地方におけるその第一歩を示す貴重な遺跡なのです

福岡県 隈・西小田遺跡(福岡県筑紫野市) BC100年 参考資料

今から約2100年前(弥生時代中期)、北部九州の一帯では、かつてない激しい戦争がくりひろげられていた。むろん外国との戦争ではない。ムラとムラとが水をめぐって、あるいは農地をめぐって、あるいは盟主としての地位をめぐって争ったのだ。幾本もの矢を射込まれる者、短剣で刺される者、首を切り落とされる物・・・。歴史をふりかえってみると、こんな大事件は水稲耕作が始まる弥生時代までには見られなかったことだ。

福岡県 重圏昭明鏡(福岡県筑紫野市) BC74年〜BC33年 参考資料

上記の「隈・西小田遺跡」で出土した鏡。中国前漢代の宣帝(せんてい)(B.C.74〜49)・元帝(げんてい)(B.C.49〜33)時代に鋳造された鏡である。当時、鏡は権力のシンボルとして重要な意味をもっていた。日光を受けて光り輝く鏡を持つ者は、すなわち太陽の分身を所有する力を備えていると認められたからである。
おそらくこの鏡は、中国の皇帝から直接下賜されたものではなく、奴国(なこく)王を通じて与えられたものであろう。冊封(さくほう)体制(中国の皇帝が周辺諸国の王に称号を授けることによって生まれる主従関係)の原形をみることができる。

京都府 海部氏伝世鏡 邊津鏡 (学名 内行花文昭明鏡) (京都府宮津市) 籠神社所蔵  

BC63年 参考資料

昭和六十二年十月三十一日(旧暦九月九日・重陽の節句)に二千年の沈黙を破って突如発表されて世に衝撃を与えたこの二鏡は、元伊勢の祀職たる海部氏が當主から次の當主へと八十二代二千年に亘って厳重に伝世され来ったものである。日本最古の伝世鏡たる二鏡の内、邊津鏡は前漢時代、今から二〇五〇年位前のものである。
現存最古の国宝海部氏系図並びに二千年前の伝世鏡は、當社の元伊勢たる史実を実証するものであろう。

岩手県 アバクチ洞穴遺跡(岩手県所沢花巻市) 西暦 0年 参考資料

アバクチ洞穴は稗貫川の支流、八木巻川の右側に開口しております。 1995年から行われた調査の結果約2000年前のものと思われる人骨と弥生式土器 が発掘されました。人骨は埋葬方法が屈葬であったことから縄文系のものと思われていましたが、歯や頭骨の特徴から渡来系の人骨とみてほぼ間違いないとのことです。 また人骨の右手首には貝製のブレスレットがついてましたが、同様のブレスレットをつけた 人骨が有珠モシリ遺跡(続縄文時代、北海道伊達市)からも出土しており、こちらも再鑑定することになったようです。渡来人たちは案外早くから日本全国に広がっていたのかもしれ ませんね。

大分県 ダンワラ古墳出土 金銀錯嵌珠龍文鉄鏡

(大分県日田市)

西暦 0年〜西暦300年 参考資料

金銀錯嵌珠龍文鉄鏡(きんぎんさくがんしゅりゅうもんてっきょう)は、大分県日田市日高町にあったダンワラ古墳から出土したと伝えられる弥生時代中期の鉄鏡。国の重要文化財に指定されている。

直径21.1cm、厚さ2.5mmの鉄鏡で、反りはなく平面である。装飾は、腐蝕のために剥落した部分が多いが、約3分の1が残存しており、原状をうかがうことができる。背面全面に金で竜文が象嵌されており、角や爪は銀で象嵌されている。また、眼や体の所々には赤や緑の玉が嵌められている。中心のつまみ付近には漢代の書体で「長宜子孫」(子は欠落)の4文字が金で刻まれている。この鉄鏡は漢代のものと考えられているが、前漢か後漢かについては両論がある。 金銀を象眼した鉄鏡は、日本国内ではこの金銀錯嵌珠龍文鉄鏡しか出土していない。また、中国の三国時代に書かれた『曹操集訳注』には、魏の曹操が金錯鉄鏡を持っていたと記されており、この種の鉄鏡は高位の支配層の所持物であったと考えられる。 

後漢が中国を統一 西暦25年〜西暦220年 参考資料

後漢(ごかん、中国語: 東漢、?音: D?nghan、25年 - 220年)は、中国の王朝。漢王朝の皇族劉秀(光武帝)が、王莽に滅ぼされた漢を再興して立てた。都は洛陽(当時は?陽と称した。ただし後漢最末期には長安・許昌へと遷都)。五代の後漢(こうかん)と区別するため、中国では東漢と言う(この場合、長安に都した前漢を西漢という)。

京都府 「長宜子孫」内行花文鏡 (京都府京都市) 西暦25年〜西暦220年 参考資料

「長宜子孫」内行花文鏡(「チョウギシソン」ナイコウカモンキョウ) 

  中国 漢の時代

  寄贈者 赤星薫、所蔵者 京都国立博物館

 

  「長宜子孫」銘: 長く子孫に宜し(末永く子孫に伝わるように)との意、

                        中国 漢時代の銅鏡などの青銅器や磚(レンガ)や

                        瓦などに多く刻字されている。

福岡県 長宜子孫内行花文鏡

(小倉城下屋敷跡出土)  (福岡県北九州市)

西暦25年〜西暦220年 参考資料

長宜子孫内行花文鏡(ちょうぎしそんないこうかもんきょう)
小倉城下屋敷跡の発掘調査で平成8年に出土した後漢代の鏡である。小倉城下屋敷跡は縄文時代から室町時代、江戸時代などの複合遺跡である。この鏡は、弥生時代後期の土層から出土しており、墓の副葬品と思われる。鏡面の直径15.6cm、反り6mm、鈕の径16mmの青銅製円鏡で、「長宜子孫」(長く子孫に宜し)の銘がある。この鏡の鏡面には、水銀朱付着繊維、平絹、高級絹織物である羅の可能性もある繊維の3種類の布の繊維が付着しており、これらの布で鏡を二重に包んでいたことが判明している。

奈良県 大型内行花文鏡 (柳本大塚古墳出土)

 (奈良県天理市)

西暦25年〜西暦220年 参考資料

大型内行花文鏡(鋼鏡・径39.7cm・宮内庁所蔵、四葉座間・連弧文間・雷雲文帯に配置された単位文様は渦巻き文のみ。四葉座間・連弧文間の周囲は珠文を地の文の様に隙間なく埋められている。)

京都府 海部氏伝世鏡 息津鏡  (京都府宮津市)

(学名 内行花文長宜子孫八葉鏡) 

西暦27年 参考資料

昭和六十二年十月三十一日(旧暦九月九日・重陽の節句)に二千年の沈黙を破って突如発表されて世に衝撃を与えたこの二鏡は、元伊勢の祀職たる海部氏が當主から次の當主へと八十二代二千年に亘って厳重に伝世され来ったものである。日本最古の伝世鏡たる二鏡の内、息津鏡は後漢時代で今から一九五〇年位前のものである。そしてこの神宝はその由緒が国宝海部氏勘注系図に記載されており、又當主の代替りごとに、口伝を以っても厳重に伝世されたものである。
現存最古の国宝海部氏系図並びに二千年前の伝世鏡は、當社の元伊勢たる史実を実証するものであろう。

静岡県 登呂遺跡出土品(静岡県静岡市) 西暦30年〜西暦100 参考資料

本件は、福岡県前原市に所在する史跡曽根遺跡群のうち、平原遺跡の一号墓にあたる方形周溝墓からの出土品一括である。 本件は、この主体部から出土した銅鏡、玉類などの副葬品で構成され、周溝、土坑などからの出土品を附【つけたり】とする。銅鏡は墓壙内の四隅から破砕された状態で検出された。方格規矩鏡が三二面分、内行花文鏡が七面分、四〓鏡が一面ある。棺内からは朱と玉類が大量に見つかり、鉄素環頭大刀も一点出土した。これらの副葬品のうち、銅鏡は合計四〇面という、一遺構からの発見では他を凌駕した数量である。

平原遺跡は弥生時代後期から晩期の5つの墳丘墓を合わせた名称。

佐賀県 検見谷遺跡出土 銅矛

(佐賀県三養基郡北茂安町)

西暦30年〜西暦210 参考資料

検見谷遺跡は佐賀平野の東部、背振山南麓に形成された洪積台地の西斜面に位置している。
12口の銅矛は、全体の形態をはじめ厚さ、耳、節帯の位置などに相違はあるが、全て中広形銅矛に属し、弥生時代後期の所産になるものと思われる。特に10口の身部には、鎬に対し約70度前後の方向で、幅2センチの間隔をもって綾杉状の研ぎ分けを施し装飾している。

東京都 本郷弥生町出土 壺形土器 (東京都文京区) 西暦30年〜西暦210 参考資料

頸部から上を欠損した壺で、多少いびつであるが球形にちかい形態をなし、薄手につくられ、褐色に焼き上げている。破損しているところには羽状繩文を施文し、小さなボタン状の貼付けがある。 この土器は明治十七年(一八八四)三月二日有坂〓蔵氏により発見されたものである。その後、従来知られていた繩文式土器との相違が学界に認められ、発見地向ケ丘弥生町の地名にちなみ弥生式土器と命名された。そして弥生文化の研究は進められてきたが、その契機となったのは簡素な本土器であり、その学史的意義は大きい。

岐阜県 瑞龍寺山頂弥生墳丘墓出土 内行花文鏡

 (岐阜県岐阜市)

西暦30年〜西暦220年 参考資料

弥生時代後期(邪馬台国の少し前の西暦2世紀)のこのあたりの王の墓なのだそうです。
ここで、昭和41年に梅林中学の生徒が中国後漢時代の青銅鏡である「内行花文鏡」を大発見。岐阜市歴史博物館にも名古屋市立博物館にもこの鏡のレプリカが展示してありました。本物は大阪の国立歴史民俗博物館にあるのだって。

福岡県 平原方形周溝墓出土品(福岡県前原市) 西暦30年〜西暦250年 参考資料

平原遺跡は弥生時代後期から晩期の5つの墳丘墓を合わせた名称。福岡県前原市に所在する史跡曽根遺跡群のうち、平原遺跡の一号墓にあたる方形周溝墓からの出土品が一括で国宝指定されています。その内容は、主体部から出土した銅鏡、玉類などの副葬品及び周溝、土坑などからの出土品からなっている。銅鏡は墓壙内の四隅から破砕された状態で検出された。方格規矩鏡が三二面分、内行花文鏡が七面分、四〓鏡が一面ある。棺内からは朱と玉類が大量に見つかり、鉄素環頭大刀も一点出土した。これらの副葬品のうち、銅鏡は合計四〇面という、一遺構からの発見では他を凌駕した数量である。

内行花文鏡は過去最大の大きさ(面径46.5cm)で、大きさを当時の単位である咫(た)で表すと八咫になることから「八咫の鏡」ではないかとする見方もされている。

出土品は、福岡県糸島市にある「伊都国歴史博物館」に一括展示されており、被葬者は女性と推測されており、『魏志倭人伝』に「世有王」(代々王あり)とあるうちの「伊都国」の王のうちの一人であると考えられている。

後漢書東夷伝                                                                参考資料

『後漢書』(ごかんじょ)は、中国後漢朝について書かれた歴史書。二十四史の一つ。本紀10巻、列伝80巻、志30巻の全120巻からなる紀伝体。成立は5世紀南北朝時代の南朝宋の時代で、編者は范曄(はんよう、398年 - 445年)。

巻85に「東夷列伝」として 夫餘・挹婁・高句驪・東沃沮・濊・三韓・ の記載がある。

倭奴国が朝貢(後漢書東夷伝) 西暦 57年 参考資料

後漢書東夷伝、「建武中元二年倭奴國奉貢朝賀使人自稱大夫倭國之極南界也光武賜以印綬」 とあり、建武中元二年(57年)に倭奴国が朝貢したとされている。このとき光武帝が与えた金印(漢委奴国王印)が福岡県の志賀島で出土している。

倭国王 帥升 生口献上(後漢書東夷伝)  西暦107年 参考資料

 ”最初に登場する日本の王”

後漢書東夷伝に 「安帝永初元年 倭国王帥升等献生口百六十人」とあり、永初元年(107年)に倭国王 帥升 が人材(労働者か)を百六十人献上したとされている。これが史料に出てくる名前が分かる初めての倭人と言うことになるが、一文のみであり、詳しいことは分かっていない。

 

倭国大乱 (後漢書東夷伝)   西暦146年〜189年 参考資料

後漢書東夷伝に 「桓 靈 倭國大亂 更相攻伐 歴年無主」とある。訳:桓帝・霊帝の治世の間(146年 - 189年)、倭国は大いに乱れ、さらに互いに攻め合い、何年も主がいなかった。

 

金錯銘花形飾環頭大刀 出土(奈良県天理市) 西暦184年〜189年 参考資料

「中平」(西暦184-189)年銘のある金錯銘花形飾環頭大刀が天理市の東大寺山古墳(4世紀後半頃の築造)で出土。中平とは後漢の霊帝の年号で、184〜189年を指す

※ 倭国が大いに乱れた時代に中国から鉄剣をもらってきた国がある。ということになります。そしてそれが、巡り巡って200年後の4世紀後半に奈良県天理市の古墳で発見されています。

 

奈良県 纒向遺跡(奈良県桜井市) 西暦190年〜350年 参考資料

纒向遺跡(まきむくいせき、纏向遺跡)は、奈良県桜井市の三輪山の北西麓一帯にある、弥生時代末期から古墳時代前期にかけての集落遺跡。国の史跡に指定されている。
3世紀に始まる遺跡で、一帯は前方後円墳発祥の地とする研究者もいる。邪馬台国の中心地に比定する説があり、箸墓古墳などの6つの古墳が分布する。

奈良県 纒向石塚古墳 (奈良県桜井市) 西暦200年〜220年 参考資料

奈良県桜井市太田字石塚、纒向石塚古墳 96メートル、後円部は不整形円形で、前方部は三味線の撥状に開いている。葺石および埴輪は用いられていない。築造時期 3世紀初頭
奈良県桜井市太田字石塚に位置する纒向型前方後円墳丘墓で、規模は全長96メートル、後円部径64メートル、後円部の主丘部の東西59メートル、南北45メートル、前方部の長さ約32メートル、幅約34メートル。くびれ部の幅15-16メートル。周濠幅約20メートルである。後円部は不整形円形で、前方部は三味線の撥状に開いている。

纏向遺跡内では最古の古墳の可能性がある。また、前方後円墳成立期の古墳として注目されている。 

帯方郡が設置される 西暦204年〜313年 参考資料

帯方郡(たいほうぐん)は、204年から313年の109年間、古代中国によって朝鮮半島の中西部に置かれた軍事・政治・経済の地方拠点(植民地との見方も存在する)。楽浪郡の南半を割いた数県(晋代では7県〈『晋書地理志』〉)と、東の濊、南の韓、南端の倭(半島南端)がこれに属す。後漢から魏、西晋の時代にかけ、郡の経営や羈縻支配を通じて韓・倭という東夷地域へ中国の文化や技術を持ち込んだほか、直轄となった魏朝以降には華北の中国文化の窓口としても重要な役割を果たした。郡の長が太守であり、その配下の官吏と軍団の在する郡役所が郡治である。

 

  その頃の朝鮮半島の国々

   ・辰韓(のちの新羅)   BC57年〜西暦935年  参考資料

   ・弁韓(のちの伽耶(加羅))BC42年〜西暦562年

                                                           参考資料

   ・馬韓(のちの百済)  BC18年〜西暦660年  参考資料

   ・高句麗                      BC37年〜西暦668年  参考資料

   ・金官国(駕洛国)、加羅諸国の一つ

                          西暦42年〜西暦532年  参考資料

 

三国時代(魏・呉・蜀) 西暦220年〜280年 参考資料

三国時代(さんごくじだい)は、中国の時代区分の一つ。広義では黄巾の乱の蜂起(184年)による漢朝の動揺から西晋による中国再統一(280年)までを指し、狭義では後漢滅亡(220年)から晋が天下を統一した280年までを指し、最狭義では三国が鼎立した222年から蜀漢が滅亡した263年までを指す。当項目では広義の三国時代について記載する。

229年までに魏(初代皇帝:曹丕)、蜀(蜀漢)(初代皇帝:劉備)、呉(初代皇帝:孫権)が成立し、中国内に3人の皇帝が同時に立った。三国時代については、陳寿が著した『三国志』、明代に書かれた『三国志演義』及びさらに後世の三国時代を扱った書物によって広く知られている。

倭人が金城を包囲 (新羅本紀) 西暦232年 参考資料

232年 夏四月に倭人が新羅の金城を包囲。 

倭兵が東辺を攻めた (新羅本紀) 西暦233年 参考資料

233年 五月 倭兵が新羅の東辺を攻めた。

 

魏志倭人伝                                                                      参考資料      参考資料2

魏志倭人伝(ぎしわじんでん)は、中国の歴史書『三国志』中の「魏書」第30巻烏丸鮮卑東夷伝倭人条の略称。当時、日本列島にいた民族・住民の倭人(日本人)の習俗や地理などについて書かれている。『三国志』は、西晋の陳寿により3世紀末(280年(呉の滅亡)- 297年(陳寿の没年)の間)に書かれ、陳寿の死後、中国では正史として重んじられた。

倭の国は百余国から三十国へ(魏志倭人伝)    参考資料

倭人在帶方東南大海之中 依山?為國邑 舊百餘國 漢時有朝見者 今使譯所通三十國

 「倭人は帯方東南、大海の中に在り。山島に依り国邑を為す。旧百余国。漢の時、朝見する者有り。今、使訳通ずる所は三十国。」

倭人は帯方郡の東南、大海の中に在る。山島に依って国邑を作っている。昔は百余国あり、漢の時、朝見する者がいた。今、交流の可能な国は三十国である。

卑弥呼擁立 (後漢書東夷伝)   西暦230年頃? 参考資料

後漢書東夷伝に 「桓 靈 倭國大亂 更相攻伐 歴年無主 有一女子 名曰卑彌呼 年長不嫁 事鬼神道 能以妖惑衆 於是共立爲王」とある。

訳:桓帝・霊帝の治世の間(146年 - 189年)、倭国は大いに乱れ、互いに攻め合い、何年も主がいなかった。卑弥呼という名の一人の女子が有り、年長だが嫁いでいなかった。鬼神道を用いてよく衆を妖しく惑わした。ここに於いて共に王に立てた。

卑弥呼擁立 (魏志倭人伝)   西暦230年頃? 参考資料

「其國本亦以男子爲王住七八十年 倭國亂 相攻伐歴年 乃共立一女子爲王 名曰卑彌呼 事鬼道 能惑衆 年已長大 無夫婿」

訳: 其の国もまた元々男子を王として70 - 80年を経ていた。倭国は乱れ、何年も攻め合った。そこで、一人の女子を共に王に立てた。名は卑弥呼という。鬼道を用いてよく衆を惑わした。成人となっていたが、夫は無かった。

大阪府 安満宮山古墳出土

 「青龍三年」銘 方格規矩四神鏡  (大阪府高槻市)

西暦235年 参考資料

安満宮山古墳出土「青龍三年」銘鏡 (青龍:魏の年号)

安満宮山古墳(あまみややまこふん)は、大阪府高槻市安満御所の町にある古墳。形状は長方形墳。史跡指定はされていない。(6世紀後半から7世紀に築造)

 

京都府 大田南5号墳出土 「青龍三年」銘 

方格規矩四神鏡  (京都府京丹後市)

西暦235年 参考資料

大田南5号墳出土(京都府京丹後市) (青龍:魏の年号)
この古墳は、京都府北部の丹後半島の中央部にあり、標高82メートルの山の上に築かれた4世紀の後半に築造されたとものとみられている。近くに神明山古墳(日本海最大の前方後円墳)がある。

 

山梨県 鳥居原古墳出土「赤烏元年」銘鏡

 (山梨県市川三郷町)

西暦238年 参考資料

鳥居原狐塚古墳(とりいばらきつねづかこふん)は、山梨県市川三郷町大塚にある古墳。鳥居原古墳とも呼ばれる。鳥居原は同古墳所在地周辺の通称。赤烏元年鏡は国の重要文化財に指定され、一宮浅間神社(市川三郷町)に所蔵されている(東京国立博物館に寄託)。直径12.5センチメートルの紀年銘鏡で、大陸南部の呉の年号である赤烏元年(238年)の紀年銘をもつ。

女王(卑弥呼)、魏に使者を派遣(魏志倭人伝) 西暦238年 6月 参考資料

景初2年6月(238年)に女王は大夫の難升米と次使の都市牛利を帯方郡に派遣して天子に拝謁することを願い出た。帯方太守の劉夏は彼らを都に送り、使者は男の生口(奴隷)4人と女の生口6人、それに班布2匹2丈を献じた。

日本書紀では、

★『日本書紀』巻九神功皇后摂政三九年(己未二三九)01◆卅九年是年也。大歳己未。〈魏志云。明帝景初三年六月。倭女王遣大夫難斗米等。詣郡求詣天子朝獻。太守■夏遣使將送詣京都也。〉

親魏倭王の金印と銅鏡100枚(魏志倭人伝) 西暦238年12月 参考資料

12月(238年)、皇帝はこれを歓び、女王を親魏倭王と為し、金印紫綬を授け、銅鏡100枚を含む莫大な下賜品を与え、難升米を率善中郎将と為し、牛利を率善校尉と為した。 

島根県 神原神社古墳出土 「景初三年」三角縁神獣鏡

(島根県雲南市)

西暦239年 参考資料

島根県雲南市加茂町大字神原・神原神社古墳出土の「景初三年」鏡

旧社地は古墳の上にあった。この古墳は方墳で、復元した場合の規模は29m×25m、高さは5m程と推定される。島根県では最古に属する前期古墳である。

昭和47年(1972年)の赤川(斐伊川水系)の改修工事で社地が新堤防域に組み込まれるために神社を南西に50mほど遷移することになり、その際に古墳の発掘調査が行われた。竪穴式石室からの出土品の中に魏の「景初三年」(239年)の銘が鋳出された三角縁神獣鏡があった。この銅鏡を含めた出土品は一括して国の重要文化財に指定されている。

大阪府 和泉黄金塚古墳出土 「景初三年」平縁神獣鏡 1面

(大阪府和泉市)

西暦239年 参考資料

和泉黄金塚古墳出土「景初三年」銘鏡(重要文化財)
和泉黄金塚古墳(いずみこがねづかこふん)は、大阪府和泉市上代町(うえだいちょう)にある古墳。形状は前方後円墳。国の史跡に指定され、出土品は国の重要文化財に指定されている。古墳時代前期末(4世紀後半頃)の築造と考えられる。

 
魏の明帝が死去、斉王が次の皇帝(魏志倭人伝) 西暦239年 参考資料

景初3年(239年)1月1日に、12月8日から病床についていた魏の皇帝である明帝(曹叡)が死去。斉王が次の皇帝となった。 

京都府 広峯15号墳出土 景初四年斜縁盤龍鏡

 (京都府福知山市)、他1面

西暦240年 参考資料

広峯十五号墳(京都府福知山市)は、福知山盆地のほぼ中央に、南側から張り出した狭小な丘陵上に所在した前方後円墳(全長四〇メートル)である。 盤龍鏡一面、棺内副室から出土した碧玉管玉二箇、鉄剣・鉄斧・鉄釶各一口及び棺外出土の鉄槍一口から構成される。
景初四年(西暦240年)は、実際には非存在の年紀

もう一面は、(伝)持田古墳群出土(宮崎県西都市) 
魏の太守、倭國に詣りて倭王に拜假(魏志倭人伝) 西暦240年 参考資料

正始元年(240年)、太守の弓遵が中校尉の梯儁らを遺わし、倭國に詣りて詔書・印綬を奉じ倭王に拜假した。また、金帛・錦・罽・刀・鏡・采物をもたらした。倭王は謝恩の上表文を詔した。

日本書紀では、

★『日本書紀』巻九神功皇后摂政四十年(庚申二四〇)01◆四十年。〈魏志云。正始元年。遣建忠校尉梯携等奉詔書印綬。詣倭國也。〉

「正始元年」三角縁神獣鏡 (群馬県高崎市)、他2面 西暦240年 参考資料

蟹沢古墳出土「正始元年」銘鏡(群馬県高崎市)  (正始:魏の年号)

   古墳時代・4世紀 (重要文化財)
竹島御家老屋敷古墳出土(山口県周南市) 

   4世紀前半につくられた県内最古の前方後円墳
森尾古墳出土(兵庫県豊岡市)

   4世紀末 古墳時代前期〜古墳時代中期)

 
女王は再び魏に使者を派遣(魏志倭人伝) 西暦243年 参考資料

正始4年(243年)に女王は再び魏に使者として大夫伊聲耆、掖邪狗らを送り、奴隷と布を献上。皇帝(斉王)は掖邪狗らを率善中郎将と為した。

日本書紀では

★『日本書紀』巻九神功皇后摂政四三年(癸亥二四三)01◆四十三年。〈魏志云。正始四年倭王復遣使大夫伊聲者掖耶約等八人上獻。〉

「赤烏七年」 平縁神獣鏡(兵庫県宝塚市) 西暦245年 参考資料

「赤烏七年」 平縁神鏡、安倉高塚古墳出土(兵庫県宝塚市)

(「赤烏」は陸南部の呉の年号)

 4世紀代の円墳

魏の斉王、倭の難升米に黄幢を下賜(魏志倭人伝) 西暦245年 参考資料

正始6年(245年)、皇帝(斉王)は、帯方郡を通じて難升米に黄幢(黄色い旗さし)を下賜するよう詔した。(しかし同年からの濊との戦いに続く韓との戦いにおいて、太守弓遵は戦死しているため、実行されていない)

魏から使者がやってきた

倭の女王の卑彌呼と狗奴國の男王の卑彌弓呼は元より不和

(魏志倭人伝)

西暦247年

参考資料

正始8年(247年)、太守に王頎が到官。倭の女王の卑彌呼と狗奴國の男王の卑彌弓呼は元より不和で、倭は載斯・烏越たちを郡に遣わし、互いに攻擊している状態を説明した。

塞曹掾史の張政たちを遣わし、詔書と黃幢を難升米に拜假

(魏志倭人伝)

西暦247年

参考資料

西暦245年の、帯方郡を通じて難升米に黄幢(黄色い旗さし)を下賜するとの詔により、塞曹掾史の張政たちを遣わし、詔書と黃幢を難升米に拜假し、告喻しこれを檄した。

その時の張政たちの記録(邪馬台国までの道程) 

   ã??ç??é?ªé??å?½ã??ã?®ç?»å??æ¤?ç´¢çµ?æ??

倭人は帯方郡の東南の大海の中に在り、山島に依って国邑とし、もとは百余国で、漢の頃から大陸への朝貢があり、記述の時点では30箇国が使者を通わせている。

倭人在帶方東南大海之中、依山㠀爲國邑。舊百餘國、漢時有朝見者。今使譯所通三十國。

帯方郡から倭国に至るには、水行で海岸を循って韓国を経て南へ、東へ、7000余里で〔倭の〕北岸の狗邪韓国(朝鮮半島の先端)に到着する。

從郡至倭、循海岸水行、歷韓國、乍南乍東、到其北岸狗邪韓國、七千餘里。

※ 狗邪韓国(くやかんこく)、金官国(駕洛国)  参考資料
2世紀から3世紀に至って半島東南部の諸国は共通の文化基盤をもっていたが、政治的には辰韓と弁韓に大きく分けられていた。当時弁韓地域の多くの小国の中で一番優勢な勢力は金海市付近の金官国(狗邪韓国、駕洛国)であった。任那の文化中心は金海・咸安を取り囲んだ慶尚南道海岸地帯であり、現在も貝塚や土坑墓などの遺跡が散在している。

始めて海を1000余里渡ると、対馬国に至る。大官は卑狗(ひこ)、副官は卑奴母離(ひなもり)。絶島で400余里四方の広さ。1000余戸が有る。山は険しく、道は獣道のようで、林は深く、良い田畑がなく、海産物で自活。船で南北岸の市へいく。

始度一海千餘里、至對馬國、其大官曰卑狗、副曰卑奴母離、所居絶㠀、方可四百餘里。土地山險、多深林、道路如禽鹿徑。有千餘戸。無良田、食海物自活、乗船南北市糴。

また南に瀚海と呼ばれる海を1000余里渡ると一大国に至る。官は対馬国と同じ。300余里四方。竹、木、草むら、林が多い。3000許(ばか)りの家が有る。田畑は有るが田を耕すが食糧には足りず、南北から市へいく。

※ 現在の壱岐(一支国)か?

又南渡一海千餘里、名曰瀚海、至一大國。官亦曰卑狗、副曰卑奴母離。方可三百里。多竹木叢林。有三千許家。差有田地、耕田猶不足食、亦南北市糴。

また海を1000余里渡ると、末廬国に至る。4000余戸が有り、山海に沿って住む。草木が茂り、前を行く人が見えない。魚やアワビを捕るのを好み、皆が潜る。

※ 魏の使者が対馬、壱岐を経由して、本土に最初に上陸する倭の地である。松浦(古くは「まつら、末羅」、長崎県松浦市)の音写とする説が有力。

又渡一海千餘里、至末廬國。有四千餘戸、濱山海居。草木茂盛、行不見前人。好捕魚鰒、水無深淺、皆沈没取之。

東南に陸行し、500里で伊都国に到着する。長官は爾支(にき)、副官は泄謨觚(せもこ)と柄渠觚(へくこ)。1000余戸が有る。世、王が居た。皆、女王国に属する。帯方郡の使者の往来では常に駐在する所。

※ 福岡県糸島市、福岡市西区(旧怡土郡)付近に比定している研究者が多い。

東南陸行五百里、到伊都國。官曰爾支、副曰泄謨觚・柄渠觚。有千餘戸。丗有王、皆統屬女王國。郡使往來常所駐。

東南に100里進むと奴国に至る。長官は兕馬觚(しまこ)、副官は卑奴母離(ひなもり)。2万余戸が有る。

※ 大和時代の儺県(なのあがた)、現在の福岡市付近に存在したと推定される。

東南至奴國百里。官曰兕馬觚、副曰卑奴母離。有二萬餘戸。

東へ100里行くと、不弥国に至る。長官は多模(たも)、副官は卑奴母離(ひなもり)。1000余の家族が有る。

東行至不彌國百里。官曰多模、副曰卑奴母離。有千餘家。

南へ水行20日で、投馬国に至る。長官は彌彌(みみ)、副官は彌彌那利(みみなり)である。推計5万戸余。

※ 比定地は、邪馬台国九州説では日向国都萬(つま、都萬神社周辺、現西都市妻地区)説、薩摩国説、五島列島説、等がある。瀬戸内海航行説の場合、名称の類似から備後国の鞆とする説等があり、日本海航行説では出雲国や丹後国、但馬国等にあてる説がある。

南至投馬國、水行二十曰。官曰彌彌、副曰彌彌那利。可五萬餘戸。

南に水行10日と陸行1月で女王の都のある邪馬台国に至る。官に伊支馬(いきま)、弥馬升(みましょう)、弥馬獲支(みまかくき)、奴佳鞮(なかてい)があり、推計7万余戸。

※ 比定地は、畿内説九州説がある

南至邪馬壹國、女王之所都、水行十日、陸行一月。 官有伊支馬、次曰彌馬升、次曰彌馬獲支、次曰奴佳鞮。可七萬餘戸。

女王国の以北は、其の戸数・道里を略載することが可能だが、其の他の傍国は遠く絶(へだ)たっていて、詳(つまびらか)に得ることができない。

斯馬国己百支国伊邪国都支国彌奴国好古都国不呼国姐奴国對蘇国蘇奴国呼邑国華奴蘇奴国鬼国爲吾国鬼奴国邪馬国躬臣国巴利国支惟国烏奴国奴国

此れが女王の境界が尽きる所である。

自女王國以北、其戸數道里可得略載、其餘旁國遠絶、不可得詳。 

次有斯馬國、次有已百支國、次有伊邪國、

次有都支國、次有彌奴國、 次有好古都國、

次有不呼國、次有姐奴國、次有對蘇國、

次有蘇奴國、 次有呼邑國、次有華奴蘇奴國、

次有鬼國、次有爲吾國、次有鬼奴國、 

次有邪馬國、次有躬臣國、次有巴利國、

次有支惟國、次有烏奴國、次有奴國。 

此女王境界所盡。

其の南には狗奴国がある。男子を王と為し、其の官に狗古智卑狗(くこちひく)が有る。女王に属せず。

其南有狗奴國。男子爲王、其官有狗古智卑狗。不屬女王。

帯方郡から女王国に至る、1万2000余里である。

卑彌呼死す (魏志倭人伝) 西暦247年 参考資料
 

 

卑彌呼は死んでおり、塚が大いに作られ径100歩ほど、狥葬者は奴碑100人ほど。つぎに男王が立つが國中が従わず、互いに殺し合い当時1000人くらい殺された。

壹與が王になる (魏志倭人伝) 西暦247年 参考資料

その後また卑彌呼の宗女の壹與という13歳の者が王になり、國中がついに定まった。

 

女王壹與、魏に使者を派遣 (魏志倭人伝) 西暦247年 参考資料

女王位についた壹與は掖邪狗ら20人に張政の帰還を送らせ、掖邪狗らはそのまま都に向かい男女の生口30人と白珠5000孔、青大句珠2枚、異文の雑錦20匹を貢いだ。

倭人が舒弗邯、昔于老を殺した (新羅本紀) 西暦249年 参考資料

249年 夏四月に倭人が新羅の舒弗邯、昔于老を殺した。