ハポン姓の謎について

 *ハポン(japo'n)とは、スペイン語で、日本を意味する。 スペイン人の中で実は、「日本」という姓を
  持つ人がいる。 この姓の由来はどこから来ているのだろう?

1]名刺に記されていた名前
それは一枚の名刺から始まった。 
アムステルダムに駐在していた私は業務で欧州中を回っていた。もちろんその中にスペインも
含まれていた。それもバルセロナである。温暖で気候の良いバルセロナへ行くのはその他の
どこへ行くにもまして嬉しかった。以前に覚えたスペイン語も使えるし、何よりも食事が
楽しみだった。海産物、美味しいワイン、お米を使ったパエジャ。。。オランダの食事とは
月とすっぽんなのだ。当時のバルセロナはオリンピック開催の少し前であった。市全体が
オリンピックモードで至る所の道路工事、競技場と新空港の建設。。。そのような時期に
仕事でバルセロナの顧客を訪問した時の事である。 担当のスペイン人、HERNANDEZさんと
面会した。そしておきまりの名刺交換をする。しかしその名刺を見ておどろいた。 
名刺にはMANUEL HERNANDEZ JAPONと書かれていたのだ。 「な、なんでJAPONなの?」と
きいたのは言うまでもない。 「さあ、判らない。母方がセビリア出身なんだ。」
そして帰国後、どうしても気になるJAPON姓について自分なりに調べてみた。


2]支倉使節の一行の子孫か?
グアダルキビール川を遡ったコリア デル リオ、(セビリアから15キロ)に
現在、830人のハポン姓を持つ人がいるとされている。
コリア デル リオのエストレージャ教会に残る洗礼台帳によると、1667年に
ファン マルティン ハポンという人物が、一番古いハポン姓を持つ人物であるとされている。
これは支倉一行がコリア市に戻って来てから51年後の事であり、とすれば、年から計算して
母親の父が日本人か?という憶測が成り立つ。 つまり、支倉一行の誰かが、日本に帰らず
スペインに留まり、その子孫が”ハポン姓”を名乗っているのであろうか?

支倉一行は、セビリア市でのパレ−ドの前にここコリア デル リオに立ち寄っているし、
ロ−マからの帰りにも、そこに立ち寄り9ヶ月の期間滞在している。
つまり、コリア デル リオは、任務の最後の地点であり、スペイン国王から伊達政宗への
親書が届くのを待ち続けていた場所である。

任務は、最終段階に来ていた。 国王の親書を貰えれば、後は帰国の旅が残っているだけで
あった。 しかしながら、一向に親書は届かない。 この時点で日本を発って3年が
経過していた。 一行の中には、早く日本に帰りたいという気持ちが強かったであろう。 
だが、長期滞在の中で、その中には現地の女性とねんごろになり、そのまま帰国しなかった
者がいても不思議ではない。


3]帰国しなかった人
一行が、メキシコよりスペインに渡った人数は、一説には24名、或いは30名とも
言われているが、正確な人数はわかっていない。セビリアにあるインディアス総文書館
にある資料によると、ロ−マより帰国前に立ち寄った際に、”使節の滞在に28名分の
ベッドを用意した。”とある。

これを基に以下のように計算をしてみると、

     ベッドが用意された数(a):28(a)
     第一陣で帰国した人数(b):15(或いは13とも言われている)(b)
 スペインに更に滞在していた数(c):(a) − (b) = 13 or 15名 (c) 
      ソテロと*今泉を除く数(d): (c) − 2 = 11 or 13名 (d)
  一年後支倉と共に帰国した数(e): 5
   帰国しなかったと考えられる数:(d) − (e) = 6 or 8名

単純に計算すると、6乃至8名が、帰国せずスペインに留まった事になる。

この数字をどこまで信じていいのかは、判らないが、帰国しなかった日本人がいた事を
裏付ける重要な資料がある。

使節が出発した1622年に、支倉と一緒に、マドリッドで洗礼を受けたとされる、
ドン トーマス フェリーペ(日本名は不明)について、国王に日本へ戻る許可と証書を、
インディアス諮問会議が要請している資料がある。 1622年といえば、支倉が去って
5年後のことであり、支倉と一緒に帰国していない日本人がいた重要な証拠である。
支倉一行が、スペインに到着したのは、1614であるから、この人物は既に8年間も
スペインに滞在(その間、支倉と供にロ−マ迄随行していたかも知れないが。)していた
事になる。
8年も帰国せず、彼の地に滞在していたと言う事を考慮すると、既に妻子がいたのでは
ないか。と考えるのが当然であろう。
また、帰国願いが出されていたとしても、実際、この人物が帰国したのかどうか判らない。
当時は日本では既にキリシタンを弾圧していた頃であり、教会の人間から日本の情報も
聞いていたと推測されるので、帰国せずにそのまま、スペインに留まったと考えるほうが
より自然であるように思う。


 *今泉令史(いまいずみ さくわん):ロ−マにて死亡したと言われている。


4]ハポン姓のル−ツ
スペイン人の苗字には、出身地をそのまま苗字にしたものが沢山ある。

ギタ−リスト  :セゴビア
メキシコ元大統領:デ ラ マドリ−
画家      :エル グレコ  etc.

画家のエル グレコとは、スペイン語でギリシア人という意味であり、エル グレコは、
まさにそのギリシア出身の画家であった。本名をドメニコ テオトコプロスと言う。
ちゃんとした名前がありながらも、「ギリシア人」と、呼ばれて、そのまま苗字になった
ものである。 これを考慮すると、支倉の居残り組みも、彼の地で結婚し、ハポン、
つまり、日本という出身地をそのまま苗字として、名乗られるようになった。という憶測が
成り立つ。

但し、残念ながらこれを裏付ける資料は発見されていないが、日本人の子孫であることを
確定するある有力な証拠がある。

某テレビ番組で、ハポン姓についての特集をやっていたのであるが、ある母親の
インダビュ−で、自分の子供についてこう言っていた。 「この子の小さい頃、モンゴル斑が
でたのよ。」と。モンゴル斑とは、幼少の頃にできる青いあざのようなものである。
これは、モンゴロイド特有のものであるらしい。とすれば、間違いなく日本人の子孫であるに
違いない。

スペイン人は、混血の人種である。 もともとの原住民にケルト、フェニキア、ロ−マ、
西ゴ−ト、モ−ロ等、さまざまな人種と混じあって来た。しかし、歴史上、モンゴロイドと
混じ合った事はない。蒙古の時代でも、ある程度欧州まで勢力を伸ばしたが、その支配は
イベリア半島までには至ってはいない。

支倉一行の残り組みが、スペインに留まり、妻子を設けた事を裏付ける資料が発見されん事を
望むものである。 日本側で本件に関する資料を発見する事は、まず不可能である。
なぜならば、キリスト教が禁止されるようになって関係する資料は徹底的に破棄されてきた。
従って、スペイン側でなんとか裏づけ資料が発見される事を祈るのみである。





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