古墳時代 

西暦250年 〜 西暦592年  
奈良県 箸墓古墳 (奈良県桜井市) 西暦250年〜280年 参考資料

纒向遺跡の箸中に所在する箸中古墳群の盟主的古墳であり、出現期古墳の中でも最古級と考えられている前方後円墳。この古墳を、『魏志』倭人伝が伝える倭国の女王、「卑弥呼」の墓とする説もある。 築造時期 3世紀後半 

福岡県 祇園山古墳 (福岡県久留米市) 西暦250年〜280年 参考資料

祇園山古墳(ぎおんやまこふん)は、福岡県久留米市御井町に存在し福岡県指定史跡に指定されている方墳である。三世紀中期のものと推定され、築造時期や規模、様式から卑弥呼の墓に比定する説がある
築造時期が墳墓の形状、構築、石室、周囲の甕棺の様式から三世紀中期であること、規模が一辺約23mで斜辺が32mで下部が楕円状であること、石棺はあるが槨が無いこと、石棺に朱が塗られていること、周囲に埴輪はなく66名以上の殉葬があること、そのうちの甕棺K1からは後漢鏡片や大型勾玉などの豪華な装身具が出土していること、G1墓からは鉄製の武器や農機具が出土していること、出土品の殆どが時期的に矛盾が無いことなど多くの点で魏志倭人伝の卑弥呼の墓の記載と矛盾が殆ど無い。さらに、この古墳が邪馬台国が存在した可能性のある筑紫平野を一望できる高台の占地に存在することから、魏志倭人伝の卑弥呼の墓の可能性がある。

福岡県 石塚山古墳出土 三角縁神獣鏡

 (福岡県京都郡苅田町)

西暦250年〜280年 参考資料

福岡県京都郡苅田町、石塚山古墳(邪馬台国九州説の一説では、女王卑弥呼の墓と目され、最古級の前方後円墳。造営当初は130メートル以上か。築造時に墳丘に複合口縁壺が樹立されていたと推定されている。)
九州最大最古の定型化した典型的な畿内型前方後円墳。古墳の立地は低い尾根上で、前方部は海に向かい、全長約110m。墳丘の後円部径約60mで二段築造になっている。墳頂は径22mが平坦で、そのほぼ中央に長大な竪穴式石室がある。石室内より銅鏡10数面、剣・矛などの遺物が多数出土している。石塚山古墳から出土したといわれる三角縁神獣鏡7面などが宇原神社に所蔵されています。これらは江戸時代の寛永8年(1796)に地元の南原村庄屋銀助が偶然に発見したものです。昭和62年(1987)の苅田町教育委員会の調査でも三角縁神獣鏡の破片が出土しており、銀助が発見した破片と200年の時を超えてぴったりと合いました。

京都府 椿井大塚山古墳 (京都府木津川市) 西暦250年〜280年 参考資料

京都府木津川市山城町、椿井大塚山古墳(推定175メートル、自然の山を利用している。) 築造時期 3世紀末
1953年(昭和28)、国鉄奈良線の拡幅工事の際に竪穴式石室が偶然発見され、当時最多の三角縁神獣鏡32面が出土した。内行花文鏡2面、方格規矩鏡1面、画文帯神獣鏡1面など計36面以上の鏡と武具が出土した。36面以上というのは他の鏡の破片数点が出ているのと盗掘で行方不明になったものがあった可能性が出てきたためであった。多数の銅鏡を棺の中に入れる習俗が古墳時代前期には西日本や中部地方で急速に拡がった。それらの鏡が、短期間にほぼ同一場所・地域で製作されたと推定されている。

奈良県 黒塚古墳 (奈良県天理市) 西暦250年〜320年 参考資料

奈良県天理市柳本町、黒塚古墳(130メートル、撥形であることが分かる。周濠を持っている。)築造時期 3世紀中頃〜4世紀初頭 
1997年(平成9年)から翌年にかけて奈良県立橿原考古学研究所が行った第3次発掘調査で、三角縁神獣鏡33面と画文帯神獣鏡1面が、副葬当時に近い状態で発見された。
棺内には被葬者の頭のところに画文帯神獣鏡と両側に刀1・剣1をおき、棺外に東壁側15面、西壁側17面の三角縁神獣鏡を内側に向けて木棺と壁のわずかな間に立てられていた。

福岡県 那珂八幡古墳 (福岡県福岡市) 西暦250年〜280年 参考資料

那珂八幡古墳(なかはちまんこふん)は、福岡県福岡市博多区那珂1丁目(旧町名:那珂大字宮の脇1丁目)に所在する、古墳時代発生期・出現期の前方後円墳である。福岡市指定史跡。築造時期 3世紀中葉 
1948年(昭和23年)に、神社境内で弥生時代の銅戈鋳型が発見された。その後、1971年(昭和46年)に九州大学考古学研究室が銅戈鋳型と同時期の遺構・遺物を発見すべく発掘調査したところ、神社がある独立丘陵が帆立貝形古墳であることが判明した。さらに、1985年(昭和60年)に福岡市教育委員会が市道那珂・竹下駅前線に伴う発掘調査を行なった結果、後世の改変をかなり受けているが、くびれ部が反るように広がる前方後円墳であることが判明した。また、後円部から見つかった2基の主体部のうち1基から、三角縁神獣鏡などの初期古墳に典型的な遺物が出土した。
出土した三角縁神獣鏡は直径約21.8センチメートルの三角縁五神四獣鏡で、同笵鏡が京都府椿井大塚山古墳、岡山県岡山市湯迫車塚古墳から出土しており、また伝奈良県奈良市富尾丸山古墳出土品やアメリカフーリア美術館所蔵品が知られている。鏡面とチュウの部分に繊維が残っており、鏡面の繊維は平絹、チュウの繊維は薄モナあることが判明し、絹布に包まれた状態で副葬されたと考えられている。

岡山県 備前車塚古墳 (岡山県岡山市) 西暦250年〜280年 参考資料

備前車塚古墳(びぜんくるまづかこふん、湯迫車塚古墳)は、岡山県岡山市中区四御神(しのごぜ)・湯迫(ゆば)にある古墳。形状は前方後方墳。
この備前車塚古墳は、古墳時代初期頃の築造と推定される。築造時期 古墳時代初期

豊富な副葬品からは当時の勢力の大きさが示唆されるとともに、三角縁神獣鏡の同笵鏡論の基準資料としても重要視される古墳である。なお被葬者は明らかでないが、『岡山市史』では『古事記』に見える吉備上道臣祖の大吉備津日子命に比定する説が挙げられている。
1956年(昭和31年)の石室からの出土品は次の通り。銅鏡 13 - いずれも舶載鏡(中国製鏡)。三角縁神獣鏡 11 11面のうち8種9面(2面は内部同笵)は、椿井大塚山古墳(京都府木津川市)出土鏡をはじめ九州地方から北関東地方の多くの古墳の出土鏡と同笵鏡の関係にある。内行花文鏡 1 画文帯神獣鏡 1 鉄製品 鉄刀 1 鉄剣 1 鉄鉾(槍か) 1 鉄鏃 7 鉄斧 1 短冊形鉄斧 1 
また1967・1968年(昭和42・43年)の調査において、石室内から鉄鏃・鉄斧・鉄剣・鉄刀・鉄棒残片・鉇・靫などが、石室上面から土師器が検出されている。現在では出土鏡は東京国立博物館で保管されている。

西晋が中国を統一 西暦265年〜316年 参考資料

西晋(せいしん)は、司馬炎によって建てられた中国の王朝(265年 - 316年)。成立期は中国北部と西南部を領する王朝であったが、呉を滅ぼして三国時代を終焉させ、後漢末期以降分裂していた中国を100年振りに再統一(中国語版)した。国号は単に晋だが、建康に遷都した後の政権(東晋)に対して西晋と呼ばれる。

奈良県 西殿塚古墳 (奈良県天理市) 西暦280年〜300年 参考資料

奈良県天理市、大和古墳群の西殿塚古墳(219メートル) 築造時期 3世紀後半 
西殿塚古墳(にしとのづかこふん)は、奈良県天理市中山町にある古墳。形状は前方後円墳。大和古墳群(中山支群)を構成する古墳の1つ。実際の被葬者は明らかでないが、宮内庁により「衾田陵(ふすまだのみささぎ)」として第26代継体天皇皇后の手白香皇女の陵に治定されている。3世紀後半(古墳時代前期前半)頃の築造と推定され、古墳時代最初期の箸墓古墳に後続する大王墓とする説で知られる。

奈良県 柳本大塚古墳 (奈良県天理市) 西暦280年〜300年 参考資料

柳本大塚古墳(やなぎもとおおつかこふん)とは、奈良県天理市にある古墳である。柳本古墳群に属する。
築造時期:古墳時代前期前半
出土遺物:大型内行花文鏡(鋼鏡・径39.7cm・宮内庁所蔵、四葉座間・連弧文間・雷雲文帯に配置された単位文様は渦巻き文のみ。四葉座間・連弧文間の周囲は珠文を地の文の様に隙間なく埋められている。)、銅鏃×6、鉄片

百済の第9代の王 責稽王 西暦286年〜298年 参考資料

責稽王(せきけいおう、生年未詳 - 298年)は百済の第9代の王(在位:286年 - 298年)であり、先代の古尓王の子。『三国史記』百済本紀・責稽王紀の分注では青稽王、『三国遺事』王暦では責替該(王)の別名も記される。諱・諡は伝わっていない。286年11月に先王の死去に伴い、王位についた。 

倭人が新羅の一礼部を襲う (新羅本紀) 西暦287年 参考資料

287年 夏四月に倭人が一礼部を襲う。1千人を捕虜にして立ち去った。

 

新羅、戦船を修理し、鎧と武器を修理 (新羅本紀) 西暦289年 参考資料

289年 夏五月に、倭兵が攻にめてくるということを聞いて、戦船を修理し、鎧と武器を修理した。

 

京都府 「元康紀年銘」 平縁神獣鏡

 (京都府木津川市)

西暦291年〜299年 参考資料

「元康紀年銘」( 291-299)年 平縁神鏡、(伝)上狛古墳、京都府木津川市

(「元康」は晋の年号)

倭兵が新羅の沙道城を攻め落とす (新羅本紀) 西暦292年 参考資料

292年 夏六月に倭兵が沙道城を攻め落とす。

 

倭兵が新羅の長峯城を攻めて来た (新羅本紀) 西暦294年 参考資料

294年 夏 倭兵が長峯城を攻めて来た。

 

新羅、倭を討つことを部下に諮る (新羅本紀) 西暦295年 参考資料

295年 春 王が臣下に向かって「倭人が、しばしばわが城邑を侵して来るので、百姓が安じて生活することができない。私は百済と共に謀って、一時海を渡って行って、その国(倭)を討ちたいが、皆の意見はいかがか?」ときいた。これに対して、舒弗邯、弘権が「われわれは海戦に不慣れでございます。冒険的な遠征をすれば、不測の危険があることを恐れます。いわんや百済は偽りが多く、常にわが国を呑み込もうと野心をもっておりますから、かれらと共に謀ることは困難だと思います」と答えた。王はこれを聞いて「それもそうだ」といった。 

百済の第10代の王 汾西王 西暦298年〜304年 参考資料

汾西王(ふんせいおう、生年未詳 - 304年)は百済の第10代の王(在位:298年 - 304年)であり、先代の責稽王の子。母は帯方郡の太守の娘である宝菓夫人。諱・諡は伝わっていない。298年9月に先王が西晋・貊の軍と戦って戦死したため王位についた。
304年2月には楽浪の西部を奪取したが、10月、楽浪太守の放った刺客によって殺害された。

 

新羅、倭国と使者を派遣し合う (新羅本紀) 西暦300年 参考資料

300年 春正月に、倭国と使者を派遣し合った。

 

奈良県 メスリ山古墳 (奈良県桜井市) 西暦300年〜320年 参考資料

奈良県桜井市、メスリ山古墳(240メートル) 築造時期 4世紀初頭 
この古墳は、磐余の地に接した初瀬川の左岸にあり、桜井茶臼山古墳(外山(とび)茶臼山古墳ともいう)らと共に鳥見山古墳群に属する。特徴的なのは、埋葬施設の副石室が遺品庫の様相を呈していることである。箸墓古墳の方が、年代的に先行する。別称は鉢巻山古墳、東出塚古墳などと呼称される。
規模・埋葬品とも大王墓級だが、記紀や『延喜式』などに陵墓としての伝承がない。墳丘規模・埴輪の大きさ・埋葬施設・副葬品収納施設・遺物などを考え合わせると、本古墳は絶大な権勢を誇った首長の墳墓であると考えられる。

奈良県 桜井茶臼山古墳 (奈良県桜井市) 西暦300年〜320年 参考資料

奈良県桜井市、桜井茶臼山古墳(280メートル) 築造時期 4世紀
本古墳は、磐余の地に接した初瀬川の左岸にあり、自然丘陵を利用して築造されたものである。墳丘長207メートル、前方部が細長く、全体が柄鏡(えかがみ)形を呈する柄鏡式古墳である。古墳時代初期の内でも比較的新しいものであり、箸墓古墳に後続する時期に造営された巨大な前方後円墳である。

  前期古墳の副葬品の典型的組合せ、つまり、銅鏡や玉類、剣や刀などの武器類をセットにしていることである。 破片から復元すると斜縁二神二獣鏡、方格規矩四神鏡、獣帯鏡、平縁の神獣鏡各1面、内行花文鏡3面、三角縁神獣鏡4種6面、計9種類で少なくとも13面の鏡が副葬されていたとされたが、鏡の復元作業によって推計81枚以上という膨大な銅鏡が副葬されていたことがわかった。これは国内最多である。

奈良県 行燈山古墳 (奈良県天理市) 西暦300年〜350年 参考資料

奈良県天理市、柳本古墳群の行燈山古墳(242メートル、伝崇神陵) 築造時期 4世紀前半 
この行燈山古墳は、出土埴輪・出土銅板から古墳時代前期後半の4世紀前半頃の築造と推定される。柳本古墳群では渋谷向山古墳に先行する時期の築造とされ、渋谷向山古墳とともに初期ヤマト王権の大王墓と目される。被葬者は明らかでないが、現在は宮内庁により第10代崇神天皇の陵に治定されている。

山口県 柳井茶臼山古墳 (山口県柳井市) 西暦300年〜400年 参考資料

柳井茶臼山古墳(やないちゃうすやまこふん)は、山口県柳井市大字柳井に所在する前方後円墳。大型の銅鏡などが出土し、国の史跡に指定されている。築造時期 4世紀
瀬戸内海を望む標高75メートルの向山に位置する。全長80メートル、後円部径約50メートル、前方部幅40メートルを測る。
1892年(明治25年)地元住民により発掘され、割石積の竪穴式石室から銅鏡、鉄剣、鉄鉾などが掘り出された。銅鏡は5面出土しており、最大のものは鼉龍鏡(だりゅうきょう、単頭双胴怪獣鏡とも)で、直径44.8センチあり、古墳出土のものとしては最大級の銅鏡である。これと四神四獣鏡は東京国立博物館に収蔵されている。銅鏡は他に画文帯神獣鏡(山口県立山口博物館保管)と内行八花文鏡(茶臼山古墳資料館保管)が現存し、残り1面は所在不明である。他の遺物は山口県立山口博物館や個人の所蔵となっている。古墳は1948年に国の史跡に指定されている。
1991年(平成3年)より史跡整備のために発掘調査が行なわれ、墳丘は3段に築かれ、埴輪が並べられていたことが明らかになった。円筒埴輪以外に家型埴輪も出土している。竪穴式石室も再調査され、掘り残されていた大型の鉄刀、鉄刀子が出土している。

中国 五胡十六国 西暦304年〜439年 参考資料

a??a?!a??a?≪:Map of Sixteen Kingdoms 2.png五胡十六国時代(ごこじゅうろっこくじだい)は、中国の時代区分のひとつ。304年の漢(前趙)の興起から、439年の北魏による華北統一までを指す。五胡十六国(ごこじゅうろっこく)は、当時、中国華北に分立興亡した民族・国家の総称である。十六国とは北魏末期の史官・崔鴻が私撰した『十六国春秋』に基づくものであり、実際の国の数は16を超える。

後漢末期から北方遊牧民族の北方辺境への移住が進んでいたが、西晋の八王の乱において諸侯がその軍事力を利用したため力をつけ、永嘉の乱でそれを爆発させた。

倭国の国王が息子のために新羅に求婚 (新羅本紀) 西暦312年 参考資料

312年 春三月に、倭国の国王が使臣をつかわして、息子のために求婚したので、王は阿飡の急利の娘を倭国に送った。

西晋から東晋へ 西暦317年〜420年 参考資料

東晋(とうしん)は、中国の西晋王朝が劉淵の漢(前趙)より滅ぼされた後に、西晋の皇族であった司馬睿によって江南に建てられた王朝である(317年 - 420年)。西晋に対し史書では東晋と呼んで区別する。⇒ 黄色部分まで国は縮小

新羅、倭国の婚姻要請を断る (新羅本紀) 西暦344年 参考資料

344年 倭国が使者をつかわして、婚姻を請うたが、すでに以前に女子を嫁がせたことがあるので断った。

倭王が国交を断る (新羅本紀) 西暦345年 参考資料

345年 二月に倭王が、書を送って国交を断ってきた。

 

百済 第13代王 近肖古王 在位 西暦346年〜375年 参考資料

近肖古王(きんしょうこおう、生年不詳 - 375年)は百済の第13代の王(在位:346年−375年)であり、第11代の比流王の第2子。中国・日本の史書に初めて名の現れる百済王である。

日本書紀に、「其王肖古」の記載

★『日本書紀』巻九神功皇后摂政四九年(己巳二四九)三月◆四十九年春三月。以荒田別。鹿我別爲將軍。則與久■等共勒兵而度之。至卓淳國。將襲新羅。時或曰。兵衆少之。不可破新羅。更復奉上沙白。盖盧。請増軍士。即命木羅斤資。沙沙奴跪。〈是二人不知其姓人也。但木羅斤資者。百濟將也。〉領精兵與沙白。盖盧共遣之。倶集于卓淳。撃新羅而破之。因以平定比自■。南加羅。喙國。安羅。多羅。卓淳。加羅七國。仍移兵西廻至古爰津。屠南蠻。 彌多禮。以賜百濟。於是。其王肖古。及王子貴須。亦領軍來會。時比利。辟中。布彌支。半古四邑自然降服。

 

倭兵が新羅の金城を包囲 (新羅本紀) 西暦346年 参考資料

346年 倭兵が風島に来て、進んで金城を包囲して攻めて来た。

 

奈良県 渋谷向山古墳 (奈良県天理市) 西暦350年〜400年 参考資料

奈良県天理市、柳本古墳群の渋谷向山古墳(伝景行陵、310メートル) 

築造時期 4世紀後半
墳形は前方後円形で、前方部を西方(傾斜低方)に向ける。墳丘は後円部で4段築成、前方部で3段築成[4]。墳丘長は300メートルを測るが、これは全国では第8位、奈良県では五条野丸山古墳(橿原市、310メートル)に次ぐ第2位、柳本古墳群では最大の規模になる。墳丘周囲には周濠が巡らされているほか、陪塚的性格を持つ古墳数基の築造も認められる。

岡山県 鶴山丸山古墳 (岡山県備前市) 西暦350年〜400年 参考資料

丸山古墳は全国に同じような名の古墳がいくつもあり地名をつけて鶴山丸山古墳と呼ばれ岡山県備前市畠田の丘陵頂部にあります。出土したものとして倭製内行花文鏡、倭製変形四神鏡、倭製変形獣帯鏡、倭製二神二獣鏡、倭製四神四獣鏡、倭製三神三獣鏡、倭製変形神獣鏡、倭製盤龍鏡、倭製変形四禽鏡、倭製変形五獣鏡、石製四脚付盆子、金子、坩、器台、勾玉、鉄刀、鉄剣、鉄斧、刀子、鉄鏃などが知られています。
この古墳の築造は古墳時代の前期にあたる4世紀後半ごろと推定されています。

宮城県 念南寺古墳群 (宮城県加美郡色麻町) 西暦350年〜500年 参考資料

a??a?μa??a ̄oa??a¢3c??a??a?Rc?≫a??a??c´¢cμ?a??念南寺古墳群(ねやじこふんぐん)は、宮城県加美郡色麻町にある古墳群。前方後円墳と円墳からなり、県の史跡に指定されている。
鳴瀬川右岸の標高40mほどの小さな丘陵の上に立地する。最大の遺構は、小丘陵の頂部にある主軸長約52mの前方後円墳(1基)で、他にある円墳22基の径は10m前後である。前方後円墳からは朝顔形埴輪・円筒埴輪が採集されており、古墳時代中期(5世紀頃)を中心とした時期に、この地域の首長層の墓として築造されたと考えられている

倭兵が大挙して新羅に侵入 (新羅本紀) 西暦364年 参考資料

364年 倭人は多数をたのんで、そのまま直進して来る所を伏兵が起ってその不意を討つと、倭人は大いに敗れて逃走した。

奈良県 七支刀 (石上神宮 古墳時代) 

 (奈良県天理市)

西暦369年 参考資料

鉄製で、身の左右に各3本の枝刃を段違いに造り出した特異な形をした剣です。全長74.8センチで、下から約3分の1のところで折損しています。 剣身の棟には表裏合わせて60余字の銘文が金象嵌で表わされており、その解読が明治以降続けられ、現在では大体次の様に解釈されています。  

(表面) 泰□四年(□□)月十六日丙午正陽造百練釦七支刀□辟百兵供供侯王□□□□作 

(裏面) 先世以来未有此刀百済□世□奇生聖音故爲倭王旨造□□□世                  

冒頭の「泰□」の2字目は、現在僅かに禾偏(のぎへん)を思わせる線が残っているのみで、旁(つくり)にあたる所にはこの文字を探究した人がつけたと思われる傷痕があって、字は詳らかではありません。しかし、「泰和(たいわ)」として東晋(とうしん)の年号「太和」(西暦366〜371)の音の仮借とみる説があり、それによるとこの七支刀は西暦369年に製作されたと考えられます。

百済 第14代王 近仇首王 (日本書紀) 在位 西暦375年〜384年 参考資料

日本書紀に百済の王「近仇首王(在位:375年−384年)」の記載

★『日本書紀』巻九神功皇后摂政五六年(丙子二五六)◆五十六年。百濟王子貴須立爲王。近仇首王(きんきゅうしゅおう、生年不詳 - 384年)は百済の第14代の王(在位:375年 − 384年)であり、諱は須。先代の近肖古王の子である。

百済 第14代王 近仇首王は375年11月に先王の死去に伴い王位についた。『梁書』では須の名で記され、『日本書紀』では貴須王(くゐすおう)とされる。

福岡県 一貴山銚子塚古墳 (福岡県糸島市) 西暦380年〜400年 参考資料

一貴山銚子塚古墳(いきさんちょうしづかこふん)は、福岡県糸島市二丈田中にある古墳。形状は前方後円墳。国の史跡に指定されている(指定名称は「銚子塚古墳」)。築造時期 4世紀後半 
墳形は前方後円形で、糸島地方では最大規模になる。墳丘周囲で周濠は認められていない。主体部の埋葬施設は後円部中央における竪穴式石室で、内部には組合式木棺が据えられたと推測される。この石室内部からは銅鏡10面を含む多数の副葬品が原位置を保つ状態で出土している。以上より、築造年代は古墳時代前期の4世紀後半頃と推定される。
古墳域は1957年(昭和32年)に国の史跡に指定されている。

宮城県 遠見塚古墳 (宮城県仙台市) 西暦380年〜410年 参考資料

遠見塚古墳(とおみづかこふん) は、宮城県仙台市若林区遠見塚にある古墳。形状は前方後円墳。国の史跡に指定されている。
宮城県では雷神山古墳(名取市)に次ぐ第2位、東北地方では第5位の規模の古墳である。4世紀末-5世紀初頭(古墳時代中期)頃の築造と推定される。

宮城県 雷神山古墳 (宮城県名取市) 西暦380年〜410年 参考資料

雷神山古墳(らいじんやまこふん)は、宮城県名取市植松にある古墳。形状は前方後円墳。国の史跡に指定されている。
東北地方では最大規模の古墳で、4世紀末-5世紀前半(古墳時代中期)頃の築造と推定される。仙台平野一帯を支配した広域首長の墓とされる。

福島県 三角縁神獣鏡(会津大塚山古墳出土)

(福島県会津若松市)

西暦380年〜400年 参考資料

会津大塚山古墳(あいづおおつかやまこふん)は、福島県会津若松市にある古墳。形状は前方後円墳。一箕古墳群を構成する古墳の1つ。国の史跡に指定され、出土品は国の重要文化財に指定されている。 築造時期 4世紀末 
「卑弥呼の鏡」と通称されることの多いこの鏡は、ヤマト王権が服属した地方の豪族へその証として分け与えていたと考えられ、3世紀から4世紀にかけて畿内に成立した古代国家の勢力範囲を考えるうえで重要な遺物と考えられる。ちなみに会津大塚山古墳の三角縁神獣鏡は岡山県備前市の鶴山丸山古墳のものと同じ鋳型である。鏡はほかに南棺から変形四獣鏡、北棺から捩文鏡が検出されている。また、環頭大刀は、福岡市若八幡神社古墳出土の大刀に類似している。

奈良県 島の山古墳 (奈良県天理市) 西暦380年〜420年 参考資料

全長約190メートル、周囲に濠を巡らした典型的な前方後円墳であり、全国で40番目、奈良県下の前方後円墳約300基の中では21番目の規模に相当します。構築されたのは、4世紀末から5世紀初めであったと推定されており、大王クラスの御陵等のいわれがありますが、まだ誰の墓か解っていません。1996年の調査で前方部頂から粘土槨が検出された。東西10.5メートル、南北3.4メートルの墓坑内に全長8.5メートル、幅1.7〜2メートルの粘土槨があり、その棺外には滑石製勾玉、臼玉、管玉、琴柱型石製品など2500点が散在していた。棺上粘土からは車輪石80、鍬形石21、石釧32、鉄小刀5が封じ込められていた。棺内には碧玉製合子3、銅鏡3、大型管玉5、竪櫛11、首飾り1、手玉1があった。手玉の存在から被葬者は女性の可能性がある。

奈良県 東大寺山古墳 (奈良県天理市) 西暦380年〜420年 参考資料

古墳は4世紀末から5世紀初頭(古墳時代前期後半から中期初頭)に造られた前方後円墳です。規模は全長約140m、後円部径約84m、高さ約10mを測ります。
この地域では最も古く、そして最も大きな古墳で、「ワニ」氏の有力者が葬られた古墳と考えられています。

副葬品の中には24文字を金象嵌で表して「中平」の紀年銘を持つ鉄刀がある。

宮城県 飯野坂古墳群 (宮城県名取市) 西暦380年〜450年 参考資料

飯野坂古墳群(いいのざかこふんぐん)は、宮城県名取市飯野坂山居に所在する大型前方後方墳が群集する特異な古墳群である。
築造年代については、方墳の山囲古墳が後期古墳に属し、薬師堂古墳などの前方後方墳は、築造順があるものの4世紀末から5世紀にわたると考えられている。

百済 第15代王 枕流王 (日本書紀) 在位 西暦384年〜385年 参考資料

枕流王(ちんりゅうおう、生年不詳 - 385年)は百済の第15代の王(在位:384年 - 385年)であり、先代の近仇首王の嫡子。母は阿尓夫人。384年4月に先王が死去し、王位についた。『日本書紀』では枕流(とむる)と読まれた。

日本書紀に「枕流王」の記載

★『日本書紀』巻九神功皇后摂政六四年(甲申二六四)◆六十四年。百濟國貴須王薨。王子枕流王立爲王

百済の枕流王が「七枝刀」を献じる (日本書紀) 西暦384年〜385年 参考資料

日本書紀に百済の枕流王が「七枝刀」を献じたの記載

 ★『日本書紀』巻九神功皇后摂政五十二年(壬申二五一)09九月丙子《十》◆五十二年秋九月丁卯朔丙子。久■等從千熊長彦詣之。則獻七枝刀一口。七子鏡一面。及種種重寶。仍啓曰。臣國以西有水。源出自谷那鐵山。其■七日行之不及。當飮是水。便取是山鐵。以永奉聖朝。乃謂孫枕流王曰。今我所通海東貴國。是天所啓。是以垂天恩。割海西而賜我。由是國基永固。汝當善脩和好。聚歛土物。奉貢不絶。雖死何恨。自是後。毎年相續朝貢焉。

百済の第16代の王 辰斯王 在位 西暦385年〜392年 参考資料

辰斯王(しんしおう、生年不詳 - 392年)は百済の第16代の王(在位:385年 - 392年)。第14代の近仇首王の次男であり、先代の枕流王の弟に当たる。諱・諡は『三国史記』には伝わらない。
日本書紀に、

★『日本書紀』巻九神功皇后摂政六五年(乙酉二六五)◆六十五年。百濟枕流王薨。王子阿花年少。叔父辰斯奪立爲王。の記載

好太王碑文                                                                                               参考資料

好太王碑(こうたいおうひ)は、高句麗の第19代の王である好太王(広開土王)の業績を称えた、現在の中華人民共和国吉林省通化市集安市に存在する石碑である。広開土王碑(こうかいどおうひ)とも言われ、付近には陵墓と見られる将軍塚・大王陵があり、合わせて広開土王陵碑(こうかいどおうりょうひ)とも言われる。4世紀末から5世紀初の朝鮮半島の歴史・古代日朝関係史を知る上での貴重な一次史料である。

倭が海を渡り百残・■■・新羅を破り (好太王碑文)

西暦391年 参考資料

そもそも新羅・百残(百済の蔑称)は(高句麗の)属民であり、朝貢していた。しかし、倭が辛卯年(391年)に[海]を渡り百残・■■・新羅を破り、臣民となしてしまった。(「百残を■■し」と訓む説や、「加羅」(任那)と読む説などもある)

百済の第17代の王 阿莘王 在位 西暦392年〜405年 参考資料

阿莘王(あしんおう、生年不詳 - 405年)は百済の第17代の王(在位:392年 - 405年)。『三国史記』百済本紀・阿莘王紀の分注には別名の阿芳王が伝えられ、『日本書紀』では阿花王(あくえおう)とされる。諱・諡は『三国史記』には伝わらない。第15代の枕流王の長男であり、枕流王が385年11月に死去したとき、阿莘王がまだ幼かったので叔父の辰斯王が第16代の王位を継ぎ、辰斯王が392年11月に死去して阿莘王が第17代の王位についた。 
即位の経緯については異説があり、『日本書紀』には「枕流王の薨去の際に辰斯王が王位を簒奪し、後に辰斯王が日本に対して失礼な振る舞いがあったために日本の側は紀角宿禰などを遣わせて譴責したところ、百済の側で辰斯王を殺して詫びたので、紀角宿禰らは阿花を百済王に立てた。」とある。

日本書紀の記載

☆『日本書紀』巻十応神天皇三年(壬辰二七三)是歳◆是歳百濟辰斯王立之失禮於貴國天皇。故遣紀角宿禰。羽田矢代宿禰。石川宿禰。木菟宿禰。嘖譲其无禮状。由是。百濟國殺辰斯王以謝之。紀角宿禰等便立阿花爲王而歸

倭人が金城を包囲 (新羅本紀) 西暦393年 参考資料

 

393年 倭人が来て金城を包囲し、5日も解かなかった。

    

太子の腆支を人質として倭に送った (百済本紀) 西暦397年 参考資料
 

 

397年 夏五月 王は倭国と友好関係を結び、太子の腆支を人質として倭に送った。

★『日本書紀』巻十応神天皇八年(丁酉二七七)三月◆八年春三月。百濟人來朝。〈百濟記云。阿花王立旡禮於貴國。故奪我枕彌多禮。及■南。支侵。谷那東韓之地。是以遣王子直支于天朝。以脩先王之好也。〉

百済は倭と和通 (好太王碑文) 西暦399年 参考資料
 

 

399年、百済は先年の誓いを破って倭と和通した。そこで王は百済を討つため平壌に出向いた。ちょうどそのとき新羅からの使いが「多くの倭人が新羅に侵入し、王を倭の臣下としたので高句麗王の救援をお願いしたい」と願い出たので、大王は救援することにした。

高句麗が新羅を救援 (好太王碑文) 西暦400年 参考資料

400年、5万の大軍を派遣して新羅を救援した。新羅王都にいっぱいいた倭軍が退却したので、これを追って任那・加羅に迫った。ところが安羅軍などが逆をついて、新羅の王都を占領した。

使臣を倭国に遣り、大珠を求めた (百済本紀) 西暦402年 参考資料

 

402年 五月 使者を倭国につかわして、大きな珠を求めた。

 

新羅、奈勿王の子を人質として倭に送った (新羅本紀) 西暦402年 参考資料

 

402年 三月に倭国と通好して、奈勿王の子、未斯欣を人質として倭に送った。

 

倭国の使者を厚く遇した (百済本紀) 西暦403年 参考資料

 

403年 春二月 倭国の使者が来たので、王は彼を迎えて慰労し、特に厚く遇した。

 

倭が帯方地方(現在の黄海道地方)に侵入してきたので、これを討って大敗させた (好太王碑文) 西暦404年 参考資料

404年、倭が帯方地方(現在の黄海道地方)に侵入してきたので、これを討って大敗させた。

 

百濟 腆支太子訃報を聞き帰国する事を請う (百済本紀) 西暦405年 参考資料

405年 腆支太子は倭国において訃報を聞き、哭泣しながら帰国する事を請うた。倭王は、兵士百名を伴わせて、護送した。

☆『日本書紀』巻十応神天皇十六年(乙巳二八五)是歳◆是歳。百濟阿花王薨。天皇召直支王謂之曰。汝返於國以嗣位。仍且賜東韓之地而遣之。〈東韓者。甘羅城。高難城。爾林城是也。〉

倭兵が新羅の明活城を攻める (新羅本紀) 西暦405年 参考資料

405年 倭兵が明活城を攻める。

 

百済の第18代の王 直支王 在位 西暦405年〜420年 参考資料

腆支王(てんしおう、生年不詳 - 420年)は百済の第18代の王(在位:405年 - 420年)であり、先代の阿花王の長男。『梁書』では余映、『日本書紀』では直支王(ときおう)、『三国遺事』王暦では眞支王と記される。

日本書紀に、「百濟阿花王薨。天皇召直支王謂之曰。汝返於國以嗣位」の記載

☆『日本書紀』巻十応神天皇十六年(乙巳二八五)是歳◆是歳。百濟阿花王薨。天皇召直支王謂之曰。汝返於國以嗣位。仍且賜東韓之地而遣之。〈東韓者。甘羅城。高難城。爾林城是也。〉

倭人が東辺を侵し、南辺を攻める(新羅本紀) 西暦407年 参考資料

407年 春三月 倭人が東辺を侵し、夏六月にまた南辺を攻める。

 

倭人が対馬島に軍営を設置 (新羅本紀) 西暦408年 参考資料

408年 春二月、王は、倭人が対馬島に軍営を設置し、兵器・武具・資財・食糧を貯え、我が国を襲撃することを企てているとの情報を手に入れた。倭兵が出動する前に、精兵を選んで兵站をしようと考えたが、舒弗邯の未斯品曰く「兵は凶器であり戦は危険な事です。ましてや大海を渡って他国を討伐し、万が一に勝つことができなければ、後で悔やんでも仕方ありません」王はこの意見に従った。

倭の五王                                                                                           参考資料

倭の五王(わのごおう)とは、古代中国の歴史書に登場する倭国の五人の王、讃・珍・済・興・武をいう。

5世紀初頭から末葉まで、およそ1世紀近くに渡って主に南朝の宋(420年-479年)に朝貢した。

比定

「讃」→17代履中天皇・「珍」→18代反正天皇・「済」→19代允恭天皇・「興」→20代安康天皇・「武」→21代雄略天皇として、倭の五王に比定する説が一般的である。

最も蓋然性が高いのものが雄略天皇を「武」とする説である。

記紀の記述の内容が5世紀末の朝鮮の史料とよく符合し、実名である「ワカタケル」と思しき名が刻まれた鉄剣がやはり5世紀末頃の遺跡で見つかっていることから同時代に在位していた大王である可能性が高く、「武」という名も実名の「タケル」を漢訳したものと考えられる。先代の安康天皇は雄略の兄であり、先々代の允恭天皇は安康・雄略の父であることから、済の子が興でありその弟が武であると記す『宋書』の系譜とも一致する。また、478年に武が奉った上表文では「にわかに父兄を喪い」(奄喪父兄)と述べられており、允恭の死後に跡を継いだ安康がわずか3年で暗殺されたという『記紀』の記述とも整合性がある

倭王 讃? 東晋の安帝に貢物を献ずる 西暦413年 参考資料

東晋 義熙 9年(413年) 高句麗・倭国及び西南夷の銅頭大師が安帝に貢物を献ずる。

(『晋書』安帝紀、『太平御覧』)

新羅、倭人と風島で戦って勝利 (新羅本紀) 西暦415年 参考資料

実聖尼師今(第18代)14年(415) 八月、倭人と風島で戦って勝利した。

 

百濟 倭国に白綿を十反を送る (百済本紀) 西暦418年 参考資料

418年 夏 使者を倭国につかわし、白綿を十反を送った。

 

高句麗と倭国への人質(未斯欣)が逃げ帰る (新羅本紀) 西暦418年 参考資料

418年 高句麗と倭国への人質(未斯欣)が逃げ帰った。

 

奈良県 布留遺跡と布留式土器 (奈良県天理市) 西暦400年〜450年 参考資料

奈良県天理市 布留遺跡布留(堂垣内)地区出土(1938年調査) 古墳時代前期 5世紀 二重口縁壺の口径16.5p 土器

布留遺跡は春日断層崖から流れ出る布留川が形成した扇状地の周辺部に営まれた遺跡で、縄文時代から近世まで続く遺跡です。特に縄文時代早期や中、後期、そして弥生時代末から古墳時代にかけて大きな遺跡となります。中でも古墳時代は規模が最も大きく、大和王権の軍事部門を司った物部氏の本拠として栄えました。  この遺跡の調査で初めて見つかり、命名された「布留式土器」は、その後の調査で全国で確認されるようになりました。今では、大和王権の勢力拡大と共に各地に運ばれ、その後、各地域で作られた土器であることが判っています。(参考資料

福岡県 老司古墳 (福岡県福岡市) 西暦400年〜420年 参考資料

老司古墳(ろうじこふん)、福岡県福岡市南区老司にある古墳。那珂(なか)川西岸の標高約40mの丘陵上にある、前方部を南に向けた前方後円墳。全長76m、前方部幅30m、後円部径45mの規模があり、墳丘には葺石(ふきいし)がほどこされ、壺形を主とした埴輪(はにわ)がめぐっていた。後円部に3基、前方部に1基の竪穴(たてあな)系横口式石室と呼ばれる初期の横穴式石室が確認された。後円部中央の1号石室はもっとも古く、長さ2.1m、幅95cm、高さ80cmで、前方部に通じる墓道があり、三角縁神獣鏡(さんかくぶちしんじゅうきょう)その他の鏡10面・玉類・剣のほか多くの豊富な副葬遺物が出土したことから、5世紀初めごろの営造と推定される。2000年(平成12)に国の史跡に指定された。写真は「老司古墳第2号石室出土三角板革綴短甲」

奈良県 誉田御廟山古墳 (奈良県天理市) 西暦400年〜420年 参考資料

誉田御廟山古墳 (こんだごびょうやまこふん)または誉田山古墳(こんだやまこふん)は、大阪府羽曳野市誉田にある古墳。形状は前方後円墳。古市古墳群を構成する古墳の1つ。 築造時期 5世紀初頭 
実際の被葬者は明らかでないが、宮内庁により「惠我藻伏崗陵(えがのもふしのおかのみささぎ)」として第15代応神天皇の陵に治定されている。また外濠と外堤は1978年(昭和53年)に国の史跡に指定されている。名称は「応神天皇陵」とも。全国で大仙陵古墳(大阪府堺市)に次ぐ第2位の規模の巨大古墳である

大阪府 上石津ミサンザイ古墳 (大阪府堺市) 西暦400年〜420年 参考資料

上石津ミサンザイ古墳(かみいしづみさんざいこふん)は、大阪府堺市西区石津ヶ丘にある古墳。形状は前方後円墳。百舌鳥古墳群を構成する古墳の1つ。実際の被葬者は明らかでないが、宮内庁により「百舌鳥耳原南陵(もずのみみはらのみなみのみささぎ)」として第17代履中天皇の陵に治定されている。名称は「石津ヶ丘古墳(いしづがおかこふん)」や「百舌鳥陵山古墳(もずみささぎやまこふん)」とも。全国で大仙陵古墳(大阪府堺市)、誉田御廟山古墳(大阪府羽曳野市)に次ぐ第3位の規模の巨大古墳である。 築造時期 5世紀初頭 

中国 晋 終焉 西暦420年 参考資料
百済の第19代の王 久尓辛王 在位 西暦420年〜427年 参考資料

久尓辛王(くにしんおう、生年不詳 - 427年)は百済の第19代の王(在位:420年 - 427年)であり、先代の腆支王の長男。『三国史記』は諱・諡は伝えておらず、420年3月に先王の死去に伴い即位したこと、427年12月に死去したことを伝えるのみで、治績記事は残っていない。
日本語では「久爾辛王」とも記述される。
『日本書紀』によれば、応神天皇25年(294年→414年)に即位。王が若かったので木羅斤資(もくらこんし)の子木満致(もくまんち)が国政を行ったとある。

★『日本書紀』巻十応神天皇二五年(甲寅二九四)◆廿五年。百濟直支王薨。即子久爾辛立爲王。王年幼。大倭木滿致執國政。與王母相婬。多行無禮。天皇聞而召之〈百濟記云。木滿致者是木羅斤資討新羅時。娶其國婦而所生也。以其父功專於任那。來入我國往還貴國。承制天朝執我國政。權重當世。然天皇聞其暴召之。〉

倭王 讃   宋に朝献し、武帝から除授の詔をうける 西暦421年 参考資料

宋 永初 2年(421年) 讃 宋に朝献し、武帝から除授の詔をうける。おそらく「安東将軍倭国王」。

(『宋書』夷蛮伝)

倭王 讃   宋の文帝に貢物を献ずる 西暦425年 参考資料

宋 元嘉 2年(425年) 讃 司馬の曹達を遣わし、宋の文帝に貢物を献ずる。(『宋書』夷蛮伝)

百済の第20代の王 毘有王 在位 西暦427年〜455年 参考資料

毗有王(ひゆうおう、生年不詳 - 455年)は百済の第20代の王(在位:427年 - 455年)であり、先代の久尓辛王の長男、または『三国史記』百済本紀・毗有王紀の分注では第18代の腆支王の庶子とされる。『三国史記』には諱・諡は伝わらず、『宋書』には百済王余毗として現れる。427年12月に先王の死去により王位についた。子に蓋鹵王。

倭国からの使者 (百済本紀) 西暦428年 参考資料

428年 倭国からの使者が来たが、随行者が五十名であった。

 

倭王 讃? 東 晋の安帝に貢物を献ずる 西暦430年 参考資料

宋 元嘉 7年(430年) 讃? 1月、宋に使いを遣わし、貢物を献ずる。(『宋書』文帝紀)

倭兵が明活城を包囲したが功なくして退いた (新羅本紀)

西暦431年 参考資料

431年 倭兵が、東の辺境に攻めて来て、明活城を包囲したが、功なくして退いた。

 

倭王 讃没し、弟珍立つ。 「安東将軍倭国王」とされる

西暦438年 参考資料

宋 元嘉15年(438年) 珍 これより先(後の意味以下同)、倭王讃没し、弟珍立つ。この年、宋に朝献し、自ら「使持節都督倭・百済・新羅・任那・秦韓・慕韓六国諸軍事安東大将軍倭国王」と称し、正式の任命を求める。(『宋書』夷蛮伝) 

4月、宋 文帝、珍を「安東将軍倭国王」とする。(『宋書』文帝紀)

珍はまた、倭隋ら13人を平西・征虜・冠軍・輔国将軍にされんことを求め、許される。(『宋書』夷蛮伝)

南北朝時代(439年 - 589年)

   北朝 : 北魏、東魏、西魏、北斉、北周

   南朝 : 宋、斉、梁、陳

西暦439年〜589年 参考資料

倭人が新羅の南の辺境と東の辺境を攻める(新羅本紀)

西暦440年 参考資料

440年 倭人が、南の辺境に侵入。夏六月にまた東の辺境を攻める。

 

倭王 済  「安東将軍倭国王」とされる 西暦443年 参考資料

宋 元嘉20年(443年) 済 宋・文帝に朝献して、「安東将軍倭国王」とされる。(『宋書』夷蛮伝)

倭兵が新羅の金城を十日包囲 (新羅本紀)

西暦444年 参考資料

444年 夏四月に、倭兵が金城を十日包囲して、食料が尽きて帰った。

 

大阪府 大仙陵古墳 (大阪府堺市) 西暦400年〜450年 参考資料

大仙陵古墳(だいせんりょうこふん)または大山古墳(だいせんこふん)は、大阪府堺市堺区大仙町にある古墳。形状は前方後円墳。百舌鳥古墳群を構成する古墳の1つ。築造時期 5世紀前期-中期 
実際の被葬者は明らかでないが、宮内庁により「百舌鳥耳原中陵(もずのみみはらのなかのみささぎ)」として第16代仁徳天皇の陵に治定されている。名称は「仁徳天皇陵(にんとくてんのうりょう)」や「仁徳陵古墳」とも。
全国で第1位の規模の巨大古墳であり、同古墳を擁する堺市は、クフ王ピラミッド及び秦の始皇帝墓陵に並ぶ「世界三大墳墓」と称している。

宮崎県 男狭穂塚古墳 (宮崎県西都市) 西暦400年〜450年 参考資料

男狭穂塚古墳(おさほづかこふん)は、宮崎県西都市三宅にある古墳。形状は帆立貝形古墳。西都原古墳群(うち丸山支群)を構成する古墳の1つ。
実際の被葬者は明らかでないが、宮内庁により「男狭穂塚陵墓参考地」(被葬候補者:瓊瓊杵尊ニニギノミコト)として陵墓参考地に治定されており、南側の女狭穂塚陵墓参考地(女狭穂塚古墳)と隣接する。
女狭穂塚古墳とともに九州地方では最大規模の古墳であるとともに、帆立貝形古墳としては全国で最大規模の古墳で、5世紀前半(古墳時代中期)頃の築造と推定される。 
瓊瓊杵尊ニニギノミコト: 天孫降臨の主人公。天照大御神の命により、葦原中国アシハラノナカツクニ(日本)を統治するため高天原から地上に降りたという。高千穂神話とも関係する。

宮崎県 女狭穂塚古墳 (宮崎県西都市) 西暦400年〜450年 参考資料

女狭穂塚古墳(めさほづかこふん)は、宮崎県西都市三宅にある古墳。形状は前方後円墳。西都原古墳群(うち丸山支群)を構成する古墳の1つ。
実際の被葬者は明らかでないが、宮内庁により「女狭穂塚陵墓参考地」(被葬候補者:木花開耶姫 コノハナサクヤヒメ)として陵墓参考地に治定されており、北側の男狭穂塚陵墓参考地(男狭穂塚古墳)と隣接する。
男狭穂塚古墳とともに九州地方では最大規模の古墳で、5世紀前半(古墳時代中期)頃の築造と推定される。ニニギの妻、大山祇神の娘

福岡県 石人山古墳 (福岡県八女郡広川町) 西暦400年〜450年 参考資料

石人山古墳(せきじんさんこふん)は、福岡県八女郡広川町一条に所在する前方後円墳。八女古墳群を構成する1基で、国の史跡に指定されている。筑紫君磐井の祖父の墓と推定される。またかつては筑紫君磐井の墓に比定されていた。築造時期 5世紀前半〜中頃
石室前の石人社には、国の重要文化財で古墳の名前の由来でもある武装石人が一体、石室側に背を向けて安置されている。この石人は古くから知られ、江戸時代の古記録にも登場する。みやま市石神山古墳の武装石人と並んで南筑後地区最古期のものである。阿蘇溶結凝灰岩製で、高さ約1.8メートル、三角板短甲と草摺をつけ、左脇には石刀を帯びるための抉り込みが見られる。
現在顔は潰れ、上半身の模様は不鮮明になっているが、江戸時代の模写図には目・鼻・口が描かれ往時をしのぶことが出来る。このような姿になった理由は、手足や腰、肩などに痛みがある人が、石人の同じ所を打つとそれが治ると信じられ、打ったりなでたりされてきたためである

福井県 金銅装眉庇付冑(二本松山古墳出土) 

 (福井県永平寺町)

西暦400年〜500年 参考資料

出土地:福井県永平寺町松岡吉野堺 二本松山古墳出土、古墳時代・5世紀
野球帽のように半月形の庇+ひさし+がつく鉄製冑である。小札という鉄板を鋲+びょう+でつなぎ留め、頂部の伏鉢+ふせばち+、管、受鉢+うけばち+には金メッキを施すなど、朝鮮半島から伝来した5世紀の最新技術を用いている。石棺からの出土で状態はよく、古墳時代冑の中でも華麗な一品である。

福岡県 月岡古墳 (福岡県うきは市) 西暦440年〜460年 参考資料

月岡古墳(つきのおかこふん)は、福岡県うきは市の若宮古墳群内にある前方後円墳である。築造時期 5世紀中。
若宮八幡宮境内にあり、前方部を西に向けている。1805年(文化2年)、後円部から竪穴式石室が発見され、多くの遺物が出土した。このときの記録が当時の若宮八幡宮宮司・安元大炊によって残されている。副葬品は代々安元家によって保管され、1961年(昭和36年)に国の重要文化財に指定された(指定名称は「筑後国浮羽郡月岡古墳出土品」)

倭王 済  「安東大将軍」に進号する 西暦451年 参考資料

宋 元嘉28年(451年) 済 宋朝・文帝から「使持節都督倭・新羅・任那・加羅・秦韓・慕韓六国諸軍事」を加号される。安東将軍はもとのまま。(『宋書』倭国伝)

7月、「安東大将軍」に進号する。(『宋書』文帝紀) 

また、上った23人も宋朝から将軍号・郡太守号を与えられる。(『宋書』夷蛮伝)

百済の第21代の王 蓋鹵王 在位 西暦455年〜475年 参考資料

蓋鹵王(がいろおう、? - 475年)は、百済の第21代の王(在位:455年 - 475年)。先代の毗有王の長子であり、『三国史記』によれば諱は慶司。また、近蓋婁王とも記され、『日本書紀』には加須利君(かすりのきみ)、『宋書』には余慶の名で現れる。455年9月に先王の死去に伴い、王位についた。子に文周王

中国南朝と通じるとともに新羅・倭国と同盟(羅済同盟)して高句麗に対抗するという、百済の伝統的外交政策を維持するのに努めた。北朝に対して高句麗を討伐することを働きかけるが失敗し、却って高句麗の侵攻を招いた。その結果475年には首都慰礼城(ソウル)を陥落させられ、王自身は戦死することとなった。

倭人が兵船百余隻を以って新羅の東辺を襲う (新羅本紀)

西暦459年 参考資料

459年 夏四月に、倭人が兵船百余隻を以って東辺を襲い、月城を囲んで進撃したが、追撃してこれを破る。

倭王 済? 孝武帝へ遣使して貢物を献ずる 西暦460年 参考資料

宋 大明 4年(460年) 済?12月、孝武帝へ遣使して貢物を献ずる。

盖鹵王、倭国に人質を送る 西暦461年 参考資料

●『日本書紀』巻十四雄略天皇五年(辛丑四六一)七月◆秋七月。軍君入京。既而有五子。〈百濟新撰云。辛丑年盖鹵王遣王遣弟昆攴君。向大倭侍天皇。以脩先王之好也。〉

461年頃、王子の軍君昆支を倭国に人質として送りよしみを通じた。

倭王 興  「安東将軍倭国王」となる 西暦462年 参考資料

宋 大明6年(462年) 3月、宋・孝武帝、済の世子の興を「安東将軍倭国王」とする。

(『宋書』孝武帝紀、倭国伝)

倭人が新羅の活開城を襲い破る (新羅本紀)

西暦462年 参考資料

462年 夏五月に、倭人が活開城を襲い破り、一千名を捕らえて連れ去った。

 

倭人が歃良城(梁山)を攻める (新羅本紀)

西暦463年 参考資料

463年 倭人が歃良城(梁山)を攻めるも勝てずして去った。

 

埼玉県 金錯銘鉄剣(稲荷山古墳出土) (埼玉県行田市) 西暦471年 参考資料

稲荷山古墳出土鉄剣(いなりやまこふんしゅつどてっけん)は、1968年に埼玉県行田市の埼玉古墳群の稲荷山古墳から出土した鉄剣。1983年に同古墳から出土した他の副葬品とともに国宝に指定された。現在は埼玉古墳群近くの埼玉県立さきたま史跡の博物館内で、窒素ガスを封入したケースに保管・展示されている。
1968年に行われた稲荷山古墳の後円部分の発掘調査の際、画文帯環状乳神獣鏡や多量の埴輪とともに鉄剣が出土した。1978年、腐食の進む鉄剣の保護処理のためX線による検査が行われた。その際、鉄剣の両面に115文字の漢字が金象嵌で表されていることが判明する(新聞紙上でスクープとなり社会に広く知れ渡ったのは1978年9月)。その歴史的・学術的価値から、同時に出土した他の副葬品と共に1981年に重要文化財に指定され、2年後の1983年には国宝に指定された。
銘文の内容、(表)辛亥年七月中記乎獲居臣上祖名意富比垝其児多加利足尼其児名弖已加利獲居其児名多加披次獲居其児名多沙鬼獲居其児名半弖比、(裏)其児名加差披余其児名乎獲居臣世々為杖刀人首奉事来至今獲加多支鹵大王寺在斯鬼宮時吾左治天下令作此百練利刀記吾奉事根原也
書かれている文字に読点を打って解釈すると、
「辛亥の年七月中、記す。ヲワケの臣。上祖、名はオホヒコ。其の児、(名は)タカリのスクネ。其の児、名はテヨカリワケ。其の児、名はタカヒシ(タカハシ)ワケ。其の児、名はタサキワケ。其の児、名はハテヒ。(表) 其の児、名はカサヒヨ[3](カサハラ[4])。其の児、名はヲワケの臣。世々、杖刀人の首と為り、奉事し来り今に至る。ワカタケル(「ワ、ワク、カク」+「カタ」+「ケ、キ、シ」+「ル、ロ」)の大王の寺、シキの宮に在る時、吾、天下を左治し、此の百練の利刀を作らしめ、吾が奉事の根原を記す也。(裏)」
「獲加多支鹵大王(ワカタケル大王、雄略天皇)」にあてる説が有力となっている。このことから、5世紀後半にはすでに大王の権力が九州から東国まで及んでいたと解釈される。
辛亥年は471年が定説であるが一部に531年説もある。
通説通り471年説をとるとヲワケが仕えた獲加多支鹵大王は、日本書紀の大泊瀬幼武(オオハツセワカタケ)天皇、すなわち21代雄略天皇となる。 銘文に獲加多支鹵大王が居住した宮を斯鬼宮として刻んでいる、雄略天皇が居住した泊瀬朝倉宮とは異なるものの、当時の磯城郡には含まれていることにはなる。この通説に則れば、21代雄略天皇の考古学的な実在の実証となりうる。 田中卓は、斯鬼宮と刻んだ理由を雄略天皇以前の数代の天皇は磯城郡以外に宮を置いており、当時の人にとって磯城宮といえば雄略天皇の宮のことであったためであるとし、記紀で雄略天皇の宮を泊瀬朝倉宮と呼ぶのは後世に他の天皇が磯城郡に置いた宮と区別するためそう呼称したものであるとした。

熊本県 銀錯銘大刀(江田船山古墳出土) 

(熊本県玉名郡和水町)

西暦450年〜500年 参考資料

1873年(明治6年)、熊本県玉名郡和水町(たまなぐんなごみまち)にある江田船山古墳(築造時期 5世紀-6世紀初頭)から、全長61メートルの前方後円墳で、横口式家型石棺が検出され、内部から多数の豪華な副葬品が検出された。この中に全長90.6センチメートルで、茎(なかご)の部分が欠けて短くなっているが、刃渡り85.3センチメートルの大刀(直刀)があり、その峰に銀象嵌の銘文があった。字数は約75字で、剥落した部分が相当ある。
銘文、治天下獲□□□鹵大王世奉事典曹人名无利弖八月中用大鉄釜并四尺廷刀八十練九十振三寸上好刊刀服此刀者長寿子孫洋々得□恩也不失其所統作刀者名伊太和書者張安也
<訓読>天の下治らしめし獲□□□鹵大王の世、典曹に奉事せし人、名は无利弖、八月中、大鉄釜を用い、四尺の廷刀を并わす。八十たび練り、九十たび振つ。三寸上好の刊刀なり。此の刀を服する者は、長寿にして子孫洋々、□恩を得る也。其の統ぶる所を失わず。刀を作る者、名は伊太和、書するのは張安也。
ワカタケル大王(雄略天皇)の時代にムリテが典曹という文書を司る役所に仕えていた。八月に大鉄釜で丹念に作られためでたい大刀である。この刀を持つ者は、長寿であって、子孫まで栄えて治めることがうまくいく。 大刀を作ったのは伊太□(ワ)で、銘文を書いたのが張安である。
かつては「治天下犭复□□□歯大王」と読み、多遅比弥都歯大王(反正天皇)にあてる説が有力であったが、1978年に埼玉稲荷山古墳出土の鉄剣に金象嵌の銘文が発見されたことにより、「治天下獲□□□鹵大王」 と読み、獲加多支鹵大王(ワカタケル大王、雄略天皇か)とする説が有力となった。

百済の第22代の王 文周王 在位 西暦475年〜477年 参考資料

文周王(ぶんしゅうおう、生年不詳 - 477年)は百済の第22代の王(在位:475年−477年)であり、先代の蓋鹵王の子。諱・諡は伝わらない。『三国史記』百済本紀・文周王紀の分注や『日本書紀』には汶洲王、『三国遺事』王暦には文明王という別名も見られる。

蓋鹵王が王位についたとき、文周は上佐平(百済の官位のひとつ。1等官の上に立つ宰相に相当)として蓋鹵王を補佐するようになった。高句麗の長寿王が475年9月に百済の首都漢城(ソウル特別市)に攻め入った際、蓋鹵王の命で文周は新羅に救援(羅済同盟)を求めに出ており(『三国史記』百済本紀・蓋鹵王紀では木満致らとともに南方に逃れており)、10月に新羅の兵1万を率いて都に戻ったときには、既に漢城は陥落して蓋鹵王は処刑されていた。文周は直ちに王位について熊津(忠清南道公州市)に遷都した。

『日本書紀』においては雄略天皇20年(476年)に高句麗が百済を滅ぼしたこと、同21年(477年)3月に雄略天皇が久麻那利(こむなり、熊津を指す)を百済の?洲王に下賜して国の復興をさせた、と記している。

★『日本書紀』巻十四雄略天皇二十年(丙辰四七六)冬◆廿年冬。高麗王大發軍兵。伐盡百濟。爰有少許遺衆。聚居倉下。兵粮既盡。憂泣茲深。於是高麗諸將言於王曰。百濟心許非常。臣毎見之。不覺自失。恐更蔓生。請遂除之。王曰。不可矣。寡人聞。百濟國者。爲日本國之官家。所由來遠久矣。又其王入仕天皇。四隣之所共識也。遂止之。〈百濟記云。盖鹵王乙卯年冬。狛大軍來。攻大城七日七夜。王城降陷。遂失尉禮國。王及大后王子等皆沒敵手。〉

倭人が新羅の東辺を攻める (新羅本紀)

西暦476年 参考資料

476年 倭人が東辺を攻める。

 

百済の第23代の王 三斤王 在位 西暦477年〜479年 参考資料

三斤王(さんきんおう、464年? - 479年)は百済の第23代の王(在位:477年−479年)であり、先代の文周王の長子。諱・諡は伝わらない。『三国史記』百済本紀・三斤王紀の分注には壬乞王、『三国遺事』王暦には三乞王、『日本書紀』雄略天皇紀には文斤王とも記される。477年9月に先王が暗殺され、三斤王がわずか13歳で即位した。

倭王 興没して弟の武立つ 西暦477年 参考資料

宋 昇明 1年(477年) 興(武)11月、遣使して貢物を献ずる。(『宋書』順帝紀)

これより先、興没して弟の武立つ。武は自ら「使持節都督倭・百済・新羅・任那・加羅・秦韓・慕韓七国諸軍事安東大将軍倭国王」と称する。(『宋書』夷蛮伝)

倭王 武を「使持節都督倭・新羅・任那・加羅・秦韓・慕韓六国諸軍事安東大将軍倭王」とする 西暦478年 参考資料

宋 昇明 2年(478年) 武 上表して、自ら「開府儀同三司」と称し、叙正を求める。順帝、武を「使持節都督倭・新羅・任那・加羅・秦韓・慕韓六国諸軍事安東大将軍倭王」とする。(『宋書』順帝紀)(「武」と明記したもので初めて)

南斉の高帝、倭王 武を 「鎮東大将軍」(征東将軍)に進号 西暦479年 参考資料

南斉 建元 1年(479年) 南斉の高帝、王朝樹立に伴い、倭王の武を「鎮東大将軍」(征東将軍)に進号。

(『南斉書』倭国伝)

百濟 三斤王(文斤王) 薨去 西暦479年  

★『日本書紀』巻十四雄略天皇二三年(己未四七九)四月◆廿三年夏四月。百濟文斤王薨。天皇以昆攴王五子中。第二末多王幼年聰明。勅喚内裹。親撫頭面誡勅慇懃。使王其國。仍賜兵器。并遣筑紫國軍士五百人。衞送於國。是爲東城王。

百済の第24代の王 東城王 在位 西暦479年〜501年 参考資料

東城王(とうじょうおう、生年不詳 - 501年)は百済の第24代の王(在位:479年 - 501年)である。『三国史記』によれば、諱を牟大、あるいは摩帝とし、第22代の文周王の弟の昆支の子とする。名と系譜については以下の異説がある。
『南斉書』では牟大とし、牟都(文周王?)の孫とする。『梁書』では牟大とし、余慶(第21代蓋鹵王)の子の牟都(文周王?)の子とする 。また、牟都を牟大の転訛と見る説もある。ただし『三国史記』百済本紀・東城王紀末文では、古記に基づいて牟都という王はいないこと、牟大(東城王)は蓋鹵王の孫であり蓋鹵王を牟都とは言わないことを挙げ、『南斉書』の記述に対して疑義を唱えている。『日本書紀』では、蓋鹵王の弟で日本に来ていた昆支の第二子の末多(また)とする。『三国遺事』王暦では、名を牟大または摩帝とし、先代の三斤王の堂弟(父方の従弟)とする。子に武寧王。

倭人が新羅の辺境攻める (新羅本紀)

西暦482年 参考資料

482年 五月に倭人が辺境を攻める。

 

倭人が新羅の辺境攻める (新羅本紀)

西暦486年 参考資料

486年 夏四月に倭人が辺境を攻める。

 

和歌山県 金製勾玉(車駕之古址古墳出土)

 (和歌山県和歌山)

西暦450年〜500年 参考資料

車駕之古址古墳(しゃかのこしこふん)は、和歌山県和歌山市木ノ本に所在する古墳時代中期の前方後円墳。1990年代初めに住宅開発による事前の発掘調査が行われ、その重要さから保存されることになった。墳丘盛土内から国内唯一の金製の勾玉が出土している。
金製勾玉は中空の構造で、長さ18ミリ、頭部径8ミリ、重さ1.6グラムで小ぶりながら精巧なつくりである。非破壊の方法で分析したところ、30パーセント以上の銀と微量の銅を含むことがわかった。これはほぼ16金にあたるという。築造時期 5世紀後半

群馬県 埴輪武装男子立像(群馬県太田市飯塚町出土) 西暦450年〜550年 参考資料

武具を着装し、武器を装備した武人埴輪である。きりっと結んだ口元と、深く切りこまれた目には武人としての気品と風格があり、甲胄を着け、弓や大刀の柄をにぎりしめてその動作を巧みにとらえている。東日本では武人埴輪が多く発見されているが、本埴輪は大きさもあり、各部分の製作もていねいで保存状態もよく、最も優れた作品である。

福岡県 新原・奴山古墳群 (福岡県福津市) 西暦450年〜550年 参考資料

新原・奴山古墳群(しんばる・ぬやまこふんぐん)は、福岡県福津市の対馬見山系にある、津屋崎古墳群の一角を成す古墳群。国の史跡に指定されている(史跡「津屋崎古墳群」に包含)。5世紀後半〜6世紀後半の古墳時代中期後半に造営され、被葬者は宗像氏関係者と推定される。古墳群の名称は、福津市勝浦の字「新原」と「奴山」地区に跨ることによる。
2017年(平成29年)、「神宿る島」宗像・沖ノ島と関連遺産群の構成資産の一つとして、世界遺産に登録された。 古墳が世界遺産に登録された国内最初の例である。

奈良県 新沢千塚古墳群 126号墳出土品 (奈良県橿原市) 西暦480年〜500年 参考資料

新沢千塚古墳群(にいざわせんづかこふんぐん)は、奈良県橿原市北越智町・川西町に位置する前期〜後期に形成された日本有数の大古墳群(群集墳)である。1976年(昭和51年)3月31日に国の史跡に指定された。5世紀後半の126号墳からは金・銀・ガラス・ヒスイを用いた大量の装飾品が遺骨に装着したままの状態で出土し、また火熨斗(ひのし、炭を入れてアイロンとして使用した金属器)が日本で初めて出土したり、中国を経由せず西域から新羅経由でもたらされたと見られるローマンガラス製品が出土したりするなど、全国的に大きな話題となった。2014年には出土品のガラス皿について、化学組成がローマ帝国領内で出土したローマ・ガラスとほぼ一致することが東京理科大学の阿部善也らの蛍光X線分析で判明した。これは日本国内の古墳出土品のガラス器がローマ帝国伝来と裏付けられた初めての例である。126号墳の出土品は東京国立博物館に所蔵されており、一括して国の重要文化財に指定されている。

岩手県 角塚古墳 (岩手県奥州市)

西暦490年〜520年 参考資料

角塚古墳(つのづかこふん)は、岩手県奥州市胆沢南都田にある古墳。形状は前方後円墳。国の史跡に指定されている。 通称として「塚の山」・「一本杉」とも。前方後円墳としては岩手県では唯一、かつ日本の最北端に位置する古墳である。 葺石・埴輪のほか、出土遺物の大半は埴輪破片である。前方部からは人物・動物・器財などの形象埴輪の出土が確認されている。また、後円部からは墳丘に近い周濠全体からは円筒埴輪が出土している。これら埴輪の製作時期は5世紀後半と見られる。 出土埴輪等により5世紀末から6世紀初の築造と推定される。

「建武五年銘」画文帯神獣鏡(出土地不明) 西暦498年 参考資料

「建武五年銘」画文帯神獣鏡(出土地不明)

(「建武」は南斉の年号)

倭人が新羅の長峯鎮を攻め陥した (新羅本紀)

西暦500年 参考資料

500年 春三月 倭人が長峯鎮を攻め陥した。

 

福岡県 岩戸山古墳 (福岡県八女市) 西暦500年〜550年 参考資料

岩戸山古墳(いわとやまこふん)は、福岡県八女市にある前方後円墳。八女古墳群を構成する古墳の1つ。国の史跡に指定されている(史跡「八女古墳群」に包含)。
築造年代は須恵器の年代観から6世紀前半と見られ、被葬者と推定される筑紫君磐井に関する記録とも一致している。内部主体は明らかとなっていないが、電気探査等で横穴式石室と推定される構造が確認されている。なお、墳丘脇には神社(大神宮)が鎮座しているが、古くは後円部墳頂に鎮座していた。
墳丘・周堤・別区からは一般に「石人石馬」と総称される当地周辺特有の石製品が100点以上出土しており、その数・種類は他の古墳を圧倒している。これらは人物・動物・器財の3種類に大別され、実物大を基本とするという特徴を持っている。

磐井の乱:527年(継体21年)に朝鮮半島南部へ出兵しようとした近江毛野率いるヤマト王権軍の進軍を筑紫君磐井がはばみ、翌528年(継体22年)11月、物部麁鹿火によって鎮圧された反乱、または王権間の戦争。この反乱もしくは戦争の背景には、朝鮮半島南部の利権を巡るヤマト王権と、親新羅だった九州豪族との主導権争いがあったと見られている。  参考資料

宮崎県 日向国西都原古墳出土金銅馬具類

 (崎県西都市)

西暦500年〜600年 参考資料
国宝の指定名称は、「西都原古墳」出土となっていますが、実際には西都原古墳群の西方の台地にある「百塚原古墳群」から出土したものと考えられているようです。 6世紀の東アジアにおける日向の位置づけを考えるうえでも重要な考古資料です。 古墳時代屈指の金工品 金銅馬具のうち、龍文透彫りのものは、鞍金具、鏡板、雲珠(うず)、杏葉(ぎょうよう)、辻金具、散金具(ちらしかなぐ)から構成され、鐙(あぶみ)を除いたほぼ一具となる、これらは青銅(銅とスズの合金)に鍍金した金銅製であり、龍文透彫りの意匠で統一されている。 これらの金銅製馬具は、非常に精緻な造りであり、奈良県藤ノ木古墳、伝応神天皇陵の誉田山古墳の陪塚と考えられている大阪府丸山古墳(ともに国宝)などと並び、古墳時代の金工品として最高傑作の一つと言える。また、これらの金銅製馬具は、朝鮮半島南東部の新羅の王陵と考えられる慶州・天馬塚などの馬具と細部構造が類似しており、新羅または新羅と関連する地域や工人が製作した「新羅系」馬具と推定されている。 この遠く朝鮮半島の新羅に由来する優品が、どのようにしてこの南九州の地にもたらされたのかは不明であるが、この地が当時の列島にとって非常に重要な地であったことを物語る資料である。
梁の武帝、倭王 武を「征東大将軍」に進号する 西暦502年 参考資料

梁 天監 1年(502年) 4月、梁の武帝、王朝樹立に伴い、倭王武を「征東大将軍」に進号する。

(『梁書』武帝紀)

金官伽倻の第10代(最後の王) 仇衡王 在位 西暦502年〜532年 参考資料

仇衡王(きゅうこうおう、生没年不詳)は、金官伽倻の第10代にして最後の王(在位:521年 - 532年)。譲王とも。廟号は世宗。父は鉗知王、母は淑である。王妃は桂花、息子に金奴宗、金武徳、金武力がいる。

日本書紀によると、529年4月(継体天皇23年)に仇衡王が来日し、その月のうちに帰国したと記されている。金官国滅亡後に子孫は新羅や日本に亡命したとされる。

●『日本書紀』巻十七継体天皇二三年(己酉五二九)四月戊子《七》◆夏四月壬午朔戊子。任那王己能末多干岐來朝。〈言己能末多者。蓋阿利斯等也。〉啓大伴大連金村曰。夫海表諸蕃。自胎中天皇置内官家不棄本土。因封其地良有以也。今新羅違元所賜封限。數越境以來侵。請奏天皇救助臣國。大伴大連依乞奏聞。

百済の第25代王 武寧王 在位 西暦502年〜523年 参考資料

武寧王(ムリョンワン、462年 - 523年)は、百済の第25代の王(在位:502年 - 523年)
『三国史記』百済本紀・武寧王紀によれば先代の牟大王(東城王)の第2子であり、諱を斯摩、分注では隆とする。『梁書』では余隆、『日本書紀』雄略天皇紀5年条では、加須利君(かすりのきし、第21代蓋鹵王)の子、名を嶋君とする。

また、武烈天皇紀4年条では『百済新撰』の引用として、「諱は嶋王という。これは昆支王の子である。則ち末多王(東城王)の異母兄である」としながらも、「今考えるに、島王は蓋鹵王の子である。末多王は昆支王の子である。これを異母兄というのはまだ詳しく判らないとしている。『三国遺事』王暦では『三国史記』と同じく、諱を斯摩とする。
旧都漢城(ソウル特別市)を高句麗に奪われ混乱した百済の安定を回復した王とされる。

☆『日本書紀』巻十六武烈天皇四年(壬午五〇二)是歳◆是歳。百濟末多王無道。暴虐百姓。國人遂除而立嶋王。是爲武寧王。〈百濟新撰云。末多王無道暴虐百姓。國人共除。武寧立。諱斯麻王。是混攴王子之子。則末多王異母兄也。混攴向倭時。至筑紫嶋生斯麻王。自嶋還送。不至於京産於嶋。故因名焉。今各羅海中有主嶋。王所産嶋。故百濟人號爲主嶋。今案嶋王。是蓋鹵王之子也。末多王是混攴王之子也。此曰異母兄未詳也。〉

和歌山県 人物画象鏡 (隅田八幡神社) 

(和歌山県橋本市)

西暦503年(又は西暦443年) 参考資料

隅田八幡神社の人物画像鏡はその銘文から4〜5世紀の作といわれている。考古学上貴重なものとして国宝に指定されている。
青銅製で径19.9cm。近世の地誌類にもこの鏡についての記載があることから、古い時代に出土したものであることは確かだが、正確な出土年代や出土地は定かでない。鏡背は円形の鈕を中心に、内区には古代中国の伝説上の人物である東王父・西王母など9名の人物を表し、その周囲には半円形と方形からなる文様帯、その外側には鋸歯文(きょしもん)を表し、周縁部には漢字48字からなる銘を左回りに鋳出する。
銘文:癸未年八月日十大王年男弟王在意柴沙加宮時斯麻念長寿遣開中費直穢人今州利二人等取白上同二百旱作此竟

 (大意)癸未(きび、みずのとひつじ)の年八月 日十大王の年、男弟王が意柴沙加(おしさか)の宮におられる時、斯麻が長寿を念じて開中費直(かわちのあたい)、穢人(漢人)今州利の二人らを遣わして白上同(真新しい上質の銅)二百旱をもってこの鏡を作る。
「大王」の「大」、「男弟王」の「男」など、必ずしも釈読の定まらない文字が多く、銘文の内容についても異説が多い。また「癸未年」がいつに当たるかについては多くの説があるが、西暦443年とする説、503年とする説が有力である。いずれも、斯麻(しま)、開中費直(かわちのあたい、河内直、『百済本記』云、加不至(カフチ))、今州利はそれぞれ人名と解釈されている。

503年説では、諱に「斯麻」を持つ百済の武寧王(在位:502年 - 523年)とする解釈が有力である。

日本書紀での「斯麻」の記載:

☆『日本書紀』巻十六武烈天皇四年(壬午五〇二)是歳◆是歳。百濟末多王無道。暴虐百姓。國人遂除而立嶋王。是爲武寧王。〈百濟新撰云。末多王無道暴虐百姓。國人共除。武寧立。諱斯麻王。是混攴王子之子。則末多王異母兄也。混攴向倭時。至筑紫嶋生斯麻王。自嶋還送。不至於京産於嶋。故因名焉。今各羅海中有主嶋。王所産嶋。故百濟人號爲主嶋。今案嶋王。是蓋鹵王之子也。末多王是混攴王之子也。此曰異母兄未詳也。〉
なお、隅田八幡神社の由緒では、「神功皇后が外征後、筑前国から紀伊の衣奈浦(日高郡由良町)を経て大和の都に御還幸の途次、この地に滞留なさせ給いし旧跡」とある。

百済の第26代の王 聖明王 在位 西暦523年〜554年 参考資料

聖王(せいおう、? - 554年7月)は、百済の第26代の王(在位:523年 - 554年)。先代の武寧王の子。『三国史記』百済本紀・聖王紀によれば諱は明禯。先王が523年5月に死去したことにより、王位についた。『日本書紀』には聖明王または明王とあり、武寧王の死去の翌年524年正月に即位したとある。『梁書』には明の名で現れる。

★『日本書紀』巻十七継体天皇十八年(甲辰五二四)正月◆十八年春正月。百濟太子明即位

宣化天皇 任那に援軍の詔 西暦537年 参考資料
★『日本書紀』巻十八宣化天皇二年(乙卯五三七)十月壬辰朔◆二年冬十月壬辰朔。天皇以新羅冦於任那。詔大伴金村大連。遣其子磐與狭手彦以助任那。是時。磐留筑紫執其國政以備三韓。狭手彦往鎭任那。加救百濟。

新羅が任那に攻め入ったので、天皇は大伴金村大連に磐と狹手彦を遣り任那を助けるよう詔じた。この時の大伴金村の指示は、磐は筑紫に留まり三韓に備え、狹手彦は行って任那を鎮め、加えて百済を救うように。

欽明天皇、百濟 聖明王と任那の復興を協議 西暦541年 参考資料
●『日本書紀』巻十九欽明天皇二年(五四一)四月◆夏四月。安羅次旱岐夷呑奚。大不孫。久取柔利。加羅上首位古殿奚。卒麻旱岐。散半奚旱岐兒。多羅下旱岐夷他。斯二岐旱岐兒。子他旱岐等。與任那日本府吉備臣。〈闕名字。〉往赴百濟倶聽詔書。百濟聖明王謂任那旱岐等言。日本天皇所詔者。全以復建任那。今用何策起建任那。盍各盡忠奉展聖懷。任那旱岐等對曰。前再三廻與新羅議而無答報所圖之旨。更告新羅尚無所報。今宜倶遣使徃奏天皇。夫建任那者。爰在大王之意。祗承教旨。誰敢間言。然任那境接新羅。恐致卓淳等禍。〈等謂喙己呑加羅。言卓淳等國有敗亡之禍。〉聖明王曰。昔我先祖速古王。貴首王之世。安羅。加羅。卓淳旱岐等。初遣使相通。厚結親好。以爲子弟。冀可恒隆。而今被誑新羅使天皇忿怒而任那憤恨。寡人之過也。我深懲悔。而遣下部中佐平麻鹵。城方甲背昧奴等赴加羅會干任那日本府相盟。以後繋念。相續圖建任那。旦夕無忘。今天皇詔稱。速建任那。由是欲共爾曹謨計。樹立任那國。宜善圖之。又於任那境。徴召新羅。問聽與不。乃倶遣使奏聞天皇。恭承示教。儻如使人未還之際。新羅候隙侵逼任那。我當往救。不足爲憂。然善守備。謹警無忘。別汝所道牟
島根県 岡田山古墳 (島根県松江市) 西暦550年〜600年 参考資料

岡田山古墳(おかだやまこふん)は、島根県松江市大草町の台地上にある古墳群。国の史跡に指定されている。
「長宜子孫」の銘を有する内行花文鏡・環頭大刀・円頭大刀・圭頭大刀・銀環・金銅丸玉・轡・鞍金具・雲珠・辻金具・鈴・須恵器などが出土した。特に円頭大刀は1983年(昭和58年)になってX線撮影の結果、刀身に「各田卩臣」(額田部臣)の銀象嵌銘があることが確認された(岡田山一号墳出土大刀)。一号墳出土品は1985年(昭和60年)に一括して重要文化財に指定されている。二号墳は直径43メートル・高さ6.5メートルの円墳。墳丘中腹に貼石列が確認でき、埴輪とみられる小片が確認されているが、発掘調査は行われていない。

岩手県 江釣子古墳群 (岩手県北上市) 西暦550年〜590年 参考資料

江釣子古墳群(えづりここふんぐん)は、岩手県北上市の上江釣子・北鬼柳・和賀町長沼に所在する古墳時代後期後半の古墳群である。蝦夷塚とも呼ばれる。
本古墳群は、4支郡(猫谷地古墳群、五条丸古墳群、八幡古墳群、長沼古墳群)から構成されている。本古墳群では、直径10メートル前後、高さ1メートルほどの円墳が約120基ほど確認されている。古墳の周囲には、南側で切れる幅約1メートルほどの周濠が巡っている。
主体部の大半は、川原石を小口積みにした横穴式石室を真似た竪穴式石室である。石室の平面形は長方形であり、長軸が2〜4メートルに対し、幅は0.4〜0.7メートルと狭い。北壁に奥石を持ち、南側に形式的な羨門部を造るものもある。床には礫が敷かれ、仕切り石とその両壁に立石している
出土遺物には、蕨(わらび)手刀、直刀、刀子(とうす)、鉄鏃、勾玉(まがたま)、管玉(くだたま)、切子玉、ガラス玉、金環、錫釧(すずくしろ)、轡(くつわ)、鉄斧、鎌、鍬先、土師器などがある。

奈良県 丸山古墳(奈良県橿原市) 西暦550年〜590年 参考資料

丸山古墳(まるやまこふん、五条野丸山古墳/大軽丸山古墳/見瀬丸山古墳)は、奈良県橿原市見瀬町・五条野町・大軽町にある古墳。形状は前方後円墳。築造時期 6世紀後半
実際の被葬者は明らかでないが、後円部墳頂は宮内庁により「畝傍陵墓参考地」(被葬候補者:第40代天武天皇・第41代持統天皇)として陵墓参考地に治定されている。また宮内庁治定部分を除く古墳全域は国の史跡に指定されている(指定名称は「丸山古墳」)。
奈良県では最大、全国では第6位の規模の巨大古墳で、大王墓としては最後の前方後円墳になる。

(見瀬丸山古墳は欽明陵と推定される、全長318メートル)

百濟聖明王親率衆及二國兵〈二國謂新羅。任那也。〉往伐高麗。 西暦551年  

☆『日本書紀』巻十九欽明天皇十二年(五五一)是歳◆是歳。百濟聖明王親率衆及二國兵〈二國謂新羅。任那也。〉往伐高麗。獲漠城之地。又進軍討平壌。凡六郡之地。遂復故地。

※ この年、百済の聖明王は自ら、衆(タミ=民)と二つの国の兵… 二つの国とは新羅と任那をいいます。を率いて行って高麗を征伐して漢城の土地を得ました。また軍を進めて、平壌(ヘイジャウ)を征伐し、6群の土地を取り戻しました。

百濟 聖明王 釋迦佛金銅像と経論を献ず 西暦552年 参考資料

聖明王に寄る仏教伝来です。蘇我大臣稻目は賛成し、物部尾輿と中臣鎌子は反対しています。

●『日本書紀』巻十九欽明天皇十三年(五五二)十月◆冬十月。百濟聖明王〈更名聖王。〉遣西部姫氏達率怒■斯致契等。獻釋迦佛金銅像一躯。幡盖若干・經論若干卷。別表讃流通禮拜功徳云。是法於諸法中最爲殊勝。難解難入。周公。孔子尚不能知。此法能生無量無邊福徳果報。乃至成辨無上菩提。譬如人懷隨意寶。逐所須用。盡依情。此妙法寶亦復然。祈願依情無所乏。且夫遠自天竺。爰■三韓。依教奉持。無不尊敬。由是百濟王臣明謹遣陪臣怒■斯致契。奉傳帝國。流通畿内。果佛所記我法東流。

▼是日。天皇聞已歡喜踊躍。詔使者云。朕從昔來未曾得聞如是微妙之法。然朕不自决。乃歴問群臣曰。西蕃獻佛相貌端嚴。全未曾看。可禮以不。蘇我大臣稻目宿禰奏曰。西蕃諸國一皆禮之。豐秋日本豈獨背也。物部大連尾輿中臣連鎌子同奏曰。我國家之王天下者。恒以天地社稷百八十神。春夏秋冬祭拜爲事。方今改拜蕃神。恐致國神之怒。天皇曰。宜付情願人稻目宿禰。試令禮拜。大臣跪受而忻悦安置小墾田家。懃脩出世業爲因。淨捨向原家爲寺。』於後國行疫氣。民致夭殘。久而愈多。不能治療。物部大連尾輿。中臣連鎌子同奏曰。昔日不須臣計致斯病死。今不遠而復。必當有慶。宜早投弃。

百済の第27代の王 威徳王 在位 西暦554年〜598年 参考資料

威徳王(いとくおう、526年? - 598年12月)は、百済の第27代の王(在位:554年 - 598年)。先代の聖王の長子。
諱は『三国史記』百済本紀・威徳王紀では昌、『三国遺事』王暦では高、または明。554年7月に先王が戦死したので王位についた。『日本書紀』によれば、生年は526年頃と推測され、聖王の死後すぐには即位せず557年3月に即位したとされる。『隋書』などには余昌と記される。

百濟 聖明王 新羅により既に死す 西暦555年 参考資料

★『日本書紀』巻十九欽明天皇十六年(五五五)二月◆十六年春二月。百濟王子餘昌遣王子惠〈王子惠者。威徳王之弟也。〉奏曰。聖明王爲賊見殺。〈十五年爲新羅所殺。故今奏之。〉天皇聞而傷恨。廼遣使者迎津慰問。於是許勢臣問王子惠曰。爲當欲留此間。爲當欲向本郷。惠答曰。依憑天皇之徳。冀報考王之讎。若垂哀憐多賜兵革。雪垢復讎。臣之願也。臣之去留敢不唯命是從。俄而蘇我臣問訊曰。聖王妙達天道地理。名流四表八方。意謂。永保安寧。統領海西蕃國。千年萬歳奉事天皇。豈圖一旦眇然昇遐。與水無歸即安玄室。何痛之酷。何悲之哀。凡在含情誰不傷悼。當復何咎致茲禍也。今復何術用鎭國家。惠報答之曰。臣禀性愚蒙不知大計。何况禍福所倚。國家存亡者乎。蘇我卿曰。昔在天皇大泊瀬之世。汝國爲高麗所逼。危甚累卵。於是天皇命神祇伯。敬受策於神祇。祝者廼託神語報曰。屈請建邦之神。徃救將亡之主。必當國家謐靖。人物乂安。由是請神徃救。所以社稷安寧。原夫建邦神者。天地株判之代。草木言語之時。自天降來造立國家之神也。頃聞。汝國輟而不祀。方今悛悔前過。脩理神宮奉祭神靈國可昌盛。汝當莫忘。

百濟王子餘昌嗣立。是爲威徳王 西暦557年 参考資料

★『日本書紀』巻十九欽明天皇十八年(五五七)三月庚子朔◆十八年春三月庚子朔。百濟王子餘昌嗣立。是爲威徳王

大阪府 今城塚古墳 (大阪府高槻市) 西暦560年〜590年 参考資料

今城塚古墳(大阪府高槻市、真の継体陵、墳丘長190メートル)
今城塚古墳(いましろづかこふん)は、大阪府高槻市郡家新町(ぐんげしんまち)にある前方後円墳。国の史跡に指定されている。造営時の6世紀前半では最大級の古墳である。宮内庁の治定は受けていないが第26代継体天皇の真の陵とする説が有力で、発掘調査が可能な大王陵になる。

大阪市 河内大塚山古墳 (大阪市松原市) 西暦560年〜590年 参考資料

河内大塚山古墳(大阪市松原市、墳丘長335メートル)
大塚山古墳(おおつかやまこふん)は、大阪府羽曳野市・松原市にある古墳。形状は前方後円墳。
実際の被葬者は明らかでないが、宮内庁により「大塚陵墓参考地」(被葬候補者:第21代雄略天皇)として陵墓参考地に治定されている。全国で大仙陵古墳(大阪府堺市)、誉田御廟山古墳(大阪府羽曳野市)、上石津ミサンザイ古墳(大阪府堺市)、造山古墳(岡山県岡山市)に次ぐ第5位の規模の巨大古墳である。

大阪府 敏達天皇陵古墳 (太子西山古墳/奥城古墳)

 (大阪府南河内郡太子町)

西暦560年〜590年 参考資料

敏達陵古墳(びだつりょうこふん、全長100メートル未満、大王陵最後の前方後円墳)
第30代敏達天皇は、572年に即位され、死後、母君の石姫皇后の墓である磯長の陵に葬られたと『日本書紀』は記しています。敏達天皇陵は全長約93メートルの磯長谷では唯一の前方後円墳で、周囲には空濠を巡らせています。内部については全くわかりませんが、横穴式石室が採用されていると考えられています。また周辺から埴輪が採集され、これらから古墳時代の後期前半に築造されたと考えられています。

鳥取県 石馬(石馬谷古墳出土) (鳥取県米子市) 西暦560年〜590年 参考資料

新大山から産出される角閃石安山岩の一石から馬全体をけずりだして作られた石製の馬です。体長は約150センチメートル、高さは約90センチメートルを測ります。前脚は失われ、胴体と後脚は補修接合されていますが、たてがみや面長な顔などの馬の特徴や、鞍(くら)や手綱(たづな)、鐙(あぶみ)などの馬具が装着されている様子が、彫刻によって細かく表現されています。また、体の一部には赤い顔料の痕跡がみられ、過去には馬全体が赤色に塗られていた可能性も指摘されています。昭和34年に国の重要文化財に指定され、現在は上淀集落にある天神垣(あめのかみがき)神社内で大切に保管されています。
石馬谷古墳は、全長約61メートルの前方後円墳で、向山古墳群を造営した歴代豪族リーダーの墓の一つと考えられています。石馬は、もとはこの古墳の上に立てられていたと推定されていて、製作年代は石馬谷古墳が造られた6世紀後半、古墳時代後期と考えられています。

任那滅ぶ (日本書紀) 西暦562年  

★『日本書紀』巻十九欽明天皇二三年(五六二)正月◆廿三年春正月。新羅打滅任那官家。〈一本云。廿一年任那滅焉。忽言任那。別言加羅國。安羅國。斯二岐國。多羅國。卒麻國。古嗟國。子他國。散半下國。乞■國。稔禮國。合十國。〉

訳:新羅は任那の官家(ミヤケ=直轄地)を打ち滅ぼす。(ある本によると21年に滅んだといいます。全てを任那といい、細かく別けると加羅国・安羅国・斯二岐国・多羅国・卒麻国・古嗟国・子他国・散半下国・乞■国・稔礼国といいます。合わせて10国)

高麗人が筑紫に入って帰化 (日本書紀) 西暦565年  

★『日本書紀』巻十九欽明天皇二六年(五六五)五月◆廿六年夏五月。高麗人頭高麗人頭霧唎耶陛投化於筑紫。置山背國。今畝原。奈羅。山村高麗人之先祖也。
高麗人の頭霧唎耶陛(ズムリヤヘ)たちが筑紫に入って帰化して、山背国(ヤマシロノクニ)に置かれた。今の畝原(ウネハラ)・奈羅(ナラ)・山村(ヤマムラ)の高麗人の先祖。

蘇我稻目薨去 (日本書紀) 西暦570年  

★『日本書紀』巻十九欽明天皇三一年(五七〇)三月甲申朔◆卅一年春三月甲申朔。蘇我大臣稻目宿禰薨

福岡県 庚寅銘大刀 (元岡古墳出土) (福岡県福岡市) 西暦570年 参考資料

福岡市西区の元岡古墳群から出土した金象嵌銘のある大刀。古墳から出土した金象嵌銘の大刀としては国内3例目という。長さは74センチ、刀身背面には古墳時代の570年に作られたとする19文字の銘文が刻まれている。
銘文は以下の 19 文字です。干支の年号と日付の記載があり、西暦 570 年製造の可能性が高いと考えられます。「大歳庚寅正月六日庚寅日時作刀凡十二果□」

欽明天皇の遺言 (日本書紀) 西暦571年  

●『日本書紀』巻十九欽明天皇三二年(五七一)四月壬辰《十五》◆夏四月戊寅朔壬辰。天皇寢疾不豫。皇太子向外不在。騨馬召到。引入臥内。執其手詔曰。朕疾甚。以後事屬汝。汝須打新羅。封建任那。更造夫婦。惟如舊曰。死無恨之。

「朕(ワレ)は病気が重い。後の事をお前に引き継がせよう。お前は新羅を打ち、任那を再建するべきだ。また任那と夫婦となって、昔のようになれば、死んでも恨むことは無いだろう」

●『日本書紀』巻十九欽明天皇三二年(五七一)九月◆九月。葬于桧隈坂合陵

厩戸王(聖徳太子)の誕生 (日本書紀) 西暦574年 参考資料

敏達天皇3年1月1日(574年2月7日) - 推古天皇30年2月22日(622年4月8日)・厩戸皇子は、飛鳥時代の皇族・政治家。「聖徳太子」はその時の名前ではなく、後世の諡号。用明天皇の第二皇子、母は欽明天皇の皇女・穴穂部間人皇女。 推古天皇のもと、蘇我馬子と協調して政治を行い、国際的緊張のなかで遣隋使を派遣するなど進んでいる中国の文化・制度を学び冠位十二階や十七条憲法を定めるなど天皇を中心とした中央集権国家体制の確立を図った他、仏教を取り入れ神道とともに厚く信仰し興隆につとめた。

福岡県 船原古墳 (福岡県古賀市) 西暦580年〜620年 参考資料

船原古墳(ふなばるこふん)は、福岡県古賀市にある古墳。2016年(平成28年)10月3日に古賀市では初となる国の史跡に指定された。
現存長37.4mの6世紀末から7世紀初頭に属する横穴式石室を有する前方後円墳である。1号土坑からは,馬冑(ばちゅう)をはじめとした朝鮮半島系の金銅製の馬具が豊富で,武具・武器とともに総数500点以上の遺物が一部は箱に収納して埋納されていたと考えられる。これら埋納土坑群から出土する土器は,古墳の周溝から出土する土器と接合することから,埋納土坑群は古墳に確実に伴うものであり,当該期の葬送儀礼の実態解明に繋がる可能性が高い。また当該期は,九州北部で前方後円墳が終焉する時期であることから前方後円墳の終焉状況を考える上でも重要であり,さらに,これまで空白地帯とされてきた宗像(むなかた)地域と福岡平野の中間地帯である当該地において,朝鮮半島や大和政権との関係性を有する前方後円墳が出現する意義も含め,この古墳は日本列島の当該期の政治状況や社会を考える上で極めて重要である。

中国 隋時代(581年 - 618年)   

西暦581年〜618年 参考資料

隋の文帝は、均田制・租庸調制・府兵制などを進め、中央集権化を目指した。また同時に九品中正法を廃止し、試験によって実力を測る科挙を採用した。しかし、文帝の後を継いだ煬帝は江南・華北を結ぶ大運河を建設したり、度重なる遠征を行ったために財政が逼迫し、民衆の負担が増大した。三回目の高句麗遠征に合わせて農民反乱が起き、618年に隋は滅亡した。日本の聖徳太子から遣隋使(小野妹子)が送られた。