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ヤギ爺の独り言2008

わたしは昭和33年生まれだから、まだまだ「ジジィ」と名乗るほどの年ではないが、白髪交じりの髪の毛と、きたならしいあご髭だから、「まだらヤギ爺ぃ」と呼ばれても仕方ない。いつのころからか、妻はわたしを「こーのぉ、くそ、じ、じ、じじぃぃぃ!」と、罵るようになった。それから、わたしも、「かば、ばば、ば、ばぁぁぁぁ!」とやり返す。
 わたしは、すぱすぱ煙草を吸い、がばがばビールを飲む。温泉に行くのは好きだが、風呂に入るのは嫌いだ。休日はあまり風呂に入らない。ここ十数年、家では布団で寝たことがない。居間で寝袋にもぐりこみ、仕事をしながら、テレビを見ながら、ビールを飲みながら、煙草を吸いながら、そのまま「おやすみ」となる。「飲む、吸う、汚い」の三拍子に、「だらしない」が揃っているのだから、カバ婆ぁの怒りの種は尽きない。
 この夏、ホームページを開くことを思い立ち、いろいろ教えてもらいながら、準備をしていたら、あっという間に年の瀬になってしまった。こうなったら、きりのいい正月から始めようというのは、律儀者だからではない。これを三日坊主と呼ぶ。仕事柄、覚書は数多く書いてきたが、人の目にさらす覚書もいいだろうということだ。身が引き締まる。だから、三日坊主になったなら、何か月もご無沙汰になったなら、一人籠って悶々としているか、サボってぐだぐだしているか、どちらかだと思ってください。
 ヤギ爺ぃの話には、うそもまこともまじっていますが、とにかく、森 祐司の語ることですので、すべての責任はわたしにあります。

(平成19年 師走)

http://www.lang.osaka-u.ac.jp/~mori/hp/index.cgi?action=ATTACH&page=%A5%E4%A5%AE%CC%EC%A4%CE%C6%C8%A4%EA%B8%C02008&file=%A5%E4%A5%AE%CC%EC%A4%A3I%2Ejpg

最新の独り言が一番上にあります。

1224日(水)続・ひねくれもの

「おやじは、ほんとうにひねくれもんだったよなぁ、こないだ、「独り言」に書いたよ

「だめじゃない、死んだ人の悪口言ったらいかんのにぃ

「いやいや。悪口ではないんだよ。なにか懐かしくってな。なんていうか、おれ、やっぱり、おやじの血引いてる、って、感じたわけ。だから

「今ごろ気づいたん」

。いや、前から言っとろうがぁ。ただな、「人間んぅぅん、ごじゅうねんんぅぅん」になって、考えてみれば、おれが子どもだったころのおやじの年を追い越してさぁ

「あんたのひねくれは、ばあちゃん(わたしの母)もいつも言ってたろが。「ゆうじはやーらしいでねぇ、ふみちゃん、気ょーつけりんよ」って」

「おう。ただな、おれにとっておやじは、いっしゅ、反面教師みたいなところもあって、さ。おやじがわるくわるく考えて、本人自身もそのことで悩んでるって感じがあって、子供心に「そんなふうに考えんでもいいのに」ってのがあったから、おれ、なるべくものごとは、いいようにいいように解釈しようって

「能天気なだけじゃ」

いや
おれはな、やっぱおやじに似てて、まずは、なーんかひねくれて考えるのさ、なんでも。悪い方悪い方を考えちゃうわけ。だけど、思い返す余裕があるときはだなぁ、あれこれ考えてなおしてみるわけさ

「だからくどいのね」

そうじゃなくてぇ
おやじはな、心根はやさしい、気ーつかいんの人だったわけ。それが、ときにひねくれる。だから、人は本心とちがうことを言ったりやったりするもんだ、って、そういうことをな、子供心に学んだわけ。」

「ばあちゃんは「ゆうじは日焼けで顔もまっくろだけど腹も黒い」ってよく言っとったわ、がはははは」

……
おやじはな、苦労して育ったわけ。小さいとき父親を亡くして、母親一人で、貧乏暮しをしたわけ。それで、旧制中学もいけなくて。戦争なんかも行ったりして。勉強したかったわけ。だから、学歴あって、のほほーんと働いて、給料だけもらってるようなやつに対しては、やっぱ、いちもつあるわけだよ」

「それ、あんたのこと?ふははははは」

………
とにかく、だからっ、息子たちには一生懸命だったわけ。苦労して育てたわけ。それにしても、苦労して育って苦労して育てて、自分のものはなーんも買わずに、趣味にお金使うことなんて、なかったなぁ。お酒も飲まんし。いつも「もったいない」「もったいない」って口癖だったなぁ

「反面教師ってそんな意味?とうさんの逆っていったら、あんた子育てもろくにせず、酒はガバガバ。下らん安もの買いやし、趣味っていやあ長続きせん。カメラは?一眼レフはどうしたぁ?釣りは?釣竿は?ビデオ編集するんだって高いソフト買ったんちゃうの?
まったく、あんたの金銭感覚が、よう、わからんわ」

………

「あんたの感覚どうなってんの?ちょっとおかしいでしょ。あ~っ。思い出したらまた腹立ってきた

……………

「タクシーのことだよ。あんた、むかーし、酔っ払って帰ってきて、タクシーがムカついたで、釣りはいらない、って言ってやった、って、息巻いて帰ってきたことあるでしょ」

「ああ。あれはな、あの運ちゃん、行き先言ってもブスっとして一言もいわん。運転がすっごく荒っぽい。急ブレーキはかけるわ、車間は詰めるわ。そいで、腹立ったから、「ありがと、釣りはいらん」って

「千円ちょっとのところ二千円出したってか」

「ああ……

「あんた、食べ物でもそうでしょう。子どもたちの小さいとき、名古屋の実家の前の手羽先の店はじめて入ったでしょ

「ああ、あれは不味かった

「なのに、わたしが、「これ、まずーい、油ギトギトっ。ブタ子、クマ太郎、食べるのやめときなさい」って言ったら、突然ムッとして。あんた機嫌が悪くなるとすーぐわかるわ。怒りオーラ出して黙り込むから

「ああ………

「そしたら、急に店員さん呼んで。やたら次から次へと注文しだしたじゃない

「ああ………
せっかく家族で居酒屋入ったのに、おまえが、「まずい、まずい」言うから………

「なら、早々にやめて、別の店でも行けばいいじゃない」

「ああ…………

「スキーの時の話も忘れられへんわ。野沢で。いつだったかなぁ、あれ、もうブタ子中学生だったかなぁ

「ああ、そうだ。子どもたちだけ連れて、馬刺しの美味い、仲間が行きつけの蕎麦屋に行った

「あんさん、注文したもんがこんからって、突然「帰るぞ!」って言い出したって、帰ってからブタ子もクマ太郎も「とても恥ずかしかった」って言ってたわ。」

「ああ、別にどうでもよかったんだが。せっかく家族でスキーに来てて、お前が「もうおなかいっぱいだから寝てるわ。あんたたちだけで行き」って言ったところから、なにやらちょっとな。面白くなかったんだろう注文しただけで出なかった分も合わせてお勘定して帰っちゃった

「店の人が外まで追いかけてきて、お金返しますっていうの、あんた、「受け取れない!」って大声で追い返したんだってぇ?お金預かってきた川越さん(スキー仲間)、「御主人の声、店の中まで聞こえてきましたよ」って、苦笑いしとったわ」

「ああ………………。あれは、たしかに、まずかった……………

わたしは、相当に屈折したひねくれものである

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1221日(日)社会貢献

悪い癖で、風呂上がり寝る前またテレビをつける。日曜日の夜、スポーツの番組が多いなぁ、スポーツが、みんな、すきなんだなぁ。

プロ野球選手会が、社会貢献の一環としてイベントをしたらしい

プロ野球選手はオフになるといろいろな催しをやる、昔からそうだった。チャリティーとかファン感謝デーとか、小遣い銭稼ぎと宣伝効果と、プロ野球はやはり客商売だからそれも仕事の一環と考えるべきだろうなぁ。

ちょっとおかしかったのは、横浜の三浦選手が「キャッチボールは非言語的コミュニケーションに役立つ」(こんな言い方ではなかったですが、結局そういうことです)と主張し、なにやら今回のイベントの目玉として「野球が続けられる地球の環境を守ろう!」というのがあったらしいこと。ともに、そのとおりです。コミュニケーションと環境に貢献するプロ野球っ!

でも、

野球選手は野球をすることが社会貢献なんだよなぁ、良かれ悪しかれ

「社会貢献」は嫌いな言葉のひとつ

ちなみに、わたくし、本年度、「広報・社会貢献検討委員会」委員長をしております、はい。教育研究にたずさわるものの社会貢献って、なんだ?

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1218日(木)ひねくれもの

「あんたは、いつも、どーして、そんなにひねくれたふうにしか考えんの!」

母親のヒステリックな叫びで形勢は逆転するのだった。

わたしの父は、ときに、「どーして、そうなる?」と首を傾げたくなるほどネガティブにものをとらえ、突然怒りをあらわにすることがあった。名誉のために言うが、ふだんはものわかりもよく、「う~ん、そういうふうに考えるのかぁ」ということもよくあった。慎重さ、思慮深さは、ひねくれと紙一重だ。

「森さんの車は、ええがね、ちーしゃあで(小さいで)、小回りが利くがね」

こんなとき、まだほんの子どもであったが、「まずいきた!」という不安を感じた自分を、いまでも覚えている。

わたしが幼稚園から小学校低学年ぐらいまでのころ、にいちゃんの同級生の竹馬くん(仮名)の家と、家族ぐるみの付き合いをしていた。よく、ザリガニ捕りやら海水浴やらに車で連れだって出かけていた。父は竹馬くんのおとうさんがあまり好きではなかったが、にいちゃんと竹馬くんは親友で、母親どうしも大の仲良しで、「家族」を大切にする父は、しかたなくであろう、ご近所づきあいをしていた。

「おーくさん、なんだね、きれいにめかしこんで、どこいくつもりぃ?今日は潮干狩りにいくだけだがねぇ、はははは」

竹馬くんのおとうさんはあいさつ代りにこんなふうなことを言う人だった。こんな軽口が生真面目な父には許されなかったのだろう。父は、「竹馬さんは人づきあいがうまいでええねぇ。出世なさるて」などと、笑い口で言うが、眼は確実に怒っていた。「わるいねぇ、馬力がないで速く走れんがね。竹馬さんは車好きだで、さーっと飛ばしたいだろう」などとお愛想を言う。竹馬さんはブルーバードに乗っていたと思う。うちの車はファミリア・バンだった。大差はなかったと思うが、父としてはせっかちな(子供心に上手だと思った)竹馬さんの運転への皮肉のつもりだったのだろうか。そのときの、

「ええええ、ゆっくりできるで。森さんの車は、ええがね、ちーしゃあで(小さいで)、小回りが利くがね」という発言が、父のこころのなにかに触れた。

楽しく潮干狩りをした帰りの車の中で、父は、急に怒鳴り出すのだった。「竹馬は、なにを偉そうに言うんだ!」前後の脈絡の無い突然の罵声に、母も子どもたちもあっけにとられる。ついさっきまで竹馬さんのおとうさんともにこやかに話していた父である。「あんた、なにぃ、とつぜん、どーしたの?」

「自分が公務員で高給取りだと思って、偉そうにするとは何事だ!」「公僕だ。こ・う・ぼ・く!」と吐き捨てるように雄叫ぶ。父の声はでかい。わけがわからず母親は黙り込む。

「人の奥さんに色目を使いおって!女ったらしが!おまえあいつとは金輪際口をきくな!」
 「なにぃ、あの人はああいうあいさつだがねいつも
 「ひとがどんな車に乗ろうと勝手だろ!自分がなに様のつもりでおる!人を貧乏人扱いしおって!」父の怒りは収まらない。

父は母を愛していた。「かーさん、かーさん」と優しく呼びかけては、人から「森さんは優しいなぁ」などと言われ、うれしそうに笑っていた。父は、妻や子どもが食うのに困ることのないよう、物に困ることがないようにと、一生懸命働いていた。「子どもたちに贅沢はさせんが、必要なものは何でも買ってやった」というのが父の自慢であった。父は人間関係を大切にする人だった。たしかに竹馬さんとは気の合う間柄ではなかったが、ともに食事を楽しみ談笑し、こんなことがあった後も家族ぐるみの付き合いを続けていた。

「あいつは、俺のことを見下しとる!」と断じる父にとうとう母が叫ぶ。

「あんたは、いつも、どーして、そんなにひねくれたふうにしか考えんの!」

母の怒りと共に今度は父が黙る。ただ黙って、車を走らせる。後部座席からのぞき見る父の顔は真っ赤だった。じーっと前を見つめ、考え込むような眼をしていた。わたしは、子供心に、父の怒りが理不尽のようにも感じたが、いまとなっては、はたしてどうなのか、よくわからない。

父のひねくれをわたしは遺伝している

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1216日(火)返り咲き

あの男が帰ってきた

わたしがにいちゃんに連れられて初めて山に登ったとき最初に出会った人はすでに何度か登場した小坂さんだが、その男も小坂さんと同い年だ。ふつう山の知り合いはどこの誰だかも、しばしば本名すら知らずに、親しく付き合っていることがあるのだが、小坂さんやその男はわたしとひとまわりちがいの戌年なのである。わたしが二十歳で「入山」したとき、彼らは三十過ぎのおじさんたちであった。

その男、とにかく若い。実はその男、にいちゃんの高校山岳部の先輩で、最初に出会ったのも、たしか、毎年夏御在所で開かれるその山岳部の「追い出し山行」の席だったと思う。にいちゃんは昭和29年生まれだから、その男、はるか上の大先輩であった。しかし、短パンTシャツ野球帽のその男、どう見ても後輩、しかし、にいちゃんは「さん」づけで呼ぶのだから、ひょっとして先輩?1年上?まさかであった。

「ばーか、猪飼さんは大先輩だ!猪飼さん、いくつになります?」「あのね、ぼく、戌年なの」

同志でサッカーもしているというその男の若々しい太い脚を見て、「えぇ!三十過ぎですかぁ!?」と叫ぶヤギ青年(当時)であった。

それ以来、わたしは学生時代、カバ娘との恋愛時代、新婚時代、ブタ子クマ太郎の赤ちゃん時代と、昭和50年代後半から平成の初めまでにかけての十数年にわたって、その男の世話になってきた。その男、これもまた少女のような美人妻と、「えぇ!え!お子さん二人?」という文字通りの美少女、美幼児の女の子二人、おなかにはやがて生まれる「ジャニーズ系」の美男乳児の5人家族であった。(当然今では孫数名を持つじじぃである)

その男、若いのは見た目だけではない。いたずら心というか、ふざけ心は常軌を逸している。

実は、わたしがスキー嫌いになったのは、この男のせいなのである。「85日(火)続・父親の威厳」でちょっと仄めかした「故あって」を、今ここで話そう。

知り合って間もないころ、にいちゃんの大先輩であるこの男は、「ゆうちゃん、元気ぃ?にいちゃんはどうしてる?」と、いつもニコニコ満面笑顔で話しかけてくれる。いい先輩やぁ、と思った。あるとき冬の日「ゆうちゃん、スキーはやらんの?いっしょにいこか?」と誘ってくれた。「一回行ったことあるけど、スキー初心者ばかりだったんであまり楽しくなかったですぅ。そうですか、猪飼さんとならきっと楽しそうですぅ、よろしくおねがいします!」ということで連れて行かれたのは伊吹山か奥伊吹、「じゃ、いこっ!」と言ってリフトに乗って連れて行かれたのはチャンピオンだかジャイアントだか忘れたが(たぶん奥伊吹の「チャンピオンコース」だったと思う)、とにかく覗けば垂直(に初心者には思える)、見れば背丈ほどのこぶこぶ(に初心者には見える)のコースの上、「じゃ、ついてきてね」とその男、さっさと滑って行ってしまった。かなりうまい。

わたしは途方に暮れた。「いかいさーん、どーしたらいいんですかーぁ!?すべれませーん」と声をかけるが、その男、はるか下でストックを振るばかり。かすかに「おりるしかないでしょーっ」と聞こえた。

わたしは危険は冒さない。躊躇はないのである。「おりまーす!」と声を絞ったわたしは、ソリを外し肩に担ぎストックで支えながら、コース脇をよたよた歩いて下りていったのである

その翌週だったか藤内小屋での話。
「ゆうちゃん、猪飼さんとスキー行ったんだって?どうだった?」と聞かれ、「うん、だって猪飼さんって」と話し始めたわたしを制し、「こないだね、スキー場で、コースを歩いて下りる人を見たんだわ。めずらしいでしょお。生まれてはじめてみたよ、スキーは滑るもんだよね。変わった人もいるもんだなぁ、うふふふふ」と嬉しそうにボソッと話すその男を見て、この男、あなどれぬ、と思った。

この男の悪行は語りつくせない。ブタ子が生まれて数か月たち、家でパーティーするから、あかちゃん見たいし、とその男の家に招待された。カバ母(当時)とわたしは嬉しがりで、まだ首も据わらぬ娘を連れて行った。山仲間も数名いて、皆が「かわいーい、だかせてぇー」「おお、まだ首すわっとらんがや、こわいこわい」とわいわいやっていると、その男、寝ているブタ子をのぞき込み、満面の笑みであやしはじめた。「おー、さすが、3児の父、子育てのベテランかぁ」と思った瞬間、この男、刺身用のわさびをサッとと指ですくい、シュッと娘の口に塗る。

「い、い、猪飼さん!なにすんですかぁ!」とさすがのカバ母も真っ青に、慌ててわさびをぬぐい取る。

「しげき与えたら、なくかなー、あかちゃんは泣くのが仕事でしょぅ」

そういえば、初めて娘を藤内小屋に連れて行った時も、この男がいた。生後7か月ほどになり首も据わったころ、嬉しがりの父母は、赤ちゃん用の背負子に、それでもまだちいちゃすぎるので動かぬよう詰め物をして、運んでいったのである。小屋の前で抱っこしながら披露していると、その男、自分にも抱かせろと言う。「猪飼さん、気をつけてくださいねぇ」とおずおず手渡すと、「ちょっと川でも見てこよかぁ」とかなんとかボソっと言って、抱っこしたまま小屋の裏の方へ行ってしまったのだ。カバ母もわたしも「むむっ」とは思ったが、なんせ3児のパパ、子育てには慣れている、まあ大丈夫だろう、ここでジタバタしたのでは甘ちゃん親と思われる、と内心ひやひやしながらも、素知らぬ顔を装って、はらはら待っていた。

その男は、やがて、戻ってきた。手には何も持っていない。

「猪飼さん!ブタ子は!?」とカバ母が叫ぶ。

「あれぇ?しまったぁ、どこかに忘れてきちゃった

その男は両手を広げ、何か落し物をした時のような仕草でつぶやいた。

「猪飼っ!くそ~ぉ!ゆるさんぞー!」と、カバ母は真っ青になって飛び出して行ったのである。

・・・・

その男が戻ってきた。再び藤内小屋に戻ってきたのである。

平成に入り、わたしとカバ母が子育てに忙しくなり藤内小屋へもあまり出向かなくなったころ、その男もあまり行かなくなったようだ。わたしが時々上ったとき「そういやぁ猪飼さんは?最近こんの?」と敏子さんに聞くと、「そうやなぁ、あんまりこんなぁ」

わたしがヤギ爺となり、老後の楽しみの準備としてボチボチ御在所へも出かけ始めた数年前から、その男もひょっこりとしばしば現れるようになった。相変わらず若い。還暦過ぎて短パンか!

それが、先の9月の水害以降、復興作業のボランティアに、その男は燃えている。今では名古屋方面の歯科医師会(その男、なんと、歯医者なのである)の重鎮となり、忙しい日々を送っているようだが、その間を縫って、ボランティアに励んでいる。黙々と土砂を運び、一生懸命土台作りを手伝う。

「猪飼さん、すごいですね、がんばってるじゃないですかぁ」
「ゆうちゃんは手伝わんでよろしい、邪魔になるだけよ、土嚢のちょうちょむすびっ!」(「独り言」を読んでくれているのだ)

相変わらずぼそっと口は悪いが、黙々と働く姿は本物だ。しかも、昔では考えられないことなのであるが、今では家で料理などもしているという。藤内復旧現場では、手製のコロッケやら自家製の餅をふるまい、皆の労をねぎらっている。やはりそこは山を愛する者、とうに還暦も過ぎ(チャンチャンコ代りに赤いパタゴニアのシャツをもらったようだ)、この男も、やっと、落ち着いた。

先日、カバ婆がくだらんことで指を怪我した。藤内に手伝いに行く直前のことだったので、「今日は指痛いであまりてつだえんわ、ごめんね、まかないでもしてよーっと」と作業は控え目にそれなりに手伝っていた。3時半鐘が鳴り作業終了。きょうも一日御苦労さま。

すると、皆と談笑するカバ婆の前に、その男、すっと立ったのだ。「じっちゃん(カバ婆のニックネーム)、どうしたの?指怪我?」とぼそっと言う。「あ、猪飼さん、お疲れですぅ、そうなんですよぉ、うっかりしてぇ、車のドアに指はさんじゃったんです、痛くて痛くて、ジンジンしてますぅ、爪はがれるかなぁ

「どれどれ、みせて?」という言葉に何気なく「これっ」と差し出したカバ婆の指を、その男、なんと、にわかにギュッと掴む動作をしたのである。咄嗟に指を引っ込め難を逃れたカバ婆は叫んだ。

「猪飼っ!くそ~ぉ!しばく!ゆるさん!」

(本来であれば仮名を使うべきところ、「書くなら実名」というこの男の要望もあり、今回は実名で報じております。猪飼さん、今後ともよろしくおねがいしまーす!)

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1215日(月)宮大工

わたしの父は不器用だったが、自分の家は自分で作る、という理想に燃えていた。昭和35年、わたしがその後少年、青年、新婚期を過ごすことになる名古屋の家を中古で購入したとき、その改装に関しては大工さんに大いに指示を出し、自らもセメント練り、くぎ打ちなどの手伝いをしたらしい。費用を抑えるというのが主な理由だったようだが、材料代を極力かけなかったのだと自慢していた。

その後も、何しろ古い家をあちこち直し直しの住宅だったので、しばしば改修修繕を行ったが、わたしが物心ついたころからは、やはり「新建材」の時代となった。

無理のきく知り合いの大工さんを呼んで素人の書いた図面を見せながら、「この柱はまだ使えるで」「ここの窓枠をそのまま使ってこちらに新しい窓を作ろう」などと説明する父に、「今は廃材は捨てたほうが安いで」「日数がかかる解体は工賃も嵩むし今はみんな嫌がるで」「サッシの方が結局安いで」となる。「廃材を使いまわしにした方が安いにきまっとるがっ!わしも土日に手伝う!」と大声で怒鳴り始める短気な父に、「土日は休まんと

廃材を利用すれば材料費を減らせる、自分が手伝えば工賃が浮く、という父親の考えは、経済システムに乗った建築業務の前ではたわごとにすぎなかった。

父はしばしば宮大工を引き合いに出したが、中古のボロ家では空しく響いた。

しかし

「神谷さーん、あの便器だけどさぁ、どろどろやけど、やっぱ、使うんやわねぇ」
「うん、使うつもりなん」

「ゆうちゃん、あの辺の角材、ちょっと大きさ揃えて並べといてくれやん?腐ったやつはもういいで捨てて

藤内小屋を埋めていた土砂があらかた片付き、かろうじて残った骨組や中空に掛った建物などがあらわになっている。ここ1か月ほどはやがて来る雪への対策や、今後どういう風に修復していくかを試行錯誤しながら相談しているところだ。ヤギ爺の仕事は、力任せにスコップを振る(体力気力のない爺は3回掘っては一服の繰り返し)作業から、「ゆうちゃん、そこの端ちょっと押さえとって」とか「ここの屑拾ってちょっと捨ててきてぇ」といった「建築補助の補佐」といったものになってきた。「とりあえずぅ、励まし係っ!」と言っては煙草を吹かす。

主人の正巳さん、後を継ぐ神谷さん(娘奈那ちゃんの旦那さん)の考えは決まっている。せっかく残った形はそのままにする。極力元の材料を使って元のようにする。

40数年前ひとつひとつ道具や材用を担ぎあげた人たち、その後コツコツと修繕を繰り返し、増築を手伝い、柱を一本一本立て、くぎを打ち、屋根を葺いた人たちの思い。思いだけではない、サッシ一つをボッカして上げる苦労、柱一本を切りだす苦労を想像する。

小屋の常連さんの多くは、そういった仕事を、ずーっと手伝ってきていたのだ。正巳さんや神谷さんの思い、そういった常連さんたちの思いとともにあの父親の思いが、いま、やっとわかるような気がする。

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129日(火)社会の常識

食堂に入る時ときどきあった。地方の高速道路のサービスエリアなんかでもあったかな。入口のドアの前で立ち待ちして、しばし佇んでも「あれれぇ」とドアが開かない。

自動ドアではないのである

「おっとぉ」とバツの悪い気分で引き戸を引いて中に入る、そんな経験をしたかたも多いと思う。マジック書きの紙切れがセロテープで貼ってあり、「自動ドアではありません!」なんていう注意書きがあったりする。

公共の場のドアが、前に立てば開くのが常識になってから久しい

ドアは自動で開き閉じ、「Pull」「Push」式のドアも、ぐゆぅん~と押し引きして通り過ぎれば、クッションがかかり、やゆぅ~んしぃぃぃと、勝手にやんわりとしまってくれる。ドアがあったとしても、通りっぱなし、開けっ放し、が、常識になった。

「クマ太郎ぅっ!開けたら閉めんかぃっ!」

この季節、家のドアの開けっ放しが目立つのは、クマ太郎の個人的性癖か、それとも社会の常識のせいか、わからない。実は、私自身が、つい後ろ手でドアを投げしめ、強すぎて「バタン!」とでかい音を立ててしまったり、弱すぎて隙間風ということがある。「開けたら閉める」の常識を忘れてしまっている

常識は社会によって変わるものだ

「クマ太郎、また、洗面所の蛇口しっかり閉まってなかったよ、チョロチョロ音が聞こえるでしょ!まったく、不注意なんだからぁ!」とぼやくカバ婆であった。

別の話

「また誰か蛇口閉めてしもたんやわぁ、冬は出しっぱなしにしてもらわんとかなわんのやわ」と藤内小屋の敏子さんがぼやく。

雪国の古い住宅に住んでいる人や、スキー場に行く人、山小屋に行く人ならわかると思うが、冬は水を流し続けておかなければ水道管が凍結してしまうのである。いったん凍結してしまうともう融けることがない。大変なことになってしまうのだ。暖かい都会から訪れる人は「蛇口はきっちり締める」の常識を律儀に守る。

常識はむずかしい

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125日(金)紫煙楽しむ

コーヒーはブラックで飲む。だが、「フレッシュ」と言っていた(今でも言ってる?)とろとろの、喫茶店では金属製のちっさな容器に入ってくる、市販では一つ一つプラッチックの容器に入っている、ぬるぬるのミルクを、淹れたてのコーヒーに「たらぁー」と入れて、混ざる前に啜るのは好きだった。混ざってしまった後のコーヒーはなんとも味気ない。

どんぶりは嫌いではないが、どちらかといえば、ごはんとおかずを別々に口に頬張り、口の中で、噛むうちに、おかずとごはんが混ざるのが好きだ。「今日は久々うな丼だぃ!」とカバ婆が言うとき、「わしのは、皿に別に出してくれるぅ!?」と頼む。鰻、ごはん、鰻、またごはん、の、交互の味わいを楽しむ。

味噌カツ丼より味噌カツ定食の方をたのむ

わたしは、煙草を好むが、煙草煙る会議室や喫煙車両はどうもいけない。勝手なものだ、窓を開けたくなる。シラーとたばこを吸うためだけの、たとえば、スーパーやショッピングセンターの喫煙室など、なくてよし、外へ出るべし。善悪混ざり合って一つになってしまったような空気は美味くない。

家人寝静まり、下らぬ仕事などしつつ、ひとりタバコ。しばしトイレに立ち部屋に戻るに、煙草のくすぶるは、「いぇーい、くさーぁ」と窓開けはなつ、いとあさまし。(めちゃくちゃ)

とにかく、煙草吸いには、きれいな空気の中で紫煙燻ぶるをふと吸い込む時に、無上の喜びがある

外で、とくに山で、キリッとした清廉な空気とツーンとくる副流煙(紫煙)に、無上の喜びがある

と、その時、
「くさーっ、けむーぅ!外で吸いやがれぇ!糞じじぃぃ!」

爺は、外の寒さに耐えかねて、台所に向かい換気扇をつけ、その下で紫煙を楽しむのであった

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121日(月)利他主義

昨夜の独り言を今朝カバ婆が読んだ。

朝飯をつくりながら、ちっと真面目顔で、「今だったらどうする」とつぶやく。

「そうさなぁ、やっぱり、いまなら、あんたを落とすだろうかなぁやはり、老い先の短さということもあるし、これからのブタ子、カバ太郎だからなぁ」とめずらしくしんみり答えるヤギ爺であった。

「そうだよねぇ」と夫婦の会話。

「子ども助けたあと、わしもいっしょに、飛び降りたるわ」
 「ほほほほ、ともに奈落の底、ってかぁ」
 「ああ。成熟した大人にはな、ときに、このような利他主義、あるいは、社会学で言うところの、価値合理的行為が、おこるのじゃよ、ふふふ
 「ともに奈落かぁそれもよかろう。がっ、実は、わたしだけ、とちゅーで、蜘蛛の糸にぶら下がって、すーいすいすいっと、天国まであがっていくかもねーぇ、ってかぁ!ぐゎぁぐゎぁぐゎぐゎぐゎ

ぅさけはうまいしぃ、にーーいちゃんはぁきれいだ、ぅわっ、ぅっわぁ、ぅわっわぁー、ががががががっ!」

わたしは、いまなら、確実に、子どもたちの生のことを考える

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1130日(日)究極の選択

実際にお子さんをなくされた方、つれあいをなくされた方には、本当に申し訳ない話であるが、わたしは、子どもが生まれた当初から、「つれあいか子供か」という究極の場面を妄想しては、悩み苦しんできた。

山を歩いている。かなり狭い稜線で、「危ないから気をつけて歩こうぜぃ!」と声を掛け合い、カバ妻(当時)といっしょに歩いている。わたしは、やがて1歳の誕生日を迎える赤子を背負っているのだ。「とーぅ、ちゃ」「かぁー、ちゃん」と言葉を覚え始めた、かわいい盛りのわが子である。

魔が差すことはある。山歩きには相当慣れているカバではあったが、ふと足元が滑り、こけたり尻もちをついたりはする。大抵は「いててててぇ」「ばーか、きーつけんかいなぁ」なのだが、間が悪いこともある。そこは絶壁のがけっぷちであった。

とっさに手を差し出す。なんとかカバの手を掴む。(「ファイトーっ!いっぱーつぅ!」状態)

と、倒れこんだわたしのベビーキャリーから、赤子は滑り落ちてしまったのだ。

反射的につかんだのはベビー服の襟もとであった。まだ体重も軽いあかちゃんだから十分にとめることができた。しかし、わたしは、あまりの突然の出来事にバランスを崩しており、ずり落ち状態で上半身のみ崖にかかり足はブラブラ空を蹴る妻の右手と、泣きじゃくりながら襟首を掴まれ宙を舞うわが子を、腹ばい寝そべり万歳体勢の両の手で掴みつづけるのが、精いっぱいなのであった。

「だ、だいじょうぶかぁ!ゆっくり這いあがれるかぁ!?もがくなよ、もうギリギリだっ!」と叫びかけると、妻は、しばらく身をよじるが、

「だ、だ、だめ手が掛からんあがれない

わたしは、慎重に、片手ずつ、なんとか引き上げようと試みる。しかし、一方の手を上げようとすると、もう一方がおろそかになるのだ。もう手が離れる

その時、もし両手が使えるのであれば、わたしの力でも、なんとか、どちらかを引き上げられると思った。しかし、それは、どちらかの手を離し、どちらかを確実に崖下に放り落す結果となるのだ

さて、このとき、わたしはどうするか

バリエーションはいろいろだが、わたしは、このような悪夢の状況を、しばしば想像し、戦慄した。

布団(当時はまだ布団に寝ていた)の中で文字どおり身震いしながら出した結論は、まことに残酷ながら、「わが子を落とす」であった。

それほど妻を愛していたと言う自信など、まったく、完全に、ない。しかし、当時も、やはり、なぜか、この人がいなければ困ると思った。ブタ子よクマ太郎よ、すまぬ、しかし、わたしにとって、掛け替えのないのは、子どもより、妻の方であった。

人は(ああ、一般論はよくない)、ヤギ父(当時)は、自己中なものだ。出会い、語り、ともに過ごした時間のより深いものを、掛け替えない人と感じるだけの、利己主義を持ち合わせていたのだ。

しかし、まてよ

よく考えて見れば、いや考えるまでもなく、そんな状況の時、わたしの体力技術では、両の手はとっくに限界をむかえておろう。あれよあれよと言う間もなく、自分もずり落ちもろともに、奈落の底に真っ逆さま、に、決まっておったではないか

うん、やはり、山は低山に限る

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1125日(火)独り言大賞

もう来週あたりから「今年を振り返って」のたぐいの話題がにぎわうであろう。一年は早い。

わたしもまた振り返る

113日(日)野糞の楽しみ」は、一番リアクションの多かった独り言であった。「独り言」を始めたばかりでもあり、「言語文化の森~遊びとアウトドアの世界~」というこのホームページの趣旨に則った力作である。人間が人間として生きるための道と人間が自然に生きることの喜びとの軋轢という人間存在の本質にかかわる根本的テーマをカスった、逸品だ。

わたしとしては、「126日(土)ゴミは目立つところに捨てろ!」を推奨したい。これは、いまさら「ゴミを捨てるな!持ち帰れ!」などというきれいごとを信じることなどまさに道徳というエゴのすり替えのエコにしかすぎず、「人間は自然の一員」という偽善は通用しないということをやっと悟ったヤギ頭爺の、心の叫びであった。

思えば、この「独り言」のヤマ場は、すでに1月で終わっているようだ。

なさけない

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1119(水)記憶朦朧

老眼鏡を首からぶら下げ、カバ婆が「メガネどこじゃぁ~?」と探している。

よくある光景

そのカバ婆、昨夜もわたしの寝袋にぬくぬく包まり、食卓の足元で食後の「惰眠」を貪っていたが、突然ムクっと起き上がり、「テレビうるさいぃ!ピッピッピ(テレビのリモコン)どこじゃ?」と唸る。

わたしは、つけたまま流れっぱなしのテレビで『泣け歌』を聞きながら、「麦とホップ」を飲みながら(6缶目)、メールの返事を打っていた。

リモコンは婆の枕元にある

わたしは、ビールを飲み干し、コップの底に残った冷や酒も飲み干し、ひとり黙って風呂に入り、風呂上りに7缶目を開けながら、しばしメールを打つ。

「あ~、気持ちえぇ~、ぬくぬくっ!」と言ってカバ婆が起き出すころ、わたしの就寝時間となる。酒とビールのヒタヒタ頭で、マメを湯たんぽがわりに放り込み、寝袋でお休みだ。

と、昨夜のことは、かように、はっきりと覚えている。いつもの光景だ

が、今朝、「独り言」を開いて見て、驚いた。

1118日(火)かく語り」は、いったい、だれが、いつ、書いたのだ!

覚えがない

さて、通勤電車の中、おぼろげながらそのときの気分がよみがえってきた。
昨夜も、毎日チェックする友人のブログを読んでいた。ときどきは、古いものも読み返す。昨夜もそうだった。そのとき、ふと、なぜか、「かく語りき」という言い回しが頭に浮かんだのだ。それだけ。今は翻訳からも消えたこんな古めかしい言い方が浮かぶのだから朦朧連想の度合いもかなりなものだ。

ニーチェなど、ずっとずっとむかし、字面のみを追った記憶があるのみ。ツァラトゥストラが何を語ったかなど遠く霞む霧の中だ。しかし、ただただ、「かく語りたい」と思った。

それだけのことであった

だが、記憶朦朧のまま朦朧連想を書き記しておけばいつかなにかにはなる、というだけでも、「独り言」の意味はあろう

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1118日(火)かく語り

麓をのたのた歩き回り、「友だちがほしーぃっ!」と語るのみだが
ツァラトゥストラのように語りたいものだ

1113日(木)YouTube すぐれもの!

今朝、早朝、マメを庭に連れ出し、お散歩でした。そのとき、

ヒョ、ヒョッ、ッヒョ、チェチェチェチェ、ヒョ、ヒョッ、ッヒョ、チェチェチェチェ

ヒョイヒョイ言って「チチチチ」と舌打ちのような声がしてきた。どこから?と探すと、向かいの電線高くに、腹の赤黄色っぽい、鳥が一羽、止まって鳴いている。

ほーぉ、なんだろう

と、思った瞬間、洗濯物を干していたカバ婆が、「あれ、なんだったっけぇよく聞く鳴き声だよなぁ、舌打ちして、生意気なヤッつ」と言いおった。おまけに、「忙しい時になんだよぉ」と言いながら、干しものを中断し、図鑑を取りに行った。

鳥は、人間が忙しくとも暇だとも(再三の変な物言いご容赦を)、鳴くものなのである

朝の結論は、モズかなぁであった。

が、先ほど家に帰ると、カバ婆、

「あれはな、モズではなく、ジョウビタキであった」と報告した。

あんた、一日、いろいろ庭仕事やってたようだが、ずーっと思ってたんかぃ!

(夕方、今度はお隣のアンテナに訪れたその鳥を、ジーと見ていたそうな、そして、図鑑で探し当てたのだそうだ)

そうか、と、そうだ!と、ご存じYouTubeで検索してみた。(「ヤギケンサク」とでも改名するか)

なんと、YouTubeは、音声付図鑑にもなる。

あれはまちがいなく、ジョウビタキであった

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1112日(水) YouTubeあなどれぬ!

おからは今でも食べられる。しかし、東海林太郎はどうか、と思い、
iTunes Store
で検索したら、「ミュージックでは、お探しのアイテムは見つかりませんでした」ときた。さもありなん

しかし、

YouTubeで検索してみた。(普段は、女性タレントが気になったとき、検索し、覗いてみるくらいだった)

すると、

「國境の町」「赤城の子守唄」「野崎小唄」「麦と兵隊」「むらさき小唄」「すみだ川」なんでも聞ける!とうかいりんたろうが、見れる!

『なつかしの歌声』が、そこにあるではないか!

おそるべし!YouTube! 自然に帰れ!という人間は、まず、テクノロジーの力を知るべし!(何という飛躍

聞いたことのない曲(忘れてしまった曲)もいっぱいだ

いっぱい、たっぷり、楽しんだ。

その中に、

「煙草と兵隊」昭和十四年。軍歌だ。悲しく、苦々しく、軍歌はいやだ、しかし、どこかで共鳴する。「ただ一箱と言うけれど

敵陣抜いたその後で煙草はないか持たないか互いに探るポケット(私は自分は絶対に戦争に行きたくない)

煙草哀しや水びたし(私は煙草が吸えない状況は絶対いやだ)

故国の味が此処にある(気持ちはわかるが、それはちがう)

みんな集まれみんな来い(そうだ!)
叫ぶ勇士の手の内に、カタカナ文字も懐かしや、ゴールデンバットの青い箱

煙草がミルクレープでもかまわない。勇士である必要などまったくない。

だが、なにがしかの求心力を持つものはやはりひとつの文化であろう。

しかし、「カタカナ文字も懐かしや」とは、よく言ったものか、昭和14年あたりの国民感情を、みごとにあらわしているのかもしれない。いや、なんてことはない、父母とよく聞いていた「懐メロ」には、洒落たカタカナがいっぱいだ。「むかし」は国粋主義だった、という、なんとなくの「むかし」批判が問題か。

なによりも、人を動かす歌が、いかようにも使われうるという現実が、辛く凄い。

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119日(日)休日

たんたたたたたたっ、たん、たん、たんたた、たたたたっ、たった

目の前、テーブルの上ではゴンが座り込む。隣の部屋のソファーの上に丸め置いてある寝袋(わたしの寝具)ではマメが丸まり、うすら鼾で寝込んでいる。我が家に人間は一人きり、わたしだけ

裏番組で相撲をやっている『笑点』の「大喜利」を見ながらビールを飲みながらジョン・デンバーを聞きながら授業の準備をしていると、あ~あ、いい日曜だ、という気になってくる。

カバ婆はやはり談志さんだという。私は三波伸介さんが好きだった。当意即妙。圓楽さんはちょいといただけなかったが、歌丸さんはがんばっている。メンバーの努力が望まれる。

わたしは中村梅之助の『遠山の金さん』が好きだった。

お江戸のそ~おぉらに、春を、呼ぶぅ~ぅ、花も、うれぇしいっ、とーーやーーーま、桜ぁ~~あーーーん

しかし、わたしの父母は「金さんは片岡千恵蔵だ」と言っていた。ただし、共通の認識は「杉良太郎のはよくない、下品だ」だった。

わたしにとっての水戸黄門は東野英治郎で、大岡越前は加藤剛、時々出てくる山口崇の将軍吉宗の闊達な気性がお気に入りだった。(そういえば、父親役の片岡千恵蔵さんはよかったし、母親の加藤治子さんはやさしかった) 『江戸を斬る』は竹脇無我の右近が懐かしいが、西郷輝彦の遠山金四郎もいつも見ていた。『銭形平次』は舟木一夫の歌声が耳に残っている。

なんといっても一番のお気に入りは、本当に小さいころの思い出だが、花山大吉だったのだ。近衛十四郎が大好きだった。

休日、久しぶりに家でぐだぐだ、ずーとテレビをつけて、だらだら過ごすと、子供のころのテレビの思い出がよみがえる。うちのチャンネルの主導権は子どもにはなかったようだ。いくつか漫画は確保していたが、思い出は時代劇と懐かしの歌声のたぐいの懐メロだ。東海林太郎が好きだった。

「ちかごろのテレビは、まったく、つまらんっ!」と吐き捨てていた親父の気持ちがわかるようになってきた。

わたしの日曜は、やはり、『サザエさん』より『笑点』だ。

ああ、おからが食べたいなぁ

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1030日(木)わけがわからず

大学院の修士課程1年の時、フランク・カーモード(Frank Kermode)という人の The Sense of an Ending という本と The Genesis of Secrecyが指導教員のゼミのテキストだった。洋書である。英語ばかりである。1年間の授業で2冊も読むのである。

えぇぇ!と思った。他の人はちがったが、わたしはそんな院生であった。英文科だから当然である。が、わたしは、なにせ、日本語訳より原文のほうが簡単だ(と思った)ヘミングウェイの『老人と海』を卒論に選ぶような短絡学生であった。

今では日本語訳も出ているようで、『秘義の発生』と訳されている(うぅんThe Genesis of Secrecyを、授業中、つい、(そうです「つい」言い間違えたのです)「ジェネシス・オフ・シクレタリー」(secretary=秘書、秘書の発生?)と言ってしまったはずかし話は、絶対に人に言えない話です。

(ついでながら、学部学生の頃、仲間と行った本屋の洋書コーナーで、「へぇ~、おもしろいなぁ、「ガイド」(Gide)って名前の作家がいるんかぁ」と言ったら、仲間の一人が「アンドレ・ジードだろ(!)」(Andre Gide)と吐き捨てた話などは、絶対に口外できない。)

後書きコメント(31日午前1時半久々の夜更かし):ふと思い出したので、面白くなって書き加えるのですが、何年前だったか(もうかなり前だと思う6時台だったか11時台のニュースだったかも忘れてしまったが火事だったか泥棒だったかも忘れてしまったが(つまりおぼろ月のような記憶である)、「イギリスの著名なシェークスピア学者フランク・カーモード氏の家で(に)」という事件(だったと思うが)の報道があった。恐れ多しの日本語版ウィキペディアにもあがっていない、たぶんその筋だけで著名な学者が、「普通の」日本のニュース報道で取り上げられたことが、びっくりだったというその驚きだけが記憶に残っている。それも、火事だったか泥棒だったかもちろん当人にとっては大変なことだが、ニュースとしては、とくに際立った話題ではなかったという記憶がある。来週職場に行ったら皆に聞いてみますが、もし、このこと覚えている人がいたら、教えてください

さて、本題に入るが、わたしは、話はわかりにくいほうがいい、という信念を持っている。大学院初年度の授業で読んだ件の2冊の本がスーパーわかりにくい本だったことが「三つ子の魂」となっており、わからないものと格闘する姿勢の必要をおぼろげながらも知らしめてくれたのであるが、2冊目の『秘義の発生』の主題だった「物語は人を煙に巻く」(そんな単純なものではなかったと思うが)というのが、なにか、心に、ずーと残っているのである。(しかし、指導教員であった川崎寿彦先生は、まことに明快に、訥々と、ときに朗々と語る人であった、60歳で死んでしまった)

聖書然り、人を動かし、人に思わせ、人が格闘する物語は、すべからく難解なのである。難しい言葉など使っていなくても、わけがわからない。だからこそ、人は喰いつく。

(難しい言葉を使ってわけがわからないのはふつうである)

たしかに、言うに言われぬことは、言うに言われぬように語るしかなく、それがわかっていて意識的に、言うに言われず語る人というのは、やはり、語り上手なのだと思う。だから聞き手は黙り込み、ひとり頭を巡らすことになるのだ。人の話を聞く醍醐味がここにある。

分かり易さのみを求める気持ちには、語る困難に対する思いやりがないのじゃないかなぁ

わたしは、一昨日自分で書いた文章を読み返していて、そのときは「意図的に」あえて拙く書き、なにがしかの雰囲気を醸し出そうとした文章だったはずのものが、じつは、真に拙いことを悟ってしまったのです。

「しかし、「公私混同」とはいけないことだとは大方の理解だと思うが、「公」と「私」を分けることの困難は、「プライバシー」という考え方を考えると実感できる。分けるほうに無理があると考えると胸がスーッとすることもある。」

「考え」の繰り返しは意図的であった。しかし、いまのわたしには、その意図がわからない。

このように、やっぱり、わけのわからない文章を書く者の頭は、わけがわかっていないことのほうが多い。

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1028日(火)マメがんばれ!

大学の一部局のアドレスをもつこのホームページは当然「公的」なものなので、そこに、ある意味私的な覚書を記載すること自体が、この「独り言」を載せるに際して迷った点であった。いまでも迷っている。しかし、「公私混同」とはいけないことだとは大方の理解だと思うが、「公」と「私」を分けることの困難は、「プライバシー」という考え方を考えると実感できる。分けるほうに無理があると考えると胸がスーッとすることもある。

私事

マメが避妊手術を受けました。23千百円。安く済んだ(と思う)。

近所の「みもと動物医院」(実名)という、ひっそり地道に、とにかく営業している獣医さんは、ゴン以来ずーとお世話になっているお医者さんなのだが、良心的で、かつ、見立てが的確だ。全幅の信頼をおいている。今日そこで、マメが避妊手術を受けたのだ。カバ婆が連れて行ってくれた。

ゴンも去勢した。野良猫を拾って飼う際の、飼い主の当然のつとめだと、カバ&ヤギは考えた。

しかし、避妊手術の傷痕が腹に残るマメを、さっき二階のカバ婆の寝室まで見舞ったとき、

傷つけられ、わけもわからず、とにかく麻酔から覚め目覚めたら、なぜか腹が痛い状態で、わけもわからず胡散臭そうに、うつろな目でわたしを見つめながら、「みぃぎゃぁぁ、ぅぎ、ぎ」とうめき声のような悲鳴のような声で泣く猫に対し、

「まめぇちゃーん。おなか、いたいいたいなのぉぉ、かわいちょぉおおお、あちたになったら、きーっと、じゅーっと、楽になるからねぇー。がまんよ。がまん。がまんちてねぇ~」と猫撫でる爺は別として、

人間が自然をいたわったり、人間としての当然の務めだと考えたり、自然との共存を考えることの不遜を思う。

マメが可愛くいとおしい

ただ、わたしのケータイの待ち受け画面は、ゴンへの忠誠を誓う意味で、いまだ、たぶんこれからもずぅーっと、ゴンのブチャ顔写真である。

人間は不遜である

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1024日(金)究極の他者

昨日は血迷った。鼻水と微熱でぼーっとした頭では焼酎の摂取量を見極める意識は働かなかった。暴言を吐いてしまった。やはり、

風邪とは友達になりたくない

風邪のウィルスなど、この世から根絶させたらよい

・・・・

カバ婆の究極の他者はゴキブリである。ゴキブリを見つけたときの婆の行動を生々しく描写するには相当の筆力を要すると思う。瞬時に変化する表情、とっさの反射的動き、踏みつけるにせよ叩き潰すにせよ、その手段を一瞬に選ぶ熟練の技、仕留めた後の恍惚の表情、逃した際の執拗なる追跡を表現する技は、文学に値する。

ずーと前、括弧つき「他者」なんていうことをあれやこれや同僚とわいわい話していた頃、ちょっと先輩同僚が、いつものとぼけ的的得た(とぼけてきまとえた)表情で、「ごきぶりを、助けたい、って思う、人がいるかっ、って問題だ、ぅぅぅぅふ」と含み笑った。

しかり!やはり、徹底的に他者なるものは存在する。のかもしれない。

ただ、ゴキブリと言えば、懐かし面白い思い出がある。

名古屋大学の学生だったころ、友だちの下宿先に入り浸っていたことはいつか書いたと思うが、そのときの仲間の下宿仲間に、北海道出身者がいた。

北海道にはゴキブリはいない、いや今は温暖化で分からないが、30年前にはいなかったらしい、とその友だちの友だちは言ったらしい。(なんちゅう又聞き話

さて、文化的に、他者としてのゴキブリの存在すら知らないものは、そのゴキブリを見てどう思うか。

わたしの友だちの話では、あるとき、部屋で一緒にいたとき窓から飛び入った虫を見たその北海道者は、ただただ、見たこともない珍しい「虫」と認識したらしい。わたしの友だちが「うぁぁぁああっ、とわぁつ、ぐざえわぁぁぁぁ!」(彼はカバ婆と同じ人種だった)と大騒ぎするのを見て、その北海道は、ただただ呆気にとられていたと言う。

実は、彼(友だちの友だちである北海道出身者)は、映像等で、忌まわしきものらしい「ゴキブリ」なるものの存在は知っていたらしい。ただ、それが、空を飛ぶものであるという認識まではなく、窓からの闖入昆虫は、ただ単に「本土にいる変わった虫」としか理解できなかったらしい。

さて、今夜の焼酎エフォート率も90%ぐらいになっているから、そうそうにやめるが、

究極の他者はいない

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1023日(木)エフォート率

「エフォート率」というのがある。研究費なんかを申請する際に、「あなたは、他の研究や教育とは別に、この申請した研究にどれくらい没頭しますか?」ということを数値できくのだ。全体の教育研究活動を100%としてその割合を数字できかれる。

私の人生の生きざまを100%として、その研究に何パーセントかけますかというのを考えなければならないわけだ。

わたしはきょう一日の120%(寝ている時の夢も加算)を、TOEFLITPという、阪大でも学生に対して行っていて、その準備作業にわたしもかかわっている、英語の検定試験の実施準備に、実施マニュアルづくりとかの打ち合わせに、かけた。と同時に、ほぼ50%ぐらいの感覚で、あさって職場の仲間で行く讃岐うどんと屋島探訪のバスツアーの準備に奔走した。ただ、70%ぐらいの感じで昨日朝突然やってきた風邪(鼻水、くしゃみ、せき)と闘っていた。ふと、5%ぐらいの率で、「独り言」のことを考えコンピューターに向かった。いまは150%ぐらいで焼酎がうまい。

ということで、
いまやってることが一番やりたかったことだと思える一日でした。
風邪とも友達サッ!

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1020日(月)仕事が忙しくて

仕事関係の人と会うと、いつも会っている人でも久しぶりの人でも、

「真黒ですねぇ」「日焼けしてますねぇ」

と挨拶される。他に特徴のない爺のことだから仕方ない。週末は基本遊びでも仕事でも外に出ているのだから仕方ない。

「はいぃ、このところ仕事忙しくってぇ」と苦笑い。

「はぁぁぁ」とリアクションに困るうすら笑いの生返事。

昔、非常勤に初めて出向いた大学で、守衛さんに、「あのぉ、今年から非常勤でお世話になる森ですけれど控室は」と言ったら、

「体育館の方ですか?」と、逆にきかれた。

「いえ、英語です

英語教師は、やはり、色白が似合う、のかも知れない。

しかし、わたしは、地黒の英語教師なのである。

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1014日(火)日記

週末は10日~12日と福岡まで出張だった。

博多駅から西南学院大学というところまで歩いたこと(寄り道して2時間)、その際、大濠公園に感動したこと、帰り道、同僚を誘って夜の大濠公園を歩き再び感激したこと、そのあとホテル近くの安居酒屋でうまいビール(主観的評価)とちょっとしたつまみ肴と楽しい話を堪能したこと。以上が思い出。

13日(月)「おまけ」のような祝日

先週、奈那ちゃん(藤内小屋のお嬢様)に、「来週は行けないよ」とは言っておいたが、実は、内心「月曜日日帰り!」で強行しようとも思っていた。しかし、やはり少々疲れたので、やっぱり、家でぐだぐだのつもりだったが、カバ婆の提案で、午前午後に一件ずつと分かれている婆のヘルパー・パートの合間に、霊山寺(奈良のは「りょうせんじ」と読む)まで朱印をもらいに行くことになった。片道30分ほどの散歩。

婆は、先日IBS石井スポーツ(梅田店)で衝動買いした軽登山靴を馴らし履き。

以下、先輩同僚の「山歩きの記録」のスタイルをちょいとパクリ(御内密に!)

好天、汗ばむ陽気。田んぼのあぜ道風の小道を難なく霊山寺まで。「そういえば、彼岸花おわりだねぇ」などと暢気な会話。

高い拝観料(500×2人)を払い、散策。奥の院まで(1キロの標識あり)行ってみる。奥の院あたりは近大農学部キャンパスのお隣だった。(いつものごとくふらり脇の藪に分け入ったカバ婆についていくと、その先には近大の自転車置き場があった)

霊山寺の経営する「薬師の湯」に高い入湯料(600×2人)を払い入湯。サウナが気持よかった。

塀越しに「おーい、そろそろ出るぞぉ!」と、そろって上がったのだが、婆が遅いので玄関先に座り込んで待っていると、知ってる顔の人がたぶん松風さん(仮名)の奥さん杖を突いたおばあさんと娘さん(たぶん、栄ちゃん(仮名))を連れて風呂に入っていく。子どもたちの小さい頃のご近所さんだと思うが声をかけられずやり過ごす。

カバ婆が出てきたので、あれ松風さんだったんじゃないかなぁと言うと、わたしの背後に栄ちゃんがいたらしく、「あれぇ!栄ちゃんっ?」と声をかけるカバ婆。「はいぃ、そうです、栄です」と、そうそう、昔と変わらぬ耳慣れていたハキハキ声で栄ちゃんが近づいてきた。「なっつかしぃー!」としばし歓談。

ということで、久々の出会いで、カバ婆は脱衣場に戻り、しばし松風さんとの会話を楽しんだ。「おぉ~、この出会いふっしぎぃ!なにか、いいことある予感!」

カバ婆の上がってくるのが遅かったのは脱衣場にあったマッサージ機がとても心地よかったからだとか。ふだん、だ~ぁれも、揉んでくれんでねぇ、「600円は惜しくない!」とのたもうた。

打ち上げは「ポパイ」という近所のラーメン屋で、ポパイラーメン1杯、餃子一人前、生ビール2杯。2,100円也。

家に帰り、パートに出かけるカバ婆を見送り、ひとり2時間ドラマの再放送を見ながら第3のビール「麦とホップ」。うまい。

穏やかで静かな休日であった。

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1013日(月)余所のおじちゃんに叱られるよ

最近、電車の中で幼児や赤ちゃんがむずかりゴテてギーキー泣き叫ぶ場面に2度ほど出くわした。

赤子が泣くのは自然なことだが、おかあさんが「うるさくしてすいませんねぇごめんなさいな」と回りに気遣っても、「ええええ、泣く子は育つで、元気が一番だで」とニコニコ顔で答える余所のおばさんは、じつは、内心「近頃の若い親は子育てもろくにできん」と苦々しく思うのも、また人情であろう。

「うるさいーッ!な、くぅ、なぁ~ッ!」などとヒステリックに叫んでいる母親を見るとちょいといただけないが、まわりを気にしても仕方ない、赤子が泣くのも仕方ないと事態を受け止め、静かに赤子をあやす母親を見ると、彼女が一番疲れているはずだという思いとともに、同情がつのる。同情はつのるが赤子と酔っぱらいはやはり五月蠅いものでもある。

しかし、泣く子に「黙れ!」と怒鳴るのは、渓流沿いのキャンプ場に来ておいて、夜、管理人に「あのぉ、川の音がうるさくて寝られないんだけどぉ、どうにかしてくれないぃ?」などとクレームをつけるファミリーキャンパー(作り話かもしれないがありうる話かもしれない)と同類のような気がする。

疲れて帰途につく仕事人たちは、ほとんどが、ちょっといらいらしながらも、その車両に居合わせた不幸を恨み、知らぬ顔を決め込む。爺もそのひとり。

と、ふと、爺の頭に妄想がよぎる

・・・・

お母さんの腕に抱かれながらゴーゴーギーギー海老反り号泣を続ける赤子のもとに、みすぼらしいヤギ髭面の若爺がひとりスススっと歩み寄った。異様な気配を感じ海老ぞり赤子をギュッと引き抱きかかえる母親の顔に目をやり、作り平静冷静笑いの顔で両の手をスッと差し出し「ちょっと」といって子どもを渡せと催促のしぐさをするヤギ爺である。

母親は事態が飲み込めず「なんだなんだ?」とキョトン顔であるが、さして悪そうな男でもない、だが、こういう奴ほど異常者かもしれないと考える間もなく、差し出された両の手は泣き叫ぶ赤子の脇に回され、赤子はヤギ爺の腕に抱かれる。

さて突然の余所者の闖入に「なんだなんだ?」と泣くのを忘れ、一瞬だが呆然とみすぼらしいヤギ髭おやじの顔を見つめる赤子だが、そこは当然、先ほどにも増しいっそうと激しい鳴き声で必死の海老反りを再開する赤子であった。死に物狂いで母親の腕に戻ろうとする。

「きみぃ、電車の中では、静かにするものなのだよ、わかるかなぁ」と、ニコニコを満面にたたえて幼児を諭すヤギ爺がいた。

気味悪冷静ヤギ面爺の言葉に、子どもはさらに泣き叫び、さらに必死で母を求めるのだ。ここにきて、爺は、静かに赤子を母親のもとにかえすのであった。

そのとき、爺は、

これからは、「泣いてると余所のこわーいおじちゃんがさらってくよ」と言ってあげてください

といいながら、紳士らしくにっこり会釈をして、母親と赤子のもとを静かに、悠々と去っていくのであった。

赤子は、何が起こったのかも理解できず、ただ、再び母親の腕に抱かれた安堵から、静かにしゃくりあげつつ、母の胸に顔をうずめる

・・・・

と、ふと我に返ると、赤子は母親の癒しに応じたか、はたまた、泣き疲れたか、静かに母親の腕で眠るのであった。

赤子は泣くのも道理、寝るのも道理である

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109日(木)危機感

「ゆうちゃーん、ワイヤー外れるかもしれんし、切れるかも知れんで、危ないで、ちょっとよけといて!」

ふと周りを見ると、いっしょにスコップを振るっていた人たちがいなくなっていた。あわてて皆のいる方へ走る。

藤内小屋(御在所)の復旧作業の最中のことである。小屋のすぐ横までゴロゴロと押し流されてきた巨大な石が、蟻んこ人間たちによってエッサエッサとひとつずつこじり出されホイサホイサと引きずり落とされている。ピラミッド建造の、お城の石垣作りの大変さを実感させる作業だ。重機による「ぐわ~んどしゃ~ん」の作業を見慣れた目には滑稽にも映るが人間の力を悟る機会でもある。エンパイア・ステート・ビル(ふる~ぅ!)を立ち上げる文明の力もすごいが原始の人力もすごい。

さて、皆のいるところに退避し、エッサホイサの作業をながめながら、ワイヤーが外れて飛び跳ねる図を想像した。

たしかにワイヤーの先にあるデカイ鉄塊のフックは重そうで、それがビュゥーンと飛んできたら、さっきわたしがいたあたりに飛んできたら、わたしの頭に飛んで当たったらという可能性はないわけではない。

「危ないかも」を想像する力は人によるし場合によるが、しかしとにかく、判断が難しいのだ。わたしは極端な臆病者だから危機感は人一倍感じるほうだが、しかし、それが的を得た臨機に即した判断につながることはめったにない。ビビりすぎてかえって危ない。

岩登りを始めたころのこと

「ゆうじー!体をはなせーっ!しがみついてるからかえって怖いんだぁ!ずり落ちるぞ!離せって言ってるんだ!」
 「だってぇ~っ!あっ、あ、ああぁぁ~」(ズルズルズル

下から冷静に眺めればそれほど急でもない岩の斜面。ロック・クライミングの初級者用の岩場も、かじり付いているわたしにとっては垂直の岩壁に感じられる。怖い。

ひとは怖いとしがみ付く。地面に対して、たとえば6.70度の角度の斜面の岩場にかじりつけば、体もその角度になるわけだから、斜面にそってずり落ちる力が増す。ズルズルズルとなるわけだ。

「ゆうちゃーん、ちょっと怖いと思っても、ちょっと腕をのばして岩から顔を離してごらん!斜面にベッタリじゃなくて体を垂直に立てたらぁ、真下の方向に力がかかるで、足がステップに乗っかりやすくなるでしょうっ!」

理屈はわかる。体が動かん。

自分(たち)の感性、感覚のみの判断で危険を感じ、危機感を煽ることは、時に、大いに危険である。

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107日夜更け(火)依存症

最近、どんな些細なことでもインターネットで検索してしまう、依存爺

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104日夜(土)みんなの気持ち

たぁーーた、たんーーーーん、たたたぁ、たぁーーーーん、たぁああた、たぁーーーーーん、たたた、たあーーんた、たん

だが、わたしは、残念ながら、石原裕次郎はさほど好きではなかった。ただ、『太陽にほえろ!』はよく見ていた。

刑事ドラマで辛抱強く張り込みをする刑事の足元には煙草の吸殻が散らかっていた。そこに同僚がパンと牛乳の入った紙袋を持ってくるのである。恋人を待つ男の気持ちも吸殻が表現した。このようなシーンは「死シーン」(「死語」のもじりです、お恥ずかしい)になりつつある。石原裕次郎の喫煙シーンはかっこいいものではなくなった。

わたしはまだ50年しか生きていないが、それでも、ほんの数年の間に、「みんな」の気持ちが一変してしまった経験をいくつかしている。

たしかに、コミュニケーション手段が格段に急速に変化しているので、「みんな」の気持ちがわかったような気になる速度が早まり範囲が広がっている。急速に早まり広がっている。しかし、人の気持ちはなかなかわかるものではないというのが実感で(わたしの、にすぎないのですが)、だから「みんな」の気持ちが急に変わってしまうのが怖い気もすると同時に、これだけころころと変わるのだからかえって大丈夫かなという気もする。じわじわと伝わってくる敵愾心はじわじわと恐ろしい方向へ「みんな」を持っていくが、明日になれば敵が変わるのであれば、かえって、拍子抜けで、致命的な敵をつくらずにすむこともありうる。いい世の中なのかもしれない。

しかし、人の価値観を左右するような大切なことを、あまり簡単におこなえるような気になるのはよくないことだろう。

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104日午後1時過ぎ(土)すごい

美空ひばりは、すごい、としか、言いようがない。

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103日(金)価値観

「カバ子さん、これどうかねぇ?うちの父さんに、合うかねぇ?」
 「いい思いますよぉ、色めがなんか、おとおさんっ!って感じですぅ」
 「そうだねぇ、わたしもそー思ったんだがね。58百円だけど、いいかねぇ、まあやっぱり安もんはどうも安っぽい感じがするでねぇ、たまにはいいの買ったるかねぇ」
 「そうですよぉ、いつまでも若い感じでいていただきたいしぃ、買っちゃいましょ、買っちゃいましょおかあさん」

新婚当時わたしの母親とデパートに買い物に行ったカバ妻(当時)から聞いた話である。どこの家庭でもあるようなありきたりな話。

しばらく別れて別々に買い物をした後待ち合わせ場所に来た母親はほくほく顔だったという。

「カバちゃん、これ買っちゃったんだわぁ、安かったで。4万いくらかのやつが半額で2万ちょっとだったんだわ、どう?似合うかねぇ?」

まだ店内なのに袋から出して見せたのは2万数千円のハンドバッグであった。

58百円の夫のシャツを買うのにさんざん迷い2万円はサッと出す。カバ嫁(当時)は不条理を感じたという。母親は、それでも、帰りの車の中、「バッグ買ったのはちょっとなんしょ(内緒)にしとくかねぇ」と言ったらしい。

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929日(月)懸垂何回できますか?

職場仲間とBBQをした。とても楽しかった。マメ(猫)を連れていった。マメが木に登る。マメが下りられなくなるので木に登って助けた。楽しかった。カバ婆が木に登る。皆で笑った。

「カバもおだてりゃ木に登る

皆が木に登り始めた。大のおとながが無邪気にはしゃいだ。

ふだんの生活では身体能力の衰えを実感することが難しい。

ときどきジョギングをする。おいしくビールをいただくためだ。途中の公園の遊具を使って筋トレのまねごとなどもする。ただし、何しろここ一番の我慢が苦手な性質(たち)なので、いっこうに筋力はつかない。筋肉が張ってきて「ムムっ、そろそろ限界かな」というところからのひと踏ん張りが大切なのに、ちょいとだるくなったところでやめてしまうのだから無理もない。「汗かいてビール!」なのだからまずは仕方ない。

大学生ぐらいの若者が二人、鉄棒の傍で立ち話をしている。

「懸垂、何回ぐらいできるだろう最近運動してへんなぁ」
 「オレもしてないけどぉ、10回ぐらいはできるかなぁ」

少し離れて腹筋などをしていたわたしは、「いや、できん」と確信した。

「よぉーしぃ」と高鉄棒に飛びついた彼氏、3回目で腕が伸びた。ぶら下がり健康法状態

「ハァハァハァあれぇフゥフゥけっこうヒィヒできんもんだねウゥゥ体、もう上がらんゼィゼィ

そうなのである。頭で想像して「できるかも」と思ったことでも体がいうことをきかないことが多いのだ。20代においてすでに然り。もちろん、体育会系の部活を続けていたり、ふだんから肉体を使っている人は別だが、「1500メートルぅ高校んときの体育の時間で走ったきりかなぁ」といった若者や、「いやぁ、最近運動不足で、ちょうどいいからゴルフ始めたんですよぉ」といった40代サラリーマンあたりでは、確実に頭と体の分離が起こっている。100メートルぐらいは全力で走りきれるはずだと思っていても、半分あたりで足が回らなくなり絡まってコケるのが関の山だ。

「むかし、連続さかあがり、スカート鉄棒に丸めてぇ、そうねぇ、20回ぐらいは平気で回ったわよぉ!」というおばさん、2回でやめるべし。頭グラグラ目が回り地面にへたり込むのが落ちですよ。

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922日(月)ならば、何のために読んでるんだ!

自虐ネタが多いという指摘を受けた。性格だから仕方ないのです、申し訳ない。多少誇張してる場合もありますが、たいがいはリアル物語です。以下のも脚色なし。

山に行き始めたころ、にいちゃんの書棚に並んだ山関係の本を読み出した。(注:「兄」「兄貴」などと書こうとしたが、今後にいちゃんは「にいちゃん」として登場してもらうことにします。2年前に死ぬまで「にいちゃん」としか呼んだことがなかった)

新田次郎の『孤高の人』などもあったが、かなりマニアックな山岳文学があった。ラインホルト・メスナー(この名前は覚えていた!)の自伝やら『うんたら単独行』(今調べたら『ナンガ・パルバート単独行』だった)、高田光政(お会いしたことがあるので覚えている!)の3大北壁登頂についても書いてあった日本人アルピニストに関する本(書名は忘れた)、いまネットでいろいろと調べてみたのだが(便利な世の中だ)、ガストン・レビュファなんて人の本もあった。『星と嵐-6つの北壁登行』という本の表紙を覚えているような気がする。ヘルマン・ブールの『八〇〇〇メートルの上と下』もあった。『若き日の山行』(ジェラール・エルゾーグ)などという書名を見たような気がする。

御在所に行き始めてしばらく経ったころ、当時東京でにいちゃんのクライミング・パートナーのひとりだった遠山さん(仮名)がにいちゃんといっしょにやってきた。にいちゃんは大学時代からずーっと関東を拠点にクライミングをしていたのだ。

名古屋駅で待ち合わせをし、近鉄で四日市まで。ここでローカルの湯の山線に乗り換えるのであるが、四日市に遠山さんの知り合いがいる山の店があるということで、ちょっと寄り道することになった。クライミング道具(当時はまだ「ギア」などというしゃれた言い方をしていなかった)を片手に店員と何やら難しい話をしている二人を羨望の目でながめるにわか岳人ヤギ少年(当時)であった。

さて、山道を藤内壁(とうないへき)まで登るとき、遠山さんは、

「ふつう山道の歩き方ってことで、しっかりと一歩一歩平らな所を探して確実に踏みしめながら進みなさーい、というようなこという人あるけど、あれ駄目ね。転ばないようにってことだけど、それだと余分な力を使うってわけ。登るときも下るときも、岩や石の角に靴底をもってくようにするのが一番。スゥ、サッ、スーッって石から石へリズミカルに飛ぶように足を移動するわけ。接地面を中心に靴を「クルッ」と回転させるのね、そうすると、回転の力を利用して余計な踏ん張りせずに、ロスなく歩けるってわっけっ!」と関東弁で言った。(もちろん、背負っている荷物の重量によります)

かっこいーっ!と思った。遠山さんは当時すでに東京でクライミング・ガイドをしていたのだ。

調子に乗ったわたしは、「ほんとだぁ!楽に登れるー!」と、ひょろひょろよろけながらも、嬉しそうに言った。(バランスの悪いヤギ青年)

「ぼくぅ、最近、山の本読んでるんですよぉ、にいちゃんが家に置いてったのをぉ。面白いですよね、なんか、山歩きとかぁ、単独行とかぁ、岩壁登攀とかぁ、ちょっとマジにやってみようかなぁ、なーんて、このごろ、思い始めちゃってるんですよぉ

そうか、だが、まだまだだ。ゆうじは、まず、基本からしっかりしなければ駄目だ、というようなことを言われながらも、二人のバリバリクライマーと共に裏道(御在所の登山道のひとつ)を行く自分がなんとなくうれしいヤギ青年であった。しばらく歩いたところで、わたしは気にかかっていたことを尋ねてみた。

「あのぉ、さっきの山の店の名前、あれ、どういう意味なんですかぁ?」

?????

二人はしばし絶句した。やがて、初対面の他人である親切心から、遠山さんがおだやかに冷ややかに言った。

「弟さん、さっき、山の本読んでるって言ったっけ?」
 「はいっ!」
 「じゃあ、出てこなかったぁ?ヨーロッパとかさぁ、そっち系の本も読んだっしょぉ?」
 「はいっ、でもぉ、出てきた覚えがないなぁ

たまりかねたにいちゃんが苛立ち割り入った。

「おまえ、グリンデルワルト知らんのかっ!?」
 「はぁっ?なにそれ

「グリンデルワルトってのはね、マッターホルンとかアイガーなんかの登山基地なの。そんな山の名前、出てきたっしょ、本の中に?」
と遠山さん。
 「はいっ!マッターホルンなら知ってますぅ!アイガーも、北壁でしょ!」
 「んならぁ、グリンデルワルトも出てきてるってわけ、その本に。いったい、何読んでるの?」

「はいわたし、基本的に人名と地名覚えるの苦手で飛ばして読むことにしてるんですぅ

にいちゃんが叫んだ。

おまえぇ!それなら、何のために、山の本、読んでるんだぁ!!!

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920日(土)こりゃ、あかんわ

1974年、名古屋にはまだ市電が走っていた。この年に名古屋の市電が廃業したことは確かだ。高校入試に出かけるときに市電を使った。もうすぐなくなる、という記憶と共に鮮明に覚えている。

差し迫ってしなければならない重要なことがあるとき、駄目なのに、いかんのに、なぜか他の些細なことつまらんことをしたくなるというのは、かなり「普遍的」な感情ではないかと思う。そう言う人が多い。

子どものころのわたしはなぜか本が読みたくなった。恰好をつけているわけではない。英文科などに進み文学研究などを目指そうとしたのだからさぞかし文学少年だったかといえば、わたしはふだん本を読まなかった。(仕事のはずなのに、いまもあまり読まない。いまでも、やるべきことがある時に逃避で読む読書が中心だ

ただ、みなが夢中になっていたマンガを読むのは苦手だったのだ。昭和33年生まれの世代の男の子は少年マガジンや少年サンデーと共に生まれたようなもので、学校ではおこずかいで買ったマンガ本を持ってきた友だちからみな我先に「かしてーっ」「かしてーっ」と回し読みしていたのである。しかし、わたしは、マンガを読むのが極端に遅かった。「まだかぁ!」「おっそいなぁっ!」という友だちの急かしに、マンガを読むのがあまり好きでなくなった。なぜあんなに遅かったのかわたしは、本を読むのも極端に遅い。わたしは飛ばし読みができないのだ。(できるが、飛ばすと内容まで飛ばしてしまう)

ということで、わたしが本を読んだとすれば、中学生のころ試験勉強をやるべき時にどうしても他ごとがしたくなり、遠藤周作などを読んでいた、という記憶ぐらいだ。もちろん、純文学系より「ぐうだらシリーズ」の方が中心だ。

狐狸庵閑話(こりあんかんわ)

それと、小学生のころ憧れの女の子が読書好きで、彼女に気に入られようと当時230円だか280円だった子供向けの「アルセーヌ・ルパン・シリーズ本」を手当たりしだい読んだ覚えがある。フランスの不思議な雰囲気に酔った記憶が挿絵と共に思い出される。

こりゃ、あかんわ

中学生のころの友だちに北杜夫ファンがいた。「どくとるマンボウ」がどうやらこうやらいつもうるさかった。わたしがどうして狐狸庵先生を読み始めたか記憶がないが、とにかく、わたしは、遠藤周作の方が面白いと言い張った。北杜夫はろくに読んでいないにもかかわらず

どうしてお金があったのか覚えていない。しかし、当時まだ文庫本がなかった(と思う)『沈黙』を、薄茶色の固いカバー入りの単行本で買っている。『死海のほとり』は初版本を持っている。文庫本はすべて買った。わけもわからず、とにかく暇つぶしに、読んだ。『おバカさん』が好きだった。フランス留学の話を夢中で読んだ。

わたしは、ここでもフランスにあこがれフランス文学を勉強したいと思った。クリスチャンになりたいとも思った。まこと、単純な中学生であった。

この一週間、なにも書く気がしなかったのだ。理由はわからないが書くことがなかった。

ふと思い出したのが狐狸庵先生。中三のわたしは高校入試の下見のため市電に乗って出かけた。なぜかわたしは、その帰り道、狐狸庵先生の『ぐうだら○○』を買った(署名は忘れてしまった「人間学」だったように思うが)。最後の追い込みの数日間、わたしは勉強に手がつかず、その本を読んでいた。

狐狸庵先生は子どものころ「低能児」だったようで、毎日庭の花に水やりをしなさいと言われた狐狸庵少年、ある日雨の日に傘を差しながら水やりをしていたらしい。それを見た母(だったかな)は、あわててわが子を止めたとな、というような話があったことを覚えている。(たしか、遠藤周作、このエピソードはあちこちに書いていると思う)

なぜ覚えているかといえば、高校入試本番の1時間目、国語のテストの第一問、緊張して問題をながめた私は、思わず「アッ!」と声を上げた。傘を差しながら水やりの遠藤少年の話が、問題として採られていたのだ。

それからわたしは「偶然」を信じるようになった

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913日(土)やっぱりミンミンゼミとツクツクボウシだね

先日、マメ(猫)のトレーニングを兼ね、カバ婆とともに矢田丘陵を歩いた。我が家は矢田山の東側のふもと富雄川の対岸あたりにある。

住宅街を抜けるとちょっとしたハイキングコースに入り森の中のなだらかな上り下りを行くと2時間ぐらいで矢田寺に出る。ふと思い立ってジョギングがてらに出かける道なので矢田寺はなじみの寺だが、今回は朱印をもらいに行った。なにを思ったか、婆と大和十三佛霊場めぐりなどを始めたのだ。お寺へ行って朱印をもらってくる。300円也。大和西大寺を皮切りに、まずは近場から長弓寺、矢田寺で3つ目だ。

住宅街を行くとマメの気が散りとても散歩どころではないので、今回は途中の「矢田山遊びの森」の駐車場までは車で出かけた。

山道でのマメはあいかわらず颯爽と歩く。カバ婆の行く先を確認しながら黙々と歩いたり、猫らしく突然立ち止まり警戒ポーズを取ったかと思うと「マメ、行くぞっ!それ、一、二ぃさんっ!」とリードを「ククッ」と引くと「シャッ、サッツ、サァー」と豹のように駆ける。婆を通り越し脇の木に駆け登る。かわいい(また始まった猫っ可愛がりキモワル爺ぃ)

やはり、人の気配がするとどうしても警戒し、おどおど隠れ場所を探しパニック状態になるのだが、そういう時はさっさと肩に乗せ通り過ぎることにした。しばらくすると自分から飛び降りまた歩き始めるのだ。

ということで、ここは今ではツクツクボウシの大合唱だ。時に少し遠くから「ミィーン、ミン、ミィーーーーン」が聞こえてくる。ふと蝉の声が止むと叢は虫の音の真っ盛り。何しろ低山も低山なので、蚊やブユがまだいるのは厄介だが、爺婆猫の散歩にはちょうどいい。

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912日(金)過剰保護の咎

この夏は、庭の草むしりを任された。ただし、カバ婆の畑や植え込みには立ち入り禁止。ご存じ、爺には「雑草」とそうでない植物との区別がつかんのだ。手を出していいのは婆が何も植えていないはずの部分のみ、そこは雑草のみ生えている。

夏の初め(春の終わりごろ)、そろそろ草が目立ち始めた庭をまじまじとながめる。そういえば、子どものころは、いつもしゃがみこんで、間近に地面を見ていたなぁ。うちの庭には蟻が多いかぁ?こんなにいたっけ?それにダンゴムシ。異常発生か!ウジョウジョおるぞ、こうして群がっているところをみると、『ナウシカ』のオームのモデルにまちがいなく思える。

雑草といってもいろいろあるわけで、なかには、かわいらしい花を咲かせたり、つつましげに生えるものもある。「これかわいいぃっ!なんていう草ぁ?」「どれぇ、カタバミだがね、夕方になると葉っぱ閉じるんよ、知らんの?」「これは?」「よく生えとるがねぇ、なんだか知らんわ」「なーんか、地面にへばりついて、弱弱しげで、緑がきれいで、茎の部分の紫がアクセントで、いい感じ、だね」「そ~おぉ、これ、ウジャウジャ生えるよぉ」

ということで、他の、よく見知ってはいるが名前は知らない、私でも雑草であるとわかる草はすべて引き抜き、このカタバミと、いとおしげ緑&紫の草を「育てる」ことに決めた。毎日、たばこを吸いに庭に出るのが楽しみになった。

ある日、「ねぇねぇ、あの草、この草ちゃう?」「なになに。そうだねえ、これだねぇ」「ニシキソウ(錦草)ゆうんやぁ、あれ。やったね!わし、初めて図鑑で花調べたぞ!」「いかったねぇ、えらいねぇ」(これこれ、バカにすな)

しかし、この錦草、曲者であった

毎日幾度か庭に出る。最近では、マメ(猫)の散歩に何度も出る。しかし、ふと気がつくと、庭に何か所もニシキソウの群生の「島」ができているではないか。知らぬ間に太く伸びた茎はドギツイ紫色になり、なかには、ムニュゥっと首をもたげ、偉そうに上を向くものもある。

「婆ぁ!大変だァ!庭がとんでもないことになっとる、ニシキソウがウゲウゲ栄えとるぞぉ!」
 「そうだよ、だからいったでしょぉ」

ということで、昨夕、汗をかきかき、一斉にニシキソウ退治をすることになったのである。

無知な人間が、独断的判断のみで一方的に自然を保護すると、碌なことはない。

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911日(木)不器用な人

同僚が死んだ。42
 不器用な人だった。

「もりさん、蟹たべにいきましょう」
 「いいですねぇ」

事情を聞くと、家に「ピンポーン」と来た人が、なにやらうまいことを言って「年会費を払うと店で蟹食い放題!」という勧誘をされ、断れぬままけっこうお高いお金を払って会員になってしまったのだという。

人付き合いのうまい人ではなかった、と思う人が多いと思う。

職場の仲間の年度末の打ち上げパーティー。わたしの大嫌いな立食だ。とちゅう、彼がニタリ顔で寄って来て言う。

「もりさん、きょう、このあと、食べに行きます?(おいおい、「飲みに行きます?」だろがぁ!)このへん、私のショバなんで、おいしい魚の店しってるんです、安いんです」

皆が2次会でカラオケに行くのを断り(わたしはカラオケ大好き人間だ)、おいしい安い魚の店に行く。男4人。たのしい酒宴であった。このまえの3月のことだ。

来年の打ち上げには、もう、彼は、いない

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99日(火)役立つ人

いろんな人と電話したりメールしたりしているうちに少し落ち着いた。

急場には役立つ人とそうでない人がいる。こういう時に普段の仕事やら趣味やらが生かされるのだな

土石流で壊滅的被害を受けた御在所岳北谷(この谷に沿って裏道があり藤内小屋がある)の週末、どこからともなく、ありんこのように人が集まり、スコップで土砂をかき出し、チェーンソーで倒木流木を切り出し、机やテーブルを持ち出し洗い、小物類できれいなものを取り出しと、圧倒的な自然の力の前には蟻ほどの人の力もまんざらではないという思いがした。

まわりの被害、惨状を見ると、藤内小屋の、とくに母屋の部分が原形を留めてしっかりと立っているのが、不思議だ。正巳さん(小屋の主人)の場所選定は確かだったのか

藤内小屋を復旧するのか取り壊すのかは、わからない。とりあえず、地元山岳会や名古屋あたりの山岳会、御在所を愛する人たち、藤内小屋を宴会場だと考える呑み助の常連たちが集まって、がさごそえっさほいさの作業がしばらくは続くのだろう。あとは佐々木家の人たちの気持ちが尊重されるだろう。

登山道がどのようになるのかもわからない。地元役場や土木事務所や警察が係わるのだろう。ただ、誰だかわからないが(一部知人ですが)山に入る人たちが「自然に」道を作る。もうすでに新しい道筋ができつつある。

「リセット」「更新」という言葉が何やら白々しい雰囲気を纏う現代コンピュータ社会だが、今は無き裏道の跡を辿りながら、一変した風景を見上げながら、不敬にもカバ婆と共有した思いは、「すごい!」であった。見慣れないその風景は新鮮でもあった。

・・・・

ご存じカバ婆はその名の通り普段はドタぁーっとごろ寝好きで、「あー暑い暑い、なーんもする気がおきん」「今日も元気だアイスがうまい!」「おー腰が痛てぇー痛てぇ、クマ太郎、たまにはかあさんの腰踏んどくれぇ」なのである。「おい、たまにはいっしょにジョギングでもいこうやぁ!」と言えば「わし生きるだけでせいいっぱいやねん、あんさんみたいな暇人とちゃう」

しかし、このカバ婆、その体形からは想像もできないのであるが、山に入ると、すごい。

短い脚だが回転が早い。ズンズン山道を登っていくその姿は、壮観である。意外にも水中をすばやく動くカバそのものだ。藤内小屋での復旧作業でもそれなりの仕事を見つけ、目立つほうではないが、それなりの働きをする。

しかし口が悪い

「爺ぃ!そんなことならあたしでもするわぁ!ほんと不器用やのう!はずかしぃ!このぉー、色は黒いが軟弱な、この役立たずシチー・ボーイがぁ!」

私は基本的に汗は流す。「これあっちに持ってってぇ」と言われれば切り出した流木の破片を片付けるし、スコップを持たせればとりあえず土砂の掻き出しぐらいはがんばるのだ。まあ、一服だけは人一倍する。

さて、カバ婆の罵倒は、故ないことでもない

一日の作業も終わりに近づき皆が「ごくろーさーん、また来るわぁ」と三々五々山を下り始めたころ、小屋の壊れてしまった入口あたりに土嚢を並べて帰ることになり、神谷さん(小屋のご主人の娘さん奈那ちゃんの旦那さん)の指示のもと土嚢作りを始めた。ヤギ爺も最後の力を振り絞り「頭、技術のいらん仕事ならまかせなさーぃ」とスコップで砂をつめる手伝いを始めた。婆もできた土嚢を運ぶ。

「いてててて、腰、だいぶきとるわ

こういうときはやっぱ男、「あんたもうええで、わし、運んだるしぃ」と爺の出番である。土嚢の口を縛り、ヨイショっと運びかけたとき、隣で作業していた仲間が「こーやって結ぶんよ」と言って縛り方を教えてくれた。袋の余った部分を折りまげ巻き込み、くるくるーとひもを回し、キュッと引き絞る。「こうせんと砂がこぼれてしまうで」と優しく笑った。

その瞬間の婆の罵声である

「爺ぃ!そんなことならあたしでもするわぁ!ほんと不器用やのう!はずかしぃ!このぉー、色は黒いが軟弱な、この役立たずシチー・ボーイがぁ!」

ヤギ爺の作った土嚢の口は、きれーな蝶々結びで結ばれていた

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98日(月)藤内小屋が

何回もコンピューターの前に座ったが、何も書けない。

92日から3日にかけての記録的集中豪雨で、御在所岳の裏道がなくなってしまった。土石流、自然の驚異。

藤内小屋のまわりは、巨石がごろごろ重なる幅広の谷になってしまった。まさに竜が走った痕だ。

半ば土砂に埋もれ倒木が突き刺さった藤内小屋人が集まり、呆然とみつめた。

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92日(火)技術より道具

クマ太郎の幼なじみの女の子と付き合いがあり(不道徳なものではありません)、こないだ久々のケータイメールで、(本分引用)「ちょっと相談があるんです!9月の半ばくらいに友達と自転車旅行しようと思ってるんですけど、何が必要かとかアウトドアの心得とかを教えていただけませんか??」と言う。クマ太郎と同級生だから大学1年。友達とは女友達で、女子大生二人旅だとのこと。その後のやり取りで、日程、目的地などわかっているが、不届き者がこの文章を読んで不心得を起さんとも限らないので、詳細は書かない。

とにかく一昨日自転車を駆ってオッサオッサと家まで来たので、ビール片手にテントやら野営用炊事用具やらの使い方を「講習」し、「おっちゃん、すごいなぁ、これ、借りてってええの?ありがと、すっご、楽しそう、これ最高やわぁ」と言って、一式持って帰った。カバ婆と「うちも、○○ちゃんみたいな、男の子、ほしかったわぁ」と、微笑みながら後姿を見送った。

ということで、わたしのような似非アウトドア派でも「道具」への愛着がある。道具とは、それなりのものでもとりあえずの技術と相まって、生活を楽しくする。家(テント)をササっと立て台所(バーナーやクッカー)を準備してビール片手に晩飯を食うキャンプ生活は自己満足の極致である。

が、道具は人を惑わす魔物でもある。

スキーが下手なことはすでに書いた。スキーを始めて5年ぐらい経って、量販スポーツ店のセットで格安で買ったスキー板が壊れ、直すより買ったほうが安いという資本主義経済原理のままに、同じ量販店で新品を買おうと思ったら、世は「カービング」のソリ全盛期になっていた。

スキーの基本は、ソリを八の字にして下る「ボーゲン」を卒業したら、つまりは、ソリの縁(へり)「エッジ」を上手に利かせ、右、左、みぎ、ひだりと体重移動をして、上半身を安定させたまま、ソリを回転させることである。初心者には、この「エッジを利かす」というのが、まこと、難しい。

カービングのスキー板というのは、もちろん、コンマ何秒を競うプロのスキーヤーが、少しでもエッジを利かす時間を早くするために開発された究極の道具である。このレベルにおいて、技術と道具は、完全に一体となり、新たなスキーの世界が開ける。

さて、スキー板を買い替える羽目になった爺ぃが、「いまはカービングしかありません」という店員の説明に「わし、初心者なんですが」と躊躇したが、「格安のセットがあります」と言うので「ならば、カービングで」ということで、靴+ソリ+ストック格安セットを再び購入し、いつもの年末スキーバスツアーに出かけたときのこと。

「もりさんんっ、うまくなったんちゃう、きれーなシュプールできてんでぇ」
「きれーにまわってんでぇ」

と、大絶賛。が、

「スキー、カービング?なーんだ、ソリで回ってたんかぁ!」

ということになった。「ちがいますってぇ、ぎじゅつっ!技術のこうじょお!」

ツアー中の話題はもっぱら「カービングは優れもの!」に終始した。本来、膝を「グッ」と入れてソリの内側を「ググッ」と押すようにしてエッジを利かせるのであるが、たしかに、カービングの板を履くとちょっと体重を傾けただけでエッジが利くのである。

若いころからスキーを始め、膝を「クッ」と入れてエッジを利かすことで見事にスキーを回していた上級者の友人たちが、その次のシーズン、こぞってカービング・スキーを購入し、技術と道具の調和を示したことは言うまでもない。

さて、先のさわやか女子大生のためにキャンプ道具をごそごそ探っていた際、むかーし買った簡易包丁研ぎ器(シャープナー)が出てきた。溝に包丁を挟み、シャーッ、シャー、シャーァと数回引けば、簡単に包丁が遂げるという代物だ。

今日、カバ婆がパートに出かけている間に、なまくらになっていた包丁をシャー、シャーァッツとしておいた。

「おおぉっ!包丁といだん?よう切れるわぁ」
「おう、これでね
「なんだ、やっぱりね」

ちょっとまえのことだが、砥石を使って刃物を研げる男!を目指し、家の包丁を使って、何度も実習していたことがある。インターネットを知らべ、本屋で『包丁の選び方・研ぎ方』などという本を立ち読みし、カバ婆には内緒で、必死に練習したが、結局モノにならなかった。

さんざん、みっちり、しっかりと研いだあと、料理を始めたカバ婆は、きまって、「なーんか、包丁なまくらになってるわぁ」と言い、茶碗の糸尻(底のギザギザしたところ)に包丁を当て、「シャッ、シャッ、シャッ」と研いだのである。包丁ぐらいなら、ちょっと器用に行えば、ギザギザジャリジャリの糸尻で十分砥げるのだ。「あぁ、包丁砥ぐなら、糸尻糸尻、よー切れるようになったわぁ」とカバ婆

情けないことではあるが、ヤギ爺には、やはり、技術より道具なのである。

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831日(日)いつもの夏でした

今朝ツクツクボウシが鳴いていた。もちろん、秋の虫もまだまだ練習中だが鳴き始めている。たまに煙草を吸いに出たり、マメ(猫)を散歩に出す時だけの自然観察者では、事実に迫ることはできない。

梅雨蝉しぐれツクツクボウシ秋の虫という季節の流れを、ただ観念的にとらえていただけのヤジ爺。ちゃんと観察してから発言しましょう

あれぇ?「観念」って「観て念ずる」んじゃ仏教の言葉だよなぁ。本来は「ちゃんと観察して考える」ってことか「観念する」は「あきらめる(諦め/明らめ)」だもんなぁ「観念」って言葉、使うの怖いねぇ、むずかし。

うぅん、言葉を知らん爺ぃだのう

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829日(金)こだわり

蝉の鳴き声が聞こえない、虫が鳴かない、夏でもない秋でもない、という日が続いた。わたしが聞かなかっただけかもしれない。だが、不思議にも、わたしの家のまわりでは、そういう日が数日は続いたような気がする。このところの天候の影響か。だが、やっと今日虫が鳴き出した。

なぜかこのところ音にこだわってます。

先に書いたように、その間職場のあたりではまだクマゼミが鳴いていた。それから、水曜、木曜と10歳年下の同僚家族(小学校4年生のおねえちゃん、3年生のおとうとがかわいいのだ)と京都の山奥にキャンプに出掛けたのだが、そこはすでに秋の虫の合唱。「キョ~ン」「キュン、キョン」「キャン、ケン」とシカまで鳴いた。そういえば、日中は「ミーン、ミン、ミィーーン」とミンミンゼミも鳴いていた。

職場に音声の研究目的に使う無響室というのがある。中に入り扉を閉じると、音が無い。厳密にいえば自分が生きている音のみが聞こえるのだ。怖い。

都合のいい音だけ聞こえ嫌な音はシャットアウトする「勝手に嫌ホ~ン」が欲しいよぉ、ドラえもん。(『ドラえもん』のことだ、そんな道具きっともうあるかな

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826日(火)蝉(ノスタルジア)

職場のある大阪府豊中市あたりはクマゼミの大群だ。木一本に群居し「ジャンジャンジャン、シャンシャンシャン、ジャンシャンジャンシャンシャン」とけたたましい。まだ鳴いている。

子どものころの名古屋市瑞穂区あたりには、ニイニイゼミが一番多かった。それからアブラゼミ。夏の終わりにツクツクボウシ。

ランニングに短パン、首から掛けた虫かごと三段に接げる自慢の虫取り網。頭には麦藁帽のわたしは、夏休みの間は1日に何度も「むしとりいってくるー」と近所を巡回した。庭に桜の木を植えている家がかなりあった。歩いて15分ぐらいのところに村上神社があった。虫が大好きだった。(今日は「なーつがすーぎぃー」とは歌わない、今は職場で昼なのだ)

地方によって差があるだろうが、わたしの名古屋市瑞穂区あたりでは、わたしが小学校中学年ごろまでは、家で遊んでいるときは下着のランニング!という子どもがまだいたのだ。わたしの母は洋裁をしていたので、夏の普段着のシャツ(アロハシャツのような形のシャツ)は母の手作りで、10歳ぐらいまでは既製品のTシャツなどというものは着ていた覚えが無い。

思えば、そのころの数年(昭和40年前後)というのは、わたしの身近な「文化」(服装、食い物など)は劇的に変化した。中学生のころ「今の子どもたちはランニング着とらん」というような「大人の」感慨を漏らしたように記憶している。そういう自分は、母親が問屋(名古屋には「長者町」という卸問屋街があって、母は洋裁内職の関係でそこに出入りしていた)でかってくる「ダサい」柄のTシャツをそろそろ嫌だなぁと思うようになっていた年頃だった。

「いまの子どもは」という「変化」「喪失」に対するノスタルジアは、今も昔もである。

・・・・

昔(2000年)書いた文章からの抜粋:
(これは、レイモンド・ウィリアムズというイギリスの思想家が、The Country and the Cityという本の中で、ヨーロッパの「牧歌の伝統」という、まあ都会人の自然愛好心や自然がなくなってきたことへのノスタルジアのような気持ちが、今(この本の出版されたのは1973年)からさかのぼり数年前の本、1930年ごろの本、1910年ごろとさかのぼり、端折りますが、イギリスの文献を探っていって、19世紀にも、18世紀にも、16世紀のトマス・モアの『ユートピア』にも、中世の文献にも見受けられる、当然ながら、聖書の「エデンの園」だってそうであります、また当然ながら、ギリシャ・ローマ、もっと前と、ずーとずーとさかのぼれます、というようなことを言っていることについてちょっと論じた文章のあとの脱線部分です)

先日「いまどきの子供たちの遊び」という〔テレビ情報番組内の〕特集を見た。ベーゴマは今では紐でまわす必要の無いメカニカルなものに変わっているし、女の子たちはカード式の電子通信で「交換日記」を楽しんでいる(注:2000年当時はまだ子供たちにケータイは普及していなかったのだすでに「今は昔」)。なんといっても暑い夏はクーラーの効いた部屋の中でのテレビゲームに限る。子供の一人が、「子供は風の子」だからと言って涼しげにクーラーにあたっている姿を見て、呆れ顔の司会者は、レポーターに「あの子に「子供は風の子」の正しい意味を教えてあげたか」と冷ややかに言った。確かに、今の子供たちはあまり外で遊ばないようだ。

だが、ふと自分の子供の頃のことを思い出した。今から30数年前、あの頃、テレビが普及しそろそろカラーテレビも出回り始めた頃だ。「テレビっ子」という言葉が親からいただいた私の名前のひとつだった。夏休みともなると朝から再放送の「夏休み漫画大会」、昼は教育テレビの教育番組、夕方も再放送の漫画やドラマ、そして夜はいつものと一日中テレビの前に寝そべっていた姿を思い出す。確かに、蝉取りもした。半ズボンでランニング姿に、肩から虫かごを下げ、虫取り網を片手にポーズを取っている少年の自分の姿がアルバムの中にも残っている。しかし、時代の子はやはり「テレビっ子」であった。そして、そろそろ「もやしっ子」という背は高くなったが体力がない子供の問題が浮上してきた頃である。当時の大人たちも、「いまどきの子供は」とやっていたわけだ。

先のテレビ番組で、まだ20代だと思われる若いレポーターが着ていた衣装は、麦わら帽にランニングシャツ、半ズボンをはいた足には草履を引っ掛け、肩から下げた虫かごを落とさないように網を持つ手を時々引き上げていた。彼は本当にそんな姿で夏休みを過ごしていたのだろうか。

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822日(金)今年はツクツクボウシが鳴かない

ツクツクボウシが鳴かないのは、奈良市西部一帯だけであろうか。

子どものころから、というより、子供のころのツクツクボウシの鳴き声には、個人的な思い入れがある。ツクツクボウシが鳴き始めると、楽しかった夏休みも終わりに近づき夏休みの宿題に焦り追われる自分、と重なるのだ。

「な~ぁつが、すーぅうぎぃいい、かぜぇ、あざあみぃ~いいい」(ノスタルジスト・ロマンティスト・唯の酔っ払い・ヤギ爺)

毎年今頃、(これはほぼ確実毎年)「あ、ツクツクボウシが鳴き出した」と言うのだ。

しかし、今年は鳴かない。

梅雨も終わり「カーァ」という暑さがきてしばらくしてから、突然、蝉(アブラゼミ)の大合唱が始まった。「きょう今年初めて蝉の声聞いたよ」と報告する余裕もなく始まった蝉の轟音。だが、ふと気がつくと、知らぬ間に蝉の声がしなくなっていた。蝉発生の周期はまこと不思議だな。

さーて、来年は、どんな夏になるだろう。楽しみだ。

平均して見ると毎年確実に北極の氷山が溶け出しているとか、統計的には年間平均気温が確実に上がっているとかいう話を聞くと、悲しくなる。しかし、去年とちがう今年、今年とちがう来年を見つけると、なにか楽しくなる。

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818日(月)続・アイデンティティ

故あって6月からもう1匹猫を飼うことになった。今度は、クマ太郎が拾ってきたのだ。

わたしは反対であった。ゴン(「28日(金)人の振り見て」参照)とうまくいかないのではないかという懸念を直感したのだ。

じつは、しばらく前から、カバ婆は「もう一匹猫がいたら、ゴンももう少し落ち着くかなぁ」と言っていたのだ。このところゴンがやたらニャァニャァ鳴いて、精神状態が不安定のようだったのだ。クマ太郎は母のその発言を「もう一匹猫が飼いたい」と解釈したようだ。「かぁあさあん、友達が捨て猫拾って、下宿だからどうしようもなく、どうしたらいいか言ってるんだけど、どおしよう?」と電話してきた。「拾っちゃったんだったらしょうがないでしょう、しかたないねぇ」となり、「爺ぃ、クマ太郎が猫拾ってきたらしいが、しゃあない、連れてこさせていい?」となることは、お見通しだったはずだ。

ということで、家に推定生後4か月の猫がきた。

残念ながら、今のところ、わたしの懸念が的中した形になっている。ゴンは体格のいい9歳去勢オス猫であるが、蚤の心臓で、これまでわがもの顔に振舞っていた「我が家」に闖入したチビメス猫が無邪気にじゃれつくのを、攻撃行動とでも思うのか、「ふぅしゅぅうううぅ」と威嚇声を発し「うぅうぅぅぐぅうううう」とうなり声をあげるが、逃げ惑うのはゴンなのである。挙句の果ては、ほとんど家に居つかない、ご近所迷惑放浪猫になりつつある。ゴンの鳴き声がご近所迷惑であるから落ち着かせようという婆の意図は完全に裏目に出た形だ。

それみたことかだからわしは反対だったんだと憮然と非難しながら、しかし、「ちびーぃ、こっちおいでぇ」「まめぇ、ちっちゃーぃ!おじいちゃんだよん!」となったのは前回同様である。まこと、情けない。

捨て猫や捨て犬をかわいそうだと同情し「大切な命」ということで救うことなど人間のエゴでしかないような気がする。だいたい、そんな「理念」をとおしたら、地球上生き物だらけになってしまい、それに、「かあぁいいぃ!」とか「りりしぃ!」とか「あたまいいっ!」ということで救うのは「生きとし生けるもの」を大切にする信条からはずれるので、ゴキブリやらドブネズミやらも救わねばならず、困ったことになる。だいたい、せっかく子どもたちが大きくなり、これでやっと爺婆ふたり、山にも行こうキャンプにも行こう楽しい格安バスツアーじゃ!老後を楽しもうぜ!と手を握り合ったばかりに、どうしてまた子猫など飼うのだ!ご近所にどう申し訳するのだ!

ということで、ゴンはすでに間に合わぬが、チビ(あるいはマメ、あるいはメイ)のほうは、「アウトドア・キャット」にすることにした。

捨てられたのも運命我が家に拾われたのも運命だろう。野生の本能のままに生かせてやりたいなどとは無理な話で、拾ってしまった罪は大きいが、ここは勝手に、普段は家から出さず、お座敷猫となってもらう。外出のときは犬のようにリードにつながれよ!お散歩猫になるのじゃ。

http://www.lang.osaka-u.ac.jp/~mori/hp/index.cgi?action=ATTACH&page=%A5%E4%A5%AE%CC%EC%A4%CE%C6%C8%A4%EA%B8%C02008&file=%CC%EC%A1%F5%A5%DE%A5%E1%2EJPG

「マメ&ヤギ爺」(画:カバ婆)

ということで、週末婆と二人で出かけるときには、マメ(あるいはチビ、あるいはメイ)はいっしょに連れていくことにした。先日御在所登山に出かけた。「クライマー・キャット」の誕生である。

爺婆の不安をよそに、マメ(山行中この呼び名に定着しそうになった)は、山道をぐんぐん歩く。婆を先頭にし、爺が後ろからリードをさばきながら操るのであるが、マメは婆の行く先を目指しずんずんついていく。喜び勇んで散歩する飼い犬のように、リードを引っ張りながらどんどん駆け登る。わきにそれたら「マメ!こっちだっ!」と言ってツンツンリードを引っ張れば、ちゃんとそちらに走るではないか。残念ながら、人が通りかかるとそこは猫の本能、ササっと身をひそめしゃがみこんで動こうとしない。しかし、「あれぇ、犬かと思ったら猫だぁ!山で猫見るのは初めてだぁ!」「かっわいいっ!子猫ちゃんだぁ、うわぁぁぁ、かわいいぃ!」と人が通り過ぎれば、しばらくしてまた歩き出す。なんやかんやで、御在所山頂までの往復をほぼ自力で完登した。やがて慣れれば、完璧な「ハイキング・キャット」の誕生も近い。

http://www.lang.osaka-u.ac.jp/~mori/hp/index.cgi?action=ATTACH&page=%A5%E4%A5%AE%CC%EC%A4%CE%C6%C8%A4%EA%B8%C02008&file=039%2EJPG

「いいぞぉ!マメぇ!人が来て怖かったら、ぴょ~んと、ほら(トントンとわが肩を叩きながら)、ピョンとここに飛び乗ったらいいぞぉ!おとうさん(爺ぃの間違い)の肩に乗って通り過ぎればいいからなぁ!」

人間のエゴはまことに悲しい

夕方、藤内小屋の前で帰り支度を始めた。マメは藤内小屋でも人気者となった。「あれぇ、犬はよう来るけど、猫は初めてだわぁ」

「じゃあ、そろそろ、帰るわ。また来るで」

「あれぇ、ネコちゃんもう帰るのぉ!」
「こんども連れてくるんでしょう、またおいでねぇマメちゃーん」

マメを連れて来て連れて帰るのは、わたしなのであるが

森さんの弟さん、Gちゃん(カバ婆)の旦那さん、ブタ子ちゃん(あるいはクマ太郎くん)のお父さんの次は、

「マメちゃんの飼い主」だ。悲しきかな、わがアイデンティティ

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812日(火)におい人それぞれ

ハーレーダビッドソンのバイクの排気音は、そのにおいとともに、その筋の人にとってはたまらないそうだ。ドゥドゥドゥドゥという腹に響く音にシビレるという。ガレージに漂うその臭いがたまらないという。

わたしは、残念ながら、そうは思わない

少し年配の同僚と「不快な臭い」を話題に話をしていた時、子どもの頃、田舎で、ボンネットバスが通ると、そのあとを、数人の遊び仲間と、走っては、追いかけて、競ってその排気ガスの匂いを嗅ごうとしたものだという、思い出話を聞いた。

ボンネットバスの排気ガスのにおいが何やら「文明の香り」がしたと言う

実は、この点については、残念ながら、ちょっと同感である

藤内小屋では発電機を使っているのだが、酔っ払ってふらふら外に出て酔いを醒ましているとき、きれいな山の空気に混じる発電機の排気の匂いは、裏から遠く聞こえてくるダダダダダダダダという音とともに、わたしにとって「山小屋の匂い」の一部である。

その先輩にとっても、田舎のバスの排気は「子どもの頃の匂い」の一部だったのだろう。

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87日(木)あらたな脅威

今日はろくな仕事もないし(いえ、まじめに働いてます!)、なんせ暑いし、ということで、サンダル履きで通勤しました。最近学生さんのサンダル、草履、スリッパはあたりまえなので、教員もたまにはいいでしょう。

しまった!と後悔した。

通勤時間は避けての電車だからそんなに混んでいなかったが、つり革につかまる私のまわりにまた女性がいたのだ。ただし、今回は、痴漢冤罪の恐怖でも香水害でもない。

ハイヒールだ。

先のとがったハイヒール、最近では数は減ったように思うが、今でもそこそこいるんですね。若い人なんかで洒落たつもりだけどまこと無様な歩き方で、「あんた、運動靴の方がええよ」といいたくなるようなことがある。

で、電車のわたしのちかくに、ハイヒールがいたのである。サンダル履きである。ガタッと揺れて足がぐらついたら、きっと、生足に、突き刺さる

わたしは、いそいで別の扉近くに移動したのであります。

ハイヒールなんてぜったい体によくないでしょ。健康増進法で規制できないかなぁ。

ハイヒールで踏まれた経験ありますか?わたしはあります。靴の上からでも相当痛い(わたしはズックしか履かないからいけないのか革靴なら対抗できるのかもしれない)。だから、生足サンダルの自分を後悔したのです。やはり生足で人ごみに出てはいけないのだ。でも、生足で外出しても人には迷惑はかけないかなハイヒールは人に危害を加える凶器にもなります。市町村のめいわく条例なんかで、規制できないかなぁ。

ハイヒールは都会には似合わない。のどかな田んぼのあぜ道か、のんびりハイキングの山道で、ゆったりと楽しみましょう。

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86日(水)ホームセンター

もう20年ほども前になる。小さい子どもたち(ブタ子2-3歳、クマ太郎生後2か月ー13か月)を連れてほぼ1年間家族でアメリカ生活をしたことがある。

近所にWal☆Mart(ウォル・マート)があって、「日用雑貨品店」というにはあまりにも大きく、見上げる棚の列と巨大なカートに、巨人の国のガリバーの思いをした覚えがある。今でこそ日本中どこにでもあるホームセンターであるが、それまでのわたしの生活圏にはホームセンターはなく、わたしにはまるで夢の国で、買い物に行くたびに迷子になるのはわたしであった。

さて、アメリカのお父さんたちも、大工道具のコーナーやアウトドア用品のコーナーでうろうろしていたように思う。なにしろDIYDo It Yourself)の国だから当たり前だが、意外にキッチン用品(鍋やかん)のコーナーも人気であった。じつは、わたしもここが好きである。

bricolage(ブリコラージュ)というフランス語があり、日曜大工の意味だが、レヴィ=ストロースという人類学者がちょっと多目的に使える「用語」として用い、手近にあるものを本来の目的ではないことにとりあえず使って間に合わせるような、そんな文化の様態を表したのだが、このような「援用」は、アウトドア遊びの醍醐味でもある。

日曜日、近所のホームセンターへ行くと、お父さんたちがアウトドアグッズのまわりをうろうろしている。今も昔も人気はバーベキューセットかな。なかには、奥さんといっしょにテントを物色している人もいる。はじめてのキャンプかな。

アウトドアのベテランを気取るヤギ爺は、もはや、こんなところは見向きもせんのである。(カバ婆注:使いもせん、飽きたまま放ってある、使いもんにもならん安物の道具が家じゅうあちこち散らかっているのは、どうしてかな

爺の楽しみは、キャンプに持って行ける「日用雑貨」を物色することである。(ほんらい、「家にあるもの」で代用するのが筋なのだから、新品を買おうなどとは底が知れる)

アウトドアの醍醐味は、使い回し、なのであーる。

古い話になるが1970年代、フリークライミングが日本にも上陸してきた頃、従来の登山靴とは全くちがうスマートな「クライミングシューズ」なるものに皆驚愕したことがある。「EBシューズ」と言えば、「おーなつかしぃー!」という方もおられようが、足にぴったりフィットする柔軟なラバーソール(ゴム底)の靴は、岩との摩擦(フリクション)に優れ、岩の割れ目(クラック)にすっぽりと納まり、ぐいぐい軽々と垂壁を登れる!と、みんな目の色を変えて買い求めたものだ。

「そんなん、昔はみんな、地下足袋で登ってたもんだ」
「運動靴(山のおっさんたちはスニーカーなどとは言わない)で十分ちゃうかぁ」

こういった発想には、新しいスタイルの導入とともに新しい専用靴が生まれ新しい技術が開発される、そんな時代の変化に抵抗する保守的な身振りの発言だ、とだけではすまされない、遊びに対する思いがこもっていたのかもしれない。道具というものに対する思いも、目的に適うよう限りなく洗練されたものを求める気持ちと汎用性を求める気持ちはともにある。

さて、爺の自慢は相変わらずカンテキ(七輪)である。もちろん独創ではない。小さい頃田舎の田圃の畔道で、七輪を持ち出し昼飯を楽しんでいるお百姓さんを見たような覚えがある。(テレビで見たのかもしれない)林道の脇で七輪でなにやら焼きながら酒盛りをしているおっさんたちを見たような気がする。

しかし、10数年前、オートキャンプが最盛期を迎え、みなこぞって最新のバーベキューコンロを持って出かけていたころ(もちろん爺ぃもちゃっと購入いたしました、それも2セット!)、「いやいや、効率からしても(七輪はほんとわずかな炭でOK!)、家族4人サイズという点でも、カンテキに勝るものなーし!」と、どうせ車に積んでいくんだからということで七輪を持って出ていた。

「へ~え、七輪でできるんだぁ」などというあたりまえの感想を耳にすると、「そうですねぇ、キャンプの基本は家にあるもんで!どすからねぇ、ハハハハ」などと自慢笑。似非アウトドアの達人というのは、まことにいじましい。

と、ここで、ホームセンターである。

ご存じのように七輪は土を焼いたもので、かなりもろい。しかも、表面の土はこすると剥げてまわりが汚れてしまう。運搬用の入れ物がほしい。ホームセンターへ出向いてはいろいろと物色した。

それで見つけたのが、なんてことはない、バケツです。蓋つきのプラスチックのバケツで、売り場にある七輪を持って行ってサイズを見ると、「まさにそのためのバケツ!」というのがある。ぴったりだ。

似非アウトドア爺が満悦したのはその後である。

おしゃれ派系アウトドア雑誌として当時人気だった『ビーパル』で、だれやら「本物の」アウトドアの達人が、「七輪を持ってキャンプに行こう!」風の特集を組んでおり、そのなかで、「運搬はバケツで!」とあったのだ。(ちょっと記憶があいまいで、ひょっとしたら、読者の投稿欄ぐらいで見つけた内容だったかもしれないバックナンバーを調査すれば分かるのだが、面倒なので話を大きく創作しました、また作り話)とにかく、ヤギ頭の習性で、自分が発見したと思っていることを、だれかが雑誌かなんかで言っていると、とりあえず、ぅおおおお!わし、もうとっくにやっとるもんねぇ、と喜んでしまうのだ。

しかし、こういうときの爺の反応はいつもこうである。「けっ!こうやって「通」ぶったことを雑誌で見つけると、すぐ真似するやつがでるもんねぇ(婆注:おまえのことか?)。まったくもうカンテキもってくのやめよかなぁ」

先日テレビのDIYに関する教養番組で「竹でなんでもできる!」風のことをやっていた。箸やスプーン、皿からコップまで、ぜーんぶ竹で作ろうというのだ。「竹でごはんもタケまーす!」などとやっていた。ご丁寧に、竹でテーブルまでこさえるという。「これでアウトドアを満喫です!」と言うのだ。

ばーか。そんなことしてるあいだにビール10缶は飲める。

・・・
付記

例の古座川メンバーでは、竹林から竹を切りだし「竹で流しそうめんっ!」というのを楽しんでいた。数年してメンバーのひとりが、「おい、こないだテレビでやってたぞ、竹で流しそうめん。おれらずーと前からやってるもんねぇ、いまごろぉ!って感じだよなぁ」

自慢心はアウトドアに付き物だ

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85日(火)続・父親の威厳

やはりうちでも、子どもたちと母親との絆は「無条件」のような気がする。俗に言われるように「血」でつながっているのか、生物的なものなのか、はたまた、乳からはじまり「食い物の直接の出どころ」というこれまた生き物としての当然の理由からか、小さい頃からなにかあったら母の膝!という子どもたちであった。猫までもカバ婆だから、やはり、食い物の力は大きいのだろうか。「かあさん、めし!」

したがって、父親は、必死に子どもたちを傘下におさめ、子どもたちを守り、子どもたちを導くよう努力するのであった。

しかるに、わが子どもたちは、父親をないがしろにする不届きな餓鬼どもであった。

遊び場での子どもというものは場の空気を見事に読む。その場でのリーダーをちゃんと嗅ぎつけあとに従う。

山歩きのカバ婆(当時母)は、「あれぇ、ニリンソウがきれいに咲いてるわ」だの「あれあれ、こんなところにギボウシがっ!」だの「わーっ!カタクリの花!はじめて見たぁ!」だのと、とにかく目ざとい。ハイキングの主役はなんと言ってもカバ婆だ。藤内小屋には「山」の達人が集まる。なんちゃってアウトドア派のヤギ爺(当時父)の出る幕はない。

わたしは40になってスキーを始めた。学生時代2,3度やったことはあるのだが、故あって(これについてはあらためて書くときがあると思います)スキーが嫌いであった。カバ婆は若い頃からスキーをしており、やはり、スキー場でも婆がリーダーだ。わたしはといえば、へっぴり腰でソリを八の字(ボーゲン)にし、バランスを崩した体勢を両手をグルグル振り回しながら何とか保ち、最後尾に付け、「おーい、危ないぞ!そんなにスピードだしたらコケて怪我するぞぉ!いかんいかん!もっとゆっくり滑れっ!」と空しく怒鳴るのみであった。やがて少しはましになってからも、ともにスキーツアーを楽しむ家族のお父さんにスキーの得意な人がいて、子どもたちはすっかりなつき、信頼していた。

自分以外の男の人を頼りにするわが子を見るのは父親の沽券に関わる、というのは、どの父親もちょっとは感じる、ほろ苦い思いではないかな。(一般論はよくないね)

さて、ブタ子クマ太郎が小学生から中学生にかけて、毎年夏、カバ婆の恩師の別荘のある和歌山県の古座川に出かけていた。残念ながらこの夏亡くなられたのだが、山口先生というカバ婆の恩師はまこと遊び好きの心豊かな人で、私財を投じて建てた簡素で素敵な別荘を、誰彼となく貸し、使わせてくれるのであった。「ほっておいたら傷むだけだから」

ということで、ワンゲルだったカバ婆(当時娘)の仲間や先輩やコーチ家族が数家族集まって、毎年わいわいがやがややるのが、楽しい思い出だ。

であるから、当然、カヌーであれば誰、ロープワークであれば誰、まき割であれば誰、星座観賞であれば誰といった具合で、子どもたちは次から次へとリーダーの回りに集まる。ヤギ父の出る幕はここでもない。

わたしは、人並みに所有欲が強く、人並みに父親の体面を気にする方であるが、アウトドアという場での人の上下優劣は一目瞭然、それでよかったと思っている。

古座川の夕方、ビール片手に焚き火をまもる父の元に、ブタ子とクマ太郎がやってきた。

とーさん、火おこすのうまいなぁ

父は満面に笑みを浮かべ、ビールで喉を潤すのであった。

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731日(木)父親の威厳

ブタ子56年、クマ太郎23年の小学生のころである。いつものように家族で藤内小屋に出かけ、いつものように親たちは昼間から宴会、子どもたちは小屋の内外で遊んでいた。よその子たちもいた。

てめえら、うるさいで、外で遊んでこいや

うぉー、酒くっさぁー、とーさん、飲み過ぎると、また、かーさんに叱られるでぇ
 クロ(当時小屋のご主人が飼っていた犬)と遊んでこー!

しばらくは外でわいわい遊ぶ声が聞こえていたが、やがて、子どもたちが入れ替わり入ってきて、「あのおっちゃん、いかんわあ、動物虐待だわ」とか「やめて!言うのに、クロ引きずり回したり叩いたりすんねん、やめるよう言ってやぁ」と訴える。敏子さん(小屋の奥さん)は、「なにぃ、ロックさん(仮名)かねぇ。酔っ払いやでなあ、ごめんな。ほっときほっとき」と言う。

しばらくは外でがやがやとやっていたが、見かねた敏子さんが外へ出ると、やがて、子どもたちはみんなどやどや部屋に戻ってきた。クマ太郎はわたしの横に憮然と座った。

あのおっちゃんムカつく。ぜったい許せん。

お姉ちゃんのブタ子は冷静に怒りを表し「あのおっちゃん、なんか、ヤケになってクロにあたってるみたいやわ、ひどい」と言う。敏子さんは「酒癖悪い人はほんと困るなぁ、かなわんわ」と苦笑い。そこへ、ロックさんが入ってきた。

「お前たち犬のことわからんで騒いどるだけだて。犬はしつけないかんのだわ」
「あれはしつけじゃないと思います。いじめてるだけだもん」(ブタ子)
「なにいっとる、生意気言うなっ!」
「いじめだ!」(クマ太郎)
「なにぃ!どこがいじめだか言ってみろ!くそ生意気なぁ!」
「だってクロがかわいそうだもん」(キッとロックさんを見つめる目に涙がにじむクマ太郎)

うちの子どもたちは父親に似ず正義感が強かった。突然はじまった酔っ払いと子どもたちの口論に場の雰囲気が変わった。「ロックさん、なに酔っとるのぉ、まあやめときなや」と諌める者がいる。しかし、酔っぱらいはますます毒づく。「子どもは黙っとればいいんだ。生意気はいかん。」

<皆にとってのストーリー>

クマ太郎は「キッ」とロックさんを見つめ、「大人だって悪いことしたらあかんもん」と言った。ブタ子はお姉さんらしく「クマ太郎の言うとおりだと思う」と言う。小学校高学年の女子のおませな言葉にぐうの音も出ない同級生男子のように、ロックさんはブタ子を無視し下級生のクマ太郎に絡み続ける。「子どもは黙っとれ。犬はしつけないかんの。」

クマ太郎は唇を噛み、じっと喰いつかんばかりにロックさんを見つめていた。まわりのものは、「おい、ロック、いい爺が、もうやめとけて」「ロックさん、いい加減にしとこ」と非難する。ロックさんは定年を過ぎた初老の男性であるが、すでに止まらない。「生意気言うとぶんなぐるぞ!」クマ太郎の父親は横でじっと黙っている。

「ぼく、まちがってないもん」というクマ太郎の言葉で、その時がきた。

ロックさんは、「生意気ばかりいっとってぇ黙らんか」のようなことを叫びながらクマ太郎の方に歩み寄り胸倉をつかみかけた、その時、

「くそぉー!バカやろーっ!」っと大きな声を発し、野呂青年がロックさんの肩を背後から掴み上げ、ぐっと羽交い絞めにしてクマ太郎から引き離したのだ。野呂青年は鈴鹿アルパインクラブ会長野呂さんの息子さんで、つねづね、カバ婆とも「なんか男気のあるいいやつだよね」と話している好青年である。咄嗟の大声も、行動も、今から思うとまるで青春ドラマの一コマのようであった。

拍子でふらふら立ち上がったクマ太郎の父親を引きずり、野呂青年とロックさんは叫び合いながら廊下の方へ転がり出て行った。

「ぶん殴ってやる!」「うるさい!」「やめよう、やめよ!」「バカやろー!」と叫ぶ三人の声が向こうのホールあたりで聞こえたが、やがて、「糞ったれ!バカっ!」という捨て台詞とともに、ロックさんはドタドタと玄関を出て、そのまま下山してしまった。「ありがとな、すまんかったなぁ」と言うヤギ爺(当時父)を後に従え、顔を紅潮させた野呂青年は無言で戻ってきた。

「クマ太郎君、だいじょうぶかぁ、よう頑張ったなぁ」「野呂が飛び出さんかったら、オレがぶん殴っとったわ」「それにしても、ゆうちゃん、父親形無し(かたなし)だがね」などの声が飛び交い、やがて、酒宴は再開した。

<ヤギ爺のストーリー>

ヤギ爺(当時父)は、じっと様子をうかがっていた。こういうときは冷静になる必要がある。子どもたちには言わせるだけ言わせてやる方がいい。酔っ払ったロックさんなら何とか止められる。

クマ太郎が「大人だって悪いことしたらあかんもん」と言った。よしよし、もっと言っていいぞ!クマ太郎。「クマ太郎、言いたいことは言ってやれ!がんばれ!」と、耳元に小声で囁きかける。ブタ子が「クマ太郎の言うとおりだと思う」と言った。「子どもは黙っとれ。犬はしつけないかんの。」泣き出しそうなのを必死にこらえるクマ太郎を隣に感じた。がんばれ!

クマ太郎は唇を噛み、じっと喰いつかんばかりにロックさんを見つめていた。まわりのものは、「おい、ロック、いい爺が、もうやめとけて」「ロックさん、いい加減にしとこ」と非難する。ロックさんはすでに止まらない。「生意気言うとぶんなぐるぞ!」
「クマ太郎、負けるな!もっと言っていいぞ、とうさんが守ってやる」と耳元でエールを送るヤギ爺であった。

「ぼく、まちがってないもん」というクマ太郎の言葉で、その時がきた。

ロックさんは、「生意気ばかりいっとってぇ黙らんか」のようなことを叫びながらクマ太郎の方に歩み寄り胸倉をつかみかけた。

よし!いまだ!と手を出しロックさんの腕を握りつかもうとしたその瞬間、「くそぉー!バカやろーっ!」っと大きな声を発し、野呂青年がロックさんの肩を背後から掴み上げ、ぐっと羽交い絞めにしてクマ太郎から引き離したのだ。

わたしは、ロックさんの腕をひねり上げ、立ち上がり、少しドスの利いた、だがおだやかな大声で、「ロックさん!もうそろそろ、いい加減に、やめときましょう!」と諌めるはずであった。そして、クマ太郎に「クマ太郎、よう頑張ったな、えらいぞ」と褒めてやるつもりであった。

しかし、実際の爺は、ロックさんの腕を掴んだまま、野呂青年の力でぐいっと引き起こされ、そのまま、ロックさんとともに引きずられるように廊下の方に転がり出ていったのであった。

廊下、ホールでのヤギ爺(当時父)は、今度は、野呂青年の暴力を止める側に回っていた。「やめよ、ありがと、もういいよ、やめよ!」と叫びながら、必死で野呂青年を止めていた。少し落ち着いた野呂青年とともに皆のいる食堂に戻った爺に、野村さん(仮名)が、「ゆうちゃん、だめだがね、父親形無しだねぇ」と言った。カバ婆(当時母)も「とうさん、となりにいて黙ってるんだもん、なさけなかったわ」と言った。

わたしは、頭に描いた筋書きが崩れ、「父親の威厳」を示しそこない、面目丸つぶれになってしまった結末に、ただ、「いやぁ、来る時が来たらやり返したろうと思ってたんよぉ、ほんと。子どもたち頑張ってたで、やらしとこ、思ったんよ、ほんと。「よし!」と思った時に、野呂君がやってくれたんで、ほんと。ありがとな、ほんと。野呂君さすがだわ、ほんと」と、内心で悔しがるのであった。

あとでクマ太郎に聞いて確認したが、耳元での父親の励ましはまったく聞こえていなかったそうである。クマ太郎は横で黙っている父親を不甲斐無いと思ったと語った。

わたしのこのときの筋書きと、思いを、証明する者は、もはや、この世には、ひとりもいない。今となっては、この告白を信じてくださるよう、みなさまにお願いするばかりである。

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728日(月)見てきたようなウソをつき

「かあさんが出てくるところが、かろうじておもろい」

ブタ子(娘)の「ヤギ爺ぃの独り言」評であった。

「ぜったい、即答だった思うわぁ、「買わん」って。笑ったわ、目に浮かぶで」

74日付「業績はいかに公表するか」についてのブタ子のコメントであった。カバ婆に爺の書いた文章を「本だとしたら買って読む?」と訊いた時、一言「買わん」と言ったくだりだ。

だが、じつは、これはフィクションであった。

同日付の「TASPO効果波及」を読んでもらい、「おもしろかったよ、言えばぁ「SAKEKA」のKCの方がいいんじゃないぃ」というコメントをもらったところは「事実」である。しかし、そのあとの文章を書くことについての話は、つねづね思っていることを元に、カバ婆と会話したことにした創作であった。作り話である。

さて、研究者にとって、嘘のデータを提示することは最も戒めるべき行為である。いわゆる社会言語学における会話データねつ造は致命的だ。
「研究者、見てきたようなウソをつき」は笑いごとではない。

さて、娘を惑わした当該の文章を婆に見せてこの話をした。

「訊かれてらた、わし、同じこと言ったわ、即答」

事実のねつ造は時に当事者をも惑わす。いかんいかん

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722日(火)人生いろいろ

柳田國男の『山の人生』は、体験や聞きかじりや読みかじりをぐだぐだと書きなぐった(褒め言葉です)「研究」だが、そのことは「自序」で本人も認めている。

「山の人生と題する短い研究を、昨年『朝日グラフ』に連載した時には、一番親切だと思った友人の批評が、面白そうだがよく解らぬというのであった。」(『遠野物語・山の人生』(岩波文庫)87ページ)

とにかく残しておくべきことだと思ったから残す、新しい知識を求めることこそが学問である、そして、学問とは「同胞国民の多数者の数千年間の行為と感想と経験」(88ページ)、つまり、フツーの人たちのことを観察し記録し研究することだとは、大胆である。

「山の人生」と言いながら話はいろいろ脱線し、ふらっと山に入ってしまう人間の性について思いをめぐらすうち、子どもの突然いなくなる話に話題は移り(神隠し)、「八 今も少年の往々にして神に隠さるること」では、「先頃も六つとかになる女の児が、神奈川県の横須賀から汽車に乗ってきて、東京駅の附近をうろついており、警察の手に保護せられた」事件について記録されている。今も昔も変わらぬ子どもの奇行である。
 続いて「九 神隠しに遭いやすき気質があるかと思うこと」となり、柳田はそういう気質があると思うと言っているが、自分自身もそういう子どもだったと、思い出話を記している。

まことにぐだぐだ面白い。

母親と外出しひとり先に外に出たら頬かむりした男に連れ去られそうになったが実はそれは近所の青年の悪戯だったという話、母と弟たちと茸狩りに行った際一人ふらふらと道に迷い出で母にえらい声で怒鳴られた話、神戸に叔母さんがいると信じ込みひとりふらふらと家を出て知り合いのおじさんに呼び止められ家に連れて帰られたことなど、けっこう「ふつう」な異常行動性癖の持ち主だったようだ。「幸いにしてもう無事に年を取ってしまって」(125ページ)事件沙汰にはならなかったようだ。

子どもの「異常」行動は、ほんとうに、不可解なもので、ときに、ほんとうに、悲しい。先の19日埼玉で父親を殺してしまった少女の、それでも「動機」を探らねばならぬ警察の仕事は辛い。それを詮索するマスコミがいるとすると、それは、とても酷い。子でもあり(両親とも死んだので「あった」とすべきか)、また、子を持つ親の身としては、真相の究明ではない現実の見つめ方ができるならと、思わざるを得ない。

わたしは、親を殺したいと思ったこともあるし、子どもに殺されるかもしれないと妄想したこともあるが、幸い事件にならずにすんでいるだけなのだ。

・・・

柳田國男は横須賀から東京駅まで家出してしまった少女の行動を「調べて見たら必ず一時性の脳の疾患であり、また体質か遺伝かに、これを誘発する原因が潜んでいたことと思う」(127ページ)などと言ってしまうので少々いただけない。しかし、この話から「因童」(よりわらわ)といわれる突然変てこなことを言い出す童子を古い信仰で「託宣」と認める慣わしについて思いを至らしているので、面白い。そして話は、うそかまことかの神童へと漂いゆく。親切だと思った友人が「面白そうだがよく解らぬ」と評した所以か。

とにかく、子どもには、ときに「魔が差す」ことがある。

・・・

とにかく子どもは何をするかわからない。

クマ太郎が5歳か6歳のころ、ヤギ爺(当時ヤギ父)が庭でカンテキ(七輪)で火遊びしていたら、「石入れていいっ」と近づいてきた。「火遊びしたら寝小便するでぇ」と言いながら二人で「石焼」をはじめた。

「おい、焼けた石、水に入れるとおもろいで。あっこのコッフェルの蓋に水入れて来いや」
 「わかった」

ということで、今度は石焼なべ遊びが始まった。

石を二三個水に入れると「ジャージュワーっ」と湯気を上げ水が煮えたぎる。「おおおおぉおおっ!」ということで、さらに大きめの石を焼き、「そうだ野菜を入れよう」とクマ太郎に野菜代わりにする草むしりを命じ、石が焼けたころを見計らってトングで挟み出したとき、

魔が差した。

「クマ太郎、ちょっと、これ、触ってみ」

父親の命令には従順か、咄嗟の指示に我を忘れたか、はたまたやはり自分でも触れてみたかったのか、今となっては当時のクマ太郎の心は計り知れん。しかし、指で触れた瞬間、「アチっ!」という声も出さず電気が走ったかのように腕を引っ込めた姿、泣くことも忘れ父親の顔を見る真ん丸い目は、今も覚えている。

「ばかかぁ!熱いにきまっとるだろぅ!たーけぇー!」と腕を取り水道まで連れて行き指を水で冷やしながら、
 「かぁーさぁーん!クマ太郎が指にやけどしたぁ!」
とカバ婆(当時母)を呼び、顔を出した婆に斯く斯く然然と事情を話した。

「このぉ、くそたれぃ、何やっとるのぉ!ほんと、考え無しだねぇ!」

と叱られたのは、もちろん、いまだ、なぜ、魔が差したか分からずにいる、爺(当時父)の方であった。

火傷は水ぶくれ程度ですんだ。

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717(木)ゆうじ殺すにゃ

どうも不謹慎なタイトルで申し訳ない。しかし、これは、カバ婆の口癖なのである。

「ゆうじ殺すにゃ刃物はいらぬ、ビール飲め飲めイカを喰え、ついでにエビだぃ、コレステロールっ!」

ご近所の佐藤さんという家に毎週魚屋さんが行商に来ており、何人かの主婦で纏め買いするので、安くて美味い魚介が手に入る。

今日はイワシがこんだけで320円っ!刺身でもいけるって。喰うか?

うん、喰う喰う!

残りは干物にしよう。それからぁ、スルメイカ安かったで買って来ちゃった、あとはホ・タ・テぇ

「うぉおおお!イカだぁ!ホタテだぁ!刺身だ刺身だぁ!婆ぁ、オレのこと惚れとるなぁ!」と、すでにビール片手のわたしに返す言葉が「ゆうじ殺すにゃ」なのである。

たしかに、婆は、魚介類があまり好きでなく、「懐石かなんかで、お上品に、ちょっとでてくるんなら、いただくけどねぇ、ほほほほ(などという笑い方は金輪際せぬ)」といった感じで、安い魚介類を丸ごと仕入れても、本人が喜ぶわけではない。イカなどは、購入日は刺身で、残りは内臓と共に塩辛に、スミはイカ墨スパゲッテー、ということになるが、婆が食えるのはスパゲティーぐらいなものだ。

ということで、わたしが肝臓関係の病で倒れたのであれば、アルコールの飲みすぎはいわば自業自得であるから、一種自然死であるが、もし仮に、コレステロール値が原因となるような成人病で倒れたならば、これは、妻による、長年の、計画的、故意の、殺人の疑いがある

ということで、「カバ婆があぶない」第2弾なのであるが、梅雨に入ったころであったか(今確認したら623日付であった)、職場にいる私にケータイにメールが届き、(原文引用)「紫陽花の葉食べて中毒起こしてる!!うちの山野草の本は嘘っぱちか!!!死なないでよかったね!危ねー危ねー(笑)」とあった。
 数日前の夕食が山野草のてんぷらで、その中にアジサイの葉っぱがあったのだ。メールにあるとおり、家にある野草の本には「食用」となっていたのだ。このように、庭にある食えそうなものはしばしば食卓にのぼる我が家である。
 わたしの返事は(原文引用)「おおおおおっ!わしやっぱ八百屋さんでこうたもんだけくうことにする

帰ってからの婆の話によると、つくば市かどこかでアジサイの葉を食べたグループが中毒症状を起こしたという。アジサイの葉や根には毒性があるという。インターネットで調べたらそう書いてある。胃の消化酵素と反応してなにやら青酸性の毒物になるらしい。「おー危ねー危ねー、人に出さんでよかったねぇ」すくなくとも、我が家の胃袋では、アジサイの葉2、3枚では中毒症状は起こさないようだ。(いやいや、これも、たまたまラッキーだっただけかもしれない)

さてさて、いずれにせよ、毒は薬で薬は毒、なわけで、何事も過ぎたるは及ばざるがごとし、「ほどほどに」というのがいいのであろう。(カバ婆コメント:「おまえが言うなぃっ!」)

ほどほど、と言えば、我が家では、この時期でも山菜の蕨(ワラビ)が出る。昨日も皿一杯食った。

今の家に越してきた年、家から100メートルぐらいの宅地の空き地に蕨が生えているのを見つけ、それ以来、毎年、4月終わりぐらいから5月にかけて、毎日のように摘んできたワラビが食卓に上がる。実は、蕨も拾うのは婆食べるのは爺なのである。子どもたちも食べない。

今年も5月末ごろだったか、「ううっ、きょうのはちょっと硬いな筋ばっとる、ちょっと長けてきたなもうおしまいだね」ということで、また来年!となるはずであった。しかし、今年はちがった。

それからしばらくして、夕方帰宅し「ビールビール、とりあえず、ビール」で「つまみは?」ということになったとき、にんまり笑った婆がワラビを出してきた。「なにぃ!まだワラビあったの?」

カバ婆曰く、いつものように空き地に入りごそごそしていたら、かなり長けた蕨がまだまだいっぱい生えている。どんなもんかと、その先の方だけつまんでちょいとひねってみたら、「すぽっ」と自然に折れる位置がある。もう一度試すと、先の方だけがぽろっと折れる。ひょっとしてと思って先だけ摘み摘み取って来たものをアク抜きし出したという。

どれどれ、と箸をのばすと、「うーん!こりゃいける!柔らかい!美味い!」となった。ということで、7月も半ば過ぎ、いまでもワラビをいただいている。今年はいつまで喰えるか挑戦だ。食い物に関してはまこと探究心冒険心研究心旺盛な婆である。ありがたやありがたや。

ところで、ワラビには発がん性物質があるらしい。前に「うまい、うまい、でも、あまり喰いすぎたらあかんかなぁ、アク強いしなぁ」と言ったら、「発がん性だしね」と、婆がサラッと言った。知っていたのだ。

過ぎたるは及ばざるがごとしを知らぬ爺であることを重々承知するカバ婆である。好きなものを出したら皿まで食う爺である。
 ひょっとしたら、「夏になった蕨には、発がん性物質がぐんぐん増えてまーす!」などという事実を、どこかで読んだのかも知れぬ。(どなたか、このあたりのことに詳しい方がいらしたら、教えてくだされ!)

さてさて、と言うことで、わたしがもし癌で死ぬることがあったなら、これも、カバ婆による計画的犯行の疑いがある。こわいこわい

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714日(月)リアルタイム

電車での読書ですが、最近は、授業準備に追われており、わが日本文学探訪もちょいとお休みです。

ひとつには、「つぶやき勉強法」なるものを学生さんたちに勧めている関係で、授業教材の英語を読んでいることが多いのです。

なんのことはない、英語を読みながら、読んだ部分を、虚空を見つめ、「う~ん、ほにゃらら、ふいふい」と「唱える」だけのことですが、記憶力欠如という「学者としての致命的欠陥」を宿命とする爺にとって(「大リーグボール養成ギブス」ならぬ「学者養成ギブス」が欲しい!ヤギ爺です)、少しでも(わずか数分)英文を頭に入れて、「自分の言葉」としてお唱えする練習は、単純でもあり、実感として一番有効な勉強法だと自認しております。人に役立つかどうやらはわからん。

が、とにかく、それと平行して、これも授業準備といえば言えるのですが、宮本常一やら柳田國男(じつは、邦夫も)やらを読んだり読み返したりしておりました。(読み返す、といっても、ほんと、日本を知らん英語教師です、宮本については、ほんとうに、新たに読んでいると言ったほうがいい)

『遠野物語』(岩波文庫です)のごく初めにあるのですが(十一)、自分の奥さんと母親(嫁姑)の仲に挟まり、苦しんだ末のことなのでしょう、狂気の末、ある日突然、「母ちゃん殺すでぇ」と言い出した男がおりました。

草刈鎌を磨ぎ始めた息子に、おろおろして詫びる母、夫を諫める妻。

しかし、結局は、甲斐もなく、実の母に切りつけた息子について、駆けつけた警官に、血まみれになりながらも、息子は恨んでおらぬ、許してやってくれ、と請う瀕死の母。捕まってもまだ鎌を振り上げ巡査を追い回す男は、「狂人なりとて放免せられて家に帰り、今も生きて里にあり」という。

今は昔のお話ですが、当時としてはリアルタイムの出来事でした。発作的親族殺人の怪、は今も昔もですね。
『遠野物語』は、民俗学の資料というよりも、ルポルタージュなんだなぁ、ということにはじめて気づきました。

「物語」の力とは、今も身近に起こっていることを、リアルに伝えることなのですね。

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前回「学校教育の影響は大きい」と書いたが、本当だと思う。

クマ太郎が小さい時、「便所に行ったら手を洗う」のルールには参った。

キャンプである。山である。父子のつれションである。
「手、洗いたい
「おまえなぁ、どーせ、どろどろやないか、洗ったってしゃあない」
「でも、きたない

どろどろの、ぐちゃぐちゃの、だらだらの汚い水で水遊びをしている最中である。
その手を、平気で口に持っていくクマ太郎である。

おしっこをしたら「とーさん、てー、あらいーやぁー」というクマ太郎であった。

解せなかった不思議のひとつであった。

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74日(金:幸せな夕方)業績はいかに公表するか

「おもしろかったよ、言えばぁ、「SAKEKA」のKCの方がいいんじゃないぃ」先の文章へのカバ婆のコメントだ。

おぉお!そうしとくわぁ(そうしておきました)

「独り言」の読者はカバ婆だけでもいい、とにかく、「いいんちゃうぅ」と読んでくれればいい、と、今は思っている。

あのさぁ、おれ、とりあえず文章書くのも仕事の一部やしぃ、書くなら、誰かに読んでもろうて、「おもしろかったです」と言ってもらえるようなもん書くべきだと思うしぃ、紙の無駄だし、誰も読まんような、ってかぁ、読んでも意味ない、読んだらあかんようなもん、書いたらあかんしぃ

わしの書いたもん読んでもいいおもう?

うん、おもしろいよ

本だとしたら買って読む?

買わん

買ってでも読む、と言われる仕事がしたい。
 だが、やはり、わたしは、ネットでの公表を、真剣に考えていこうと思う、今日この頃です。

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74(金)TASPO効果波及

バカ話を思いついたとき、キーワードを使って出来る限り検索し、少なくともネット上で同じことを言っているケースがないかどうか探し、それでも書くべきかどうかを確認してから載せるようにしている。

が、
 今回はしてもいませんほどのバカ話をひとつ。

今朝の情報番組を見ていたら、若いころから「町のタバコ屋さん」として共に苦労し、自動販売機の普及、コンビニの躍進にも耐えがんばってきたが、今回のTASPO導入で大打撃を受けたけれど、それでも、一大決意で小さい店を改装しタバコ陳列棚を新調し「対話のある」「昔ながらの」「人の集まる」「笑顔が絶えない」町のタバコ屋さんの復活に懸ける老夫婦の話題をやっていた。「TASPO導入の思わぬ影響」だそうだ。

いいのかなぁこんなの流してと思った。

ひとつには、ほとんどタバコしか売っていない、ちょっとした雑誌棚となにやらガムやらそんなものがあったかなという、いわゆるタバコ販売促進店を、このように同情的に放送してもいいのかなぁ、と思った。これがもし、「TASPO導入を逆手に取る若者のベンチャー企業っ!」という話題だったら、見終わったあとのキャスターたちのコメントはあのように同情的「がんばってください」的なものではなかったかもしれない。
 それに、学校教育の影響は大きく、「がんばっているお年寄りを応援しよう!」という教えを真に受けた子どもたちが、こぞってこの店にタバコを買いにいくかもしれん。(これは冗談)

それと、このテレビ局は、今後もこの店の老夫婦を温かく見守っていってあげるのだろうかという思い。なにやら税の引き上げでタバコの値上げが取りざたされているが、そうなった際も、「さらに不屈にがんばる二人!」という特集を組んでくれるだろうか。あるいは、ふと妄想的不安がよぎったが、そのときには、「改装までしてTASPOを乗り切ろうとがんばったタバコ屋老夫婦、この度の値上げの打撃に借金を苦に」という悲惨なニュース報道。わたし自身は、お二人の笑顔を素直に「がんばってるね」とは思えなかった。

バカ話はここから。

わたしの家の近所には「タバコも売ってる酒屋さん」がある(というよりその酒屋さんがあるから引っ越したというのが本当)。だから、わたしにはTASPOはいらない。電車通勤になったので駅の売店でも買える、万が一夜中に切らしても、10分歩けばコンビニがある。こういう「便利」な環境にあるタバコの自動販売機の数は、多少減ってもいいのではないかなぁ。わたしは、常々、コンビニの前にある自販機の存在を不思議に思っていた。便利の上にも便利、はいいが、あまりにも便利すぎ。だいたい、アウトドアに出かける効能は、タバコを切らさない慎重さと意識を養うことにあるのだ(嘘)

そう、TASPO効果のひとつには環境にやさしい!ということがある。自動販売機の減少は余計な消費電力を節約し、CO2排出量削減に貢献する。洞爺湖サミットの話題になるのだろうか(おバカ)

さてさて、しかし、世の中はそううまくはいかない。こういうことは、後期資本主義の世の中では、まず確実に、「本当に必要としている人々」を苦しめる結果となる。自動販売機、TASPOの恩恵を本当にこうむるはずの人たちが不便を強いられることになりはしないか。たとえばコンビニもないような田舎。

しかし、これも、おそらくはいい方向に向かう可能性を秘めている。郵政民営化による遠隔地の危機が回避されうるのだ。
 つまり、JTJPと協力し、タバコ販売と郵便、郵貯、保険事業を一体化した遠隔地経営計画を発表し、「利潤を生む」過疎対策を実現する。タバコ宅配を手始めに、サービス向上事業拡大に乗り出すはずである。日本たばこ産業と日本郵政グループが救われる。(大おバカ)

当然のことであるが、「成人識別ICカード」の成功は、ビールなどの酒類の自動販売機にも適応されるべきであろう。そのような方向で進んでいるようであるが、この際、TASPOの成功により、「SAKECA」導入の検討が急ピッチに進む。(バカ)

しかし、である。TASPO効果はそれだけにとどまらない。TASPO効果に驚いた健康志向諸団体は、さらなる「識別ICカード」導入を政府に求めるロビー活動を開始するであろう。「肥満識別ICカード」の導入である。

もう何十年も前から、「健康志向先進国」アメリカでは、清涼飲料水の糖分の問題が深刻で、ダイエット○○、などという糖分控えめ、あるいはゼロの飲み物などが出回っていたが、わたしがアメリカにいたとき、食堂で食後、ダイエットコークなどをガブガブ飲みながら、バカでかいケーキのデザートを食っている、超大型女性を見て、絶句した覚えがある。

何年か前から日本でもダイエット○○系の飲み物が出回っているようであるが、今だ甘い飲み物の害については声高とは言えない。この際、手軽にこのような毒飲料を手に入れられる自動販売機の制限に着手し、体脂肪率を基準にした医師の証明証の提出(毎年)を義務付けた、体脂肪率が基準以下の者のみに発行され「メタボ」諸氏を排除する肥満識別ICカード「DEBUBO」の導入が望まれる。(

識別カードの導入はこのように有意義である。

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626日(木)裏方はえらい

キリンビール、それも瓶ビールを「シュポッツ」と開けてコップについで口にもっていくと、泡を舐めた瞬間に、味とにおいが子供の自分を思い出させる。「ラガー」などとは言っていなかった。「ビールはやっぱりキリン」とおじさんたちは言っていた。そんな、子供のころの「お祭り」を思い出す。

「ゆうじもちょっと飲んでみるか」と親戚のおじさんにすすめられ、「いかんいかん、未成年になに言っとる!」と、生まじめにムキになる父親の制止の前に、ちょいと口にしたビールの泡の苦味は、ぜったいに「キリン」なのである。キリン以外のビール(キリンでもいわゆる「ラガー」しかだめだ)の泡は、あの味とにおいがしない。

発泡酒などというものが出回り始める前、ビールといえば「キリン」であった。学生時代、院生時代、就職して関西に来てからも、飲み屋選びの基本は「キリン」だった。発泡酒が「安くてイケる」と思ってからも、しばらくは、ビールは「キリン」だった。子供の頃、母方の在所に家族で詣でる、年に2回の儀式、「お盆」と「お正月」の「お祭り」の思い出が、「キリン」と結びつくのである。

ただし、いまは「麦とホップ」がいい

さて、本題はここからであるが、

私の母のきょうだいは、兄の青山のおじさん(たけちゃ)、姉の渥美のおばさん(みっちゃ)、母(しーちゃ)、妹の上郷のおばさん(ひさちゃ)、黒田のおじさん(よっちゃ)、明子(はるこ)おばさん(はるちゃ)、あと、太平洋戦争で戦死したという「にいさん」の7人だが、わたしの子どものころは、おじいちゃん寅吉(とらさ)のもとに、年2回盆と正月に子どもたちがその連れ合い、孫たちとともに「実家」に集まるのがしきたりだった。母方のおばあさん(うめさん)は、私が生まれる前年(昭和32年)他界していた。

御馳走の並ぶ部屋は仏壇のある仏間であり、わたしからすれば曾祖父、曾祖母にあたる人たちの写真とおばあちゃん「うめさん」の写真、それから戦死した「にいさん」の写真が仏壇わきの壁にかかっていた。幼い私は、その独特の雰囲気と、大きな笊(ざる)いっぱいに盛った茹でワタリガニと、もうひと盛、笊いっぱいのシャコを鮮明に覚えている。今は碧南市の、埋め立てが進む前の大浜海岸あたりは、そのころは、地でとれる蟹と蝦蛄(しゃこ)で溢れていた。

実家の嫁静子おばさんは、実に、甲斐甲斐しく黙々と準備をしていた。久しぶりに会う姉妹たちは、けたたましい声で無駄話を駄弁りながら宴の支度を手伝う。「女ども」がバタバタと宴の準備をする間、「婿さんたち」は、年に2度の面会、和やかだがぎこちない男の社交に苦労している。おじいちゃんは、最新の電気式お燗つけ器で、ひとり熱燗をつけている。「便利な世になった」

「さあさあ、宴の準備できたでねぇ、男衆からねぇ」

毎回のことであるが、おじいちゃんが上座についたあと、男衆は、「たけちゃ、奥へ奥へ」「いやいや、森さ、ずずーっとずずーっと」「よしおさんは飲めるで、おじいさんの横へいきゃあせ」と譲り合う。大人たちが席に着くまでは待たされる子どもたちであったが、しかし、思えば、毎回同じような席順に収まっていたような気がする。
 年からいえば下から二番目の弟であるが、家業を継いでいる黒田のおじさん「よっちゃ」が、いつも、末席で、かしこまり、「にいさん、ねえさん、ようおいでたねぇ、まあ、つまらんもんですが、ゆっくり、やってってください」と、目を線にして挨拶する。おじいちゃんの朴訥な「みな、息災で」という音頭で、静かな宴が始まる。

宴の間、女衆は立ったり座ったり、膳を用意したり引っこめたりと、食べている様子もなし。わさわさしていたように思う。わたしは、とにかく蟹とシャコだ。「もーひとつ食べていい?」と、後で叱られるのを恐れ父母の顔をうかがいながら、おそるおそる手を伸ばす子供の自分がいた。だれかが、「ゆうじは血の気のないもんが好きだなぁ、へぇ」と笑った。烏賊、海老、蛸、蟹、蝦蛄の類(たぐい)、わたしは吐くまで喰える。

さて、母の実家は昔ながらのつくりで、台所は、母屋からの渡り廊下の先にある離れであった。そこはいつも賑やかで、おばさんたちの声で溢れていた。お祭りともなると近所のおばさんたちも手伝いに来てくれる。そこには、甘辛い醤油の煮えたにおいと、出汁の魚臭い、子どもにはちょっと苦手な、だが、やっぱうま味のにおいが漂っていた。

なんせ年に2度ほどしか会わないおじさんたちの様子は、子供心に、ぎこちなさが伝わってくる。こういうときは政治か経済だ。自民党がどうだとか、中小企業がどうだとかという話になる。難しい話を始めた男衆の宴席から退散し、母屋と台所の間にある狭い庭の小さい池のあたりで遊ぶ子どもたちの耳には、台所から弾き出るおばちゃんたちの腹の底からひねり出す笑い声が飛び込んでくる。
「かっ、かっ、かかかっ」「ぅふっ、ふっ、ふ」「がぇがががぇがっ」「わぁーっ、ははははは」
中をのぞくと、そこでは、煮炊き鍋いっぱいに湯気をだす料理と下げたばかりのお皿を囲み、裏方さんたちの大宴会が始まっている。田舎のおばちゃんは声がでかい。

子供心に、裏方はえらいと思った。

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625日(水)思い出の味

前にもふれた懐かしの味フィレオフィッシュが現在100円中っ!

毎日いただいております

なぜか、この味、中学生の自分につながる

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620日(金)父の日

先週日曜日。

「おっ、きょうは「父の日」かぁ、よーし、お祝いだ、晩飯はくるくる寿司やね!なっ、ブタ子っ、クマ太郎っ!」
 「べっつにぃー、とうさん食いたかったらいいけどぉ」
 「婆、父の日や、くるくるやっ!なっ!」
と、カバ婆に向けると、婆、

「うちは、毎日が父の日父の日。ビール(もちろん発泡性リキュール)飲み放題っ、たばこ吸い放題っ!今日は冷蔵庫の掃除掃除っ!家で取れた野菜もふんだんっ!おとーさん、いつもありがとっ!」

・・・・・・・・

ずーっとまえから、ちょいと大きめの6070リットルのザックが欲しかった。荷物が多い時は昔ながらの背負子で出かけていたのだが、ちょいと「レトロ」で、本人としてはファッション的に気に入っていたのであるが、なにぶんやはり機能が大事
 ちょっと前から、「あのなぁ、ザック新しいの欲しいんやけどなぁまあ、今となっては、仕事に使うっつうことで必要経費やしなぁちょっと見にいてくるかなぁ、いい?」などと、伏線はっていた。

しかし、婆の反応はいつも、

「そういうのは、誕生日か父の日にね。がまんがまん、ローンローン」

カバ婆の論理がわからん。毎日が父の日なのか父の日が特別なのかはっきりしてもらいたいっ!

・・・・・・・・

平城遷都1300年祭のキャラクター「せんとくん」が物議を醸した。仏像に鹿の角が冒涜だという。対抗して地元デザイナーが発表した「まんとくん」に続き、きょう、「せんとくん」に大反対した仏教系団体の会長さんが記者会見のニコニコ顔で、「なーむくん」なる第3のキャラを発表した。なにやら、聖徳太子の少年時代をモデルにしたらしい。奈良を第二の故郷と思う名古屋人としては複雑だ。

奈良のような古都に人を誘うなら、日々これ普段の「たゆたうかんじ」のままがよい。観光収入を目指すなら、そんな「ゆるゆたしい」(こんな言葉あるかぃ!)感じの価値を、あえて、打ち出すぐらいの度胸があってもいいんじゃないかなぁ。古都って、後期資本主義の情報メディア支配の経済システムには似合わないよ。ゆっくり歩ける遊歩道の確保が急務だ。遷都祭なんていらない、まいにちぼちぼち奈良を歩こ。

っということで、本日、わたくしは、なんでもないときではあるが、アウトドアショップに出向き、待望のザックを、カードで、こっそりと、購入したのであります。

パートから帰ったカバ婆、居間にほかってあった新品ザックを見て、

「なんで、こんな、無駄遣いすんのぉ!くそ爺ぃ!」

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613日(金)日本の匠

第三のビール(「リキュール(発泡性)」)が安くてうまい。コマーシャルでビール党田村正和がにんまり「まちがえた」と言う最近発売されたものは、まこと、すぐれもの。こちらの舌の麻痺もあるであろうが、味を限りなくビールに近づける努力と知恵に日本の匠を感じる。ちょうど先日、第三のビールの出荷が発泡酒を上回ったとの記事があった。わたしは発泡酒から発泡性リキュール党になった。

20世紀から21世紀にかけての(おっと、歴史を語るかぁ!)日本における発泡酒から第三のビールへの開発競争は、根底に商魂たくましい企業戦略があるのだが、税金を巧に逃れ、低価格競争を巧にすり抜ける離れ業を支えているのは、やはり匠の技であろう。日本人は小器用なのさっ!

と、ふと閃いた。

日本の匠は、やがてまもなく、煙草のテーストに近い「大人用発煙おしゃぶり」を開発するであろう。名前は「発煙草(はつえんそう)」。これにはニコチンは入っていないからタバコではない。(すでにそういうようなものはあるのかも)はじめは、「なーんだ、こりゃだめだ、飲めたしろものじゃない」わけであるが、やがて、「限りなく煙草!」を目指す開発競争が起こり、味はみるみる向上する。ただし、これにはニコチン以外の有害物質が含まれているため、世間の風当たりはいまだ強い。廉価は達成されたものの、「煙草類」とみなされ、喫煙所での喫煙に限られる。

ところが、である。日本の匠は巧みにも、まったく有害物質を出さないどころか、なんとその煙には、吸えば血圧を下げる効果のある成分が含まれている「第三のタバコ」の開発に成功するのである。残念ながらその効果はまだ科学的に証明されておらず、その化学物質の名前を公表することはできないが(おっと爺の妄想が始まった)、医師による臨床実験では、従来の血圧降下剤がもつほどの効果は望めないが、「明らかに有意な血圧への好影響」が確認されたという。科学的に特定されれば、「この物質を含んだ「食品」は、いわゆる特保、特定保健用食品に分類される可能性は十分にある」ということだ。

やがてトントン拍子にことはすすみ、とうとう、愛煙家明石家さんま出演のコマーシャルで「まちがえた」となる。特保「発煙性おしゃぶり」の発売である。ガールフレンドは「この煙なら苦にならへん」とボーイフレンドに急接近。
 そして、縁側では、最近血圧が高い気がする、臭いけど爺の側にいったるかぁ、と爺に婆が寄り添うのである。爺の片手には発泡性リキュール、もう一方には、発煙性おしゃぶりが

日本の巧みは、「健康」という相手の武器を逆手に取り、愛煙家たちを救ったのである。

めでたしめでたし

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612日(木)関心人それぞれ

ほんとうに、関心を向ける対象は人それぞれだと思った。

だからこそ、いろんな人がいる方がいいのだなぁ。どうも、同じことばかり流しがちのテレビは、やはり問題かも知れん。メディアを制する者国を制す。恐ろしいことになるやも知れん。誰が制しているのやらよく見えんからますます怖い。

朝の情報番組がけっこう好きだ。5時から8時、チャンネルをパチパチ変えながら、「ながらテレビ」していると、どこの局もなんか同じことばかり言っている。同じ局も同じことばかり繰り返す。(もちろん、ふつう、朝の忙しいときに3時間も見続ける人もいないだろうから、早出の人、遅出の人、主婦と、人に合わせて時間帯ごとに繰り返すのです!)

大事件が起こればそれを中心に報道するのはしかたあるまい。それにしても秋葉原の事件は悲しい。
 そんな中、気がついてみれば、ガソリン高騰の話題は毎日のように出てくるようだし、洞爺湖サミットに合わせた企画であろう、地球温暖化、エコ、環境と聞かぬ日はない(そういえば、この二つの話題、矛盾しますねぇ)。一日中エコ話を流していたチャンネルなどもあり、こうなると何やら「環境にやさしくないものは人間でねぇ!」と言われているような気がしてきて、わたしなどは肩身が狭い。エコがメディアを占領し国を制するか。

ところで、最近ほとんど車に乗らなくなった。だから、ガソリンが高くなっているということにあまり関心を向けなくなっている。6月からまた上がったこと、しかもかなり激しく上がったことも6月に入ってから知った。今朝久々にガソリンについての特集を見入っている自分に気づき、人それぞれどころか、同じ人間でも関心がいろいろに変るものだと、あたりまえのことにあらためて感心した。去年あたりまでは1円の値上げにもピリピリしていたものだ。

その番組では、日本のガソリン高騰を受け、世界各地のガソリン価格を比較するものであった。調べた国々の中で日本は4番目に高かったそうだ。そんなことはどうでもいいが、「ほぉ~」と思ったのは、韓国が日本よりかなり高くて、その理由がいろいろな税金がかかっているからだという。本を読んでたわたしは(学生のころから「ながら勉強」のゆうちゃんでした)、そこでテレビに目を向けた。

画面がすぐに変ってしまったが、そのいろいろな税の中に、教育税というのがあったのが目にとまった。「へぇ~」である。「ガソリン使って教育に貢献!」かぁである。いいじゃないぃ!

ガソリン使って環境税!ならわかるけど、わかりすぎるんで面白くない。あまりにも整合性がある理由づけは、大方の関心が向いたものだけに偏る危険性がある気がする。「ふぅぅん、あのお金、そんなもんに使われてるのぉ」というのも、いいもんなのではないかなぁ。

税金が高いっ!と怒るのも庶民感情だし、血税が何に使われているのか明確にせいっ!と求める気持ちもわかる。しかし、「どーせ原油も高くなってることだしぃ、この際だからドサクサに紛れてこっそりガソリンに使途不明の税金上乗せしちまったら?だーれも気付かんかも知れんでぇ(気づきますぅ!!!)などと考えるのも、やはり道を歩くときの排気ガスには辟易だし、横を飛び過ぎるスピードは脅威だし、ちょっとしたことで鳴らすクラクションはやはりうるさいと昨日も仕事帰りに思った「バス道歩く帰宅人」に成り下がった爺の戯言か。(そういえば、わたしには、昔から、高級車に対する偏見があり、「高級車に税金吹っかけろ!」という持論があった、人とは自己中で勝手なものである)

ナイロビではガソリン高騰でバスに乗る人が増え交通渋滞が緩和したらしい。ガソリンの値段が上がれば困った社会問題もいっぱいだが、案外、いい変化も起こるかも知れん。国民を説き伏せるには、やはり当然、「環境にも優しい」という理由づけが一番であろう。「無目的税」では筋も通らぬ戯言ゆえに、ここは洞爺湖サミットに便乗し、「税金上げて温暖化ストップ!」をスローガンに、ガソリン税値上げの機運が高まるといい。ついでに健康にもいいかも知れない。

ちなみに、わたしはリッター500円になっても車の運転は続けます。

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65日(木)見苦しい

見苦しい

と、正巳さんは吐き捨てた。

数年前、久しぶりに裏道で御在所山頂まで歩いた日のことだ。
藤内小屋より上の道は少し登りもきつくなり、段差も大きくなりと、ちょっとだんだん山道になってくる。おやおやわしも爺になり少し縮んだか山腹の木々が大きくなったかな(実際、森は成長していた)、涸沢がガレてちょいと侵食が進んだかな、などと感慨深く歩いていたが、基本山は変わっていなかった。
なつかしいなぁ。

ところが、ひとつだけ、奇妙に激しく変わってしまったことがあった。道標だ。

御在所の裏道はとてもポピュラーな登山道だから道標はしっかりしていた。分かれ道には必ず風雨でかすれ読みにくいが「こっち御在所山頂、あっち国見岳」などととあるし、「山頂まであと40分」なんていうちいちゃな案内板もある。少し紛らわしい広い沢筋などには石に赤や白のペンキで小さめの丸印がある。ちょっと陰になったところに書いてあるのだが、キョロキョロすればたいがい見つかる。不安になりかけた頃には決まって木の枝に巻いてある赤いビニールテープを見つけ「よし、迷ってない!」と安心するものだ。

「目立たぬようにはしゃがぬように」の道しるべは、私のような、なんちゃってビビリのアウトドア派には、ちょっと意地悪だけれども、なんとも頼もしいものだ。

ところが、である。久しぶりに登った裏道には、なんとも奇妙で毒々しい「標識」がいっぱいどっさりできているではないか。
 案内板の数が増えてでっかく図太くなったのはまだいいだろう。字も大きいが、すでにかなりの老眼のヤギ爺には助かるともいえる。しかし、である。裏道から御在所の隣の国見岳にぬけるルートはいくつかあるが、そのひとつ、たしか古い地図には載っていたがもう何十年も前小学生の遠足の集団が迷い込み浮石だらけの危ないガレ沢をワイワイ登ったものだから落石を起こし怪我かなんかをしたということで標識もなくなっていたルートに、でっかく綺麗に「こちら国見岳っ!」と看板ができている。ルート整備がしてあるのだろうかならばいいが。ちょっと危ない道だから、小さくかわいく「国見どすぇ」ぐらいがいい。

最大に度肝を抜かれたのは、登り道、ふと見上げるごとに目に飛び込む、鮮やかな黄色と赤のグルグル模様(弓道の的の総天然極彩色バージョン、あるいは、鳥追いのため秋の実りの田に上がる赤と黄色の目玉風船を思い出してください)。登山道沿いの岩の目立つところにくっきりはっきりと塗りつけてある。目を上げて行く先を見ると、右に一つ左に一つまた右にもうひとつ。ここまでせんと気が済まぬか?不安なのか!

藤内小屋に戻りご主人の佐々木正巳さんに話すと、「ああ、あれ。爺い婆あばっかしの○○山岳会がやったん。どーしよーもないバカどもだ。下りてくとき、ペンキもって上がって来たで、「あんたらなぁ、あれ、すぐにぜんぶ消しといて。きれーに、ぜーんぶ、元通りにしとけ!」と怒鳴りつけてやった」と言った。
 そして、正巳さんは「あかんな、ペンキはぜったい消えやんで」とつぶやいた。

見苦しい。僕はな、山の見苦しいのが、一番、嫌いやの

・・・・

先のゴールデンウィーク、久々のカバ婆といっしょに藤内に行った。爺はひとりで3月にも行ったのだが、小屋までの裏道が一変している。石の階段が土砂で埋められ平らになっているのだ。道の横にはポッカリ開いた大きな穴がある。土砂を掘り出した跡だ。

正巳さん、また、なに始めたんだぁ!?
 泥でぐちゃぐちゃやないかぁ!

御在所の登山道は水はけがよく、基本花崗岩の石でできているので、雨の時などでもまことに快適。濡れるが運動靴でも泥々になることはない。しかし、掘り出したばかりの土砂はぐちゃぐちゃだ。

道なおし始めたんだ、そういえばそろそろボッカが大変だゆうとったわ、そりゃ70も半分過ぎてもう80だろう、立派な後期高齢者。プロパン(大)担ぐんだからたいしたもんだ、いや小屋修理の機材やら材木やらもほとんどひとりで担ぐんだろ、ありゃ化け物だね、だがそろそろ大変だと思うわ、などと話しながら行くと、前で杭を打ち込む正巳さん。

まさみさーん、ひさしぶりでーす!
 おぉ、じっちゃん、久しぶり((「じっちゃん」はカバ婆のニックネーム、「518(日)アイデンティティ」参照)
 また正巳さんひとりでやっとるのぉ?
 いやぁ、松井さん手伝ってくれとる
 あぁ!下で立ちションしてた人?
 あ、あれ松井さんだった?気がつかんかった

などと立ち話して、「じゃあ、先に上がってます」と歩き始めた。「藤内じゃあみーんな言ってんでぇ、「正巳またはじめおった、土木工事」なんてさぁ」などと話すうち小屋に着いた。

おう、じっちゃん、ひさしぶりぃ
 あのぉわしも来たんだけど
 お、ゆうじもおったか
 正巳さんまた始めたね
 おお、ぐっちゃぐっちゃだったろう、あのおやじ、やる言ったらきかんでかんわぁ、 俺来るとき下りてくやつがスッテーンと三人ぐらいズルゥーッとすべっとったで。もう、むちゃくちゃだて

だけど、ここは水はけがいいから、雨でも降ったら泥は流れて、すぐまた快適になるでしょう、というようなことを言い合って、わたしはビールを開けた。

・・・・

二週間後。わたしは今日はひとりで藤内に来た。年に一度の遊魚組合の宴会とヤマメの稚魚放流作業のためだ。案の定、道はすっかり歩きやすくなっていた。泥はほぼ流れ、段差が無くなった登りは「これなら50キロは背負えるぜぃ!(嘘)」ぐらいになっていた。ところどころ「工事中」のところはあるが、ほぼ一人での修繕工事はやがて「完工」となるであろう。

小屋に着いて敏子さん(小屋の奥さん)に言った。「道よくなったねぇ、さすがやねぇ正巳さん、一人でよーやるわぁ。もう泥流れて、歩きやすうなっとるがね」
「ん、そやろ。まだところどころ途中やで滑るけどな。そういってくれる人ばかりだったらええんやけどなぁ」と意外にもしっとりした返事。「んなぁ、とーちゃん、言い出したらきかんで、みんなブツブツ言っとるがぁ」とでもくると思った。
「どーしたの?何かゆう人いるの?」
「ふん、歩きにくくて困ったとか、自然破壊だ、やめろとか、そこの伝言板なんかにも書く人がおってなぁ、とーちゃん、ちょっとまいってしまってなぁ」

・・・・

登山道は人が作った道である。鈴鹿の山のあちこちに、古くから山に入り炭焼きをした人たちの跡がある。藤内小屋までの裏道にも石を積んだ炭焼きの窯の跡がある。正巳さんは山小屋を立て、道を整備した。道が荒れるたびに、重い石を積み替え、枝を払い、道を修繕してきた。

正巳さんの「道路工事」を自然破壊だと非難した人は、きっとあの「老眼中高年者用誰だって見えます極彩色田んぼの鳥追い総カラー真赤真黄目玉これでもか標識」についても伝言板で告発したのだと、わたしは、心から信じたい。
 その人は、もう人の作った登山道など、すべて忌み悪しきものだと今はやっと悟り、きっと、道なき道を一人歩く孤高のさすらい登山者となったであろうと、わたしは、心から信じたい。

人が自然に与えてしまったインパクトを、破壊とか蹂躙とかいう尺度で測るのは難しい。

「見苦しい」という判断を、わたしは、見事だと思う。

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61日(日)「空気」

友人からもらったメールに触発されて一文。ベンヤミンについての学会発表の要旨を送ってくれたのだが、「自分」の出ている素敵な論考なのだが、爺の頭はすでに「ビールあたま」じゃ。

山で食べるインスタントラーメンは極上に美味い。皆が言うからまちがいない。アルミのコッヘルで回し食いするラーメンは見事に美味い。「空気」がちがうからだ。

「藤内(小屋)の水はおいしいねぇ、これで入れたコーヒーは一番おいしいわぁ」「湧き水引いてきとるでな」

御在所岳は花崗岩の山で、そこで濾過された湧き水は、たしかに、科学的にもうまいことは証明されるかもしれない。しかし、藤内小屋で入れたインスタントコーヒーが一番おいしいわけがない。それでもうまいのは「空気」がちがうからだ。山小屋のカレーライスが、どんなレストランのフルコースより美味いわけがない。

山の空気はうまいと言う。皆が言うからまちがいない。しかし、これも、「空気」のせいだ。

芸術でも、人間関係でも、会話でも、食べ物でも、その時その場での一過性の「空気」のようなものが醍醐味となる。

爺はそれを求めて山に行くのだな

そういえば、カバ婆に出会い、美しく魅力的に思い、惚れてしまったのも、山でのことであった

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522日(木)五月晴れの朝

春から秋ごろまでのヤギ爺の生活時間は、夜9時前後就寝午前2時から3時頃起床となる。

なにしろ酒も煙草も、やれる状況のときには我慢が出来ない。帰宅したらもうとりあえず我知らずビールに手が伸びる。必然的に9時頃には出来上がり、おやすみなのだ。

毎朝激しい尿意で目が覚める。午前2時。便所に飛び込み台所に行きお湯を沸かす頃今度は激しい便意に襲われる。便所から戻る頃湯が湧きコーヒーを淹れたらもうすっかり目が覚めている。その間10分少々であろう。寝起きは至っていい。

面白いものを読んでいたり楽しいことを考えているとあっという間に時間が過ぎ、「あ~ぁ、今日は結構仕事ができたなぁ」とふと時計に目をやると、午前9時半。あとの一日が長い。今朝もそうであった。

わたしの母は20011016日に死んだ。

昼前、研究室のわたしのもとにカバ婆から2度目の電話があった。「ゆうちゃん、あのね、びっくりしたらかんよ、バアちゃん死んじゃった」慌てたり、まじめだったりすると、娘のような素っ頓狂な澄まし声になるカバ婆であった。朝出勤した直後に電話があり「ばあちゃんから電話で、なんか心臓の調子が悪くってお医者行ったらすぐ入院した方がいいって言われたで、今から支度して入院するんだわぁ、って電話があった」と言う。「どんな様子だ」と聞くと「元気そうな声だったけどねぇ」と言う。そうか、まあチョト心配だが、様子を見よう、とりあえず明日は休講にして見舞いにでも行ってくるわ、というようなことを言って、ちょっとそわそわしながらなにやらごそごそ仕事をしていたのだ。

わたしは休講の手続きやら会議の段取りの引き継ぎやらをバタバタと済ませ(こういうときは至って冷静な爺である)、車で家まで急いだ。頭は真っ白だったと思う。この間のことは覚えていない。家では支度を済ませた婆と急遽学校から呼び戻された子どもたちが待っていた。「数珠は入れたか?」

名古屋に向かう車の中、あちこちに電話をし、今後のことについて段取りをしながら(こういうときは至って冷静なヤギ爺なのである!)、カバ婆から、母親は自宅から救急車で八事日赤病院に運ばれる間に死んだらしいと知らされた。そのように病院から連絡があったのだという。

夕方近く病院に着き霊安室に行くと広い部屋の奥のベッドに母は寝ていた。横には母と一番仲の良かった妹の明子(はるこ)おばさんと本家のお嫁さんの静子おばさんが、見守っていてくれた。母はすやすや寝ているようであった。いつも「私は地黒だからねぇ、化粧がのらんでかんわぁ」と言っていた母の顔は、色白で、美人であった。明子おばさんは「寝てるようでしょぉ」と泣いた。母の額は固く冷たかった。

カバ婆が電話で母から聞いた話(死ぬ数時間前まではそんなに元気だったのだ)と霊安室まで説明に来てくれた救急隊員の話を合わせると、母の最期はこうであった。

すでにずーっと不整脈と言われていた母は、大の医者嫌いで、調子が悪くなると近所の医者に行き「見てもらわんでいいで薬だけちょうだい」と言い薬だけを飲んでいた(これは違法である)。前日からかなり調子が悪かったようで、とうとう医者に診察してもらったのだから、相当悪いと自覚したのだろう。医者は救急車を呼ぶからすぐ大学病院に行きなさいと言ったらしい。母は、支度があるから一度家に帰って車で自分で行くと言った。2年前父親が死んでから母は名古屋で一人暮らしだった。

母はそういう人であった。人の世話を受けることが大嫌いだった。

119番には母が自分で直接電話したらしい。救急隊員が家に着き呼び鈴を鳴らしても返答がないので鍵のかかっていない入口の戸を開けると、母は電話のすぐ横に倒れていた。すでに意識はなかった。「これがお母様の横にありましたのでいっしょに持ってきました」と手渡された紙袋の中には、数日分の下着と寝巻と、化粧道具が入っていた。検死したお医者の話では、ほとんど即死状態だったという。心臓の血管が破れ一気に血が肺を満たしたのだろうと言う。「苦しまれなかったと思います」と医者は言った。

最近、テレビのある居間で即ごろ寝が家族に不評で、父母の眠る仏壇のある和室まで這いずりごろ寝となる。爺の激しい鼾が夜の母子団欒を乱すらしい。目が覚めると暗闇の中それでもぼんやりと仏壇が目に入る。

五月晴れの朝、ひと仕事終え、ぼんやりこんなことを考えるのも、ばあちゃんの祟りかもしれない。

私が死ぬなら「キュン」と死に、こんな陽気の春の朝、長閑で静かなお昼前、「おーぃ、今日の昼飯なんにするぅ~」というカバ婆に、眠るように逝った姿で見つけられたい。

と、ふたたびカバ婆
「聞こえんの?蕎麦にするでね。ぶっ掛けだっ、ガハハ」

「おう」
決まっているのであるならば訊かぬ方がよい

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518(日)アイデンティティ

こちら、ブタ子ちゃんのお父さん

幼稚園のPTAの話ではない。藤内小屋での話である。

娘のブタ子は生後10ヶ月程で「藤内小屋デビュー」を果たした。うれしがり屋の両親が、背負子に背負って「運んでいった」のだ。以来、ブタ子は、藤内小屋の「マドンナ」となった。

2歳のころには、もう、覚束なかわいい足取りで、一人で歩いて上(のぼ)るようになったのではなかったか。小屋が見えるところまで来ると、「とちこたぁーん」と声を張り上げながら、小屋の前の売店にいる敏子さん(小屋の奥さん)のところに走り寄る。「ブタ子ちゃん、よう来たなぁ」

わたしは、藤内小屋では、基本的に「ゆうちゃん」と呼ばれている。しかし、娘や、のちに息子のクマ太郎を連れて上(あが)るようになってからは、はじめて出会った人に紹介される際、「こちら、ブタ子ちゃんのおとーさん」「クマ太郎君のお父さんだがねぇ」となってしまった。二人は、小屋の前でも小屋の中でも、元気によく遊び目立っていた。

思えば、二十歳のころ、はじめて兄に連れられて藤内小屋に来てからは、ずーっと「森君の弟さん」という風に紹介されていた。やがて「野糞」のカバ娘と知り合い結婚してからは、「じっちゃんの旦那さん」と言われることになる。カバ娘は学生のワンゲル時代から「おじいちゃん子」ということで「じっちゃん」あるいは「Gちゃん」という愛称で呼ばれていたのだ。

わたしは、つねに、日陰者であった。

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513日(火)想像力

沢木耕太郎は、若い頃の文章(『路上の視野』収録)で、結局は「嘘」しか書けない仕事だとはわかっていても、「安易に想像力の世界に逃げ込まないこと、つまり「嘘」は書かぬという制約」をルポライターとしての自分に課していると言う。すばらしい。

執拗に取材しても埋められない事実の穴を想像力で埋めることはもう小説家の仕事だというのだ。もちろん、小説家の仕事もすばらしいが、無理だとわかっていても「リアルなもの」だけを求める努力は、並大抵ではできない業だ。

地方都市で孤独死した老女について取材しているとき、沢木は、隣家の主婦からの証言で毎夜何者かに話しかける老女の呟きが聞こえてきたことを突き止めた。老女は先に死にミイラ死体で発見された兄に夜毎語りかけていたのだ。膨大な取材からその内容を推察する自信のあった沢木は、しかし、そうはしなかったという。「老女の呟きをあれほどまでに狂おしく書きたかった」沢木は、結局書かなかったのはなぜだろうかと反問する。凄い。

思えば、研究者の仕事は、想像力で「リアルなもの」を解釈することかもしれない。わたしには、なぜあえて解釈しようとするのかと自らに問いかける勇気があるだろうか。

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58日(木)「猫」

いつもの奴が来た。

木の生い茂る広い庭を抜け、前足で窓を掻き開け、抜け抜け堂々と、向こうの部屋から入ってきやがる。

「おい、今日こそは捕まえてとっちめるぞ、抜かるな」と、顔はテレビに向けたまま、口だけで指示を出す。ブタ子、おまえはそーっと後ろから廻り、彼奴(きゃつ)の入ってきた窓を閉めるんだ、そこで待機。クマ太郎、おまえは右手から追い込めろ。わしは前から、婆ぁは横から、やつを追い詰める、いいか!

ドタバタ狂乱騒動の末、あの野良猫は、為す術も無く取り押さえられたのである。

捕まえてみればこともなし。首根っこを押さえ「さ~て、どうしてやろか」と皆で顔を見合わせ、してやったりとほくそ笑む。散々に小突き回し、打ちのめす間、猫はニャーとも言わぬ。とうとう観念したのである。仕舞いには、猫は水が嫌いだと進言したクマ太郎とともに揚々風呂場に引き回し、揉みくちゃにしてやったり。

「さーて、もういいだろう、許してやろう。二度と来ぬよう放り出してやるワイ」

わたしは、表に出て、ひょいと野良を放り投げたのである。

猫は、なんと摩訶不思議、スーッと矢のように飛んでいったのである。距離は10メートルはあろう、道の向こうの藪の手前に、トンと降り立つ。しばらくは落ち着き払い、前足なぞを舐めてはいたが、やがて、ぬぅーっと立ち上がると、何事も無かったかのような澄まし顔でこちらを振り向き、ササッと藪に消えていった。わたしには、猫がニタッと笑ったような気がした。

と、ここで目が覚めた。目の前ではゴン(飼い猫)が「ニャーニャー」鳴いている。外に出せとの催促だ。

・・・・・・

起きた後まで覚えているこんなに鮮明な夢を見たことはこのところしばらく無かった。その家や庭には覚えがある。昨日帰りの電車で読んだ「狐」の家だ。永井荷風の幼きころの思い出の家だ。

小さい頃や若い頃、テレビで見たり本で読んだ物語が形を変え夢に出てくることがしばしばあったのだが、まさかこの年になってそんなことが起こるとは夢にも思わなかった。わたしの「電車de日本文学」の楽しみは、森鷗外の『雁』を経て、永井荷風の短編へと至っているのだ。

「狐」は、荷風らしき「私」が、父親たちの、大きな邸の広い庭に現れた狐を、鶏を盗み食った咎で穴から燻し出し惨殺し、その夜の大酒盛のために鶏二羽を絞め殺し、夜の更けるまで飲み明かす姿を、「あの人たちはどうしてあんなに狐を憎くんだのであろう」と思う子どもの自分を回想する物語。「鶏を殺したからとて、狐を殺した人々は、それがために更にまた鶏を二羽まで殺した」のだ。眉間を鳶口で一撃されどろどろと生血を流す狐を天秤棒に吊るし担ぎ戻ってくる父たちの姿は、幼き「私」に「絵本で見る「忠臣蔵」の行列」を思い出させた。舌なめずりしながら酒を飲む大人たちの姿は「絵草紙で見る鬼の通り」に見えたという。

「私」は、物語を、「世に裁判といい懲罰というものの意味を疑うようになったのも、あるいは遠い昔の狐退治。それらの記憶が知らず知らずその原因になったのかも知れない」と結んでいるが、なんとも、夢にまで見る、強烈な物語であった。

おまけ:(8日深夜記)
ただし、つぎの「監獄署の裏」は、ぐちぐちと、つまらない。

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5月7日(水)子離れ

藤内小屋のホールは宿泊客が飲み語り歌い集う場所だが、小屋の奥に立派な宿泊棟ができる前はここが寝室でもあった。長方形の広間の奥と入り口の上が畳張りの寝床スペースになっており、上の壇には丸木で組んだ梯子を上って上がる。(「上」という字は見ていて気持ちのいい好きな漢字だ)

小学校4年(だったかな?)の男の子と1年の女の子が梯子や手摺で「アスレチック」している。彼らにはどこでもジャングルジムだ。二人は正巳さん(ご主人)と敏子さん(奥さん)の孫たちで、ななちゃんと旦那の神谷さんの子どもたちだ。ふとブタ子とクマ太郎の小さいころを思い出し、感慨に耽る。わたしは、神経質な父親だった。

ゆうじぃ、ほっとけてぇ!こどもはだいじょーぶだで。そんなもん、おちてもケロッとしとるでよぅ、やらしとけってぇ

わたしは、子どもたちが「はしご・てすりジム」を始めると、すっと立ち上がり下で構えるのである。手を伸ばせば届く高さなのだが、万が一落ちたときガードしてやるつもりなのだ。「きーつけろよ、クギがはずれるかもしれんでぇ!」などと注意を喚起しながら、それでも、わしゃ、かまっとらんでぇ、あんたら自由に遊んどきやぁっと素知らぬ風を装いながら、子どもたちの下に何気なく移動する。子どもは自由に遊ばせろ主義と安全管理は親の努め主義の葛藤だ。

そんなもん、見とるでかんわぁ、はよ、こっちきて飲めぇ。

そうなのだ。子どもたちが遊んでいる姿を見るのは体によくないのだ。常にヒヤヒヤの連続なのだ。どうしてああも危ないことばかりを選んでするものだろうか。

あるときから、わたしは、子どもたちが遊んでいるところからできるだけ目を離すようになった。いっしょに遊んでいるときは別だが、なるべく「子離れ」するようつとめるようになった。

「子どもの独立心を育てよう!」などというカッコいいもんじゃない。ただただ自分の心を平静を保ちたいがためなのです。

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429日(火)リスク・マネージメント

カバ婆(かばばぁ)が危ない

一緒に買い物に行き、レジに並ぶ。ふとカバ婆の顔を見ると、なにやら遠くを見つめて笑みを投げかけているのだ。かと思うと、急に目をまん丸にして媚(こび)を売る。顎をしゃくる。なにごとかと思い視線の先を見れば、隣のレジに並んだ若いお母さんに負ぶわれた赤ちゃんが、婆ぁをじーっと見つめている。

なんやねん、あのおばはん

買い物の際中、お菓子売り場なんかで、お菓子相手に独り言をぶっているちゃんちゃい(三歳)ぐらいの女の子がいた。座り込んでおままごとかぁ。お菓子コーナーを横切ろうとしたカバ婆ぁは、つと足を止める。カートの持ち手を持ったまま、幼児の方に目を向けたカバ婆ぁの横顔が止まる。5秒。「あかんあかん、わたし、あんな子見ると誘拐しとうなる、あかんあかあん、やばやば」と先を急ぐカバ婆ぁであった。

カバ婆ぁは、かわいい幼児を見かけると、かわい過ぎていとおし過ぎて、つい、頭を「バシーっ!」と、叩(はた)きたくなるらしい。

危ない

台所で洗い物をする婆の後ろをすり抜けようとすると、とっさに振り向き、爺ぃの鳩尾(みぞおち:こんな漢字なんですね!)にひざ蹴りを食らわされた。

なんすんねんっ!うぅぅぅぅぅ
 ごめーん寸止めするつもりだった
 なにするねんやぁ!
 ビール取りに来たんでしょ

図星だったが、すでに寸止めが利かない婆ぁであった。危ない。
 日常の家庭生活にもつねに危険は付きまとう。

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425日(金)わたしは人を殺しました

ゆうちゃん、お宅から電話だって、ちょっと出て

当時まだケータイなどはなく、藤内小屋には菰野町(三重県三重郡)内だけの有線電話がある限(ぎり)で、わたしは、どういうことか掴めないまま受話器に出た。

おう、ななちゃん(小屋の娘さん)どうしたの?

あのな、名古屋から電話やで、いま受話器同士引っ付けるで、ちょっと聞きづらいから大きい声でしゃべってな

名古屋の父から小屋主人の自宅に届いた電話を受話器越しに取り次いでもらった。父は、「ちょっともう遅いから今日はいいが明日朝一番で帰って来い」と言った。「え?何かあったの?」「いや、くわしいことはあとだが、ちょっと越谷くんのことなんだ」「死んだの?」「ああ、とにかく明日帰って来い」「自殺?」「ああ、そうだ」

わたしは、その土曜日、越谷(もちろん偽名)と藤内小屋で待ち合わせをしていた。昼過ぎから飲み始め、もうすでにかなり出来上がっていたが(なんちゃってアウトドアです)、たぶん5時か6時の電話だったであろう、バス、電車を乗り継いで名古屋まではまだ帰れる時間だ。わたしは「まだ帰れるから今から帰る」と言って電話を切った。父は無理するなと言った。

越谷は大学の同級生で、入学当初からの友人であった。大学近くに下宿する別の友人の部屋へ毎日のように入りびたり、講義の合間、講義をサボって屯(たむろ)した。わたしと越谷はいわゆる「自宅生」で、遠くから来て下宿する「親離れ」した仲間の中で、淡い劣等意識を共有した。「森は甘ちゃんだよな、考え方にやっぱり親囲いのゆるさがあるよ。都会(名古屋でもです!)の進学校で受験勉強だけやってきたやつとはどうも話が合わねぇ」などとやられた後、二人、原チャリで連(つる)んで帰る途中、喫茶店に寄り(名古屋はほんと多いのです)、コーヒーを飲みながら、「杉崎(これももちろん偽名です)は偉そうだよな、たしかに田舎の高校で揉まれて、いろいろ経験してるってことだろうけど、ああ自慢げに自分の苦い過去を言うのは生意気だよな。お前だって今の受験生のひとりだって、言いたいよなぁ、俺たちだって辛い思いぐらいしてるよな」などと、自分たちの未熟を疎み友の早熟を羨んだ。

下山の道は暗く、ラテ(懐中電灯)で足元を照らしながら、小走りで下りながら、道端に何度も吐いた。吐くほどには飲んでいなかった(と思う)が、胃液になるまで吐き出した。温泉街の石橋にかかるころ、よろよろと下山するわたしに、これから登る小坂さんが声をかけた。「ゆうじぃ!どうしたぁ!なに、なんで、もう帰るんか?」

もう本名を明かすが、小坂さんとは、蜂の心はわからん(215日「蜂の心」)と言う、わたしの山の恩人だ。小坂さんに頼んで明日は越谷を初めて本当の岩登りに連れて行ってもらう約束をしていたのだ。

どうしたぁ、ゆうじ?
越谷が自殺した
どういうことだぁ?
わからないけど、死んだ
そうか、なら、気をつけて帰れ、お前、足ふらふらだぞぉ!
はい
とにかく気をつけろ
うん

家に帰ると、父から、越谷が自宅近くの下宿で死んでいた様子を聞かされた。(彼は早く独り立ちしたかったのだろう、大学2年になってから家のすぐ近くのアパートに一人住んでいた。)感電自殺だった。寝るときに体に電線を巻きつけ、タイマーをセットしたらしい。わたしは今日藤内小屋で会うことになっていたのだと言って泣いた。待っていたのだと言って泣いた。

葬儀のとき、ガールフレンドが轟々と泣いていた。華奢な体なのに轟々と泣いた。あとで、越谷のおとうさんから聞いたのであるが、彼女は自分が殺したのだと泣いたという。何もできなかったと言って泣いたという。

いや、越谷を殺したのはわたしだと、わたしは今でも思っている。

越谷はちょっと内向的で素直で明るいいいやつだった。大勢での議論になると吃ってしまい(差別的意味は一切ありません)自分を表現しきれない自分に苛立ちと焦りの薄ら笑いを浮かべる。でも、ゆったりと落ち着いているときには、自分の趣味(ファッションやギターや音楽に詳しかった)や生き方(まっとうに生きたいといつも言っていた)について訥々と豊かに語った。そんな彼を、わたしは山に誘ったのだ。

藤内小屋に行くようになり、そこでも「ゆうじは甘ちゃんだ」「ゆうちゃんは世間知らずの学生さん」と言われ続け、それでも、そんな自分が受け入れられていると感じ、居心地の悪さが詰(なじ)られる快感に変わっていき(わたしはマゾかぁ!)、入り浸るようになったころ、「越谷、山はいいぞ~っ!いっぺん、いっしょに登ろうや」と誘いをかけ、連れ出したのだ。そして、そのときのわたしの心には、「山の世界」に受け入れてもらった自分の姿を越谷に見せびらかせてやりたいという浅はかな、あまりにも薄ら汚い思惑があったのだと、今でもわたしは思っている。

越谷とは再三山歩きに出かけた。鎌ガ岳という御在所の隣の山まで駆け足でピストン(往復)し、「一般登山者」を追い抜いては、「ごめんなさーい」「すいませーん」と声をかけ、無邪気な優越感に浸っていた。そのころにはやっと一人で行けるようになった藤内壁の岩場あたりにも連れて行き、岩登りの真似事のようなこともした。「こんど、本式の岩登りをしよう!」

わたしは、まだ自分が入りかけてもいない山の世界に友を誘ってやったのだと思い込んで、ひとりいい気になっていた。

あの日、そんなわたしを待たせたまま、越谷は死んでしまった。父からの電話のとき「自殺?」と直感したわたしは、登ってくるのが遅い越谷になんとなく不安を覚えていたのだ。だから自分が殺したことを自白したようなものだ。

葬儀のあとしばらくして、越谷のご両親がわたしたち大学の友人数名を家に呼んで馳走してくれた。おとうさんは、カメラに残っていたフィルムを現像したらあったのだと言って、鎌ガ岳山頂で撮った写真を見せてくれた。越谷は満面の笑みでカメラを見ていた。「こんなに楽しそうな顔をしてあの子も森さんには感謝しているはずですありがとうねぇ、こんなに楽しそうなのに」と言って、おかあさんが泣いた。わたしは何も言えずに俯いた。

越谷の気持ちは越谷にしかわからない。だが、わたしが越谷の気持ちがわからなかったことだけは事実だ。だから、わたしが越谷を殺した。

・ ・ ・ ・

『行人』を読み終えた。兄一郎は弟二郎に妻直の本心を確かめさせたが、弟二郎はHさんに兄一郎の本心を確かめさせた。以前読んだときには、兄一郎の神経に自分にもわずかにある狂気を見て絶句したが、今度は、人の心が掴み得ぬ弟二郎に絶句した。Hさんの手紙をかじり読む二郎を完全に消し去った漱石は凄い。

Hさんと旅に出た一郎はその塵労(妄念)の最中「山に行こう」と言う。山と言っても箱根のはずれだったらしい。けれど、そこで、嵐の中、一郎は野獣のように雄叫びながら山の中を彷徨する。宿に帰って一郎はしきりに「痛快だ」と言ったらしい。だけど、やっぱり、アウトドアは必ずしも癒しの場所ではないんだなぁ。

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421日(月)雑談形式

わたしには歩くときその時々に口ずさむ歌がある。月夜はやっぱり菅原都々子だ。ちなみに、夜、山道を歩くときは、恐怖心を払拭する「アンパンマンのテーマ」である。

月がぁ、とっ、てもぉぉ、あおいか、らぁ~ああああ。とーぉーー、まわりしてぇ。かーぁーーええ、ろおおお~~!

駅を出て空を見上げると月が出ている。月が青いことはめったにないが、今日のように晴れてキリっとした空気の夜は、家まで450分の距離を、煙草吹かしながらぶらぶら歩いて帰ると、何やら頭がぐるぐる回り、いろいろ思い巡れて心地いい。歩きながら言いたいことがざっくざっく頭を巡る。

こんなときは、とみに、独り言をしたくなる。

(ただし、じっくりずっしり考えるときには、やはり、紫煙に包まれ密室がいい)

新学期が始まり授業が始まりました。

わたしは、大学12年生対象の英語の授業を主に担当しているのですが、新学期はとても緊張します。ろくな授業はできないけれど、わたしは英語の授業をすることで給料をもらっていると思っているので、なかなか力だけは入ります。新学期はしんどいシーズンです。

さて、頭を廻らすと言えば、わたしの大学院の授業は、「雑談形式」をとっている。

大学院レベルの授業と言えば、昔は講義ノートがそのまま本になるほどだから、本来の「講義形式」がある。それから、院生参加型の「ゼミ形式」「レポーター形式」「プレゼン形式」など、つまりは、毎週担当者を決めて、担当者の発表(多くは発表要旨をまとめたプリントとか、最近ではパワーポイントなるものを使ったプレゼン資料などを伴う)を中心として最後に質疑応答+教員のコメント、といった感じの授業形式が主流だろうと思う。

わたしの授業は、毎週「お題」(本の一部だったり、論文のようなものだったりする)を出して、それについて、各人が、各様に、思いを述べる形式だ。「笑点形式」と言ってもいい。

わたしはフィールドワーカーで、インタビューなども試みるが、呆れるほどの聞き下手だ。会話中の沈黙が苦手で絶えられず、5秒の空白にも落ち着かない。人の話を静かに聞いたり、人の話をうまく引き出すことが本来必要な役目のはずなのに、ついつい、自分から我さきに、自分のことをだらだら話してしまうことになる。わたしの授業の雑談形式は、だからたいがい、わたし自身のべらべらしゃべりで台無しになってしまうことが多い。

ただ、ときどき、学生の中に、この雑談形式で頭をぐるぐる巡らす者がいる。

今学期の授業の受講生から、メールボックスに入れておいた今週の授業の「お題」(資料となるプリント)を受け取った旨のメールが届いた。

「学校に行ける時間がなく、遅くなりましたが、
昨日テキストを受け取りました。

ほんと雑談形式の授業なんですね、
初体験なので前の授業では
脳内であたふたしておりました。」

雑談形式もそれなりの効用があるようだ。そう言えば、以前、授業のあと、わたしのところに寄ってきて、「先生、今日はなぜか脳が「カーツ」と熱くなりました」と言った学生がいた。

どうやら、雑談形式が、少なくとも脳の活性化には役立つタイプの人間がいるようだ。おそらく、勝手に考える脳の持ち主なのだろう。

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417(木)深夜

あまりにも急に若くして逝ってしまった母を亡くした若き同僚の悲しみに
 献杯、献杯、献杯、献杯

あぁ、ひとり、飲みすぎてしまったよごめん

417日(木)迷惑

始発駅からの電車は、ラッシュ時でないかぎり、けっこう座れるのがいい。発車数分前、まだまだ空席が目立つ車両の座席に腰を下ろし、本を取り出した。

まもなく発車しますのアナウンスが流れるころ、4人の若い女性がわさわさ乗ってきた。「おぉー、奇跡っ!ここあいてんでぇ、すわろすわろ!」

夕方、梅田などのオフィース街からの帰宅方向とは逆の電車だから、奇跡ではない、ほかの車両だって空いていたはずだ。なのに、わたしのすぐ横に、四人並んではしゃぎだした。

別に盗み聞きしたかったわけではないが、「○○の授業ってさぁ、チョー眠いよねぇ」「△△、キショいわぁ、ムカつく」などと、授業や教師の話をしているから、どこかの大学生だろう。言い方はムカつくが、単位がどうの、受講登録がどうのと話しているので、フツーの学生だ。むしろまじめな学生だ。もう少し小さい声で話して欲しいなぁ声がデカイ。

「あぁ~っ、それおいしそー!ちょうだいちょうだいっ!」「くうくうぅ!」「おいしーねぇ、これぇー!」

何を食っているのかわからない。席を移ろうかとも考えたが、「オヤジ、キショーっ!」「キショ」「キショーい」「キショいよねぇ~」と思われたくないので、とりあえず『行人』だ

『行人』は半ばに差し掛かり、優柔不断な二郎と次男の自分を重ねて読み耽っているうち、ふと、読む伏した目線の視野の端に、鮮やか黄色のジーパンの縁からこぼれ溢れる横っ腹、というより横尻(しり)の贅肉が、入った気がした。カバ婆ぁ言うところの「半尻(けつ)ファッション」(いわゆるローライズのジーパン)ではないか(カバ婆ぁ注:ローライズは今年はもう古いらしいです)

なにしろ、視野左端の一瞬の映像であるし、雰囲気ではむしろスラっとした女性のようだったので、はみ出した贅肉は幻影かもしれない。しかし、「おいおい、君ィローライズはくならその贅肉、なんとかしたらぁ!?」などと、のんきな善良中年男の感慨に耽る余裕など、そのときのわたしにはとてもなかった。(カバ婆ぁ注:あれは、普通の体型の人でもけっこうあんな風に肉が盛り上がってしまうのです)

かりに背後から覗き込んで見てしまえば、見たくないところまで見えてしまうにちがいない(カバ婆ぁ注:原稿では、露骨な即物的表現が使用されておりましたので、わたくしが検閲いたしました)などと妄想してしまったヤギ爺ぃは、慌てて両の手を高く差し上げ、小学生の国語朗読のような姿勢で『行人』のみに集中しようとしたのであります。担当教員をキショいと言ったその口で「さっきさぁ、電車の横のオヤジの視線、みたぁ~、やっぱ、オヤジ、キショぉ~!イヤラしー」「クサぁ~」「ウッソぉ、キショぉ~!」「ほんと、キショー!」などと言われる自分を妄想してしまったのです。(この人たち、ほんと、「キショー」「キショー」の連発だった)

ここまではよかった(あまりよくないという考えもある)

とうとうこの学生、化粧をはじめたのである。化粧だけならいいが、長い髪にかなりドギつい臭いのスプレーを振りまき始めてしまった。当然わたしの方にも漂ってくる。

わたしは、化粧関係の臭いは大の苦手だ。この手の臭いは鼻にツーンときてしまうのだ。思わず大クシャミをかまして、ヨダレと鼻水撒き散らし返したろかという復讐心が湧いたのは嘘ではない。しかし、クシャミはなんとかおさまった。このときばかりは、普段から煙草で鍛えているわが鼻の我慢強さに感謝すらしたものだ。(個人の感想です) しかし、わたしは、とうとう、停車を機に席を立ち別の車両に移ったのであります。

なぜ注意できなかったかなぁ

わたしは「棲み分け」という発想はあまり好きではないが、いま、「女性専用車両」の制度だけは容認する。できれば、通勤電車はすべて棲み分けにして欲しいと思うぐらいだ。理由はふたつ。化粧と痴漢。

わたしは、化粧の臭い(もちろん、すべての化粧がだめなわけではありません、いわゆる香水系、スプレー系がだめなのです)と痴漢冤罪の恐怖から、電車内では女性から逃げまくってしまうのだ。女性への注意もやはり女性に任せる世の中か。悲しい現実である。

だから、できれば、「体臭のみ!で勝負系男性専用車両」を設けて欲しい。3日ぐらい風呂に入っていなくても気兼ねなく堂々と電車に乗れるのだ。

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416日(水)道なき道

へぇ~ぇ、せんせい、山野を駆け巡る!道なき道を行くっ!ってイメージなのに、ちがうんですか?

ちがうのである。

二十歳になったとき、大学生活になんとなく息詰まり行き詰まり、何かを求める気持ちだけで何を求めるわけでもなかったころ、「一度岩登り行くか?」と誘われて、「うん、いってみようか」と兄について御在所岳にはじめてやってきたときのわたしは、まこと惨めだった。

御在所岳の山頂までの登山ルートは基本的に3本あって、それぞれ「裏道」「中道」「表道」という名で呼ばれている。そのうちの裏道は特に急な登りもなく、危険な崖沿いのルートもないので、もちろん山を侮ってはならないが、地元の小学生が遠足で訪れるぐらいの初級コースである。近鉄湯ノ山温泉の駅は、当時、週末ともなれば一泊慰安旅行の団体客で溢れ、駅前では、マイクロバスの前で屋号の入ったはっぴを羽織り、旗を振った呼び込みたちが電車の到着と共に活気付く。「昔は、山岳部は、ここが登山開始だったのだ」と説明した兄のあとに「登山基地」の雰囲気に緊張の喜びを感じつつバスに乗り込み、三交湯ノ山温泉というバス停で降りる。土産物屋が立ち並ぶ坂道を歩き、温泉街を通り抜け、はずれにある小さなヌード劇場の裏手を回って細い沢にかかる狭い石橋を渡ると、そこに「裏道登山口」がある。兄のクライミング用具を分けて背負ったわたしは、おそらく5キロもないぐらいの重さだったと思うが、普段の運動不足がたたり、この登山口までの歩きですでにちょっと疲れていた。ものの十数分の距離である。
「ここからが登りだ」「うん」「とりあえず藤内小屋まで、ゆっくり歩いても1時間はかからん」「うん」

付記:湯ノ山温泉は、今日、まったく寂れてしまった。バスの本数は極端に減り、温泉街はゴーストタウンと化している。独特の怪しい雰囲気を持っていたヌード小屋も今はない。

石段が続く道をとぼとぼと登る。「自分のペースで歩けばいい」「うん」

登山口から10分ほどのところに「蒼滝」という観光名所があり、上からは、革靴とハイヒールのアベックなどが見物からの帰り道「けっこうきついねぇ」「そうね」「だいじょうぶか?」「うん、大丈夫、ちょっと足が痛くなってきたけど」などと言いながら下りてくる。わたしはすでに声が出ない。

蒼滝への下りの標識があり、滝見物は後日に譲り先を進むと、頭上に鈴鹿スカイラインの陸橋が見えてくる。「車できたら、この上に車を止めて、ここから登りはじめだ」「そう、ちょっと休憩していい?」
「もうバテたのか?まだ30分もたってない」

わたしは、初めての体験を前にすると、極端に弱気を出す。弱気が神経をすり減らし体力を消耗する。後から考えれば、どうしてなのか自分でも不思議なほどであるが、そのときのわたしは、荷物(たかだか5キロ!)を背負って、これからどれくらい歩くのだろうかという先の予測がつかないことで、すでに弱気になっていた。弱気になれば弱音が出る。「あとどれくらい?」「まだつかない?」「ちょっとまって

だんだん無口になる兄を決定的に怒らせ呆れさせたのは、「本当の」山道に差し掛かってからのことだった。

温泉街から歩き始め、石とセメントで固めた階段、石を巧みに重ねた石段を過ぎ、手すりなどもなくなり、道が自然に並んだ石を利用した段々坂に変わっていく。回りの景色から人工物が減り、鳥の声やら清流の音などが耳に心地よくなると、気分は「山」になる。夏のことだったが、木々の間から吹き寄せる風が汗を乾かしひんやりと涼しさを誘うころ、体も慣れてきたのか、疲れも和らいだような気がしてくるものだ。「山ってけっこう気持ちいいね」「ああ、お前のペースで歩けばいい、ちょっと先に行ってみるか?」
わたしは、兄の前にすすんで歩き始めた。

登山道にはところどころ道標がある。上矢印「御在所山頂」下矢印「湯ノ山温泉」といった類の標識だ。中には目安の時間が書いてあるものもある。ふと見ると、道沿いの木々の枝に、赤や黄色のゴムテープが巻いてある。今通っているところがまちがいなく公認の登山道であることを知らせてくれるのだ。ところどころに、小石を積み上げた「ケルン」などもある。人の気配だ。

自然の山道、といっても、遠足の目的地になるほどポピュラーなコースで、踏み跡ははっきり、道も整っている。張り出す枝は切り払われているし、段差は石を積み替えることで歩きやすい程度に整えてある。裏道途中にある藤内小屋までの山道は、自然公園のハイキングコースのように整備されているのだ。

わたしは、道が二手に分かれているように見える場所に差し掛かるごとに兄に確認を取る。「これ右かな」「そうだ」「ここ、まっすぐ行けばいい?」「ああ」

「これどっちにいったらいい?」「好きなほうに行け」を何度か繰り返すうち、とうとう兄はキレた。

「前を見てみろ、あっちに行けばいいんだ。小学生が来る山だぞ!どこで迷うことがある!とにかく上に行けっ!」

その後、毎週のように通うようになり、数限りない登山者とすれちがっているが、ここで道に迷い道を尋ねる人には出会ったことがない。(本当はたまにいる)
兄は、自分もたいがい臆病だが、何人かのビビリの初心者を連れてきたことがあるが、「お前は異常だ」と言った。

「はじめての岩登りぶざま滑稽体験顛末記」については、また別の機会

おまけ:
「へぇ~ぇ、せんせい、山野を駆け巡る!道なき道を行くっ!ってイメージなのに、ちがうんですか?」という感想は、若い研究仲間と喫煙所でタバコを吸いながらの会話である。
わたしは、「いま、妻(さい)と、格安バスツアーにはまっている」と言ったのだ。

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49日(水)偽装

3月中は、フィールドワークとエスノグラフィー(民族誌)についての考えをまとめ、書き物していました。体験をできるだけリアルに文章にして人に伝える努力をしようと、決意を新たにしました。これまで、わたしが怠ってきたことです。
無理だとは分かっていても、嘘になってしまうことは分かっていても、自分の感じたこと、体験したこと、考えたこと、知ったことを、そのままありのまますっかり伝えたい、という気持ちのままに、文章を工夫すること。そんな工夫を続けていけたらと願っています。

ということで、気分のモードがなかなか切り替わらず、そのうち新学期になり、授業が始まり、『独り言』がすっかりご無沙汰になってしまいました。

ところが、わたしは、白髪を染めてしまっていたのです。
厳密にいえば、ヘアーマニュキュアなるものを、まだら白髪のうち白髪の多い部分だけに、スルサラススッと付属のブラシでこすりつけたのであります。部分修正のつもりでした。

カバ婆ぁは、なんだか変だねぇ、てっぺんだけ茶色ーくなっとるがね、ウザぁー!とおっしゃった。クマ太郎は、とーさん、やめときやぁ、なんか変やわぁ。
ブタ子だけが、とおさん、ちょっと若返ったぁ?と言ってくれました。ブタ子、ありがと!

実は、この間、クマ太郎の彼女が家に来るらしいといううわさをカバ婆ぁから聞き、そこから私の妄想が広がり、娘の彼氏や息子の彼女に会う時には、あまり読んだことはないけれども、少女マンガにでてくる「パパ」風に、「いやぁ、いらっしゃいぃ。ゆっくりしてってね、コーヒー?それともグリンティー?」などと、素敵パパ振りを見せなければなどと、ふと血迷ったのです。「髪染めてみよかなぁ
けっきょくは、仕事の都合もあり会わず仕舞いでしたが。

実はここしばらく、「ヤジ爺ぃ」などと名乗り、だんだんに年をとる(まだこの4月で50ですが)自分に忠実に生きていこうと決めたばかりなのに、咄嗟に思い立った、浅はかな偽装工作でした。

ありのままはむずかしい。

おまけ:
通勤で『行人』を読んでいます。もとは新聞小説なので、電車で読むには区切りがちょうどいい。こんなに面白かったかなぁと不思議です。やはり、ぼちぼち区切って読むがいいのか。
注にありましたが、漱石は2回も富士登山をしているんですね。すごーい、わたし、まだ登ってない。

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320日(木)ウォシュレット

職場のトイレがウォシュレットになりました。野糞もいいが、ウォシュレットもいいっ!

ちょっと他に書くものがあり、独り言はご無沙汰です。

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312日(水)わけのわからない話~バランス感覚、中庸~

何人かの知り合い(その中には、文字通り崖っぷちを歩んだクライマーの兄も含みます)を念頭において、わけのわからない与太話を一席。

人生において、バランス感覚、中庸の精神は、とても大切です、と人は言います。わたしも、まさに、そう思う。

さて、渡るこの世を、切り立った痩せ尾根、あるいは、一本のロープのように感じる、多感な、人生の達人は、やはり居るものです。そういう人にとってのバランス感覚、中庸の精神というのは、まこと劇的である。

綱渡りの達人を思えばいい。バランスをとるために、綱から落ちないために、かれらは、みごとに、体を前後左右に振り揺すり、けっしてまっすぐ安定することなどはない。バランスを保つとは、じつに、こういうことなのだ。

かりに、そうですねぇ、コンピュータ・グラフィックを利用して、その綱渡りの達人の動きを、のーんびりとした大草原を背景に、ぽつねんと一人、置いてみましょう。いつも大地はどっしりと私のためにあるのだと、心のどこかで信じきっている人には、「おいおい、こいつぅ、なーんてバカなんやぁ、まっすぐ立つこともでけんのけぃ、おかしいんちゃうかぁ」としか思えないでしょうね。

げに、バランスとは、中庸とは、ほんとうは、劇的なものだと思うのです。

さてさて、わがヤギ爺ぃは、幅1メートルもある崖っぷちの山道ですら、まともに歩くことができません。極度の高所恐怖症なのであります。まっすぐと、みごとに安定して、バランスをとりながら立っていられるには、崖から5メートルの距離は必要なのです。わたしはそこから踏み出せない。

こんな人間に、中庸、バランスを語る資格などは、ほんとうは、ありませんね。

人生航路が、行く手にまっすぐ延びた安全な歩道のようなものとしか感じられない人間にも、その資格はないのかも。

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311日(火)いじめっ子

古い2階建ての木造校舎。

32組の教室は、1階の一番奥のはずれの端っこにあった。普通の教室は、縦長の長方形だが、32組の教室は横長だった。2つの入り口は、前と後ろにではなく、教卓と黒板の右と左の隅にあった。放課で遊びに夢中になり、授業開始に遅れて教室に戻ると、先生の横眼の視線が突き刺さった。この教室の風景は今もはっきり覚えている。

「そーじとーばん、しゅーごーっ!」

教卓に座り込み、箒を肩に担いだ、3年生のわたしは声を張り上げる。

「そーじ、はじめーっ!」

みんなは、列ごとに机を押し引きずりながら、教室の後ろの方に集め、前の方をあける。まずは、さささっと掃き掃除。教室の前の方から後方に向かってサッサッサァー。ぞうきん係がそのあとを拭いていく。「石塚君、サボっとったら、先生に言いつけるぞ」

わたしは掃除当番の当番長であった。当番長の役割は、みんなが掃除をさぼらないように気を配ることであった。前列から1列ずつ机を戻し、空いたところをまた掃き拭き掃除をする友だちの様子を、机に腰かけ箒を担いだわたしは監視していた。だらだら掃除はやがて終わる。

「じゃぁあ、先生に報告してくるな、まだ帰ったらいかんから」

わたしは、日誌をつけ、職員室に走る。

わたしは、まことに嫌なタイプ小学生だった。運動がまずまずできて、遊び好きだったから、「カン蹴りしよーっ!」「屋根ゴロしよーっ!」「ドッジしよーっ!」と、いつのまにか、仲間を率いる。母はわたしを「ゆうじは、内弁慶だねぇ」と言った。人見知りで、特に知らない大人の前では、クシュンとなっていたからだ。その分、仲間内では元気がいい(この性格、今も変わっていない)。友だちとの間では元気がいいが、先生の前ではいたっておとなしい。いたって先生の覚えはよかった。依怙贔屓(えこひいき)の対象だ。

当時、わたしの小学校では、三年、四年と同じクラスの「持ち上がり」だったので、担任もクラスメートもそのままで、四年生になった。依怙贔屓は続き、わたしは、学級委員やら係りやらを任された。

クラスメートの様子が変わったのは、2学期ごろからだったと思う。何やらひそひそとわたしのことを言っているらしいことが、なんとなく感じられるようになった。わたしが近づいていくと、場の空気が変わった。小さい頃からの友だちたちは、それでもわたしに話しかけるが、その様子が一番「異常」だった。いつしか、だれも、わたしに近づかなくなった。

母によると、ふだんどおり晩飯を食っていたさなか、わたしが突然においおい泣きだしたらしい。「どうしたのぉ!?ゆうじぃ!」と訊かれると、むせび泣きながら、「みんなが、いじめる」と言ったという。「どおしてぇ!?」と訊かれると、誰も遊んでくれないと言ったらしい。

わたしは、母はえらかったと思う。学校に相談に行くことは、まず、しなかった。まずは、親ぐるみで仲のよかった幼なじみのお母さんたちに、事情を聞いたらしい。「ゆうじぃ、えっちゃんがねぇ、「だって、ゆうちゃん、掃除当番なのに掃除もせず、威張ってばっかりなんだもん」っていったらしいよ。あんた、ほんとかね?」それ以外にも、わたしの「いじめっ子」ぶりがいくつか報告されたという。「帰り、いつも、かずよちゃんに、かばん持たせてかえるんだわぁ」

わたしは、「だって、せんせいが、ひいきするから、みんながいじめるんだもん「ひいき、ひいき」ってゆうもん」と泣いたという。

母がどのように先生に報告したかはわからない。先生に呼ばれて話をした覚えはあるが、何を言われたかは忘れてしまった。教室では、何事もなかったように、すべてが、普段通りに進んだ。委員とか、係りになることはなくなった。わたしは威張ることをやめ、友だちの白んだ視線に耐えた。母は、「ゆうじが反省すれば、友だちも許してくれるから、きっと」と言った。普段、悪いことをすると、平手でバッシバッシ叩いた母だが、こういう時の母は、じつに優しかった。

五年生になり、先生も変わり、クラスメートも変わり、やがて、なんとか、再び、学校に行くのが楽しくなったことについては、またあとの話。わたしの、友だち回復の、反省の人生は、いまだに、続いている。

わたしは、この体験から、

1.わたしはリーダーになるべき人間ではない
 2.わたしの本性は醜い

ということを学んだ。

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37日(金)石橋はどうやって渡る?

「石橋を叩いて渡る」というたとえがある。わたしの父親の口癖であった。「慎重の上にも慎重っ!」

カバ婆ぁの戯言:

おとうさんはなっ、石橋叩くけど、「しんちょうのうえにもしんちょっ!」とかなんとか言いながら、ずんずん叩いて、叩きすぎて、あれれあれやと、叩き割ってしまうわぁ。それでな、「ほら見よ、やっぱり危なかった。渡らんでもいい、こんな川。」って、うそぶきやんで、きっと。

うまいこと、性格を言い当てたものよ。
うまいうまい。
調子に乗って続けるカバ婆ぁ。
わたしの母は

お母さんはさ~ぁ、石橋あるの気づきもせんと、ささささぁっ、と渡っちゃうタイプやわ。振り向いて、とんとん石橋を叩いてるおとうさん見て、「なにぃ、なにやっとるのぉ、はよ、おいでんっ!」

うんうん、うまいうまい、それで?

あんたは、おとうさんの子やで、一生けーんめい、しーんちょうに石橋叩いて、しーっかりしっかり確認してから、「よし!」と渡り始める思うでぇ。

うんうん、そうそう、そういうところあるなぁ、わし

でもなぁ、けっきょく、途中で、石橋崩れるねん、がははははははっ!

ブタ子(娘)かぁブタ子は、石橋の前で、しばし、たたずむわ。渡るべきかやめるべきかあれこれ、なにそれ、小一時間は悩むんだ、きっと。でっ、けっきょく、遠回りをすることに決めんねん、あの子は。慎重言ったらそうやけどぉ。んで、けっきょく、回り道しながら、「あ~ぁあ、やっぱり、渡っとけばよかったぁ」って、必ず後悔すんねんで、あいつ。ごほほほほほほ

クマ太郎(息子)はな、あいつは粗暴やか慎重やかわからんやつだで、ちょっと軽く叩いて試すつもりが、つい「がぼ~ん」と割っちゃうねん。んで、「まぁいいわ。これくらいなら飛び越せるわ」と思いきるけど、やっぱ落ちるねん。どぅふふふふふふふふ

おぉおお、そうかいそうかい、人のことはじょーずに言えるわいなぁ

わたし?わたしは、叩くの面倒だからそのまま渡って、けっきょく、落ちまする。

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229日(金)閏年

きのう今年はじめての鶯。

今日は、職場の一年の打ち上げのパーティーがあった。2次会で楽しい酒を飲んだ。

もう深夜、日は変わってしまったけど、閏年だから、29日の日付でひとことだけ独り言。

おやすみなさい。

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225日(月)風の森

ガブガブ酒を飲み、がつがつ喰う。ちょいとつまんだり、そそっと添えたりするような代物では、駄目なのだ。「ビール」といえば発泡酒。肴はあぶったイカなら34枚はいける。腹をこわしてでも、するめを頬張り、しゃぶりかぶりつづけるだろう。

仲間のなかには、ほんとうに旨そうに酒を飲み、「あて」(というのは関西弁らしいですね)を口に運ぶ人がいる。横でいっしょに飲んでると、つい、うれしくなり、つい、またガブガブと酒を飲む。

「おおいぃっ!工業用アルコールでも持ってきたろかぃ!」

どうも飲み喰いの話が多く恐縮である。冬だから仕方ない。

「風の森」という生酒の蔵元、油長(「ユーチョー」とのばして読む)酒造の酒蔵見学に連れていってもらえた。御所市にある。このホームページを開くときにもお世話になった岩根さんという同僚に誘ってもらったのだ。コンピュータの達人はまた酒の遊び人でもある。奥さんもいっしょだ。こちらはカバ婆ぁ同行の初めての体験。

朝、雪のちらつく、寒風吹きすさぶ、身も凍る日曜がいい。駅裏に「ライフ」という大型スーパーができ、残念ながらちょっとさみしくなってしまった商店街の通りが、それでも、なかなかいい。

古いりっぱな瓦屋根の、軒先に大きな杉玉のかかるガタピシ木戸の風情ある母屋のとなりに、町工場倉庫風殺風景な金属シャッターの奥の鉄筋の酒蔵がいい。淡々と酒造りについて話し、質問に答えてくれる、作業着に上着を羽織った蔵元がいい。作業場(なんて言ったらあかんだろうが)の酒蔵はきれいに整理され、忙しく仕事する従業員(なんて言ったらあかんだろうが)の杜氏が、見物人のヤギ爺ぃの横を通るとき、笑顔で「いらっしゃいっ。ごめんなさい」とすっきり頭を下げていく。いい。

7種類の樽には、地元のアキツホや、キヌヒカリ、有名酒米山田錦や雄町を、精米率を変えたものがそれぞれに仕込んである。メモ紙にマジック書きの「アキツホ 50%」といったメモが、養生テープで無造作に貼ってある。いいっ!

例の、青いぐるぐるが底に書いてある、ちょっと大きめの猪口に取り分けてくれた純白のもろみ。うまいにきまっている。味に、酸味やまろみに、ちがいがあるのはわかるけど、どれがうまいのか全部うまいにきまってる。しんしんと冷える酒蔵に、ジーンとちべたいもろみが、口中、喉越しに、うまい。さむい。

会議用折り畳みテーブルの上に四合瓶7本が並ぶ。御猪口も7つ。「寒いなぁ」といって蔵元は入口の金属シャッターを下ろしてくれた。酒蔵前のコンクリート張り駐車スペース。うまい。とっかえひっかえ御猪口を口へ運ぶ。どれがうまい?これもうまいっ!さむい。うまい。うまい、うまい。

寒さがしみるほどに旨かった。やはり、日本酒は冬に限る。

(わたしはとにかくがぶがぶ飲むので、味の描写ができません。ごめんなさい。)

だいぶ前のことだが、日本の大学がまだIT化(そんな言葉もまだ知らなかったころだ)の進んでいなかったころ、イギリスに留学した人がオックスフォードを絶賛して、「古い伝統ある建物の中は、目立たぬようにケーブルを張り巡らし、ネット環境が完璧に整っていた、イギリス人の美学を見た」などと言っていた。伝統とハイテクの融合かぁ

でも、あの酒蔵のことを思い出していると、件(くだん)のオックスフォードの伝統とハイテクが、なにやら合わせて「箱物」のような気がしてきた。伝統は見た目じゃないな、人だ。コンピュータというハイテクが必要なのは、学問をするためだ。そこが偉いとすれば、人と学問だからだろう。

見学の最後に、蔵元は酒樽(といってももちろん木製ではない)についている注ぎ口を指さし、子供のように笑いながら、「これ、製薬会社なんかで使ってるやつ、このバルブを、特別につけてるんですよ」と言った。美酒のためには、何しろ雑菌の侵入、汚れを抑えるための工夫はとりわけ重要だと言う。伝統は、やはり、人なのだ。技術は、やはり、味のためにある。

ところが、気分のみで酒を飲むこのヤギ爺ぃには、伝統も技術もわかりえぬ。ただただ、さむーい一日と、飾らない酒蔵と蔵元と、連れてってくれた佐藤さん、それから、岩根夫妻の遊び心に、感謝あるのみです。それに、うまい酒に。

「あんたなんて、水飲んでたって同じでしょっ」

岩根さんは、今日もきっとうまい酒をうまそうに飲んでいるのだろう。ふだんから姿勢がいいのだが、酒を飲む岩根さんの背筋は一段と伸びる。にんまり目を細め。

付記:

「風の森」というお酒、去年の暮、カバ婆ぁが偶然酒屋で買っていた。友人に「うまい酒がある、その酒を売っているおもしろい酒屋がある」と聞いて飛んで買いに行き、その酒がなかったので、「せっかく来たもん、それじゃあ代わりの奈良の酒」ということで、たまたま、まだ飲んだことのない奈良の酒を買ってきたのだ。たしかに旨くて、すぐ空けた。

岩根さんから、旨い酒ということで教えてもらった時、カバ婆ぁの勘に驚いた。

それから、この油長酒造で作っている「火の鳥」という米焼酎があるのだが、これもたまたま、先日、お使い物ということでカバ婆ぁが買っていたのだ。

 見学が終わり、カバ婆ぁが「奈良でも焼酎作ってるんですね、こないだ見つけました」と言うと、蔵元が「うちで焼酎もつくってるんだけど、見てく?」と応える。
  「火の鳥っていうの、買ったんですよぉ。奈良の焼酎なんてめずらしい思ってぇ。」
  「それ、うちのです。」
そのとき、カバ婆ぁは、はじめて、「火の鳥が」が油長酒造の焼酎だと知ったのであった。

樽から出してもらった43度の「火の鳥」は、ふくやかで本当においしかった。樽の栓を鼻でかおると、ほんとうにいい匂いがした。

カバ婆ぁは、どうやら、勘だけで酒を飲むらしい。

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220日(水)正義

「ただいまぁ!」

家に帰ったら、カバ婆ぁが戦争をテーマの洋画(おぉー!ざっくりした言い方っ!)に食い入っていた。「いやだなぁ戦争

「ただいまっ」「おっ、おかえり」

歴史に疎い爺ぃだが、着替えながらも、
ぼそぼそ、考える。

見る視点によるけど、
「正義」でなかった戦争なんて、そんなにあるもんじゃないんじゃないかな
結局たくさんの人が動員されるんだから、
「正しいことだ」という合意がなければ、なかなかことはすすまない。
あとからはなんとでも言える。
内心「ちょっと無理ちゃうぅ?」と感じるのは当然だけど、
「正義」や「正しさ」には、じつに、人間、弱いよなぁ

これほどまでに「正義」「正しさ」の虜になっている今の日本は、
いつ戦争を起こしても不思議ではない。
正義のためでない戦争はない。

いやだいやだ

酒など飲んで不浄を尽くそう
そうだそうだ、御不浄(母は「ごふじょ」と言っていた)へいってから、
ちべたーいビールでも飲もう。
今日も元気だ煙草も甘(うま)いっ!

「おーい、晩飯なにぃ!?」

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218日(月)人の心は

いわゆる「みんな」、つまり、たくさんの人が考えたり、思い至ったり、したりすることから物事を考え、発想したりすることが大切である。わたしなど、とんでもない極端な状況を心に浮かべ、くねくね屁理屈をこねるから、カバ婆ぁが憤る。

「あいつなぁ、どーしても、なんて言ったって、わしの言うこときかんのだわぁ。」

「ん、ふ」

「ああいう連中とは、かかわりたくないね、ほんま。もう、やんなるわ。わしはな、ゴン(注)とは話が通じるが、あの人とはな、こんりんざい、どーしても、話が通じん。」

「あ、そ」

(注)猫の名。「28(金)人の振り見て」参照。

「ゴンなんかなっ、おれんとこにミャァと来てな、「どーちたのぉ、ゴンちぃ、おにゃかちゅいたにょぉ?」と言ったらな、おなかすいてたらちゃーんと台所行ってミャアミャア言っとるしぃ。外でたかったら、ドアのとこ行くだろぅ、ちゃーんとわかっとるで。コミュニケーションが成立しとる。かわいいもんだろぅ、な。」

「け」

「人間はな、言葉というものに頼り過ぎるのだよ。同じ日本語話すからって、通じるわけじゃないんだなぁ、これが。」

「へ」

「木の心がわかるなんつうけど、ほんと、ありうるわ。だいたい、人の考えとることなんて、なに考えてるかわからんで、けっきょくは、コミュニケーションっつうたって、一方的なもんなんだ。おれなんかなぁ、本心なんて言ったことないもん。だいたい、言えないよ、本心なんてもの、わかりゃしないんだよ、自分だって。んなん、殺人の動機、なんての、そんな、わかるはずないやろがぁ、なっ?」

「げ」

「う~ん、君の言うことはよーく分かる、とか、分かり合えてうれしいですぅ!なんて言うけどなぁ、んなもん、猫の話がわかるのと大差ないんだよぉ!、な。やっぱ、日本人同士だなぁ!つうといえばかぁだよな!なんてな、ちゃんちゃらおかしいよな!?」

「げっ」

「木との対話、猫との会話。並べてみたらいいわ、な。それにぃ、外国人とのコミュニケーション、日本人同士の意思疎通、仲間、そうだ、夫婦の会話、親子の会話だって、な、そんなもん、通じとるか通じとらんか、わかるもんかぃ。」

「へっ」

「「森が泣いてますぅ!」、なんて、森林保護かなんか知らんが、けっきょく、土地の利権がからんでるだけで、泣いてるかどうかもわからん森林にとっちゃあ、けっきょく、どっちだって迷惑な話かもしれん。「んなもん、森に訊いてみんとわからん!」だよなぁ」

「けっ」

「でもなぁ、あいつとコミュニケーションとるくらいなら、ゴキブリの心の方がずーっとわかるわ、ほんと。いやになるよなぁ」

「どこまではコミュニケーション可能で、どこからかコミュニケーション不能、なんて、決めようとするやつの気がしれんわ。な。けっきょく、お互いにわかり合ってる!なんていう幻想にもとづく、慣れ合い、誤解に過ぎぬのだ!コミュニケーションなんて、な。分かり合う、なんてことは、けっきょくありえねー、だろ!?コミュニケーション、コミュニケーションって言っとるやつほど、みーんな、ぜったい、コミュニケーション不全だがや。な!人間は、みんな、誤解の塊じゃ!」

「わたし、あなたの、そういうところが、きらい」

コミュニケーションが成立したという感覚なしで生きていくことは不可能だ。でも、コミュニケーションの成立って、難しい。

なるほど、極端なケースに執着するあまり、判断を誤ることは歴史上もいろいろあったのだと思う。「みんな」という発想の怖さである。でも逆に、ヤギ爺ぃの極端な屁理屈は到底受け入れようもないものだけども、極端な考えを持つ少数派の意見を無視することも、失敗のもとだよね。このあたりが、難しい。

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215日(金)蜂の心

「そんなもんは、ハチにきかんとわからん!」

藤内小屋(御在所岳)の夜。常連客が居間に居座り、車座に集い飲み騒ぐ。

わたしは藤内小屋以外の山小屋はほとんど知らないが、この小屋は風変わりな山小屋だと思う。小屋の主人正巳さんと奥さん敏子さん(姓は佐々木)の小屋だ。ステキな小屋だ。(この小屋について語ることがわたしの望みで、これからもずーっとずっと書いていこうと思っています)

さて、夏の夜、わいわい飲み飲みどやどやがやがや、とやっていると、虫などが紛れ込んでくる。2寸ほどの蛾が紛れ込むと、「うわぁああ!」「いゃややややっ!」などとなるが、たまに蜂などがブィーーーンうィーイんと来ると、「ぅおおおおおおおおおおっ!」とひと騒動になることもある。

「ああぁ、びっくりしたーぁあ。なんで蜂なんよぉっ!なんでこんなときに入ってくるのぉ!?」と女性クライマーが言うと、
 「うるっせぇわぁ、そんなもんなぁ、わっからんがやぁ。ハチにきけぇってぇ

別の夜。
「えぇっ!蝮(マムシ)いるんですかぁっ!?」
「そんなもん、おるにきまっとるがやぁ。うじょうじょおるわ。裏道(うらみち)歩いとってみよぉ、ぼっこぼっこ出てくるで
「ほんとぉ?おるのぉ?」
「だまっとれってぇ!そんなもんなぁ、歩いとったら、道、横切るでかんわぁ、夫婦でつながってよぉ、交尾しとるでかんわぁ。つながったまま目の前に出てきてみろ、そんなもん、でてくるとよぉ、「ぅおおおおおおお」だでそーっとよぉ、よけて通るしかないだろぅ!そんなもん
「うっそお、ほんとぉ?なんでそんなわざわざでてくるのぉ」
「そんなもんよぉ、(間)
マムシにきかんとわからん」

訊いてもわからんものに「きいてみんとわからん」と言うのは、山の仲間、というよりも先輩の口癖である。「仲間」なんて言えないぐらい世話になってる人だが、「先輩」「恩人」なんて言うと、きっと、「ゆうじぃ、おまえなぁ。ふっ、ばかかぁぁあ!」と怒るはずだ。二十歳のとき、兄についてはじめて藤内にきたとき、いっちばん最初に出会ったのがこの人なのだ。恩人だ。

訊けるはずもないものに「きいてみんとわからん!」という口癖は、いつも、絶妙なタイミングで出てくる。わたしはこれが大好きだ。

さて、いま、すごく考え込んでいることがある。

寒い冬(2、3日前)、いつもの台所で、ふつーにイスに座ろうと、缶ビール片手に、いつもの調子でススっとすすむと、そんなはずはないのに、冷たくて「しばれた」足の小指を、思わず知らずに、ズンっと、テーブルの脚にぶつけてしまうことがある。たまらなく痛いんだなぁ、これが。

「ぅううううううううううう

「どうしたのぉ?」とカバ婆ぁ。でも、この痛みは、わたしにしかわからない。「小指ぶつけたぁぁ~

「おぉーっ、痛い痛い、かわいそーーっ。さすったろかぁ?」
 「いらんわぃ!ぅうううううう
だが、やはり、この痛みはわたしにしかわからない。

しかし、

女の気持ちは女にしかわからないのだろうか。
 日本人の心は、しかし、本当に、日本人にしかわからないのだろうか。

その人のことはその人に訊いてみないとわからない。しかし、同時に、自分のことは自分では案外わからないものだというのがわたしの実感でもある。逆に、足の小指をぶつけたことがある人なら、ぶつけた人の痛さは十分わかるだろう。そこから、さらなる悲劇の苦痛、あるいは精神的な苦痛すら、想像することもできるかも知れない。「あれでこんなに痛んだから

「現場主義」はフィールドワークの基本である。「生の声」「ありのままの姿」を取材し、記録するのが、フィールドワーカーの基本である。フィールドワークとその結果としてまとめられるエスノグラフィー(民族誌)のことを考えていて、よくわからなくなった。蜂の心はわかります?

訊けるはずのない、訊いても詮(せん)無い相手に「きいてみろ!」という口癖は、やはり、ずっしり重いなぁ。

「コミュニケーションの諸相」が、ごちゃごちゃにぐちゃぐちゃで整理のつかない、哀れヤギ爺ぃのヤギ頭である。

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211日(月)春のにおい

おとといの土曜日は、奈良でもたくさん雪が降りつもりました!(^^)!久しぶりに雪だるまでもつくりたかったんだけど\(^o^)寒くってちょっとコタツでビールっ!でした(*^_^*)(完全にブログ調

さきほど、夕方、近くの酒屋にタバコを買いに出たのだが、空気にわずかに花の香りがした。春のにおいだ。

先日触れた斎藤たまさんの『野にあそぶ』はいい本で、なぜかと言えば、こんな書き出しだからだ。

「長いこと雪の下で眠りこけた肥えた黒い土の香りから始まって、外に出ると何かのにおいがいつも空にあった。土手に腰を下ろせば周りは草の香りで満ち、オドリコ草を摘めば蜜の香りと折った茎の青臭いにおいが一度にし、そして広いところに立てば、水の香りと土とタンポポと泥鰌と、代わりばんこにやって来る。子供たちはこの香りの中で遊んだ。」

こんなにカッコよくはないけれど、わたしのおさない日の思い出も、においにまつわるものがある。

母方の親戚が愛知県の渥美半島の先っぽに住んでいたので、小学生のころまで、毎夏2,3泊で家族でお邪魔していた。野遊び、蝉取り、海水浴、そして父親得意の飯盒炊爨(こんなむずかしい漢字だったんですね!ハンゴースイサン!)と、とてもとても楽しい思い出をつくってくれた、ほんとうになつかしい「ふるさと」である。

小学校の低学年ころまでだったと思うが、豊橋市から先の道はまだ舗装されておらず、トヨタファミリアバンの荷台に乗ったにいちゃんとぼくは(これは道路交通法違反である)、通称「洗濯板」と言っていたがたぼこ道を「ぅおおお!わああああ!」と楽しんだ。カークーラーなどなく、開けっ放しの窓からは砂埃が入ってくるが、やがて、車が海岸線に出ると、「あっ!海の匂いっ!」

そして、いよいよおばちゃんの家に近づいてくると、道路の両側に広がるメロン畑やブドウ畑から「田舎の臭い」がやって来る。

「あっ、いなかのにおいっ!」

「ゆうじは、においに敏感だねぇ」と、母は言った。

渥美半島は今でもメロンやブドウなどの果物の産地として有名であるが、幼いわたしの言う「いなかのにおい」は、しかし、その畑に撒いてある天然肥料のにおいなのだ。名古屋の家の近くのちっぽけな畑にも当時は「野壺」があって、ちょうどいい、そこに、おしっこなどをしたものであるが、渥美半島の「肥やし」のにおいは、わたしにとっては、たぶん今でも嗅ぎ分けられる、独特の、肥料の臭さのにおいがした。そのなんともいえない「いなかのにおい」は、幼いわたしにとって、「あつみのおばちゃんち」がもうすぐだという思いとともに、このくさ~いくさい、プ~ぅんとにおってくるこやしのにおいが、だんぜん夏のにおいなのである。

もう何年も前だが、大学院の授業ではじめて「共同体」をテーマにしたとき、何の考えもなく中村雄二郎の『共通感覚論』(岩波現代文庫)を読んだ。すでに書いたこともあるし、今後も「考察」するだろうから、ここでは簡単に、「目にたよるな!五感すべてを研ぎ澄ませ!」という、まことに大切なことを知らしめてくれた本として紹介しておきます。いい本です。「常識」という意味に堕落した英語でいうcommon senseが、そのまま「共通の感覚」と訳すべき全感覚の統一的な関わりを意味する言葉だったのだということを、いーぱい教えてくれる本です。

とくににおいは大切だ。

目にばっかりたよって臭いを嗅ぐことを忘れると、ちょっとした臭いにも、「イヤァー!」「臭さぁーぁいっ!」「お鼻に、ツゥーんとくるぅっ!」となるのです。

雪の土曜、すがすがしい日曜祝日の三連休を、ずーと家の中で、久しぶりに読書で過ごしました。坂口安吾の『不連続殺人事件』と『白痴・二流の人』(ともに角川文庫)が近くの別の本屋さんで見つかったのです!

台所にいき、「ビール飲もうかぁ」とカバ婆ぁに擦り寄ったら、「くさっ!すえたオヤジの臭いがするっ!」と言われてしまった。そういえば土曜日から風呂にも入らず、着替えもしていない。セーター、ジーパンのまま3日3晩を過ごしていた。今日こそは風呂に入ろう。すべて着替えてすっきりしよう。そして、ビールをもう一杯飲んでから、寝ることにしよう。

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29日(土)恥かし懐かし子どものころの遊び

小さいころのわたしは、ひとりで遊ぶことも多かった。「まさきちゃん、あーそぼっ」「まさき、つだくんちに遊びに行ったよ」、「あっこちゃん、あーそーぼっ」「おけいこあるから、またあとで」

ということで、家に帰り、自転車を乗り出す。4歳上で5学年上の兄がいたので、記憶にある小さい自分はすでに兄のお古の自転車に乗っていた。自転車を乗り回すのが大好きだった。

そのころの男の子はみんな(また嘘をついた)電車の運転とか車の運転にあこがれ、自転車に乗りながら「がたん、ごとーん、がたん、ごとーん、がたん、ごとーーん」やら「ぶん、ぶーん、ぶぅーーん、ぶーーーん、ぶぅーうーーうーー」とやっていたものだ。わたしの場合、もうちょっと恥ずかしい。

まず用意するものは、何か水を入れる容器。いろいろな物を使ったと思うが、覚えているのは母親の霧吹きの本体だ。母は洋裁の内職をしており、その仕事場は同時にわたしの遊び場だった。だから、母親の仕事道具がそのままわたしの遊び道具となる。金属製の指抜きは、床を転がすと面白い。人差し指で押さえて逆回転を加えて発射するとまことに様々な転がりを見せる。ときに、くるくる魅惑の回転を見せるのだ。たくさんあった糸巻きも転がして遊んだが、こいつは積木にもなった。ルレット(ご存じない方もいると思いますが)を床に走らせ遊んだ(仕事場の床はルレットの傷をつけても母はなんにも怒らなかった、母もつけていたから)。

さて、その霧吹きに水を入れ適量の綿(わた)をもぎ取り栓をする、それから割り箸を用意して、あとは結びつけるための紐を持って自転車のところへ行く。いよいよ「改造」が始まる。

まずは紐で割りばしをハンドルに結びつけるのだ。ちょうど握るのにいい具合に先をハンドルから横に出し、動かすと「カク、カク、カクッ」っと止まる感じになるぐらい(これがなかなかむずかしい)に締める。ゆるすぎてもだめ、きつすぎてもだめ、ギアチェンジのレバーにはならない。

何とかうまくいったら(いつも「ぐにゃぐにゃ」としか動かなかった)、次は燃料タンクだ。ハンドルの真ん中あたりに綿で栓をした霧吹きの本体を逆さに結びつける。これはタンクと同時に燃料メータにもなるのだ。

これで「自動車」の準備は万端だが、あとはもうひとつ、母親の物差しを持ち出し(名前を知らないが、なにやら曲線を引く(測る)ために使う湾曲した物差しがあって、これがわたしの日本刀だ)、帯で腰に差し、「自動車」にまたがる。(時代錯誤

「ぶーん、ぶぅーーん、ぶーーーん、ぶぅーうーーうーー」の唸り声に合わせて左手の割りばしでギアチェンジをしながら、町内の空き地の前で車を停め、おもむろに刀を抜いて見得(みえ)を切り、雑草相手に戦いだ。気がすむとふたたび車にまたがり、「ぶーん、ぶぅーーん、ぶーーーん」と次の戦いへ。ときどき燃料タンクに目をやりながらあちこちの空き地を回る。水の燃料が切れる(落ち切る)までに、家に戻りつかなければ、「死ぬ」。

ほろ苦い思い出は、近所の畑での「ネギ坊主」との格闘だ。あれは切るのがまことに楽しい。鈍ら(なまくら)物差し刀で切っても、「バサッ」時間差で「首」(ネギ坊主)が「ぼたっ」

見つかってひどく叱られた。怒鳴り込んできた畑の持ち主に母は平謝り、そのあとわたしは平手を浴びた。

図書館で借りた斎藤たま著『野にあそぶ自然の中の子供』(平凡社)を読んだ。もともと1974年にでた本だが、そのころでもすでに懐かしい(忘れられてしまった)子どもの遊びがいっぱい書かれている。草笛や花飾り、葉鉄砲、葉っぱの舟、飛行機、虫取りやら虫での残酷遊びなどから、めんこ、竹馬、鬼ごっこ。ままごと、おはじき、おてまりまで、いくつかはわたしもしたことのあるなつかしい遊びについて書かれている。

こういう本や、記録写真や動画や、「こども博物館」といったような施設は、やはり、大切だろうなぁ。伝統の遊びや味かぁ

嬉し懐かし恥ずかしのわたしの遊びは、どこに記録されるだろう。ちなみに、わたしの懐かしの味は、トノサマラーメン(注)とフィレオフィッシュです。

(注)トノサマラーメンは、チキンラーメンと同じ、どんぶりにあけて熱湯注ぎあとは待つだけ、のインスタントラーメンですが、私の思い出の中では、味がビミョーにちがっていたように思うのです。

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28日(金)人の振り見て

ペットの犬に服など着せて、「マロンちゃーん、おなかちゅきまちたかぁー!」などと言っている人を見ると、ゾゾ毛立つ。「犬は躾ければ応える、親身に接すれば、ほんとうに、人間と心の通い合う、太古の昔からの、人間の「相棒」なのです」などとは、片腹痛い。

うちの駄猫は、「ゴン」という名前(本名)で、うちに来たころ、「ミャー、ミャー」とたよりなく鳴くばかりで、ひょろひょろと与太つき、あちこちに頭を「ゴン」「ゴン」とぶつけていたので、「ゴン」となった。ロシアン・ブルーという純正猫に似ているが、よく見ると体にどら猫の縞がにじむ。体重6キロ強のブタ猫。

http://www.lang.osaka-u.ac.jp/~mori/hp/index.cgi?action=ATTACH&page=%A5%E4%A5%AE%CC%EC%A4%CE%C6%C8%A4%EA%B8%C02008&file=IMGP0257%2EJPG

ゴンはお手をする。娘のころ猫を飼っていたことのあるカバ婆ぁが、「猫に躾けは無理だ」と言うので、意地になって躾けたら、あっさりと「おすわり!」と「お手っ!」をするようになった。

わたしは、前にちょっと触れた父親が「猫のような小ざかしさ」を毛嫌いしていたせいで、すんなりと犬派だったのであるが(そのとき戌年だとも書いたが、戌年が犬を好きだとは限らない)、中2のころの娘ブタ子がゴンを拾ってきてからは、すっかり猫派になってしまった。

ゴンは、やはり、猫なので、自らすすんでお手はしないのである。餌でつってお手を求めると、「うっといなぁー(鬱陶しい)、けっきょく、くれるんやろがぁ」というような顔をして、気ダルくお手をする。かわいい。

こんどはカバ婆ぁがゴンを躾けた。ゴンは、今では、4割がたの確率で、わたしたちの放り投げたちくわの切れ端を、口でキャッチする。「ナイスキャーッチぃ!ゴン、えらいぞ、えらいっ!」わざと外して、ちょっと斜め横のほうに放れば、こんどは見事なスライディング・キャッチだ(手(前足)で挟みとる)。かっわいーい。

先日カバ婆ぁがリサイクルショップで4,000円で衝動買いしたロッキングチェアは意外に心地よい。「ゴンちーっ、おとおさんの、おひざに、おいでぇー!ゴンんっ、ゴンちぃーーーっ!」と必死に呼びかけても、ゴンは来ないのだ。カバ婆ぁは爺ぃが気持ち悪いとゾゾ毛立つ。

そのロッキングチェアで、ビールが回り、テレビを見ながら、つい、うとうととなると、意外にもなぜかゴンちゃんが膝の上に乗りにきてくれるのである。かっわいーいっ!抱きしめる。「ゴンちゃーあん、とうちんの、おひじゃに、きてくれたのぉぅ!」きもちわるい。

わたしは猫を生んだ覚えはないが、じつは、今は、ゴンは、わが子も同然だ。

まことに、おぞましい。

このところ、なぜか、日記風に書きたい衝動があります。どうせ三日坊主でしょうが、『猫とともに去りぬ』を買った理由がこれなのです。

人がしているのを見ると嫌悪を覚えることを自分自身がしている。げに、近くて見えぬはまつ毛、「人の振り見てわが振り直せ」はむずかしい。今一番肝に銘ずるべき格言か。

途中まで読んだが、『猫とともに去りぬ』はわたしむきではなかった。

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27日(木)ブログの安吾

前にちょっと坂口安吾の『堕落論』(角川文庫)を読んでいると言いましたが、実はこの正月から、通勤手段を変え、バス電車通勤をしている。

わたしは、車の運転が大好きで、ここ数年、職場に「自家用車通勤」を申請していた。閉所恐怖症で、電車に乗ると必ずおなかが痛くなるので(事実だと確信しているのが恐怖症です)、死んだ母親の形見のスズキのKeiで通勤していたのだ。片道42195キロ(ほんとうにそれくらい)の、楽しいドライブだった。

運転が大好きだと言っても、恋人と朝日の昇るのを眺め、「ねえぇ、夕日も見てみたいなぁ」などと言って、日本海側まで突っ走るようなドライブはどうも苦手で、「通勤」やの「帰省」やの「仕事」やのの口実がなければ運転しない。まあ、一日10時間ぐらいの運転は楽しめます。

さて、電車通勤になって、とりあえず暇つぶしにと本棚からたまたま選んだのが、『堕落論』だった。昭和53420日改版31版発行とあるので、おそらく大学生時代に買ったのだろう。「教祖の文学」という小林秀雄論のところなんかに書き込みがあり、「そうだそうだ!」と言っているから、真剣に読んだのだろう。おそらく、このところ最近いろいろあって、「堕落してぇーっ!」と思っていたから『堕落論』だったのだと思います。

電車の中だけで、30分、20分、20分、30分、(その他の書類の類の読み)、30分、10分(御堂筋線という地下鉄です)、20分、20分、3分(乗ってすぐ、アホ口開けて寝てしまったのです)、30と、ブツブツ断片的に読んでいると、『堕落論』が、なにやら、今風トビッキリの、ブログのような気がしてきたのです。

前にも書きましたが、わたしは英文科出身で、「文学研究」で身を立てようと思っていたのですが、文学を研究することに嫌気がさし(文学に嫌気がさしたのではありません。文学を読むことに嫌気がさしたのでもありません。文学を読んでしたり顔に分析研究する自分に嫌気がさしたのです。器でない)、もう文学についてとやかく言うのは辞めたのですが、坂口安吾がとてもいい。

で、近所の書店で、つぎに読もうと、安吾の文庫を探したのですが、ない。

ちょっとおもしろくなって、ふつーの品揃えのある、つまり文庫本ぐらいがけっこうずらーっと並んでいる、町の本屋さんにいくつか入ってみたのですが、ない。

最近は、ほとんど書店に行かなくなり(本を読まんのです最近)、本はアマゾン!と決めて通販生活をしているのですが、電車通勤になった効用のひとつは町の本屋さんである。本がいっぱいですね。文庫本などは山積みだ。でも、安吾が、ない。(『堕落論』だけは見かけます)

明日以降、アマゾンやら、大学生協やら、通勤途中にある梅田の紀伊国屋やらも見てみようと思います。が、

町の本屋さんにない=みんなが読まない、は、短絡でしょうが、とにかく、ない。

じつは、いま、安吾は、いまどきのサラリーマン、主婦、政治家、青少年、だれでもいいのですが、なぜか、必読の書のような気がしています。(『堕落論』のみを電車でつまみ読みして、そう断言するわたしは、やはり、器でない)

代わりに、タイトルのみに惹かれて、ロダーリという人の『猫とともに去りぬ』(光文社(古典新訳)文庫)を買いました。

なぜ、「猫」「猫なで声」かは、またいつか書きます。

「坂口安吾の書いたエッセーは、一級のブログとして読める」(本末転倒)ということを言うのに、これだけのスペースを使いました。

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26日(水)公園嫌い

わたしは、名古屋市の瑞穂区というところで、もの心ついてからずーっと30才近くになるまでを過ごした。いわゆる「都会っ子」であるが、小学生のころまでに、近所の畑がひとつまたひとつと消え、砂利道だった裏道がアスファルト舗装されていき、空地がどんどん減り、家がずんずん建ち、公園なるものができていくのを経験している。わたしたちは、みんな(嘘)、公園が嫌いだった。

当時の名古屋は、「どんぐり広場」という名前の地区公園整備を行っていたようで、わたしが小学校34年のころだったと思うが、それまでも遊び場だった空地に、このどんぐり広場ができた。

どんぐり広場の入り口には、人の通れるぐらいの隙間を開けて鎖がかかった。自転車は乗り入れ禁止なのだ。入り口わきには立て看板があり、ご多分にもれず「禁止事項」が箇条書きしてあった。何が禁止だったかよく覚えていないが、ボール遊びが禁止だったことだけは覚えている。

われわれは(わたしが4年生だった時の記憶はなぜか鮮明に覚えているが、1学年上のボス格を中心に、同級生34人、下級生数名何が「鮮明」じゃぁ!の近所の遊び仲間がいた)、車座になってこの問題を討議した。(人は思い出を美化するもので、なぜかそんなことをした風に記憶されている、たぶん、遊びながらみんなでブツブツ言っていたにすぎなかったと思う)

この空地はわれわれの遊び場だったのだ。土が積まれてできたでこぼこの坂は、自転車で滑り降りる格好のコースだったのだ。道との境界すれすれのところで後輪ブレーキだけかけて自転車を横滑りさせ、だれが一番道近くで止まれるかを競争した場所だ。雨上がりの水たまりぬかるみは、今でいうオフロードのダートコースだ。

そのころの男の子はみんな野球に夢中で(これも嘘。「みんな」なんてことはあり得ない、一部の「ぼくら」だけだ)、テニスボールをバットで打ち、道の向こうの家の生垣越えを「ホームラン」として、ホームラン競争をしていた。軟式のテニスボールだから、窓ガラスを割る心配はないが、いちいちチャイムを押して「ボールとらせてくださーい!」とするのも迷惑だろうと、生垣の隙間(を勝手に作ったと思う)から勝手にボールを取りに侵入した。(迷惑な話だっただろう)

そこは、「カンけり」の陣地でもあった。集合場所でもあった。

公園ができてしまい、いつの間にか、集合場所は、公園の道から2本先にある、比較的広い道沿いにある池田くんちの前に変わった。「カンけり」については、思わぬ発見があった。この陣地からの範囲内に安アパートをみつけ、昼人影のない薄暗いアパートの廊下の物陰が、格好の隠れ処になった。今度は両側の家の塀や生垣がファールグラウンドになった。(迷惑な話だ) わたしたちは世界が広がったことに喜んだ。道2本隔てて世界が変わるのだから、子どもの世界とはたかが知れている。

ときたま、「公園いこーっ!」と言って、どんぐり広場に出かけたが、小さい子供が遊んでいないときは、もとのホームラン競争やら鎖を乗り越しての自転車乗りやらを楽しんだ。しかし、おばあちゃんに連れられた(なぜかお母さんでもおじいちゃんでもなく、おばあちゃんといっしょが記憶されている)ちいちゃい子どもが来ると、「カンけりしよーっ!」といって、また池田くんちの前に走った。

われわれは、公園というパブリックスペースを呪った。

娘ブタ子と息子クマ太郎がちいちゃいとき、我が家は官舎のアパートに住んでいた。そのころのことを思い出しては、カバ婆ぁと「よかったよねぇ」と懐かしむ。

10数年前のことだが、すでに、「近頃の子どもは外で遊ばない」と言われていた。家で一人テレビゲームをする子どもの姿が「今どきの子供」のイメージだった。(ちなみに、今から40年ほど前、わたしが子どものころは、「もやしっ子」だの「テレビっこ」だの「かぎっ子」だのといった言葉が流行し、当時の大人は、テレビの前にひとり座りテレビマンガを見ている子どもを典型としていた。ちなみに、わたしは、テレビの前に寝そべり、足を延ばしテレビのチャンネルを親指と人差し指でひねりながら(ひねっていたのです、当時のチャンネルは!)、マンガばかり見ていた。ちなみに、夏休みともなると、「夏休みこどもマンガ大会」のような番組が午前中ずーと続いており、その流れで、面白くもない(時に面白かった)教育テレビやら、昼メロやら、午後の時代劇の再放送やら吉本新喜劇やらを、ずーと一日中はしごで見ていた)

そんなわけで、うちの子どもたちは、近所の子供たちとよく外で遊んでいた。官舎の団地群や、そろそろ周りに建ち始めたマンション群の子どもたちと、学年を越え性別を越え、何しろ集団で遊んでいた。もちろん近くにはいくつも公園があり、もちろん、ブランコやらすべり台やらでも遊んでいたが、おもな遊び場所は、我が家の4階からも見える下の駐車場や、団地裏の花壇の周りにある空き地であった。官舎の階段も遊び場だった。

子どもの公園ぎらいと飽き性は今も昔も変わらないようだ。次々と遊びと遊び場を変え、最後は家に上がり込みテレビゲームを競って始める。おやつを出さざるをえなくなるカバ母(当時)であった。

今も子どもたちは、大人の気がつかない「プライベート」な場所で群れているのだろう。

いつまでもガキの根性が抜けないヤギ爺ぃは、寒空の中建物の外に設えられた「喫煙所」で群れ、夜の居酒屋で吠える。

人はみな(嘘)、ちょっとワルい、いけない「プライベート」な空間を欲する。

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21日(金)知の体系

「ジジィ!ここに植えといた「イトズイセン」(糸水仙)抜いちゃったの、誰ぇぇっ!?」
「知らんがぁ。あんたが草むしりしろゆうたがぁ。誰がやったか分かっとるならきかんといてやぁ!」

植物の名前が覚わらない。(へんな日本語表現はお許しを)

「あーたぁ(などとはふざけても言わんが)、これが、レースラベンダー。これがバイオレットセージ。抜かんといてやぁ。」 
 爺ぃはデジカメを取りに部屋に戻る。それぞれのかわいらしい花をアップで撮り、コンピュータ上の「覚書」(わたしは、OneNoteというソフトを使っている)に張り付ける。「横文字だと特におぼわらんのだなぁ、これが

スーパーでのこと。

「ミカン買っとく?クマ太郎(個人情報のため息子の名前は偽名を使わせていただきます)が喰うで。「オンシュウ」みかんってどこで取れるんだろう
(カバ婆ぁは積んであるみかんのラベルをちらっと見て)「ウンシュウミカン(温州蜜柑)だろがぁ、知らんのぉ!?」
「おっとぉ、恥かしぃ知っとったけど、漢字と音とピンとこんかったアホやねぇ
「英語のことはよく知っとるのにねぇ知らんことは知らんかぁ、この言語文化学者っ」

この手の話はいっぱいある。ヤギ爺ぃの「知の体系」とカバ婆ぁの「知の体系」とは明らかにちがう。(そんなぁ、大袈裟なぁ!) ちょっとノロけるが、わたしは、カバ娘(当時)のする話が自分の知ってきた世界とはちょっとちがった世界の物語(ちょっと大袈裟だが)であることに魅せられた。いまでもときどきそうである。

しかし、それが、ときに離婚の危機を招く。

大阪の海遊館という水族館が当時鳴り物入りでオープンしたとき(1990年)、ふだんは人込みにはめったに出かけなかったのだが、子どもたちのためにも「おさかな」を見に行こうと、家族4人で出かけて行った。

「見て見て見てっ!かっわいいーおさかなぁ!」「すごーぃ、すごーぃ」とそろそろ4つになる娘のブタ子(もちろんこれも本人の許可を得た偽名です)はおマセさんで、カバ母(当時)はもともと生き物全般が好きなので、大いに沸き立ちながら見て回った。わたしは、元来見物が好きではなかった(いまはちょっと性格が変わったかも)ので、クマ太郎のベビーカーを押しながら、人混みを嫌っていた。

やがて、とりわけ人が群がる大きな水槽の前に来たとき、わたしの目が輝いた。

「おぉぉ!見てごらん!あれっ!おーぉーーーきな、おさかなだねぇ!ブタ子、見てごらんな!なんていうおさかなだろうねぇ

その時のカバ母(当時)の顔は今でも覚えている。(ただし、これは私の主観で、「そのように見えた」という思いが歪曲して記憶されているまでだ) まるで、常識問題の正解すらできないお受験の小学生の息子に対して、諦めと蔑みと焦りを思わず露わにしてしまった教育ママのため息混じりの捨て台詞のように、「あーた(とは金輪際言わない)、「ジンベイザメ」も知らないのぉ!?だいたい、ジンベイザメは海遊館の目玉でしょ!チケットにも写真が載ってるでしょ!」

わたしは即座にキレた。わたしは本当にキレると黙り込む。怒りの気配をプンプン漂わせながら、無言早足でズンズンベビーカーを押しながら先を行くわたしのあとを、すでに空気を読むことを身につけ、ただならぬ気配におびえる娘の手を引きながら、「なんでこんなことで怒るんだこのくそオヤジ」という思いと気まずさでボロボロになった母親も黙ってついてくる。人ごみを外れたところまできてわたしは、押し殺した怒りをカバ母(当時)にぶつけながら「人のいる前で、あのようなことを、大きな声で言い、夫を罵倒するとは、なにごとだ」というようなことを言った。

帰りの車は悲惨であった。それから、1週間ほどは会話のない家庭生活が続いた。

ちがうのである。わたしは、人前で夫をなじる妻の不道徳に怒りを感じたのではない。それは不当な方便にすぎない。

恥ずかしかった。本当に恥ずかしかったのだ。「ジンベイザメ」も知らなかったのだ、海遊館はどういうものなのかも知らずに見物に出かけたのだ、渡されたチケットを確認もせず入場していたのだ。しかし、その恥ずかしさが不当な怒りに変わった。「そんなことを知らんでもいいだろ!俺はもっと大切なことを知ろうとしているんだ!たかが魚の名前ぐらいがなんだというんだ!」

これまでの人生自分を戒める失敗は数あるが、この思い出は、いつも頭をよぎる教訓だ。「知ってる」ってなんだろう(そんなぁ、大袈裟なぁ!)

英語教師などをしていると「今の学生はこんな単語も知らんのかぁ!」と思ったりする。英文科の学生のころ、先輩院生から「シェークスピアの有名戯曲ぐらいはとりあえず全部読んどかんと恥ずかしいぞ、ソネットも読めや」と言われた。「シェークスピアがなんだ。いまここの文化に目を向けないで何が学者だ」とポップ・カルチャーを語る人もいる。「えぇっ!、コミケ知らないの?」

しかし、いつの世にも「今知るべきこと」というのは必ずある。世の中「知るべきこと」のせめぎ合いだ。今日もまた知っていることに奢り、満足し、知らないことを恥じ、悔やみ、逆ギレし、知ってる知らぬと、一喜一憂する、ヤギ爺ぃであります。

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126日(土)ゴミは目立つところに捨てろ!

以前、「糞は、人目につかず、するもんだ」と書いた。しかし、とくにアウトドアでのゴミは、目立つところに捨てるべきである。

川原でのバーベキューは楽しい。わたしの近所では、木津川という京都南部を流れる川の笠置キャンプ場というところがいい。子どもたちがちっちゃいころ、よく川遊びに出かけた。

 息子が小六のころ、中学生の姉がそろそろ家族キャンプよりクラブ活動を選ぶようになったころ、それでもアウトドア・パパを気取りたくて、「おい、ちょいと男二人でキャンプ行かんか?」と訊いてみたら、思いがけず「いいでぇ」という答えに、びっくりして、あわてて準備をし、コンビニ弁当を買い込んで(いいでしょ、便利なものは何でもつかわにゃぁ!)、釣竿をもって、出かけた。

 なんせ想定外のキャンプだったので、土曜の夕方、もう日が暮れるころに笠置についた(家からは車で1時間とかからないところだ)。日帰りの家族連れやグループがそろそろ帰り支度をしている。ここは、キャンプシーズンでなければテントで泊まる人はそんなに多くはないのです。テントを張り、コンビニ弁当を広げ、カンテキ(七輪)で焼き鳥(だったと思う)を焼きながら、ビールとジュースで乾杯し、ちょいとぎこちない父子の夜宴をすごし、早々に寝袋にもぐりこんで、寝た。

 夜中、川原に車の入ってくる気配と人声で目が覚めた。夢うつつで、なんだなんだぁと気配をうかがうと、若者グループが宴会の準備を始めている。この野郎ぅ、何時だと思ってやがるぅっ!と飛び出していく勇気もなく、宴会騒ぎをしばらく聞いていた。もうちょい離れたところでやりやがれ!と心の中で怒鳴りながら、うとうととまた眠りについた。

 わたしはたいがい早起きなのだが、キャンプのときなどはとくに早い。寝苦しいためではなく夜飲んだビールを早く出す必要があるからだ。うっすらと白みはじめた川原にはもう野郎どもの姿はなかった。夜行性のアウトドア派だったのだ。

 ご想像通り、宴のあとには、食べ残しの玉葱やピーマン、焼け焦げて炭になった肉の破片などが散乱し、燃え残った炭の、まあ何とか水だけはかけて消すだけの良心の塊が捨ててある。新品で買ってきた焼き網の、黒焦げに焦げ付いたのが落ちている。

 こちらは、「しめしめ」と、焼き網を頂戴し、火消壺(ひけしつぼ)代わりに使っている錆付いた古い大きな鍋のなかに、消し炭も頂戴する。(バーベキューをして油と焦げでギトギトになってしまった網は捨ててはいけません。持ち帰って、今度焚き火をするときに火の中に入れて焼いてみましょう。強い火力で焼ききると、ぜーんぶまーっくろな煤になって(理想的には、白い灰になってしまうくらいの高温がいい)、あとはたわしで水に流せば、とってもきれーぃになります。消し炭も必ず持ち帰りましょう。水につけてしまったやつでも、ほおっておけば、すぐ乾くし、その消し炭をつかえば、「着火材」なんてつかわなくても簡単に火を熾す(おこす)ことができます。)

 さて、本題はここからで、こういう便利なものを捨てていってくれるのは大歓迎なのであるが、問題は、ときに、そういう網や消し炭やビールの空き缶やペットボトルなんかを、ご丁寧に折り曲げ潰して、たとえば草むらのような「目立たない所」に捨てていく輩である。狭い岩の隙間にねじ込んでいくバカがいる。

 「臭いものに蓋」は、やはり、人情であろう。

 自分の家の前に落ちているゴミを指でつまんで隣の家の塀ぞいの側溝の中に捨てたことのある人、くわえタバコを歩道の植木の茂みの中にポイ捨てしたことのある人、信号待ちの車の窓から空き缶を中央分離帯のこれまた茂みに捨てたことのある人、新品の全自動ななめドラム式省エネタイプ環境にやさしい洗濯乾燥機を購入したので近くの高速道路の側道脇のこれもまた茂みに深夜夜行性ドライブで捨てに行ったことのある人、核廃棄物の処理に困ってしまったのでどこか遠い南の楽園に捨ててしまおうと思ったことのある人、手を挙げてくださーい。どうもやはり人情だ。

 見えないところに捨てると、拾うのが大変なんです。それに、このリサイクルの世の中、家のまん前にまだ使える冷蔵庫が捨ててあったら、拾って使うことができるかもしれないのです。(もちろん、子どもが巣立ちして夫婦二人っきりになったから旧来の「中古の二層式洗濯機求む!」の貼り紙のある家の前だけにしてくださいね。)

 だから、ゴミは捨てないに限りますが、どうしても捨てたい悪魔が棲んでいるなら、小さくたたんだり潰したりせず、目立たない所など探そうとせず、そんな「気づかい」は捨てて、どうぞ、すぐわかる、拾いやすいところに捨ててください。

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123日(水)登山の目的

『山と溪谷』という雑誌の20081月号の特集に「わが愛する山」という企画があって、読者1000人(正確には1021名)に訊いた登山に関するアンケート調査の結果が載っていた。メインは、読者の選んだ「好きな山」ランキングで、大方の予想通り?、ベスト3は、1位穂高、2位槍ヶ岳、そして3位が富士山であった。我愛する御在所岳(三重・滋賀)は、残念ながら発表されているベスト50にも入っていない。何しろ同票50位の六甲山(兵庫)、霧島山(宮崎・鹿児島)、筑波山(茨城)が12票だから、知り合いに声をかけて「組織票」を集めれば、十分ランク入りできたのにっ!残念、残念。

 日本地図に示されたベスト50を見ると、明らかに「東高西低」で、もちろん中部山岳地帯に集中している。それに、分析に当たった福﨑剛という人によると、「北から南までランクインした山は、ほとんどが深田久弥の『日本百名山』とも重なっている。名山・名峰は、時代が変わっても不動であるということだ。」(p.60

 このコメントはちょっとちがうかもしれなくて、『百名山』は、昔といってもたかだか4,50年前で、わたしが生まれたころが「昔」だというのであれば、ちょっと寂しい。素直に、「今の『山溪』の読者意識は、やはり予想通り『百名山』に強く影響を受けている」と考えたほうがいいかもしれない。

 ご多聞に洩れず、おまえも、『百名山』を片手に駆け足で「名山」を歩き回る「観光登山」を批判するのか、とは思わないでください。話はちょっとちがいます。

 ガイドブック(の類のもの)を片手に、旅をしたり、食べ歩きをしたり、山に登ったりすることは、どうも「本当の」旅を愛し、「本物の」食を求め、「本来の」登山を求める人たちからの批判の的になります。その気持ちってすごくわかります。どれもこれも、つまりは趣味の問題で、遊びの問題で、これはやっぱりとても「自分」にかかわっている問題だと思う。「私」の旅だし、食だし、山なのだ。主観の問題だ。人にとやかく言われたくないし左右されたくもない。

 わたしなんかも、「安くて美味い飲み屋見つけたから、ちょっと行こうよぉ!」と友達を誘いたくて誘いたくて、一生懸命になってインターネットを検索したりします。(これ、おもしろい矛盾でしょ?)

 後期資本主義社会における、情報・メディアの媒介作用による、疑似体験としての仮想現実のポストモダン的再帰的編成。(なんのこっちゃ?)

 つまりは、現代人は、本物を求めてやまぬけれども、その本物についてはもうどこかで誰かが見抜いちゃっていて、自分なんかではどうにもならないような気がして諦めて、だから、『日本百名山』なんて本は、内心「すごい自分の趣味(鑑識眼)で、たーくさんの山に登って、自分の目で見て肌で感じた実感をもとにいい山を見つけてるんだぁ」と感心しながらも、「そんな、人が奨めてる山なんかをありがたがって登るやつの気が知れねぇ。オレなんかは、自分の行きたいところ、自分の登りたい山に、気が向いたときに登る。それが快感なんだよねぇ」などと思ってしまう。ところが、いまや、『日本百名山』どころか、「花の百名山」「世界百名山」「日本二百名山」は序の口で、「いで湯百名山」「江戸明治の百名山」などをテーマにした本もある。「僕の私の百名山」などという本もいくつかあるようだ。「穴場」「誰も知らなかった」「私だけの」の情報が満載だ。誰も登ったことのない山を見つけるのはもはや不可能なのだろうが(あるかもしれない)、『誰も登りたがらない山百選』という本は書きうる。

 山でたまたますれちがった人と立ち話をしていると(へんな言い方かな)、「ここはヤシオの花がきれいで有名なんでしょ?」とか「百名山は踏破したので、今度は二百名山に挑戦しているんですぅ」といった会話になる。(また花かよぉお花見るなら植物園にでも行きゃぁいいんだっ)などと思いながらも、「そうらしいですねぇ、わたし、花のことはさっぱりなんで」(ふん、百でも二百でも登りやがれぃ)「すごいですねぇ、わたしなんか、ほとんど御在所しか登らんのですよ、それも、酒飲みに来るだけで

 でも、どうしてだかうまく言えないのだけれど、そんな話を聞いたとき、すごくすがすがしくって、心からいいですねと言えることがある。別に美しい清楚な女性が控えめに額の汗を黄色いバンダナで拭いながら微笑み言うからではない。うらぶれた中年のくせに、格好ばかりはきまっていて、いまどきニッカーボッカにスパッツかよどこの登山カタログから抜け出してきた!しかも新品、というオヤジからの発言でも、ときにまことにすがすがしい。(ただし、ニッカーボッカは優れものだと思います。昨年夏、蛭にやられたとき「ニッカーボッカにスパッツ」が一番だと反省しました。疲れたときの足の運びにも優れている。)

 またぐだぐだと長くなりそうだから要点のみ。

 たしかに、西洋ではやはり19世紀ぐらいから、活字メディアの普及やら庶民の余暇の誕生やらで、人のうわさやら情報に流されてする遊びが生まれてきたのだろう。今につながる観光気分のさきがけだ。日本では江戸時代、「お伊勢参り」の流行が「観光」の始まりだというようなことが、神崎宣武『江戸の旅文化』(岩波新書)に書いてあった。ガイドブック片手の旅や登山の誕生ということだ。

 しかし、「うわさ」でどたばたすることに対する批判はわかるけど、やはり、好奇心っていうのは、誰かほかの人から聞いたり知らされたりしたことで掻き立てられ、なにやら無性に自分でもやってみたくなるような、そんな心じゃないかなぁ。

 「情報」というキーワードを語るなら、「好奇心」というキーワードを忘れてはいけないと思う。

  『風の谷のナウシカ』で、諸国放浪孤高の武人ユパ様が久しぶりに風の谷にやってきたとき、谷の人々は「ユパ様ぁ、今宵また、異国の話を聞かせてください」と言う。旅心をそそるのは、異国にまつわる噂話だ。

 おそらく、ずーとずっと昔から、人は噂話で旅心を募らせてきたのだと思う。「わたしも、いつか、そこに、行ってみたい

 ありきたりの言い方になりますが、やはり、それぞれにはそれぞれの登山があります。世界三大北壁を征服しようが、七大陸の最高峰を究めようが、エベレスト清掃登山を敢行しようが、百名山を夫婦で登ろうが、富士山の見える山を全部歩こうと思い立とうが、自宅近くの山々を年間40日登ることを目指そうが、それぞれにはそれぞれの山があると思う。

 そんな話を聞いていて、いいなぁ、俺もやってみたいなぁ、こんどつれていってくれませんか、と思うような情報なら、それでいいのではないかなぁ。

 情報(噂話)の質と量の問題については、またあらためて考えてみます。もちろん、「みーんな」がこぞって流されてしまう感情構造についても考えてみなければ

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118日(金)分を弁える

父親の口癖のひとつに、「分(ぶ)を弁(わきま)えろ!」というのがあった。高校に入ったころから、父親を愛し、憎み、反発し、自己形成していった兄に対して、「口答えをするな!」とともに、繰り返された言葉だ。父は屈折しており、ものわかりは悪いが、人の話を聞く人であった。プロのクライマーを目指そうという息子の議論にいちいち反論した。話を聞いていたということだ。「独立独歩、ひとりでアンヨ」と言い、「自分の道は自分で決めろ」と言いながら、「お前のような甘ちゃんの夢物語が通用するような世の中ではない」と否定した。「親の言うことを聞け!」と怒鳴った。身の程を知れと言った。

 兄は分を弁えることを拒否し続け、プロクライマーとなり、人生を突っ走った。一昨年癌で死んでしまったが、「我弁えず」を貫いて生きた。

 4歳年下のわたしは、兄と父親との口論(二人とも、とにかく声がでかかった、わたしもその血は引いている)、ときに取っ組み合いになる親子喧嘩を、2階の部屋で、ひっそりと怯えながら震えて聞いていた。

 それから、分を弁えることが、わたしの個性となったのです。

 母親はよく、「ゆうじは、戌年だからぁ、ききわけがいいわぁ」と言った(かあさん、戌年はほかにもごまんとおるよ!)。

 天ならばいざ知らず、人は、人の上に人をつくり、人の下に人をつくるものだと思う。子どもはいつごろから他人を気にするようになるのだろう。お絵かきでも、かけっこでも、お友達の出来を見る目はもう競争心バリバリだ。勝てぬと思った相手からシラーっと遠ざかったり、喧嘩を仕掛けたりする様子は、いつだって観察できます。そのまますくすく育てば、大人になれば分を弁えることになるのかな。

 わたしは、いつも、人と自分の上下関係を意識してしまうのです。年齢でしょ、それから、学歴、収入、身長(バブル時代の三高かぃ!)。もちろん、ルックスにスタイル。頭のキレ、柔軟性、ユーモア、記憶力。瞬発力、集中力、決断力。やさしさ、不屈さ、いさぎよさ。読みの速さ、深さ、ユニークさ。スキーの技術、キャンプの知恵、クライミングの技術と精神。芸能通、食通、酒の飲み方。分をはかる基準がいっぱいだ。これじゃぁ、わきまえきれねぇやと思いつつも、つねに身の程を量りつづける。

 だから、わたしは、いつまでたっても、まっとうに人を、自分を、評価できないままでいるのです。「分を弁えろ!」と怒鳴った父親に反抗しているのは、じつは、わたしなのかもしれない。

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113日(日)野糞の楽しみ

ずーとずっとまえ、土曜の早朝、故あって始発電車で帰宅の途についていたとき、梅田地下街の場末の通路上に、とぐろ巻きの見事なうんこを発見したことがある。「うわぁっ、これは犯罪じゃぁ!」と思った。場所をわきまえろ!

 野口健氏の告発ではないが、エベレストや富士山ならいざ知らず、近頃では、もっと身近な普通の山でも、ゴミ問題や登山者の糞尿の問題が取りざたされている。わたしの経験では、長野市の戸隠山のお隣にある飯綱(飯縄)山には、「立ちション、野糞禁止」の立て札がある。信州でも都市近郊の低山で、けっこういい登りがあり、山頂付近からの眺めもいいので、休日の日帰りハイキングでにぎわう山だ。(わざわざ奈良くんだりから信州まで行って、そんな山登りかよぉ!などと言わんでください、戸隠山はけっこうスリルある山で、チャレンジしようかと前の晩ずーと悩んだけど、けっきょくひとりでは行けないビビリ者です。)

 さて、わたしが登ったのは、晩秋の空気のすがすがしい、それほど登山者も出ていない、午前中だったので、ちっとも臭わなかったけれども、夏のハイキングシーズンなどでは、やはり、場末の酒場のはずれの高架下のような臭いが漂ってくるのかもしれない。

 わたしは頻尿である。ビールを中心にコーヒーやらもガブガブ飲むから仕方ないが、1時間に1回はトイレだ。15分おきにだって便所にいける。街をぶらぶらしているときは、公衆トイレを探すのにあまり苦労はしないし、今ではコンビニでもガソリンスタンドでもパチンコ屋でも、ちょっと拝借が可能である。だが、山では立ちションが当たり前だ。

 わたしとカバ婆ぁは、御在所の藤内小屋で知り合った。知り合った当初、それまでは仲間とわいわいの山行だったのだが、はじめて二人っきりでの山歩き、これはいよいよコクる(当時はこんな言葉なかった)ときかと、少々緊張して先を歩いていると、「うぅぅぅん、きたきたきたぁ」とカバ娘。「煮詰まってきたからちょっと出してくるぅ」といって、藪の中へ入っていった。雉撃ちだ。

 カバ婆ぁは昔から便秘症で、旅行や山へ行くと大概は用が足せず、食べたものは、たいてい、すべてお持ち帰りとなってしまう。しかし、ときたま通じた野糞は最高だ、「野糞が一番!」とつねから言っている。最近のインタビューでも、「しばらく山に行ってないけど、子どもの手が離れてまた行けるようになったら、また、雉でも撃ちたいものです。」

 (以上は、多少の脚色も含め、本人の許可を得て掲載しています。)

 山では野糞が常識だ。いや、だった。トイレがないんだから仕方ない。先輩雉撃ちからは、「人目につかんところまで、そーと抜け出し、ちょいと穴が掘れれば掘ったところに、うぅーんと出して、あとは土をさささっ、手ごろなサイズの石とか枯れ枝を集めてのせておく。以上」と習ったものだ。

 カバ婆ぁ(当時娘)のした糞は、おそらくは、そのまま誰にも見止められず、土へとかえっていったであろう。あの待ち時間から想像して、長めのきばり時間も差し引いて、相当奥まで藪を漕いだにちがいない。ひょっとして、山菜取りがいい石を見つけ、ふと転がしてみたところへ、見たこともない動物の糞の跡を発見したかもしれない。

 やはり、糞は、人目につかず、するもんだ。

 しかし、昔(といってもたかだか30年ほど前、その昔は知らない)から、山の糞尿の害はすでにあったのだ。上高地のずっと先の方にある奥又の池(と言っていたと思う)というきれいな池のほとりは、あたりのテント場の便所となっていた。こんなところから、環境意識の高まりとともに、山での「しも」処理のルールができてきたんだな。

 環境問題とは、人の、人による、人のための政治である。環境意識は人口の過密により生まれる。わたしは、ルールはみんなでつくるものだと思っているので、楽しい山歩きの途中ぽわ~んと臭ってくる屎尿の臭いにたまらなさを感じる気持ちの高まりで立ちション禁止となれば、それはそれで仕方ない。そういうルールを「みんな」でつくったのだから、できるだけ守るように努めるとしよう。そういう山に登る際には、空のペットボトルを持参で行こう。

 ただ、今度は、山の精通者に、『日本百自由に糞尿のできる山』という本を書いてもらいたいと思っている。

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111日(金)弱音

もともと、この「ヤギ爺ぃの独り言」では、わたしのアウトドア体験についての覚書を書くつもりでいたのだった。じつは、「アウトドア現場におけるコミュニケーションの様態とコミュニティ形成に関する研究」というのが、わたしの研究テーマで、じつは、研究費などをもらってフィールドワークでアウトドアに出かけている。カバ婆ぁに言わせると、「あんたのこそ、血税の無駄使いじゃ!」

 しかし、今年は、いろいろと事情があって、この1月は、仕事でも遊びでも、ちょっと出かけられないでいる。だから四方山話ばかりとなる。

 フィールドワークに出かけて、どんな調査をするのかといえば、人間観察である。昔からのなじみには嫌われてしまう。だけど、これ、わたしの性分だから仕方ないのである。別に研究でなくても、人のことをこそこそ伺い、自分のことをなんやかんやと自省する性質(たち)なのだ。たまに身分を明かして(遠山の金さんか、水戸黄門かっ!)「調査です」などと言うと、「どんな調査ですか?」と訊かれる。「まあ、小説家の取材のようなもので」これで、本当に研究だろうか。

 大学院で授業などをやらさられていて(不謹慎な言い方だ、している、と素直に言うべきだ)、テキストとしてこのような取材も立派な研究だ!ということを裏付けるような本を読もうとしているが、やはり、どうも、偽善のような気がする。研究とは体系的なものだ。体系化する自信はつねにない。早くも弱音を吐いていたらあかんな。

 

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110日(木)道徳心

わたしは随分な臆病者で、少々神経症気味のところがある。高所恐怖症の者は閉所恐怖症でもあるのではないか、恐怖一般に対して過敏ではないかと思う。わたしはそうである。

 駅のホームなどでは、「まもなく電車がまいります、白線の内側でお待ちくださいぃ」などと言うが、わたしは、まず一番先頭で待つことはない。ふらっとした拍子に、誰かがぶつかってきて、通り魔的人間につき落とされて、ホームから落ちる自分を想像してしまうのだ。

 大学からの帰宅の最寄り駅は阪急石橋駅である。今日も夕方、ホームの隅の方で電車を待っていた。ホームは空いていて、電車が入ってきたので、そろそろと白線の15センチほど内側に立ち、目の前を徐行する電車の停止を待つ。もうすぐドアが開くな、と思ったころ、一人の紳士が私の前にすーっと現れた。伏し目がちに会釈したようにも見えた。ドアが開き、彼は、一つ空いていた席に座った。

 坂口安吾ではないが、(なぜ安吾なのかはすぐにわかります)、わたしは、よっぽどすいていて、まずまず席が空いているような状況でなければ、めったに座席に座らない。座っていて、次の駅でお年寄りやら妊婦さんやらが乗ってくると、なんだかばつの悪い気持ちになるからだ。にこっとして「どうぞ」と席を譲るのもなんだか偽善的な気がする。

 抜け掛け(当て字)したその紳士に特に腹が立ったわけでもない。ちょっとした悪戯心からでもない。「これはからまれる心配はないな」ととっさに判断したわたしは、それほど込み合ってはいない車内で、わざわざその紳士の膝先に立ち、吊革を握った。鞄から『堕落論』の文庫を取り出し読み始めた。(このあいだから通勤で読んでいる文庫版に収められている「青春論」の中で、ちょうど、安吾も電車で座らない話が出てきたのです。)

 文庫本をはさんでわたしの視線はちょうど紳士の顔に向かう。すでに異常なものを感じて、紳士は落ち着かない。鞄から書類を出して見るふりをしたり、しきりに首を回してあくびをしたり。寝るように首をたれたり。わたしは目で字面を追うだけで、考えた。

 この紳士は、ふだん、、「近頃の若いやつにゃあ道徳心というものがない」などと、部下に対しての不満を奥さんに漏らしているのだ。電車の中でのケータイ使用にはとくにうるさいやろぅなぁ。「大阪のおばちゃん」の図々しさにはいつも酒場で毒づいているかも、なんせ、ふつーの、おじさんだ。

 次の蛍池という駅で、ちょうど真横のご婦人が降りたのだが、わたしは立ったままでいた。なぜ座らないのかといった感じできょろきょろしていた紳士の横に、すーと乗ってきた女性がすぐに座った。状況に変化なし。

 ひょっとして、阪大のどこかの学部の、えらーい先生かもしれん。こんな時間に石橋から梅田方面に帰る社会人といえば、ほかにはあまりない。それならば、ひょっとして逆切れされるかもしれんなどと神経症気味の臆病で、鞄からのナイフ、突然のこぶし、怒りの罵声を予期しながら、いつでも身構えられる体勢の心得をしつつ、考えた。

 この人はきっと、わたしのことを偏執的おっさんだと思っているだろう。キレられる瞬間にびくびくしているにちがいない。しかしまあ、この苦い経験を機に、今後は割り込みなどしないようになってほしいものだ。(余計なお世話)

 梅田で降りた二人は、しばらくは緊張しながら共にホームを歩いたが、何もなかったかのように、それぞれの家路についた。

 さてこの話、道徳心の欠如しているのはいったいどちらだろう。

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18日(火)合意と同意

昔、合意と同意とはちがう、という文章を書いたことがある。

 あいかわらずの直感で言い切ったもので、「合意形成」とは言うが「同意形成」とはきっと言わない?「同意を得る」とは言うが「合意を得る」はちょっと変か?というような判断から、「合意」とは、みんなが寄ってたかって作り上げるもの、「みんな」は、基本的に、それぞれにちがうもの。「同意」とは、相手から奪い取るもの、「相手」を強引に自分のものにしてしまうこと。などと、感じたからだ。

 「同意を得る」ためには、必死に説明して納得してもらう、という努力も感じるから、このちがいは、結局は微妙なんだけど、 

・手術に際して医者は患者の同意を得る必要がある。

・移植にはドナーの同意が不可欠。

・個人情報を扱う場合、本人の同意を得る必要がある。

・お客様の同意をもとに処理するべし。

 
などという言い方を思い浮かべると、基本的に、「同意」の成立には、上のものから下のものに強いる、下のものが上のものに従う、ことにより成立する関係が前提となっているような気がする。
 力ずくで、圧倒的に一方的に性行為に及んだ男の強姦罪を弁護する弁護士が、「双方の合意のもとで」などと弁明するところをみても、「合意」には「それぞれに相対するが対等の関係がある」という前提を感じる。「双方の同意」とは、あまり言わない。

 ちがうものだからこそ、合わせることができるわけで、「合わせる」ということの大前提には、「ちがうもの」が対等に寄り集まっているという意識がある。

 ところが、昨年末、ふと手にした『やまとことば』という文庫本に収められた大岡信の文章で、「合」という言葉の持つ力がはっきりとわかった。

 この本は「美しい日本語を究める」という副題のついた河出書房新社編集部編集の日本語の達人(だけではないかもしれないが)の文章を集めた安易なエッセー集なのですが、自分の感じたことを誰かほかの人、しかも、本に載るほどの人が感じていたかと思うだけで舞い上がるヤギ爺ぃ。

 初出は『ユリイカ』という雑誌の昭和47年6月号に載ったらしいけど、「「合」という言葉」という短文の中で、大岡信は、「「合」という字に興味を持っている。」と書いている。「合わす」ということが日本語の根本のひとつをなしているというのだ。
 「歌合」(うたあわせ)を手始めに、「付き合う」とか、「笑い合う」「泣き合う」「語り合う」「食べ合う」「競い合う」「蹴り合う」「殺し合う」など、「合う」という言葉がいかにたくさんの動詞と組み合って、複合語をつくりうるかに気付いている。そして、最近(昭和47年のことだけど)、複合語の「合う」をひらがなで「話しあう」などと書くことにちょっと不満げである。

 ひょっとして、キレ合う、メル合う、ググり合う、バグり合う、なんてのもなんとなく意味ありげに聞こえるかも

 つまりは、「合わす」という言葉に、「ちょうど歌合その他の催しがそうだったように、戦うことと協調することとの両義が含まれている」(p.22)というわけだ。「言い合う」といえば争うことだが、「言い合わせ」といえば約束事だ、というくだりは、目から鱗だ。

 気がつけば、単純に、「合う」ためには2つ以上のものが必要だということだ。2つ以上が集えば、争うことも協調することもある。「合う」というひとつの言葉に両義があるというところが味噌だ。ここにコミュニケーションというものの妙味があるように思う。

やはり、言葉は深いなぁ

 英語教師としては、community(共同体)、common(共通の)、communication(コミュニケーション)といった言葉に共通する「共に」という意味を表すcom-という接頭辞で、compete(競う)、combat(戦う)という言葉ができていることが思い出される。ひょっとして、「合」という言葉の持つ力は、大岡信の言うように日本語の根本なだけでなく、人間の性根なのかもしれない。

争うにせよ、仲良くするにせよ、ちがうもの同士が「共に」集うのだな。
みーんな同じだったらつまらない、敵と仲間は紙一重というわけだ。

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16日(日)やっぱり山からかぁ

今日、橿原考古学研究所の付属博物館に行ってきました。娘が、大学の授業のレポートのために行くというので、アッシー君(古い言い方ですね)したのです。恥ずかしながらはじめてだったのですが、とてもおもしろかった。

 これは秘密なのですが、今、日本の古代の人々の野山遊びについて考えてみたいなぁと思っているのです。なぜ秘密かといえば、わたしはいつも思うだけで、けっきょくリサーチできなくて、やがて忘れてしまうからなのですが、今回も必ずやそうなるはずです。第一漢字が読めない。古い文書にあたろうにも、情けないことに意味がわからない。

 それに、だいたい、「遊び」と言っても、ましてや「アウトドア」と言っても、いつの時代かに、どのかの場所で、誰かが感じた「遊び心」を、20世紀後半から21世紀にかけて中部地方(名古屋)から関西(奈良・大阪)でわたし(ヤギ爺ぃ)が経験にもとづき感得した遊び心で推し量ったって、あたっているはずがない。この前も書きましたが、わたしとカバ婆ぁの「アウトドア」さえ、すでにちがいがある。「忙しい、いそがしい」と言いながら、接待のゴルフに出かける方を見ても、わたしには遊びに行くとしか思えない(失礼)。「大変だぁ、たいへん」と、研究のためシェイクスピア劇を見て回っている英文学者は、自腹を切ってチケットを買う演劇好きから見ればうらやましい限りの道楽者だ(失礼)。

 これからもときどき登場すると思いますが、ホイジンガという学者が『ホモ・ルーデンス』(「あそぶ人」という意味です)という本の中で、「遊び」を人間のもろもろの活動の根本原理だと言っているのです。昔、山城新伍さんが「遊びは文化です」をキャッチ・フレーズにしていましたが、ホイジンガも(順番が逆のように聞こえますが、わたしはこの順番で知りましたゆえ)「遊びは文化に先んずる」というようなことを言っているのです。山城新伍は「文化」をちょっと高尚な響きをもって(皮肉って?)使っていましたが、ホイジンガの「文化」は人間の生きるうえでのあらゆる行動や産物を指す言葉で、わかりやすいところでは、文化人類学の「文化」です。それから、わたしの使う「言語文化」の「文化」もこれです。芸術や宗教や政治や経済、建物着る物食べるものや便所やゴミ捨て場や酒場まで、人間の生の有り様そのもののことです。

 まあ、こんな言い方をしなくても、採集・狩猟や農耕を例に取れば、松茸業者は仕事でハイカーの山菜取りは遊び、猟師や漁師は仕事でハンティングやフィッシングはアウトドアスポーツ(やっぱりカタカナはここでは遊びのにおいがするぅ)、農家は仕事で家庭菜園は趣味、という区別は、いつどこでだれがつけるのだろうという問題です。

 とにかく、とりあえず、「仕事の中にも遊びあり!」といったアバウトな信念をもって、大昔の人だって、生きるために野山にいたとしても、ヤギ爺ぃが感じるような「あ~楽し」というあの感情を、それと同じような気持ちをきっと持ったにちがいない、という「仮説」をもとに、いろいろと考えてみたいものだと思ったのです。

 とりあえずわたしでも読めそうな本をキーワードでアマゾンで探していたら、古橋信孝(のぶよし)という方の書いた本が浮かんできた。何冊か買って読んでいるところですが、『平安京の都市生活と郊外』という本に興味深いことが書いてある。

 ひとつは、平城京の郊外の春日野が、日本におけるアウトドア遊び場の第1号ではないかという話です。

 日本で最初の都市とされている藤原京から平城京に遷都され、ここではじめて「都市」生活が定着することで、季節の変化を楽しむために野に出るという「遊び心」が誕生したというのだ。『万葉集』の歌が証拠となる。都会人のレジャーの始まり、というわけだ。つまり、「心をのびのびとさせよう、解放させようと出かける」(p.11)レクリエーションとしてのレジャーが誕生した。

 実を言うと、これについては、わたしもそんなふうに考えていました。辞書と現代訳をたよりに(恥ずかし)『万葉集』で「野」の出てくる歌を拾い読みしていたら、野に遊びに行く楽しみを詠んだものがいくつも見つかったのだ。洋の東西を問わず、雅な身分の人が田舎を訪れ、「お~ぉ、風流やなぁ」と感じる点については、西洋の「牧歌の伝統」などというものを習って知っている。

 ただ、わたしが想像したいのは、古橋氏はなかったと指摘しておられるのだが、当時(あるいはそれ以前?)から村落で行われていた豊穣を祈願するため(「職業上の目的」ということだろうか)の「野遊び」の風習の中にも、こんなレクリエーションの気持ち(遊び心)がなかっただろうかという点だ。野良仕事をしながら、さらには、木の実を拾いながら狩をしながらの「あ~楽し」はなかったのだろうか。当時読み書きが出来なかったほとんどの人々のことだから、やはりタイムマシーンに乗ってフィールドワークに出かけるしかないのかなぁドラえも~ん!ついでに、翻訳こんにゃくもいるぞ。

 もうひとつ興味深かった点は、城塞をもつ唐の長安に倣ったはずの藤原京や平城京、それからその後の平安京にいたるまで、日本の都には城塞のようなものがなかったということについての解釈である。従来は、日本では外敵がいなかったから、とか、経済力がなかったから、というような説明がされていたらしいが、古橋氏は、そうではなく、今でいう「郊外」にあたる「野」が、それに続く「山」とともに、「境界」としての機能を果たしていたと言う。それは、自然の要塞というような物理的な意味だけでなく、神々の降り立つ場としての精神的、心理的境界として、異界(山の向こう)との緩衝地帯となっていたというのだ。

ところが、今日、橿原の考古学研究所付属博物館へ行って、またひとつおもしろいことを知ったのです。

 もう何十万年も何万年も前から、今の奈良の地に住んでいた人たちは、石で刃物やらを作っていたんですね、すごい。説明によると、サヌカイト(何のことかと思ったら、「讃岐岩」(さぬきがん)ともいい、香川県の白峰山で取れたことからの命名だそうです)というとても硬い石が、二上山(ふたがみやま、いまでは「にじょうざん」とも読むことも知りました)でたくさん取れるようで、ここで採れ作った石器が日本中ほかのところでもあちこちで見つかっているそうです。すごい。

 そして、次のような説明があって、わたしは「なーるほど!」と合点がいきました。やっぱり山からかぁ

 というのも、こういった矢じりや槍先を使って何十万年も何万年も何千年も前から今の奈良の地に住んでいた人たちは、採集や狩猟の対象となる食料が豊富な場所に当然住んでいた。そして、それは、当然、山なのだ。だから、当然、出土品も山のほうからざくざく出てくる。

 それに、今の奈良盆地の人口集中地奈良市のあたりは、当時は湿地帯で、とても住み難いところだったのだそうです。

 昔なんかで読んだか見たかしたのですが、人類の最初の住処は、森だった。やがて森を背にして身を隠し、草原に目をやるものたちが出てきた。そこには、おいしそうな草食動物や花の実があったが、同時に恐ろしい猛獣もいただろう。やがて、知恵と道具を身につけた人間は恐れを知らず草原へと出で立った。

 日本の森は山です。

 橿原から家まで高架の上の自動車道で車を飛ばしながら、高い視点から見渡す奈良盆地は、やはり、周りを山に囲まれています。けっして高くはないけれど、美しい山並みです。あ~ぁ、何十万年も何万年も何千年も前からあそこやあそこに住んで、山を駆け巡っていた人たちが、ここまでやっとたどり着いたわけだ
 それじゃぁ、城塞で囲む必要なんかないかもね。

付け足し

橿原の博物館の展示物を見ていたら、食器やら、船やらのミニチュアの出土品がある。説明文では、「儀式用」というふうになっていたけど、縄文や弥生の子どもたちがおままごとや、水溜りでお船ごっこなんかをしていたら、おもしろいだろうなぁ(もちろん、土器のお船は浮かばない)。研究結果からは、そんなことはなかったのだろうなぁ、きっと。

小さいころ、母方の実家には大きな仏壇があって、でーっかい木魚があって、いとことよく「ぽこぽこ、ぽっぽっ」と打っては遊んでいた。怒られたなぁ。

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14日(金)アウトドアとは

わたしは根っからのものぐさで、家にいればビール片手にテレビにかぶりつき、そうでなければ、ごろ寝をしながら、居間で本でも読んでいる。でも、どちらかといえば、家の外にいる方が好きだ。晴れていれば庭にでも出て、ビール片手に七輪で、火でもおこしている。火が熾きたあとから、やっと、「おーい、なんか焼くもんないけぃ?」と焼くものをさがす始末だ。

 友人の言葉を借りれば、そんな「なんちゃってアウトドア派」だ。

 若いころから山登りなどもしてきたが、高い山にはめったに行かない。かなりの臆病者だから、遭難騒ぎなんてまっびらごめんで、これまでの人生、高山なるものには数えるほどしか登っていない。

 三重県に御在所岳という名の、気持ちのいい、とても気持ちいい山がある。その中腹あたりの、「裏道」(うらみち)という登山道の途中に、藤内(とうない)小屋という山小屋がある。下界から450分で行ける山小屋なのだが、そこがわたしのフィールだ。いろいろなことを感じさせてくれる宝の山だ。昔から、下界に馴染めない若者や、下界の憂さ晴らしの中高年、もちろん、純粋な山好きやトップクライマーなんぞが、雑多に集まってくる場所である。近年は常連にも高齢化が進んでおり、わたしは、今でもここでは「若僧」だ。

 わたしは、今、青垣の山ふところ奈良に住んでいるが、週末にはよくこの御在所岳にでかける。じゅうぶん日帰りで楽しめる距離なのだが、夜の酒宴と、仲間との四方山話だけを楽しみに、泊まりででかける。これが、若いころからずーっと続いてきたわたしの「なんちゃってアウトドア」である。

ある夏の週末:
 きょうも朝からいそいそと、山歩きの準備をして、「じゃぁ、行ってくるぞぉ」と門を出かけると、庭で草むしりをしていたカバ婆ぁが、「ケッ、アウトドアはいいけど、ちょっとは草むしりぐらい手伝わんかねぇ。この庭だって狭いけど立派なアウトドアだよ。自然がいーっぱいっ!」などと言う。「ああ、またな。だが、また、お前の植えただーいじな花の芽を摘んでしまうでなぁやめといたほうがいいかもな。」
 たしかに、「アウトドア」というのは、文字通り「戸の外」のことだから、婆ぁの言うことは正しい。しかし、アウトドアはやっぱりアウトドアだ。出かけていかねばならない。「とにかく、行ってくる。あすはなるべく早く帰る。」と言って、バス停まで急ぐ。

 小さいころの私は、学校から帰るやいなや、「そといってくるねっ!」と言ってランドセルを放り出し、一目散に駈け出していったものだ。いま外から帰ったばかりなのに。「そと」は「あそび」と同義だった。学校に行くことは決して「そと」へ行くことではなかった。内職の洋裁で家計を助けていた母は、家でテレビの前に寝そべる私が邪魔になると、「ゆうじ、だらだらしとらんと、外に行きなさい!」と言った。遊びに行けというのだからのん気なものだ。

 日本語の「アウトドア」は、もちろん、「屋外、野外」の意味だが、じつは、場所をさすと同時に、屋外でするさまざまな活動のこともいうのであって、それは大概遊びである。広辞苑には「アウトドア」の用例として「アウトドア・スポーツ」とある。別見出しの「アウトドアライフ」の定義は、「野外で、キャンプやハイキングなどを楽しむ生活」となっている。幼いころのわたしでなくても、ドアの外には、遊びの匂いがぷんぷん漂っているのだ。

 わたしの家には小さい庭がある。しかし、庭はふつう「アウトドア」ではない。我々が楽しむアウトドアは、山や川や湖や海や野原であろう。「アウトドア」は、だから、「野外」という言葉といちばん近い意味合いをもつかもしれない。しかし、この2つの言葉にも、やはり、ちがいがある。たしかに、「野外遊び」などという言い方もあるが、「野外」には「アウトドア」と比べると、どこかまじめな匂いがする。「青少年野外活動センター」のキャンプ場では、バーベキューを楽しみビールをあおるアウトドア愛好家は似つかわしくないであろう。車で乗り付けられるオート・キャンプ場へ行ったほうがいい。野外教育プログラムに参加する人たちは、おそらく、自然観察を通して環境について学んだり、野外体験を何らかの形で普段の生活に生かしていこうといった意欲を持っているようだ。週末に開かれるアウトドア・スクールでは、たとえば、ウエット・スーツをレンタルした若者たちが、引率者に連れられて、渓流の小さな滝や淵を遡上して「シャワー・クライミング」を楽しみ余暇をすごす。

 わたしとしては、「アウトドア」でも「野外」でもどちらでもいいのだ。とにかくそこには「あそび」と「まなび」がある。家の外に広がるその空間には、「あそび」の雰囲気も「まなび」の雰囲気も漂っている。だから、わたしは、そんな場所をとりあえず「アウトドア」と呼んでいる。

 それにしてもヤギ爺ぃことわたしと、カバ婆ぁ妻とのアウトドア観は、なんとちがうことだろう。わたしは、いつもアウトドアに関してはカバ婆ぁに頭があがらないのです。

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11日(火)明けましておめでとうございます

今年から、何人かの方にはメールで年始のご挨拶をすることにしました。新年、このホームページを本格的に(?)始動するにあたり、何を書こうか迷っていたのですが、そのメールの文面、新年早々の気持ちを、ここにも転記しておくことにします。

(ところで、気づいたのですが、この「独り言」は日付ごとにまとめてありますが日記ではないわけで、ということは、「三日坊主」などということはありえないわけで、思い立ったときに覚書をするということですので、ぼちぼちと進めてまいります。)
   すでに弱気のヤギ爺ぃ

 年をとったせいか、今回の紅白歌合戦は、なぜか、とても感動ものでした。演出の妙?鶴瓶さん?大晦日、新年を迎える自分の心境の変化
 本来意味があったものが形骸化して残るのも儀式の儀式たるところだとすると、そういう意味では、日本の年末年始は、ますます儀式になっているようで、娘はお出かけ、息子は受験を控え友達と深夜の初詣、妻は酒飲んでとなりで爆睡、自分はひとり寝袋に包まりながらイヤホーンで紅白。「家族」「絆」「平和」「自然」のテーマに、ほとんど一曲ごとに涙しながら心洗われ、その歌を聴いていたころの自分や自分たちを思い出しながら、感激しながら、この場限りの「きれいごと」に酔う。なんか、すごく幸せな大晦日でした。

 紅白を見終わって、小腹がすいたので、ひとりインスタントラーメンを作っていると、カウントダウンで年が明けた。

 「あけまして、おめでとう、今年もよろしくねぇ」とカバ婆ぁ。さっきまで、紅白の途中ぐらいまで、いっしょに酒飲んでいたのに、何をあらたまる?「おめでと、こっちこそよろしくねぇ」
 年越し素ラーメンを喰っていると、ケータイに息子から「あけましておめでとうございます。今年もよろしくお願いします。」寒い中友達と青春かぃ!、帰りのバスないでぇ!「おぅ!こっちこそ、よろしくな!」のメールを送ろうとするが、「ただいま混雑してつながりません」みたいなメッセージ。何度も何度も送りなおすが、結局、1時近くまでつながらなかった。

 自分のやっていることは、英語を教えるとか、言語文化について考えるとか、本を読むとか、アウトドア遊びに出かけるとか、そして、そういうことについて、なんとかなんかを語ることとかは、やっぱり、嘘とかきれいごととかにかかわっているような気がして、こういう架空も虚構もいいもんだと、なぜか、今朝は思います。
 
 今年もよろしくお願いします。

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2007

平成19年大晦日 今年を振り返って~「偽」~

 今年を代表する漢字は「偽」だった。毎年、日本漢字能力検定協会が公募して決める世相漢字のことである。他を引き離して断トツの一位だったそうだ。

 嘘偽りは人の世に付き物だけれど、思えば、耐震偽装からこのかた(2005年のことになります)、今年の食品にかかわる数々の偽装、年金記録や薬害被害者リストの隠ぺい、果ては、防衛省事務次官のゴルフ接待や横綱のサッカー遊びの疑惑まで、思えば前からずーっとあったことだけど、ここ数年になって、「偽」に対するわれわれの懸念は高まる一方のようだ。「今年の漢字」になる程に神経質になっている。
 確かに、生命に関わる薬、生活にとって根本的な耐震(住)、賞味期限(食)といった重大な問題についての偽装なのだから、当然のことかもしれない。「住」「食」と来たのだから、今度は「衣」だなと思っていたら、遅ればせながら冬になって、「カシミヤ100%偽装」疑惑についての新聞報道。装飾品に関しては昔から偽ブランドが横行しているので、いまさら騒ぐまでもないように思うのだが、とにかくこれで、衣食住全部出揃ったことになる。

 生命に関わる、生活を脅かす「偽装」は、断じてあってはならない。しかし、そこに紛れて、騙される側の姿勢を見直す契機を与えてくれるような偽りもあるのではないか。すべてがそうなのだが、偽る側があれば偽られる側もある。中には偽られる側について考えてみなければならない場合もある。

 昔、わたしが中学、高校の頃、司会土居まさるの「ほんものは誰だ?!」というテレビのクイズ番組があって、解答者(柴田錬三郎さんが懐かしい、遠藤周作さんも)が、いろいろと質問しながら、マントなんかで服装を隠した3人の出場者の中から、問題になっている特技を持った人を当てる、というような番組だった。本物を当てるということは偽装を見抜くということだ。
 この手の番組はいくつもある。ちょっと前なら、ダウンタウンの「人気者でいこう!」という番組の「芸能人格付けチェック」というのがあって(1999年にやっていて今でもときどきスペシャルがある)、ワインとかバイオリンとかの高級品と普通のものを味や音色で判別する、というような番組だった。不正解ごとに「一流芸能人」「二流芸能人」「三流芸能人」「そっくりさん」と落ちていって、全部間違えるとモザイクがかかり「映す価値なし!」となる。今は、島田伸介が「世界バリバリバリュー」を「セレブ度チェック」というクイズ形式にして、「目利き」(本物を見抜き偽物を見破る)をテーマにしている。人が高級で高尚な本物に憧れる心理をくすぐっている。

 高級品には縁のない我が家では、老舗料亭の起こした偽装事件にはシニカルである。記者会見でお粗末さを露呈した経営陣の様子もさることながら、騙されたお客さんたちが、「吉兆ともあろうものががっかりですぅ名前を信じていたのに」などと言っているのを聞くと、せっかく但馬牛だと思って高いお金を出したのに嘘の佐賀牛を食べさせられたという無念さには同情するが、「おいしい、おいしいー!」と言って喰ったのはあなたなのだから、まあいいではないかと思ってしまう。

 わたしはこの話をカバ婆ぁとした。飲み屋でも話題にした。同僚とちょっと話をした。少なくとも、4名の賛同者はいた。ただし、一様に、「騙したことは悪いのは当たり前だけど」と言ったあとで同感してくれるか、相槌を打ってから「でも、やっぱり偽装したから悪いことは悪い」と言った。もちろんわたしもそう思う。

 「どーしてこんな絵がうん千万円もするのぉ!?」と思ったり、「なんでこんな詩が芸術やねん!」とあきれたりもする。「何でネクタイせな入れんねん!」と憤慨したことのある方もいると思います。芸術とか文化を考えるときに大切な問題なので、また別のところで話すこともあると思います。

 わたしは英文科を卒業したので、自分をモデルに、ちょっと架空の話をします。

 たとえば、あなたのライバル大学の英文科に、詩の研究の大家がいるとします。学会の懇親会でいっしょになる程度の間柄ですが、彼は、話題の中にいつも詩の一節を引用し、「美しい深い」と悦に入ります。記憶力がまるでなく、リサーチができないという学者としての致命的欠陥をもつあなたはいつも苦虫を噛んでいます。
 あるとき、復讐を思い立ち(彼にはあなたに害を与えるつもりはないので、たとえあなたが被害を受けたと感じたとしても「復讐」はおかしいかもしれませんよ!)、一念発起、全く無名の詩(読者投稿の詩でもよろしい)の一節を必死に覚え、彼の前で、

「いやぁ、今年の夏は暑いですなぁ、まさに(もったいぶった朗読調で)「八月はいちばん暑い月」とは、よくいったもんですなぁ。」

とやってみる。「んんんっ?」と困った顔の彼は、ちょっと考え覚悟を決めて、

「そーですなぁ、やっぱりあれは名詩だぁ。ちょっと破格ですが、「八月」の「チ」と「いちばん」の「チ」。それから、「暑い」の「ツ」が見事な不安定な韻を踏んでいて、「あちぃ、あちぃ」という感情の衝動的な表出を、豊かな詩的表現にまで高めていますねぇ

などと返す。あなたは、してやったり!とほくそ笑み、あとは久しぶりの美酒に酔う。
 さて、後で別の友人から、「あれはオリエットの名詩「四月はしばしばしんどい月」のパロディーじゃないですかぁ?」と指摘され(あなたはもちろんパロディーだとも知らずに暗唱していたのです、嘆かわしい学者不適格)、事の真相を悟ったとき、この詩研究の大家は、いったい、何と言うだろうか?
 もちろん、怒りをあらわにしてあなたを罵るような人もいるだろうが、彼の場合、自分の高尚な文学趣味を自己否定するような行為ができる人間ではない。おそらく、腹の中は煮えくりかえりながらも、こんなことを言うだろう。「おおぉう、君も気付いていたのか、さすがだ。私も酔っていたから、一瞬「おやぁ?」と思ったが、すぐに気がついた。まあ、彼をやり込めて、場の雰囲気を壊すのもなんだろ、きみぃ?やっこさんの低俗なジョークに合わせるのも大変だったよ、は、は、はっ。」

 私の周りには今はいないが、学者の中には、今でも、ときどき、こんな感じの人がいるのかもしれない。船場吉兆の事件の時のインタビューで、「どうも怪しいと思ったなんか味がちがうって感じだったんだよなぁ」と言った人はどれくらいいただろうか?

 世の中には、微妙な味のちがいがわかる人がきっといる。言葉の深みを感知する能力を持った人は確かにいる。料亭の味の変化に敏感で「ここはこの頃おかしいぞ」と感じてはいたが、事件発覚後になってから「それみたことかぁ!やっぱり何かやってると思ってた、味が落ちてたもん!」などと今さら言っても仕方ないと、黙っている人も、何人かはいたはずだ。
 人を偽る行為は容認できない。しかし、ひょっとして、自分が偽りをはびこらせる風土の中にどっぷりと浸かっているのかもしれないということを、この際、自省してみてもいいのではないか。本物を求める心、ランキングしたくなる心、人を見下す心は人情だから、だからこそ、何が本物で、何が上で何が下かを決めざるを得ないことの意味を見直す必要がある。けっきょく、わたしなど、何が何だかわからなくなってしまうのですが

 もうひとつ手短に。

 5日ほど前、賞味期限が123日の納豆を食べた。納豆の場合、賞味期限が1カ月近く過ぎると、豆が萎びて硬くなる場合がある。
 3日前、お歳暮にいただいたかまぼこを食べた。賞味期限は1217日だった。もちろん、いただいたのは12月初めだから、賞味期限の付けまちがいではない。味にも何も問題なし。

 子どもたちが小さいとき、よそに行っても、ときどき、皿を鼻にもっていき、食べ物をにおってから口にすることがあった。ちょっと往生した覚えがあるが、普段親たちがすることだからあまり怒るわけにもいかなかった。(もちろん、二十歳を過ぎた娘も、高三の息子も、今では、よそではしない、と思う。)
 「これちょっと腐ってるかどうか、食べてみてぇ?」「う~んちょっときてるかも知れんが、喰えんことはない」が、カバ婆ぁとわたしとのいつものやりとりである。しばしば残念ながら飲み込めず、「ごめん」といって吐き出すことがある。腹をこわしているのかもしれないが、少々下痢気味の体質なので、原因の特定は不可能だ。カバ婆ぁは牛乳は腐りかけがうまいと言う。赤福はうちの好物なので、前から賞味期限などは無視して楽しんでいた。あんこが腐ればにおいと味ですぐわかる。また、はやく、食べたいものだと思っている。
 こんな家で生きているので、賞味期限の偽装にもあまり驚かないでいられるのはうれしい限りである。

(もちろん、賞味期限を守らなくても大丈夫だと言っているのではありません。われわれは、単に、運が良かっただけなのかもしれませんので。)

 さて、それでは、はたして、肉や、あきらかに卵が入っているのに、常温で数日はもちますと明記してある、精妙な防腐剤入りの、だけど、賞味期限の表示は「しっかりまもっている」食品の販売の方が、ほんとうは、「偽装」なのかもしれないなどと考えるのは、不謹慎であろうか。腐らなければいいというわけでもあるまい。

それでは、新年からよろしくお願いします。

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