奥さんがお休みだったんで一緒に自宅から法隆寺まで往復ハイキング。夢殿で救世観音が拝観できるということで それが目的です。10時に出て帰宅は17時、足パンパンです
西院伽藍も見学、あいにく 中門は修復中でしたが、世界遺産の建物、堪能させてもらいました
国宝「法隆寺南大門 」
法隆寺の国宝
法隆寺 | 法隆寺南大門 | ![]() |
この門は平面寸法が『資財帳』の仏門の一つとほぼ一致し、当初の規模を踏襲すると思われるが、同じ八脚門形式の東大門と比べると、屋根は入母屋造とし、全体に天井を張り、組物もにぎやかな出組で、中備に花肘木を用いるなど、はなやかさを加えた中世的特色をよく示す建築で、装飾的細部が効果的に用いられ、室町時代の遺構のなかでは特に秀作の一つにあげられる | ウィキペディア | 20100418 斑鳩 散歩 (法隆寺) |
法隆寺 | 法隆寺中門 | ![]() |
法隆寺の南大門を入ると正面にみえる二重門が中門で、左右には廻廊が連なり、廻廊内には右に金堂、左に五重塔がそびえる。これらはいずれも木造としては世界最古の現存建造物であり、法隆寺西院伽藍ならではの景観を呈する。 中門は初重・二重とも、正面を四間、側面を三間に分かつ特殊な平面をもつ。太くて胴張りのある柱、雲斗雲肘木によって構成される組物、高欄の卍崩しの組子、人字形割束など、飛鳥建築の特徴とされるものによる構成が力強く、美しい。 | 法隆寺の国宝建築 | 20100418 斑鳩 散歩 (法隆寺) |
法隆寺 | 法隆寺金堂 | ![]() |
天智9年(670)の火災後に建立された法隆寺西院伽藍の中心建物で、中門・廻廊に囲まれたなかに、東に南面する金堂、西に五重塔が並んで建つ。金堂は、二重基壇上に建ち、ふくらみのある丸柱や組物に用いる雲斗雲肘木、人字形割束や卍崩しの高欄など独特の建築様式をもつ。内部は土築の仏壇を構え、本尊釈迦三尊像以下を安置する。世界最古の木造建造物で、全体の均衡もきわめてよい名建築である。 | ウィキペディア | 20100418 斑鳩 散歩 (法隆寺) |
法隆寺 | 法隆寺五重塔 | ![]() |
五重塔は安定した美しい外観をもつ最古の木造塔で、金堂にひきつづいて七世紀末に建立されたものと思われる。二重基壇上に建ち、組物は金堂同様の雲斗雲肘木、軒も金堂同様の一軒角垂木で、独特の様式をもつ。心柱は地中に心礎を据えて掘立柱とし、初重の四天柱をつつみこんで塑像の須弥山を構え、天井板には蓮花文を画く。二重以上は柱盤の上に短い丸柱を立て、順次積上げ、五重は柱間を二間とする。金堂などとともに飛鳥様式を色濃く伝えるものと考えられ、洗練された意匠になる名塔である | ウィキペディア | 20100418 斑鳩 散歩 (法隆寺) |
法隆寺 | 法隆寺廻廊 2棟 東廻廊 | ![]() |
法隆寺中門の両端を起点とする廻廊は、金堂・五重塔を囲み、経蔵・鐘楼を含めつつ大講堂まで達する。このうち当初部分は金堂・五重塔背後の屈折点までで、もとはここで東西に連結されて北面を閉ざしていた。現状のように拡張されたのは平安時代中期とみられる | ウィキペディア | 20100418 斑鳩 散歩 (法隆寺) |
法隆寺 | 法隆寺廻廊 2棟 西廻廊 | ![]() |
法隆寺中門の両端を起点とする廻廊は、金堂・五重塔を囲み、経蔵・鐘楼を含めつつ大講堂まで達する。このうち当初部分は金堂・五重塔背後の屈折点までで、もとはここで東西に連結されて北面を閉ざしていた。現状のように拡張されたのは平安時代中期とみられる | ウィキペディア | 20100418 斑鳩 散歩 (法隆寺) |
法隆寺 | 法隆寺経蔵 | ![]() |
法隆寺の西廻廊が五重塔背後で屈折し、大講堂に向かうその中間地点に位置する。天平様式を基調とすることから奈良時代の建築とみられ、現存する楼造の建物のなかでは最も古い遺構である。一階を高く二階を低くする上下のバランスもよく、簡素な切妻造の屋根と、二階床高さにまわる縁・高欄が全体をひきしめる役目をになっている。部分的に後補の材もまじるが、奈良時代の楼造建築を考えるうえではかけがえのない作例である | ウィキペディア | 20100418 斑鳩 散歩 (法隆寺) |
法隆寺 | 法隆寺鐘楼 | ![]() |
大講堂の前方東脇に、経蔵と相対して建つ。奈良時代創建の鐘楼は延長三年(九二五)に講堂とともに焼失し、現建物は十世紀おわりごろに再建された。再建にあたっては旧規模を踏襲し、それまで回廊外にあって独立していたが、北回廊が大講堂まで延長したので、鐘楼・経蔵ともに回廊の中間に建つことになった。鐘楼は平安時代の楼造の唯一の遺構であり、経蔵と同形式ながらも、やや軽快さに欠けて時代さを示している | ウィキペディア | 20100418 斑鳩 散歩 (法隆寺) |
法隆寺 | 法隆寺大講堂 | ![]() |
金堂、塔の中央後方に離れて建つ大建築で、金堂よりもはるかに大きい。現在両脇に回廊が取りついているが、もとは北回廊は金堂・塔を囲んで南方で閉じられ、創建堂の両脇には東西棟の北僧房が建てられていた | ウィキペディア | 20100418 斑鳩 散歩 (法隆寺) |
法隆寺 | 法隆寺綱封蔵 | ![]() |
平面は桁行九間、梁間三間を方三間ずつ三区に分け、南北両区を倉にして中央部は吹抜けとする。内部は大梁上に二重梁を組み、束で棟木をうけ、化粧屋根裏とする。双倉として現存する例は東大寺正倉院宝庫とこの綱封蔵の二棟だが、綱封蔵のように中央を吹抜けとして、吹抜け部分に向かって扉を開く形式こそ本来の双倉の姿であり、その唯一の資料である | ウィキペディア | 20100418 斑鳩 散歩 (法隆寺) |
法隆寺 | 法隆寺食堂及び細殿食堂 | ![]() |
食堂は、法会が行われるさい、その儀式の一部として多数の僧侶が会食する場である。現食堂は『資財帳』中の政屋の一棟を平安時代の初めごろ改造転用したものとみられる | ウィキペディア | 20100418 斑鳩 散歩 (法隆寺) |
法隆寺 | 法隆寺聖霊院 | ![]() |
聖霊院は聖徳太子をまつる仏堂として建てられたが、その平面形式や外観は、寝殿造の対屋を彷彿させるものがあり、当時の住宅を知るうえでも貴重な建築である | ウィキペディア | 20100418 斑鳩 散歩 (法隆寺) |
法隆寺 | 法隆寺東大門 | ![]() |
法隆寺西院伽藍の東面築地に開く門で、これを抜けさらに東に進むと、夢殿を中心とする東院伽藍に達する。昭和九年に行われた解体修理のさい、部材から多くの番付墨書が発見され、それでみるともともとはおそらく南面していた門で、平安時代末ごろ現在地に移築されたことがされたことがわかった | ウィキペディア | 20100418 斑鳩 散歩 (法隆寺) |
法隆寺 | 法隆寺東院夢殿 | ![]() |
聖徳太子を追慕して創立された法隆寺東院の中心建物で、著名な救世観音を本尊とし、あわせて東院の創立と再興とに尽力した行信・道詮の像を安置する。この地は太子の住居であった斑鳩宮の跡地と伝えられていたが、昭和九年以降の修理工事にともなう発掘調査で、当時の掘立柱建物数棟を発見し、そのことが確認された | ウィキペディア | 20100418 斑鳩 散歩 (法隆寺) |
法隆寺 | 法隆寺三経院及び西室(1棟) | ![]() |
三経院は寝殿造の対屋を思わせる住宅風仏堂であり、西室は二間一房制の僧坊の外観をよく伝える。法骼寳シ院伽藍の西にあつて、東の聖霊院及び東室とともに上代寺院三面僧房の俤をのこす | ウィキペディア | 20100418 斑鳩 散歩 (法隆寺) |
法隆寺 | 法隆寺東室 | ![]() |
東室は伽藍中枢部にひきつづいての建立と考えられるが、礎石や柱にはさらに古い転用材が用いられ、こちらは法隆寺創建時代にまでさかのぼる可能性がある。当初の構造形式もよく解明されていて、きわめて高い価値をもつ | ウィキペディア | 20100418 斑鳩 散歩 (法隆寺) |
法隆寺 | 法隆寺西円堂 | ![]() |
法骼寞ォ内の西北隅にある八角堂で、建長二年(鎌倉時代中期)の建立になる | ウィキペディア | 20100418 斑鳩 散歩 (法隆寺) |
法隆寺 | 法隆寺東院鐘楼 | ![]() |
東院鐘楼は、伝法堂と舎利殿絵殿の中間西方の建つ袴腰付鐘楼である。『東院資財帳』にはその記載がなく、『法隆寺別当次第』に応保三年(一一六三)の建立とするのが文献上の初見である。現在の建物は鎌倉時代中期の様式を示すが、頭貫・枠肘木・扠首棹・扠首台などに応保材と思われるものがあり、柱・組物・軒など大部分の部材を取りかえて鎌倉時代に解体再建したものと考えられている | ウィキペディア | 20100418 斑鳩 散歩 (法隆寺) |
法隆寺 | 法隆寺東院伝法堂 | ![]() |
夢殿を中心仏殿とする東院伽藍の講堂にあたり、天平末年ごろ聖武天皇の夫人であった橘夫人が施入したと『資財帳』に記される。昭和一三‐一七年に行われた解体修理のさい画期的といえる徹底的な調査で、当時の高級貴族住宅の一棟を仏堂風に改め講堂にしたことがわかり、記述の確かなことが実証された | ウィキペディア | 20100418 斑鳩 散歩 (法隆寺) |
法隆寺 | 銅造釈迦如来及両脇侍像(止利作、金堂安置)(法隆寺) | ![]() |
法隆寺の本尊。聖徳太子の冥福を祈り推古天皇31年(623)に止利仏師が造立したことが光背の刻銘より知られる。一光三尊形式と呼ばれる脇侍像を取り込む大型の舟形光背をそなえ、二重の宣字座に坐す。杏仁形の目や笑みをたたえた口元に大陸の様式を濃厚にとどめる | ウィキペディア | 20160422 法隆寺 西院伽藍 |
法隆寺 | 銅造薬師如来坐像(金堂安置)(法隆寺) | ![]() |
金堂須弥壇上の東に安置される。光背銘文は推古天皇15年(607)に推古天皇と聖徳太子により造立されたとするが、これは後の追銘で、やや様式化が進んだ像の表現からみると本尊の釈迦三尊像よりも若干製作年代は遅れるものと考えられる | ウィキペディア | 20160422 法隆寺 西院伽藍 |
法隆寺 | 木造四天王立像(金堂安置)(法隆寺) | ![]() |
怒りをあらわにせず乗り物のような大型の邪鬼の上で直立する古様なスタイルの四天王像。光背に刻まれる山口大口費と同一とみられる人物が日本書紀白雉元年(650)の条にみえることから、製作年代が推定される | ウィキペディア | 20160422 法隆寺 西院伽藍 |
法隆寺 | 木造毘沙門天立像(金堂安置)(法隆寺) | ![]() |
金堂の本尊銅造釈迦三尊像(国宝)の左右に安置されている木彫像で、最勝会【さいしようえ】の本尊として承暦二年(一〇七八)につくられたことが記録によってわかる。一メートル強の小像とはいえ、このころの穏健な作風を示す代表的な名品で、保存も良く、特に全面に施された彩色や切金の各種文様は華麗を尽す | ウィキペディア | 20160422 法隆寺 西院伽藍 |
法隆寺 | 木造吉祥天立像(金堂安置)(法隆寺) | ![]() |
金堂の本尊銅造釈迦三尊像(国宝)の左右に安置されている木彫像で、最勝会【さいしようえ】の本尊として承暦二年(一〇七八)につくられたことが記録によってわかる。一メートル強の小像とはいえ、このころの穏健な作風を示す代表的な名品で、保存も良く、特に全面に施された彩色や切金の各種文様は華麗を尽す | ウィキペディア | 20160422 法隆寺 西院伽藍 |
法隆寺 | 塑造塔本四面具 78躯、2基(五重塔安置)(法隆寺) | ![]() |
五重塔初層にあらわされる塑造群。資財帳にみえる、和銅4年(711)に造られた「塔本四面具」に該当する。東は維摩文殊対問、南は弥勒浄土、西は分舎利、北は涅槃で、像は合わせて78躯を数える。小像ながら卓越した技術で各情景を巧みに表現している | ウィキペディア | 20160422 法隆寺 西院伽藍 |
法隆寺 | 木造薬師如来及両脇侍坐像(講堂安置)(法隆寺) | ![]() |
講堂の本尊で、同堂が再建された正暦元年(990)頃の作と考えられる。寄木造りの初期の段階の構造を示す。量感のある体躯は古様だが、伏目の相好や整理された衣文に和様化が認められる。光背の透彫りの意匠も装飾性が高い | ウィキペディア | 20160422 法隆寺 西院伽藍 |
法隆寺 | 銅造阿弥陀如来及両脇侍像(伝橘夫人念持仏)・木造厨子(法隆寺) | ![]() |
厨子と一具をなす金銅仏で、光明皇后の母橘夫人の念持仏と伝えられる。蓮池から伸びる3茎の蓮華上に、童顔の三尊を安置し、背後には後屏を立てるなどの技巧を凝らす。厨子に描かれた仏・菩薩・天部などの絵画も貴重である | ウィキペディア | 20160422 法隆寺 宝物館 |
法隆寺 | 銅造観音菩薩立像(夢違観音)(法隆寺) | ![]() |
悪い夢を善い夢にかえてくれることから夢違観音と呼ばれる。あどけない表情に前代の様式をとどめるが、体つきは均整がとれ、肉どりはやわらかく、衣は薄く密着するなど、より成熟した作風がうかがえる | ウィキペディア | 20160422 法隆寺 宝物館 |
法隆寺 | 木造観音菩薩立像(九面観音)(法隆寺) | ![]() |
養老3年(719)に唐から将来された像と考えられ、白檀の一材より頭上面から台座はもちろん耳飾りや数珠までも彫出する。通常の十一面観音に比べ、慈悲面・瞋怒面・牙上出面が各々1面少ない。堅実な作風と卓越した彫技を示す檀像の代表作 | ウィキペディア | 20160422 法隆寺 宝物館 |
法隆寺 | 木造観音菩薩立像(百済観音)(法隆寺) | ![]() |
水瓶をつまんで立つ細身の姿が印象的な像。百済国伝来との伝承があるが、クスの一木造りになる飛鳥時代の作。金銅透彫りの宝冠や、宝珠形の光背と竹をかたどった支柱、五角形の台座も当初のものを伝える | ウィキペディア | 20160422 法隆寺 宝物館 |
法隆寺 | 木造地蔵菩薩立像(法隆寺) | 台座の蓮肉を含み1材から彫出する一木造りの像。ひきしまった面相、はりのある肉取り、明瞭に刻まれた衣文に平安初期彫刻の特色が看取される。地蔵菩薩像の最古例の一作であり、錫杖や宝珠を持たないのも初期の姿をあらわしている。大御輪寺伝来 | ウィキペディア | 20160422 法隆寺 宝物館 | |
法隆寺 | 木造観音菩薩立像(救世観音、夢殿安置)(法隆寺) |
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救世観音の名で知られる夢殿の本尊。聖徳太子等身の像と伝えられ、ながく秘仏であったために保存がよい。止利仏師作の金堂釈迦三尊の脇侍に通じる姿で、杏仁形の目や笑みをたたえたような口元も共通する。瑠璃珠を飾る宝冠も貴重である | ウィキペディア | 20160422 法隆寺 夢殿 |
法隆寺 | 乾漆行信僧都坐像(所在夢殿)(法隆寺) | 行信は天平11年(739)に夢殿を造営するなど法隆寺の興隆につくした傑僧。脱活乾漆の技法になる等身大の像で、鑑真像と並ぶ我が国の肖像彫刻の古例。吊りあがった目や大きな耳など、像主の個性を誇張して表現している | ウィキペディア | 20160422 法隆寺 夢殿 | |
法隆寺 | 塑造道詮律師坐像(所在夢殿)(法隆寺) | ![]() |
道詮は荒廃した夢殿を貞観元年(859)から3ヵ年をかけて復興した僧。像の製作年代もその頃と推定される。木彫が全盛である平安時代初期の珍しい塑造の作例。老齢の相を巧みに表現する | ウィキペディア | 20160422 法隆寺 夢殿 |
法隆寺 | 玉虫厨子(法隆寺) | ![]() |
主尊の安置と荘厳が一体化した信仰の結晶である。図案的構成や、細部の技法などに中国六朝時代の遺品に通じる部分があり、飛鳥時代の様式を示す、建築や木工、金工、漆工等の総合製作で、それぞれの優れた技法が渾然と融合された最も傑出した遺品である | ウィキペディア | 20160422 法隆寺 宝物館 |
法隆寺 | 木造釈迦如来及両脇侍坐像(上堂安置)(法隆寺) | ![]() |
上堂の本尊。寄木造の平安時代中期の作で、製作年代は不明ながら、正暦元年(990)頃の作になる同寺講堂の本尊よりも剛健で古様な作風を示し、裳懸宣字座の台座なども古式である | ウィキペディア | |
法隆寺 | 乾漆薬師如来坐像(西円堂安置)(法隆寺) | ![]() |
西円堂の本尊。唐招提寺の盧舎那仏と並ぶ脱活乾漆造の巨像で、見開いた目や豊かな肉付けに特色がある。千仏と七仏薬師をあらわす光背は鎌倉時代のものだが、八角形の装飾性豊かな裳懸座は当初のものを伝える | ウィキペディア | |
法隆寺 | 木造聖徳太子及び侍者(山背王・殖栗王・卒末呂王・恵慈法師)坐像 5躯(聖霊院安置)(法隆寺) | ![]() ![]() ![]() ![]() ![]() |
45歳の太子が勝鬘経を講じた時の姿で、4人の侍者を随える。保安2年(1121)、聖霊院再興の時に新造された。秘仏であるため截金を交えた彩色文様がよく残る。まなじりを上げた太子の表情は緊張感があり、大づかみながら洗練された作風を示す | ウィキペディア | |
法隆寺 | 黒漆螺鈿卓(法隆寺) | 聖霊院に伝わる前机で、長い鷺脚を持つ繊細な姿形につくる。総体黒漆塗とし、蝶や唐草などの文様を螺鈿であらわし、要所に金銅唐草彫の金物を打つ。平安時代の装飾性の高い大形の卓として貴重な作例 | ウィキペディア | ||
法隆寺 | 四騎獅子狩文錦(法隆寺) | ![]() |
連珠円文の中に左右相称の獅子狩文を配した独特の文様、さらに人物の容貌や頭冠の形などに、ササン朝ペルシアの影響が見られるが、馬の尻部分に「吉」「山」の漢字が織り込まれていることから、中国で製織されたものと考えられる。複雑な文様構成であるが、文様の崩れや形式化もなく、見事な織技が見られる | ウィキペディア | 20171004 京都国立博物館「国宝展」 |
常設の展示以外に特別展というのも行われていました。案内に円空仏の紹介がありましたので思わず入ってしまいました