飛鳥時代 (推古天皇~文武天皇)

西暦592年~707年 参考資料    参考資料2 

中国 隋時代(581年 - 618年)   

西暦581年~618年 参考資料

隋の文帝は、均田制・租庸調制・府兵制などを進め、中央集権化を目指した。また同時に九品中正法を廃止し、試験によって実力を測る科挙を採用した。しかし、文帝の後を継いだ煬帝は江南・華北を結ぶ大運河を建設したり、度重なる遠征を行ったために財政が逼迫し、民衆の負担が増大した。三回目の高句麗遠征に合わせて農民反乱が起き、618年に隋は滅亡した。日本の聖徳太子から遣隋使(小野妹子)が送られた。

推古天皇

在位:西暦592年~628年 参考資料

豊御食炊屋姫天皇

崇峻天皇5年(592年)12月8日 - 推古天皇36年(628年)3月7日

百済の第28代の王 恵王 在位 西暦598年~599年 参考資料

恵王(けいおう、? - 599年)は、百済の第28代の王(在位:598年 - 599年)。 第26代聖王の次男。諱は季。598年12月に威徳王の死去を受けて即位した。『三国史記』では即位と在位2年目(599年)に死去して恵王と諡されたことを記すのみである。 『隋書』百済伝には「昌死、子余宣立、死、子余璋立。」とあり、昌(威徳王)の子の宣(法王)、その子の璋(武王)という系譜を記しており、恵王の存在は認識されていないようである。『日本書紀』には欽明天皇16年(555年)2月に聖明王(聖王)が亡くなったことを知らせるために威徳王が送った使者として恵の名で現れ、威徳王の弟であることを記している。『三国遺事』では威徳王の子とし、別名として献王という。

百済の第29代の王 法王 在位 西暦599年~600年 参考資料

恵王(けいおう、? - 599年)は、百済の第28代の王(在位:598年 - 599年)。 第26代聖王の次男。諱は季。598年12月に威徳王の死去を受けて即位した。『三国史記』では即位と在位2年目(599年)に死去して恵王と諡されたことを記すのみである。 『隋書』百済伝には「昌死、子余宣立、死、子余璋立。」とあり、昌(威徳王)の子の宣(法王)、その子の璋(武王)という系譜を記しており、恵王の存在は認識されていないようである。『日本書紀』には欽明天皇16年(555年)2月に聖明王(聖王)が亡くなったことを知らせるために威徳王が送った使者として恵の名で現れ、威徳王の弟であることを記している。『三国遺事』では威徳王の子とし、別名として献王という。

青森県 阿光坊古墳群 (青森県上北郡おいらせ町)

西暦600年~900年 参考資料

阿光坊古墳群(あこうぼうこふんぐん)は、青森県上北郡おいらせ町にある古墳群。国の史跡。 本古墳群は、阿光坊遺跡、天神山遺跡、十三森遺跡で構成されており、その総称である。 この古墳群一帯は、昔から「十三森」と呼ばれて中世の武者の墓という伝承があり、大刀・土師器・蕨手刀・勾玉などが農作業中に見つかっていた。 1986年(昭和61年)4月に、勾玉が発見されて、翌年発掘調査が行われ、さらに1989年(平成元年)から1990年(平成2年)に本格的発掘調査が行われた。7世紀前半まで溯る11号墳や県内最初となる平瓦の出土の成果が見られた。発掘では、刀、玉類、装身具、馬具、農工具などが出土した。 その後1999年(平成11年)から遺跡の範囲確認調査・測量調査・発掘調査が行われ、7世紀前半から9世紀末にかけて造られた、108基の末期古墳と8基の土坑墓が見つかっている。 古墳の大きさは、直径10メートル前後、高さ1.1メートル程度で、古代に蝦夷と呼ばれた人達の、集団長の墓と見られている。 平成19年(2007年)7月29日に、国の史跡に指定された。

大阪府 春日向山古墳(現用明天皇陵)

(大阪府南河内郡太子町)

西暦600年~630年 参考資料

春日向山古墳(大阪府南河内郡太子町磯長谷古墳群、現用明天皇陵、63×60メートルの方墳) 春日向山古墳(かすがむかいやまこふん)は、大阪府南河内郡太子町大字春日にある古墳。形状は方墳。磯長谷古墳群を構成する古墳の1つ。 実際の被葬者は明らかでないが、宮内庁により「河内磯長原陵(こうちのしながのはらのみささぎ)」として第31代用明天皇の陵に治定されている。築造時期 7世紀前半

第一回遣隋使 (隋書)

西暦600年 参考資料

この派遣第一回 開皇20年(600年)は、『日本書紀』に記載はない。『隋書』「東夷傳俀國傳」は高祖文帝の問いに遣使が答えた様子を載せている。

開皇二十年、俀王、姓は阿毎、字は多利思北孤、阿輩雞弥と号(な)づく。使いを遣わして闕(けつ)に詣(いた)る。上、所司(しょし)をしてその風俗を問わしむ。使者言う、俀王は天を以て兄と為し、日を以て弟と為す。天未(いま)だ明けざる時、出でて政(まつりごと)を聴く。日出ずれば、すなわち理務を停(とど)めて云う、我が弟に委(ゆだ)ぬと。高祖曰く、此れ大いに義理なし。是に於て訓(おし)えて之を改めしむ。
俀王(通説では俀は倭の誤りとする)姓の阿毎はアメ、多利思北孤(通説では北は比の誤りで、多利思比孤とする)はタラシヒコ、つまりアメタラシヒコで、天より垂下した彦(天に出自をもつ尊い男)の意とされる。阿輩雞弥はオホキミで、大王とされる。『新唐書』では、用明天皇が多利思比孤であるとしている[1]。
開皇20年は、推古天皇8年にあたる。この時派遣された使者に対し、高祖は所司を通じて俀國の風俗を尋ねさせた。使者は俀王を「姓阿毎 字多利思北孤」号を「阿輩雞彌」と云うと述べている。ところが、高祖からみると、俀國の政治のあり方が納得できず、道理に反したものに思えたのであろう。そこで改めるよう訓令したというのである。

群馬県 埴輪武装男子半身像

(群馬県佐波郡赤堀村大字下触古墳出土)

西暦600年 参考資料

武装した男子の半身像で、円筒の上におかれている。衝角付の冑を被っている。冑の両側に上方に立ち上がる付属具が表現されており、頬当を反転したものと考えられる。頸には丸玉をつないだ飾が表現され、頸の両側には美豆良に結った髪が肩までのびている。身には挂甲を着け、大刀を佩いている。右手を柄に、左手を鞘にあて、口を真一文字に結んだ姿はまさに抜刀しようとするかのごとくである。武人の姿を示す埴輪として優れたものである。(高さ81cm、古墳時代の600年頃に作られたとみられる)

高知県 金銅荘環頭大刀拵・大刀身(小村神社)

(高知県高岡郡日高村)

西暦600年~630年 参考資料

金銅荘環頭大刀拵・大刀身(工芸品) 「こんどうそうかんとうたちごしらえ・たちのみ」。古墳時代末期(飛鳥時代)の7世紀前半に作られた、直刀(反りのない片刃の刀)とその外装である(装飾付大刀)。柄(つか)と鞘は金銅(銅に鍍金)の板で包み(金銅荘)、柄の先端部に「環頭」と称される金銅製透彫の装飾を付す。刀身は正倉院の大刀に見られるような切刃造の直刀である。この種の上古刀の現存品はほとんどが古墳等からの出土品であるが、本品は伝世品である点で貴重であり、日本刀剣史上重要な作品とされる。 この大刀が小村神社で祀られるようになった確かな由来は不明であるが、『南路志』に「神体剣」と見えるように古来神体として本殿奥深くに祀られていた。1955年(昭和30年)の国の調査で詳細が判明し、1956年(昭和31年)6月28日に国の重要文化財に、1958年(昭和33年)2月8日に国宝に指定された。 現在、実物は他の宝物とともに11月15日の秋季大祭時にのみ公開される。2014年(平成26年)には大刀の複製品が作製され、日高村役場内に展示されている。

広島県 二子塚古墳 (広島県福山市) 

西暦600年~630年 参考資料

二子塚古墳(ふたごづかこふん)は、広島県福山市駅家町中島にある古墳。形状は前方後円墳。国の史跡に指定されている。以前から知られていた後円部の大型の横穴式石室が調査され、金銅装双龍環頭柄頭などさまざまな遺物が出土している。築造時期 7世紀初頭 石室内はかなり攪乱されており、原位置を保つ遺物は少なかったが、それでも相当量の遺物が検出されている。それらには、金銅双龍環頭柄頭、鉄刀、鉄矛、鉄鏃などの武器類、楕円形杏葉や鞍金具などの馬具類、鉄釘、刀子がある。

奈良県 石舞台古墳 (奈良県高市郡明日香村)

西暦600年~630年 参考資料

石舞台古墳(奈良県高市郡明日香村島庄、蘇我馬子の墓と推測、一辺約50mの方墳、全長19.1mの横穴式石室)築造時期 7世紀初頭

被葬者は蘇我馬子であったとする説が有力である。『日本書紀』の推古天皇34年(626年)5五月の条に「大臣薨せぬ。仍りて桃原墓に葬る」とあり、大臣は、蘇我馬子を指している[3]。封土が剥がされ、墓が暴かれたのは、蘇我氏に対する懲罰ではなかったかとする説もある。

百済の第30代の王 武王 在位 西暦600年~641年 参考資料

武王(ぶおう、580年? - 641年)は、百済の第30代の王(在位:600年 - 641年)。 第29代法王の子。諱は璋、『三国遺事』王暦には武康、献丙の別名が伝わっている。『隋書』には余璋の名で現れる。

福岡県 宮地嶽古墳(福岡県福津市)

西暦600年~700年 参考資料

宮地嶽古墳(みやじだけこふん)は、宮地嶽大塚ともいい、福岡県福津市に所在する古墳時代終末期の円墳である。「津屋崎古墳群」の一つとして国の史跡に指定されている。 本古墳は宮地嶽神社境内にあり、宮司・手光にある他の古墳と同様に7世紀の築造と推定される。墳丘形状は大型の円墳で、直径は34メートル、横穴式石室の長さが約22メートルもある。今日内部を見学できる横穴式石室としては最大のものである。この石室に使用されている石材(玄武岩)は、玄界灘の相島から船によって運ばれたと推定されている。現在知られている古墳時代の横穴式石室で日本最大のものは、奈良県橿原市にある巨大古墳見瀬丸山古墳(五条野丸山古墳)のもの(全長約28メートル)であるが、これは宮内庁管理の陵墓参考地に含まれており、非公開とされている。巨石墳として有名な奈良県明日香村の石舞台古墳でさえ約20メートルである。 金銅製馬具類、金銅荘頭椎大刀(かぶつちのたち、長さ3メートルを超える大大刀である)、長方形緑瑠璃板(ガラス板)などの出土品が一括して国宝に指定されている(宮地嶽神社所有、九州国立博物館に寄託)。終末期古墳として最も豪華な副葬品である。

奈良県 法隆寺建立 (奈良県斑鳩町)

西暦607年 参考資料

法隆寺(ほうりゅうじ)は、奈良県生駒郡斑鳩町にある寺院。聖徳宗の総本山である。別名は斑鳩寺(いかるがでら、鵤寺とも)、法隆学問寺など。 法隆寺は7世紀に創建され、古代寺院の姿を現在に伝える仏教施設であり、聖徳太子ゆかりの寺院である。創建は金堂薬師如来像光背銘、『上宮聖徳法王帝説』から推古15年(607年)とされる。金堂、五重塔を中心とする西院伽藍と、夢殿を中心とした東院伽藍に分けられる。境内の広さは約18万7千平方メートルで、西院伽藍は現存する世界最古の木造建築物群である。 

兵庫県 「戊辰年五月□」銘鉄刀(箕谷2号墳出土)

 (兵庫県養父市)

西暦608 参考資料

1984年(昭和59年)兵庫県養父市八鹿町(ようかちょう)小山の箕谷2号墳から鉄刀が出土した。現存長68センチメートルほどの鉄刀の佩裏(はきうら)に「戊辰年五月□」の銅象嵌で記されている文字が見つかった。おそらくこの刀が造られた年紀と考えられる。この「戊辰(ぼしん)年」は、西暦608年と推定されている。 

隋が文林郎裴清を倭国へ使者として送る (百済本紀)

西暦608 参考資料

608年 隋が文林郎裴清を倭国へ使者として送ったが、わが国の南路を経由した。

中国 唐時代

西暦618年~907年 参考資料

隋に代わって、中国を支配したのが、唐である。唐は基本的に隋の支配システムを受け継ぎ、626年に即位した太宗は租庸調制を整備し、律令制を完成させた。唐の都の長安は、当時世界最大級の都市であり、各国の商人などが集まった。長安は、西方にはシルクロードによってイスラム帝国や東ローマ帝国などと結ばれ、ゾロアスター教・景教・マニ教をはじめとする各地の宗教が流入した。また、文化史上も唐時代の詩は最高のものとされる。

大阪府 山田高塚古墳(現推古天皇陵) 

(大阪府南河内郡太子町)

西暦628年 参考資料

山田高塚古墳(大阪府南河内郡太子町磯長谷古墳群、現推古天皇陵(628年崩御)、63×56メートルの方墳)
山田高塚古墳(やまだたかつかこふん、高松古墳<たかまつこふん>)は、大阪府南河内郡太子町山田にある古墳。形状は方墳(または長方墳)。磯長谷古墳群を構成する古墳の1つ。
実際の被葬者は明らかでないが、宮内庁により「磯長山田陵(しながのやまだのみささぎ)」および「竹田皇子墓(たけだのみこのはか)」として第33代推古天皇・竹田皇子(敏達天皇皇子)の合葬陵墓に治定されている。

舒明天皇

在位:西暦629年~641年 参考資料

息長足日広額天皇

舒明天皇元年(629年)1月4日 - 舒明天皇13年(641年)10月9日

皇極天皇

在位:西暦642年~645年 参考資料

天豊財重日足姫天皇

皇極天皇元年(642年)1月15日 - 同4年(645年)6月14日

孝徳天皇

在位:西暦645年~654年 参考資料

天万豊日天皇

皇極天皇4年(645年)6月14日 - 白雉5年(654年)10月10日

青森県 丹後平古墳群 (青森県八戸市)

西暦650年~900年 参考資料

丹後平(たんごたい)古墳群は、八戸ニュータウン内にある白山(はくさん)浄水場近くに位置します。 主に飛鳥時代から平安時代前半の円墳(えんぷん)で、未調査部分を含め100基以上の群集墳と考えられます。勾玉(まがたま)やガラス玉の玉類、錫製(すずせい)の釧(くしろ)(腕輪)、刀類など副葬品がたくさん発見されています。 首長級とされる古墳のなかには、朝鮮半島の新羅(しらぎ)で製作された「金装獅噛三塁環頭大刀柄頭(きんそうしがみさんるいかんとうたちつしがみしきさんるいかんとうたちつかがしらかがしら)」と呼ばれる黄銅製の刀の柄飾りが出土しています。 律令政治が直接及ばなかった「蝦夷(えみし)社会」を知るうえで重要な古墳群として、平成11年に国史跡に指定されました。出土品は八戸市博物館に展示されています。参考資料2

奈良県 牽牛子塚古墳 (奈良県明日香村)

西暦650年~720年 参考資料

牽牛子塚古墳(けんごしづかこふん)は、奈良県高市郡明日香村大字越にある古墳。形状は八角墳。国の史跡に指定され、出土品は国の重要文化財に指定されている。指定時には「あさがおつかこふん」の読みが付されており、「牽牛子」はアサガオの別称である。「御前塚」と呼称されることもある。2009年(平成21年)から2010年(平成22年)にかけての発掘調査によって、八角墳(八角形墳)であることが判明し、飛鳥時代の女帝で天智天皇・天武天皇の母とされる第37代斉明天皇(第35代皇極天皇)の陵である可能性が高まっている。 築造時期は、7世紀中葉-8世紀初頭 出土遺物は考古資料として極めて重要であるとして、一括して「大和国高市郡牽牛子塚古墳出土品」として国の重要文化財に指定され、指定分は奈良県立橿原考古学研究所附属博物館に保管されている。参考資料2

百済王は倭国と修交 (百済本紀)

西暦653年 参考資料

653年 秋八月、王は倭国と修交した。

斉明天皇

在位:西暦655年~661年 参考資料

天豊財重日足姫天皇

斉明天皇元年(655年)1月3日 - 同7年(661年)7月24日

扶余豊、援兵を乞う (百済本紀)

西暦662年 参考資料

662年 七月 扶余豊は、高句麗と倭国に使者を派遣して援兵を乞う。唐新羅連合軍は百済遺民軍の救援にきた倭軍の軍船400艘を白江に焼く。 百済復興は失敗に終わり、倭軍は自国へ退却、扶餘豊は行方不明となる。

倭国の水軍が来て、百済を助ける (新羅本紀)

西暦663年 参考資料

663年 倭国の水軍が来て、百済を助ける。

唐軍と倭軍が白江で会戦 (百済本紀)

西暦663年 参考資料

(663)年 唐軍と倭軍が白江で会戦したが、唐軍が大勝し、倭船400隻を焼いた。扶余豊の王子・忠勝と忠志は倭人とともに投降した。 

無文銀銭 (奈良県明日香村)

西暦667年~672年 参考資料

無文銀銭(むもんぎんせん)は、近江朝時代(667年~672年)に発行され、日本最古の貨幣といわれている私鋳銀貨。実際には地金価値で取引されたと考えられ秤量貨幣または計数貨幣とされる。江戸時代など後代にも豆板銀や丁銀等の銀の秤量貨幣が西日本では使用されている。

天智天皇

在位:西暦668年~671年 参考資料

天命開別天皇

天智天皇7年(668年)1月3日 - 同10年(671年)12月3日

倭国が国号を日本と改めた (新羅本紀)

西暦670年 参考資料

670年 十二月 倭国が国号を日本と改めた。自ら言うところでは、日の出る所に近いから、これをもって名としたとの事である。

弘文天皇

在位:西暦671年~672年 参考資料

 

天智天皇10年671年12月5日 - 天武天皇元年(672年)7月23日

天武天皇

在位:西暦673年~686年 参考資料

天渟中原瀛真人天皇

天武天皇2年(673年)2月27日 - 朱鳥元年(686年)9月9日

奈良県 キトラ古墳 (奈良県明日香村)

西暦680年~720年 参考資料

二段築成作りの円墳である。墳丘は小高い阿部山の南斜面に位置している。名称の「キトラ」は、「北浦」の転訛といわれる。1983年11月7日、石室内の彩色壁画に玄武が発見され、高松塚古墳に次いで2例目となる大陸風壁画古墳として注目を集める。1998年の探査で青龍、白虎、天文図が確認され、2001年には朱雀と十二支像が確認された。カビなどの被害が発生していたため壁画ははぎとられて保存されている。2000年7月31日、国の史跡に指定され、同年11月24日には特別史跡に指定された。築造時期 7世紀末から8世紀初め頃

富本銭 (奈良県明日香村)

西暦680年~720年 参考資料

富本銭(ふほんせん)は、683年(天武天皇12年)頃に日本でつくられたと推定される銭貨である。708年(和銅元年)に発行された和同開珎より年代は古い。この貨幣が実際に流通したのか、厭勝銭(えんしょうせん:まじない用に使われる銭)として使われたに留まったかについては学説が分かれている。 富本銭よりも前の貨幣として無文銀銭が知られている。無文銀銭・富本銭・和同開珎の関係、貨幣としての価値、流通範囲、機能などはまだ不明な点が多く、今後の研究課題である。

山田寺と丈六仏像 (奈良県桜井市

西暦685 参考資料

山田寺(やまだでら)は、奈良県桜井市山田にあった古代寺院。法号を浄土寺または華厳寺と称する。蘇我倉山田石川麻呂の発願により7世紀半ばに建て始められ、石川麻呂の自害(649年)の後に完成した。天武天皇5年(676年)に「相輪(仏塔の最上部の柱状の部分)を上げる」とあることから、この年に塔が完成したものと思われる。天武天皇7年(678年)には「丈六仏像を鋳造」とあり、同天皇14年(685年)にはその丈六仏像が開眼されている

高松塚古墳 (奈良県明日香村)

西暦680年~720年 参考資料

高松塚古墳の発掘調査は、1972年3月1日から開始された。発掘の始まったきっかけは、1970年の10月ごろ村人がショウガを貯蔵しようと穴を掘ったところ、穴の奥に古い切石が見つかったことである。地元の人達が明日香村に働きかけ、明日香村が資金を捻出し奈良県立橿原考古学研究所が発掘調査することになった。

壁画は、日月星宿図・四神図・人物図からなるが、その主題や画面構成には高句麗【こうくり】壁画との関連が考えられる。しかし人物群像に見られる奥行のある空間構成や暈取り、塗り重ねの彩色法および運筆などは、中国の新しい技法を採り入れたものと見られ、その点で唐代絵画との密接な結びつきが考えられる。なお人物図は、時世粧を写したものと見られ、わが国上代絵画の中にあって稀有なもので、貴重な遺例ということができる。制作時は七世紀末~八世紀初めが考えられる。 参考資料2

持統天皇

在位:西暦690年~697年 参考資料

大倭根子天之廣野日女尊 高天原廣野姫天皇

持統天皇4年(690年)1月1日 - 持統天皇11年(697年)8月1日

文武天皇

在位:西暦697年~707年 参考資料

倭根子豊祖父天皇 天之真宗豊祖父天皇

文武天皇元年(697年)8月1日 - 慶雲4年(707年)6月15日

日本国から使臣が来た (新羅本紀)

西暦698 参考資料

698年 三月に日本国から使臣が来たので、王は崇礼殿で引見した。

奈良県 本薬師寺完成 (奈良県橿原市)

西暦698 参考資料

本薬師寺(もとやくしじ)は、奈良県橿原市の東南に位置する藤原京の薬師寺と呼ばれた寺院。後に持統天皇となる皇后の病気平癒を祈って天武天皇が建立を誓願した官寺である。平城京遷都で薬師寺が西ノ京に移ると、西ノ京の「薬師寺」と区別するために「本薬師寺」と称されるようになった。本薬師寺は「元薬師寺」とも記されるほか、平城京に造営された薬師寺(平城京薬師寺)に対して、「藤原京薬師寺」などとも呼ばれる。これまでの発掘調査により、およそ11世紀初頭まで存続していたことが認められている。文武天皇2年(698年)にほぼ完成したといわれる。

日本国から使臣が来た (新羅本紀)

西暦703 参考資料

703年 日本国から使臣が来たが、みんなで二百四名であった。。

和同開珎 (奈良県明日香村)

西暦708 参考資料

a??a??a??e??c??a??a?Rc?≫a??a??c´¢cμ?a??『続日本紀』巻四和銅元年(七〇八)八月己巳《庚申朔十》八月己巳。始行銅錢。

和同開珎(わどうかいちん、わどうかいほう)は、708年8月29日(和銅元年8月10日)に、日本で鋳造・発行された銭貨である。日本で最初の流通貨幣と言われる。皇朝十二銭の1番目にあたる。